日本史 剏地図の歴史 ( 日本 ) ー織田武雄 三くだり半と縁切寺ー高本侃 将軍と側用人の政治ー大石慎三郎 斎藤洋一 身分差別社会の真実ー 大石慎三郎 佐藤常雄 為貧農史観を見直すー 大石慎三郎 市村佑一 聞鎖国Ⅱ にゆるやかな情報革命大石慎三郎 林玲子 流通列島の誕生 大石慎三郎 常石敬一 七三一部隊 日光東照宮の謎ーーーー高藤晴俊 隴谷寿 藤原氏千年 遠山美都男 白村江 山本博文 参勤交代 1092 1258 1292 1322 1394 1379 1265 1559 1565 1568 1599 1607 川謎とき日本近現代史野島博之 日本海海戦の真実ーー・野村實 「家族」と「幸福」の戦後史三浦展 古代東北と王権ーーー中路正恒 江戸奥女中物語 畑尚子 謎とき日本合戦史ー鈴本眞哉 戦争の日本近現代史加藤陽子 鬼平と出世 山本博文 「大東亜」戦争を 倉沢愛子 知っていますか 天皇と日本の起源遠山美都男 い鉄道ひとつばなし、ーー原武史 い謎とき本能寺の変ーー藤Ⅲ達生 源氏と日本国王ーーー岡野友彦 同 7 1690 1724 間日本史の考え方ーーー石川品康 参謀本部と陸軍大学校黒野耐 日本書紀の読み方遠山美都男編 葬祭の日本史 高橋繁行 桃太郎と邪馬台国ー前田晴人 1707 1737
世界史— ハプスプルク家の女たち江村洋 ヒトラーとユダヤ人大澤武男 部教養としての世界史西村貞二 ロスチャイルド家横山三四郎 ユダヤ人 上田和夫 戦うハプスプルク家菊池良生 川大英帝国 長島伸一 モンゴル帝国の興亡〈上〉ー杉山正明 5 東インド会社 浅田實 モンゴル帝国の興亡〈下〉ー杉山正明 矚ローマはなぜ減んだか弓削達 Ⅷプルゴーニュ家ーーー堀越孝一 盟ハプスプルク家 江村洋 聖書世界史 岡崎勝世 池上俊一 川動物裁判 ハプスプルク帝国を旅するーー加賀美推弘 デパートを発明した夫婦鹿島茂 宮本正興一 繝新書アフリカ史 。ユダヤ人とドイツー大澤武男 松田素二 ローマ五賢帝 南川高志 圏ヨーロッパ「近代」の終焉ー山本推男 森田義之 オスマン帝国 鈴本董盟メディチ家 に魔女と聖女 池上俊一 エリサベス—世ーーー青木道彦 1321 1687 イタリア・ルネサンスー澤井繁男 ユダヤ人とローマ帝国大澤武男 傭兵のニ千年史ー - ー菊池良生 現代アラブの社会思想池内恵 6 新書ヨーロツ。 ( 史中世華ー堀越孝一編 神聖ローマ帝国ーーー菊池良生 世界史とヨーロッパ岡崎勝世 魔女とカルトのドイツ史ー浜本隆志 宗教改革の真実ーーー永田諒一 ハプスプルク家の宮殿小宮正安 ハプスプルクをつくった男菊池良生 1732 1557 1572 1587 1705 1712 1715
世界史Ⅱ 3 フリーメイソン 告村正和 矢吹晋 県文化大革命 簡客家 高木桂蔵 矢吹晋 毛沢東と周恩来 アラブとイスラエル高橋和夫 旧「民族」で読むアメリカ野村達朗 キング牧師とマルコム x 上坂昇 イギリス王室物語ー小林章夫 ジャンヌ・ダルクーー竹下節子 世界人名ものがたりー梅田修 中世シチリア王国ーーー高山博 中丸明 海の世界史 1283 1337 1437 1231 1480 1470 1487 酒井健 ゴシックとは何か 1 化粧せずには 石田かおり 1 生きられない人間の歴史 本村凌一一 馬の世界史 ェロイカの世紀ーー樺山紘一 刃地名で読むヨーロッパ梅田修 石田収 中国の黒社会 リ歴史探偵術ーーー宮下志朗 岡田充 中国と台湾 万里の長城 来村多加史 攻防三千年史 アメリカのグロー パル化戦略ーー福島清彦 はじめての死海写本土岐健治 常石敬一 い化学兵器犯罪 アメリカ大統領の嘘石澤靖治 1562 1649 1674 1676 1725
