: ですが一方、今度は僕たち人類を振り返ってみてください。そうすれば、そこに広 がっているのは、あまりにも複雑な社会です。 人間は本能の壊れた動物である。 確か、フロイトの言葉でしたか。 生活の中の様々な悩み、怒り、哀しみに接するとき、僕はこの言葉を思い出さずには、 られません。 本能の壊れた動物である人間は、「恋」や「愛」という近代的概念によって、自らの本 きれい ぎまん ・ ( 能を綺麗に覆ってしまいました。だけど当然、そこには欺瞞があります。その欺瞞を覆い 隠すために、さらに人類は新たな概念を生み出します。たから世界は日を追うごとに複雑 の 紀になっていくんです。しかしその複雑さは、壊れてしまった本能が生み出す様々な矛盾を、 + 完全に隠しきってはくれません。 そして生み出されるのは、絶望的な二項対立です。 五言葉と本能。 思考と肉体。 理性と性欲。
224 うやってブラブラしている俺は、一体全体どうするべきなのだろう ? どうしたものか。 結局俺は、為すすべもなく押し黙った。 かばん あなた すると岬ちゃんは、背中の鞄から一冊の本を取りだした。その本のタイトルは『貴方を 導く言葉の数々ーー心に響く名一 = ロ集』 あき またまたあやしげな本を。もう呆れもしないが。 岬ちゃんはケーキの皿をどかして、テーブルの上に本を広げた。 のぞ 「れっといっとびー」そう言って、俺の顔を覗き込む。 「ジョンって人の言葉だそうです」 「どういう意味だろうねコレ ? 「な、なすがままに」 「わあ、良い言葉だね ! 俺たちが最終的にたどり着いたのは、いっそやのマンガ喫茶たった。岬ちゃんのバイト 先である。 レジに座っていたオジサンに、岬ちゃんは小さく頭を下げた。俺は一般客を装って、伝
「さてさて。今夜のテキストは、『有名人の最後の言葉』です。立派な人たちが死んじゃ う間際に残した言葉を参考にしてーー」 参考にしてつ・ 「人生とは何かを考えましよう ! 」 それはかなりの大技だった。平気な顔をして、そのような非日常的セリフを口に出す岬 ・ : それでもまあ、昨日の『生きる意味を考えま ちゃんに、俺はすっかり参ってしまう。 しよう』に比べれば、まだまだ大したことはないが。 俺は気を取り直して、続きを促した。さっそく岬ちゃんはテキストの朗読を開始した。 古今東西の有名人、その辞世の言葉を集めた本らしい。俺は大人しく拝聴した。 々 日 の 、。いつのまにや だが、本を朗読しているうちに、だんだん岬ちゃんも飽きてきたらしし しらコンセプトが変化していた。 お さて、これは誰の一一一一口葉でしようフ 「もっと光を。 章 九クイズかい ! つ・ワ」・《 1 亠 時間切れ ! 答えはゲーテです。それにしてもコレ、格好よすぎるセリ フだよね。たぶんゲーテさん、前々からセリフを用意してたんだと思うよ
296 「ははは、面白いこというね佐藤君。でもダメだよ。死ぬんだから ! 」 なんとなく、少女漫画チックなセリフを応酬する俺たちだった。 しかしその一方で、好きとか、嫌いとか、そのような言葉は、たぶんどうでもいいこと だと知っていた。たぶん問題はもっと深くて根本的なところにあるのだった。そのことを 俺は、なんとかして説明してやるべきなのだった。言葉に出して、岬ちゃんに教えてやる べきなのだった。なのにどんな言葉も、あっという間にするするとすり抜けていくだけだ った。口に出した瞬間に意味を失ってしまうのだった。 わからなかった。 どうすればいいのか。俺は何がしたかったのか。俺は何を考えていたのか 別に死んたっていいじゃないか。そうも思う。 おんなじことだ。早いか遅いかの違いだけだ。どうせこのさき生きていても、苦しいこ とばかりで、大変た。意味がない。生きている意味がない。死ぬ方が良い。それはどこま でも論理的な結論で、誰にも反論できるわけがない。 少なくとも俺には、反論できない。自殺を思いとどまらせる役目としては、俺ほど不適 当な人間、きっと他には存在しない。 : だけどダメだぜ俺は無茶なことを言っていた。 しゃべ 「死ぬとか言うな」俺は嘘臭いセリフを喋っていた。
だから落ち着け。落ち着け俺。 そして言うのだ。 ただ一一一一一口、『あ、結構です』と言え。 ああ、わかっている。もうすぐ俺は言う。 俺は今こそ、ひとこと言う。 それはおそらく、あまりにも久しぶりに発せられる他人への言葉であろうから、たぶん かなりのうわずり具合だろう。俺の口から発せられる言葉は、おそらくだいぶん、うわず っていることだろう。もしかしたらドモってしまったりするかもしれない。しかし、それ が何だと言うんだ ? どうせこのオ、、ハサンとは、そしてこの娘とは、このさき二度と会う機会など無い。たカ らどう思われてもそれはそれでいし 。『変な人』『気持ち悪い』と思われても、どうってこ とない。だから言うぜ。俺はサッパリ勧誘を断る・せ ! 『あ、結構です』と言うのだ ! 「あ、結構です』と言うぜ ! 二「あ、結 しかし、そのときだった。 俺の視線は偶然にも、右手に持った「目を覚ませよ ! 』の表紙に注がれてしまった。
