中大兄は退出するど、直ちに中臣鎌足に諮った。すると鎌足は、 ふるひとのおおえ かる 「古人大兄は殿下の兄君、軽皇子は殿下の叔父君てす。今、古人大兄がいるのに 殿下が彼を差し置いて即位したならば、人どしてあるべき年長者への慎みの心に背く こどになりましよう。当面は叔父君を大王に擁立し、民の望みに応えるのが得策ては ないてしようか」どいった。 中大兄はその献策を善しどして、その旨を密かに奏上した。そこて天皇は、王位の家 みしるし 徴てある璽綬を軽皇子に授け、王位を譲ろうどして、「ああ、そなた軽皇子に、云々 しかし、軽皇子は再三にわたって固辞し、古人大兄を推挙して、 おおえのみこと 「大兄命は前天皇の皇子てす。それに年齢も申し分がありません。このニつの理由 から、王位を継ぐべきは大兄命のはかにおりませんてしよう」ど述べた。 どころが、古人大兄は天皇の使者を迎えるど、座から退き、逡巡しながら、拱手して っ - 、 0 「吾は天皇の御命令には断して背きません。しかし、どうしてまた、吾に王位を譲ろ うなどど仰せられますか。吾が願いは出家の上、吉野に入り仏道の修行に勤め、天皇 をお助け申し上げるこどのみ」 142
陵の築造を率先して行なっている。彼はこのような行為を繰り返さなければ、支配者集団 のなかて天武の正当な後継者としてはみとめられなかったのてあって、草壁の即位はまだ 遠い将来のこととされていたと思われる。 吉野へーー斉明に直結しようとした持統 それにしても、持統が天武死後直ちに即位しなかったのは、彼女が天武の意向を受けて 次期天皇になるとしても、それにはそれ相応の手続きをふむ必要があったためと考えられ る。天武は初代天皇てあったから、当然のことながら、彼から引き継ぐものはこれまての ような大王の地位や権力てはありえない。今回は新たに天皇の地位と権力を継承する最初 の機会だったから、それ相応の段取りが必要とされたのてあろう。 また、かって天智天皇は、前大王だった斉明女帝の遺志と事業を正当に継承しない限り は、正式に王位に就任することがてきず、結果的に六年余におよぶ称制期間を過ごさねば ならなかった。これを参考にすれば、天武死後すぐに持統が即位しなかったのも、同様の 事情にもとづくと考えられよう。 新天皇が亡き天武から引き継ぐべき最も重要な事柄とは一体何かといえば、それはやは 彼が着手しながら、 いまだに完成を見ていない「新城」とその中央に位置を占める予 288
もない」極致に位置する存在と見なされるようになった、と考えられるのてある。天皇の 和訓てあるスメラミコトも、壬申の乱から生まれてきたといえよう。 天武は後に、天皇のこのような「清浄な」「一点の穢れのない」状態が、自分だけぞな くその後継者たちにも確実に引き継がれていくために、古代特有の身分制度を創始した。 天皇とその一族と同様に姓をもたない階層を社会の底辺に設定し、かれらを国中の穢れが けにんしぬひ ごしきせん りようこかんこかんぬひ 付着した賤身分 ( 後に陵戸・官戸・官奴婢・家人・私奴婢の五色の賤として制度化される ) としたの 天皇の清浄性 がそれてある。これにより、賤身分のもっ穢れが強調されればされるほど、 は制度的に保証され、その子孫たちに確実に継承されていくことになった。 274
たた 一おおものぬしのかみ ところて、後に三輪山は、崇神天皇の、代に出示りをなした神として知られる大物主、神「・ いずも おおなむちのかみ または出雲系の神話の主人公てある国主ネ ( 大己貴神 ) のまします山として信仰を集め あしはらの ていくことになる。神話のなかの出雲は、天神が住まう天上世界に対する地上世界 ( 葦原 なかっくに 中国 ) を代表する世界として描かれている。神話のなかの出雲は実際の出雲国 ( 現在の島 根県 ) とは違うのてある。 三輪山にこのような神々が祭られるようになったのは、もともと三輪山に祭られていた 大王家の祖先神・守護神が、七世紀の後半になって一つの神格にまとめられ、新たに天照 大申という名前をあたえられて、伊勢の地て祭られるようになった後のことと考えられ る。三輪山が大物主神や大国主神を迎え入れることになったのは、この山が天香久山とは って、もともと 天上世界に対する地上世界に属する神霊を祭る霊山と見なされていたか らてはないだろうか。つまり、地上世界を代表する神格てある大物主神や大国主神が三輪 山に住み着くようになったのは、先住者も同じように地上世界に関わる神霊だったからぞ あろ - フ。 以上見てきたように、 六世紀段階の大王家にとって特別かっ神聖な存在とされた天香久 山と三輪山、この二つの山に挟まれた地域てあったことから、磐余やその周辺の磯城は大 王家にとって特別かっ神聖な空間 ( 聖域 ) と見なされたのぞあり、 宀に力、ら , 」み、、み、一」に大
第一一章飛島と、斑鳩とー厩戸皇子の実験 厩戸皇子の登場女帝がいたから彼がいた なぜ、斑鳩をえらんだのか 「外相」厩戸のたた力い 「日出処天子」とは何かーーその達成と限界と 推古朝に天皇号はあったか ? 斑鳩の都市プランーー飛鳥開発の「先取り」 第三章飛鳥か、百済かー・舒明天皇の挑戦 推古の遺詔ーー真の後継者は誰か災いとなった「外相」厩戸の名声 大臣蝦夷の独断専行 ? 推古・馬子の遺志を継ぐあっさりと飛鳥を棄てて 舒明はなぜ天香久山に登ったのか厩戸一族への対抗意識 まほろしの百済大寺ーー舒明天皇の試練 第四章板蓋宮の政変ーー皇極女帝の陰謀 舒明と皇極のあいだ 再び、飛鳥へ : 板蓋宮ーー労働力編成の「実験」
くまそ ちゅうあい 八世紀初頭に成立した『古事記』の仲哀天皇段を見てみよう。熊襲を討っため九州 出征した天皇に、ある神の託宣が下った場面てある。 ひょうい じんぐうこうごう 皇后 ( 神功皇后 ) に憑依した神かいうには、 「西方に国がある。金・銀を初めどして、目も眩むような種々の珍宝がたくさんその 国にはある。吾は今、その国を服属させようど考えているのだ」 どいうこどてあった。 この「西方」にある国とは新羅を指した。ちなみに、仲哀天皇はこの神託を無視したた めに頓死してしまったことになっている。 きんめい 『日本書紀』にも同様の例は少なくない。たとえば、欽明十三年 ( 五五一 l) 十月条、有名 な仏教公伝を記しごくだりてある 天皇は百済の使者の口上を聞き終わるど、喜び躍りあがり、使者に向かい われ 「朕は生まれて以来、このように不思議てすばらしい教えを聞いたこどかない し、朕独りて决するべきてはなかろう」 0 くら 202
う。飛鳥という土地のどのような要素が、また飛鳥時代のどのような出来事がそれを可能 にしたのか、それを追究し、解明していくことが本書の課題なのてある。 君主号が大王から天皇に変わったのは七世紀の「半武天皇 なお、後述するよ - フに かんぶうしごう の時、あり、推古や舒明などの漢風諡号の成立は八世紀後半のことと考えられるが、本 ぬかたべのひめみこ 書の叙述ては便宜上、一般によく知られている推古天皇・舒明天皇、または額田部皇女や たむらのみこ 田村皇子のように表記することにしご。 磐余と天香久山 いわれ 飛鳥がこのような政治的な拠点になる以前、ハ世紀、は磐余や磯城とよばれる地域に大 じんぐうこう′」う わかざくらのみやりちゅう 。六世紀以前にも神功皇后の磐余若桜宮、履中天 王の政治的拠点がもとめられていた みかぐりのみや わかざくらのみやせいねい 皇の同じく磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮など、磐余の王宮の存在が伝えられて いるが、残念ながら、これらは歴史的事実を議論する対象にはぞきないと思われる。 六世紀段階の大王の宮殿名をあげると、つぎのとおりてある。 たまほのみや 継体天皇磐余玉穂宮 ( 桜井市池之内 ) まがりのかなはし あんかん 安閑天皇勾金橋宮 ( 橿原市曲川町 ) 飛島への道