『今度会ったときには教えてあげるよ、俺の仕事』 数十分前に、俺は確かにそう言った。堂々と、胸を張って。 今度会うときーーそれはおそらく、そう遠くない未来のような気がした。岬ちゃんは、 ごくごく近所に暮らしているらしい。偶然街で、、ハッタリ遭遇してしまうこともあるだろう。 だからそれまでに、あまりにも。 ( カらしい大嘘を、なんとかして真実に仕立て上げなけれ ばならない。俺はクリエイターにならなければならない。 しかし、クリエイターってなんだ ? なんなのさ ? いつものようにパソコンデスクに腰を下ろしている山崎が言った。 「つまり佐藤さんは、可愛い女の子に見栄を張って、ひどい嘘をついてしまったと。で、 慌ててその嘘をごまかそうとしていると。要するに、そーゅーことですか」 顔を赤らめながらも俺はうなずく。 別に軽蔑してくれてもかまわない。すでに山崎には、俺の正体 ( 中退無職のひきこも り ) が知られている。もはやそれ以上に恥ずかしい秘密は存在しない。だから俺を助けて くれ山崎君 , 「いやいや、なにも軽蔑したりはしませんよ。ですが : : : うーん」 山崎は腕を組んで唸り始めた。俺は床に座って、彼の言葉をしおらしく待った。 しかしーー次の言葉はあまりにも意味不明だった。
242 暮らしを始めてくれ」 どうやら、まだ何か不満があるらしい 俺はひたすら陽気な声で礼を述べてやった。 「ありがとう ! 君は俺の恩人だ ! : あ、そうだ。俺のステレオとか持ってく ? 人暮らしに必要だろ。なんならプレゼント 「 : : : そうしゃなくてさ」 「そうじゃなくて ? 」 俺は辛抱強く、彼女の言葉を待ってみた。しかし岬ちゃんは、とうとう何も言わずに背 を向けた。 俺も立ち上がった。 「それじゃ、さようなら」アパートに向けて歩き出す。 と、そこで岬ちゃんは俺を呼び止めた。 「やつばり、寺った ,. 「デートしましよう
「ああ電気、電気ね。払いますよ。ええ今すぐに だが、俺の言葉はそこで途切れた。来訪者の顔に貼り付いている微妙な笑みと、彼女の 全身から立ち上っている微妙なオーラから、このすハサンが電気料金集金人などではあり えないと、素早く気づいたからだ。 「お忙しいところ申し訳ありません」 来訪者は、言った。 朝日に照らされたオ。ハサンは、笑顔だっこ。 「わたしども、このような冊子をお配りしているのですが オ。ハサンは、二冊の小冊子を俺に手渡した。 その表紙には、こう書かれていた。 目を覚ませよ ! どるあーがの塔 そよかぜ 春の微風が、開け放たれたドアから爽やかに吹き込んでいた。 ほかぼか陽気で、穏やかな、四月の午前のことだった。 さわ
『目を覚ませよ ! 』の表紙。そこには黒いゴシック体で、こう書かれていた。 若者を襲うひきこもり。あなたは大丈夫ですか ? 俺の視線に気づいたすハサンは、宗教的笑顔をさらに輝かせて、言った。 「これが今月の特集なんです。聖書的な見地から、ひきこもりについて考察しています。 興味がおありですか ? 」 俺を襲った恐怖、それを言葉で言い尽くすことなど到底不可能たった。 見透かされているのか ? もしやこのオ、、ハサンは、俺の正体がひきこもりであると、すでに知っていたのか ? からわざわざ、このような冊子を俺に手渡したのか ? それはひどく恐ろしい予感だった。 見知らぬ他人に、ひきこもりのクズ人間であると知られてしまうーーーその想像は、どう にも耐え難い、恐布、悪寒、わななき、そして混乱を、俺に激しくもたらした。 だがーーまあいい。落ち着け。 まず - はともかく、ごまかすことだ。
258 「 : : : さっき、食べたでしょ 俺たちは歩いた。ふらふらふらと歩いていた。 行くあてがない。。 とうしたものやら、わからない。それは岬ちゃんも同様で、俺たち二 人は困っていた。 結局最後にたどり着いたのは、むやみに大きな都会の公園だった。やはり人が沢山いて、 真ん中には大きな噴水があって、鳩もいた。 べンチに座って、・ほんやりした。 夕暮れまで、適当な会話を交わしながら、座っていた。 かばん 会話のネタが切れて、落ち着かない沈黙だけが続くようになると、岬ちゃんは鞄から秘 密ノートを取りだした。 「夢に向かって歩いていこう ! : どうにもならない 「、も、ついいよ 「そうゆう悲観的なこと言わない」 「嘘の言葉を信じてみても、結局、やつばり、どうしようもない」 「あたしは、結構、まともになったよ」 「どこがっ・・ 「 : : : やつばり、まともに見えなかった ? 」