には、大王家の手て宗教的な神聖生を注入しなければならない。 推古と馬子によって建立された飛鳥寺とは、真神原とその周辺に仏教の宗教性・神聖性 を浸透させ、定着させるための施設てあったということがてきよう。飛鳥寺が官寺のなか ても別格の存在とされていたのは、飛鳥開発に果たした同寺のこのような役割によると考 えて ( それては、真神原とその周辺、すなわち飛鳥に、 かっての磐余とは規模も質も異なる大 王家の本居地、王権の聖地を創ろうとしたのはどうしてだろうか これについては、『古事記』の雄略天皇段のつぎの説話が参考になるだろう。 くさか ただご わかくさかべのおおきみ 初め、皇后 ( 若日下部王 ) が日下にいた頃、天皇 ( 雄をは日下の直越えを通って河内 かつおぎ に出掛けた。山の上に登り、国の内をながめたどころ、鰹木をのせた家屋を建ててい る家があった。天皇は人を遣わし、 「あの、鰹木をのせて建てた家は、一体誰のものか」 ど尋ねさせた。答えていうには、 しきおおあがたぬし 「志幾の大県主の家てございます」 どのこどてあった。天皇は、 0 ・ 4
る。そして厩戸死去の翌年、倭国ては十数年ぶりに新羅への出兵が断行された。 このような形て出兵に踏み切った 「外相」厩戸皇子が生きていれば、このような時期に、 違いなくいえるのは、倭国が百済・新羅の上位にあることを保証し てあろ - フかたたド、 てくれる隋が消滅した以上、倭国は再び、自力て新羅に「任那の調」を強要しなければな らなかったとい - フことてある 推古朝に天皇号はあったか ? かって、天皇号は推古女帝の時代 ( 推古朝 ) に成立したと考えられていた。それは、こ の時代が中国の隋王朝に対して対等の立場を主張する積極果敢な外交を展開した時期てあ てんじゅこくしゅうちょうめい やくしによらいぞうこうはいめい ったことに加え、法隆寺金堂にある薬師如来像光背銘や中宮寺の天寿国繍帳銘など、推 古朝に作られた仏像の銘文に天皇の文字が使用されていることが史料的な根拠とされた。 しかし、推古朝の作といわれた仏像の銘文が当時のものとは考えられないとする研究が 大幅な後退を余儀なくされた。代 あらわれ、推古朝成立説はにわかにその足場を失ない、 じとう てんむ わって有力な学説となったのが天武朝成立説や天武・持統朝成立説てある。詳しくは後述 - 」、っそ、つ これらは主として、唐の第三代皇帝の高宗が六七四年 ( 天武三年にあたる ) に 亠 9 るトま - フに、 皇帝に代えて天皇の称号を用い始めたことに着目し、我が国て天皇号が採用されたのはそ 飛鳥と、斑鳩と - ーー厩戸皇子の実験
大海人皇子、吉野へ去る 六七一年九月、天智天皇が病に倒れた。一説には八月てあったという。 おおあまのみこ 天智は、以前から弟大海人皇子の言動に不審なものを感じていたが、病気をきっかけに さいぎしん ついに彼は意を決して、弟の真意をたしかめようと 弟への猜疑心は増すばかりてあった。 こうしん した。その模様は『日本書紀』天智十年十月庚辰条につぎのように記されている。 もうけのきみ 天皇 ( 天智 ) の病状は思わしくなかった。そこて東宮 ( 大海人皇子 ) を召して、寝殿 に引き入れるど、 「朕の病はもう治らないだろう。そなたに後事を託したいど思う」ど告げた。東宮は 再拝するど、持病を理由にこれを断わり、つぎのように おおとものみこ おおきさきやまとひめのおおきみ くた癶、、 そのもどて大友王には 「お願いてす、王位を大后 ( 倭王 ) にお授け 諸政の奉宣を任せればよろしいてしよう。それがしは陛下のために出家して修行に勤 めたいど思います」 天皇はこれを許した。東宮は立ち上がるど、再拝した。すぐに内裏の仏殿の南に向か すきたのおいわ あぐら い、胡座をかいてすわり、髭ど髪を剃り落どし、法師どなった。天皇は次田生磐を遣 われ 258