地の産物や特性を誉め称えるのは、大王のその地に対する支配権を確認する政治的な行為 たったのてある。 えじ よのくにふどき 『伊予国風土記』逸文によれば、五九六年 ( 推古四 ) 十月、厩戸皇子は高句麗僧の恵慈と かずらきのおみ 葛城臣を供にして伊予温湯を訪れたという。これは、数年後に彼が「外相」として政権 ゅのこおり に参画したことから見て、瀬戸内海の海上交通を扼する後の伊予国温湯郡を訪ね、近い 将来に迫った入閣に期したものと考えられる。その意味ては厩戸の伊予訪問も大王による 国見、国誉めに準ずる行為てあったといえよう。 舒明が、百済大宮完成まての短期間てあったとはいえ、かって「外相」就任前の厩戸が 公式に訪問した伊予温湯宮をえらんて、あえてその地を訪れているのは、敏達直系を自負 する舒明の厩戸一族への対抗意識のあらわれーーーと見なすのは、それほど的外れな推測て はないと思われる。 まばろしの百済大寺ーー・舒明天皇の試練 うまやさかのみや 六四〇年 ( 舒明十一 l) の四月、舒明天皇は伊予の温湯宮から帰り、ひとまず厩坂宮に落 ち着いた。百済大宮はなお完成には至っていなかったのてあろう。 かる 厩坂宮は現在の橿原市大軽町にあった宮殿てある。厩坂は軽とよばれる地域のなかにあ 111 飛鳥か、百済かーーー舒明天皇の挑戦
天皇と日本の起源ーー目次より ・飛鳥への道 ・飛鳥寺創建ーーー推古女帝の設計 ・飛鳥と、斑鳩とーー・戸星子の実験 ・飛鳥か、百済かー・ー舒明天県の挑戦 ・板蓋宮の政変ーー良極女帝の陰課 ・飛島と、難波とーー長極・孝徳姉弟の契約 ・飛鳥Ⅱ倭京の完成ーーー斉明女帝の創造 ・飛鳥と、近江とーー天智天県の試続 ・飛島をめぐる攻防ー - ー天武天良の死闘 ・飛島との訣別。ーーそして、「日本」が生まれた 解 を 謎 と王都 皇美 鳥山 天飛遠 遠山美都男 ( とおやまみつお ) 一九五七年東京生まれ学習院大学大学院博士後期課程中退専攻は日本古代 史博士 ( 史学 ) 現在、学習院大学、日本大学非常動講師「大化改新」「壬申の乱 「天型生一 ( 中公新書 ) 、「白村江」 ( 講談社現代新書 ) 、「日本書紀はなにを隠して きたか」 ( 洋泉社 ) 、「中大兄長子」 ( 角川ソフィア文庫 ) など著書多数 I S B N 4 ー 0 6 ー 1 4 9 6 4 8 - 4 C 0 2 2 1 \ 7 8 0 E ( 0 ) 9 7 8 4 0 6 1 4 9 6 4 8 4 天皇と日本の起源遠山美都男 定価 : 本体 780 円 ( 税別 ) 1 9 2 0 2 2 1 0 0 7 8 0 2 講談社現代新書 講談社現代新書 1648 Y780 1648 カバーデザイン : 中島英樹
日本語・日本文化 タテ社会の人間関係中根千枝 日本人の意識構造ー会田雄次 川出雲神話 松前健 繝タテ社会の力学ーーーー中根千枝 敬語を使いこなすー野元菊雄 日本の名句・名言ーー増原良彦 カレーライスと日本人森枝卓十 Ⅷ外国語としての日本語ー佐々木瑞枝 幻武士道とエロスーー氏家幹人 隔日本仏教の思想ーー立川武蔵 阿部謹也 「世間」とは何か 国マンガと「戦争」ー夏目房之介 1432 1736 氏家幹人 江戸の性風俗 号さ 日本人のしつけは衰退したか , ー広Ⅲ照幸 電入係 す す ご・本一 . ル キリスト教と日本人井上章一 前を一 教養としての 大塚英志 名聞タ て 届 新〈まんが・アニメ〉ササキバラ・ゴウ お 沂セす 0 を 気住様ま 旧まちかいだらけの日本語文法町田健 す を 贐分かりやすい日本語の書き方 , ー大隈秀夫 番円社ナ振 ロ受ⅸ 日本語は年速一キロで動く井上史雄 の み 2 入 直 】各日Ⅲ 2 一込 3 「おたく」の精神史ー大塚英志 内の お を お ロ羽申一 み、音お 0 〈美少女〉の現代史ササキバラ・ゴウ 込と区の のに し業京て法 " ニ 申職文ト 方、ビ 柏本博読け Ⅲ「しきり」の文化論 おト都ッ 1 の性京ネⅡ払時「 風水と天皇陵ーーー来村多加史 タ 4 おとか 予読オ ンのみほ 間のみ < 行 ( 8 イ金込の 料し局 』発しキ日 本社申ガ月話阯読申便 おハ年〒電購お郵 1448 1718
「独断て次期大王を決定しようと考えた」というのは、それを文面どおりに解するなら ば、文字どおり蝦夷が独断て推古後継を決定しようとしたとの意味になる。従来はそのよ うに考えられてきた。しかし、山背大兄の説得に努める蝦夷が、つぎのように述べている ことが注意されよう。 しきしまのみや 磯城鴫宮て天下を統治された天皇 ( 欽明 ) の御代より近年に至るまて、群臣たちはみ な賢明てありました。それがしは愚か者なのに、たまたま人か乏しいために間違って 群臣の上位に、 、るにすぎません。そのようなわけて、大事を決するこどがてきない有 り様なのてす。しかし、こどは重大てすから、伝言て申し上げるべきてはありませ ん。この老いばれ、たどえ難儀てあろうども、お目にかかって申し上げねばなります たたただ、遺詔の真意を誤ってはならぬ、ど考えております。決して私意など ありません。 また、つぎのよ - フにもいっている。 飛鳥か、百済かーーー舒明天皇の挑戦 9
社るてあろう。 『日本書紀』の推古三十四年 ( 六二六 ) 五月条に、つ 。跡共ぎのように見える。 。 ~ 倉提 ももはら る真 れ写大臣 ( 蘇我馬子 ) が亡くなった。そこて桃原の墓 いなめのすくね に埋葬した。大臣は稲目宿禰の子てある。人柄は 武略に長け、また弁舌のオがあった。三宝 ( 仏教 ) を崇拝して、飛島川のはどりに居館をもうけた。 一田 その館のなかの庭に小さな池を造った。そして、 小さな鴫を池のなかに造ったのて、当時の人は彼 を嶋大臣どよんだ。 これによれば、馬子の通称にふくまれる嶋とは、そ 。遺こにもともと存在した地名てはなく、彼が居館のなか ・東の庭園にもうけた中の島に由来するようてある。馬子 雷がここに居を遷した変に、嶋の地名が生まれたことに 一口 飛島寺創建ーーー推古女帝の設計
なお政府の管轄のもどにおくこどに決定した。 この天武九年四月詔は、飛鳥寺が一貫して官寺だったのてあり、今回の措置を適用すれ ば、他の諸寺とともに「官寺↓私寺」とするのが順当なのてあるが、この寺の来歴や功績 などを勘案するならば、飛鳥寺のみは例外的な存在として官寺のままとする、というのが その主旨てあろう。この史料から、「私寺↓官寺」という推移を読み取ることはぞきない し、他方、一貫して私寺てあったなどとはどこにも書かれていないといわねばならない むしろ、はっきりと分かるのは、飛鳥寺が官寺のなかても別格の存在とされていたこと てある。間題は、飛鳥寺がどのような意味て特別な官寺てあったか、ということぞあろ 飛鳥寺を創るということ 以上見てきたように、飛鳥寺は創建当初から官寺だったのてあり、その造営に蘇我馬子 や蘇我氏が大いに尽力したことは否定てきないとしても、その建設は決して、馬子個人や 蘇我氏という一氏族の私的な事業てはありえなかったのてある。 それは、飛鳥寺の建立にあたって、百済からの技術援助があったことからも明らかてあ 0 ・ 4 飛鳥寺創建 - ーーー推古女帝の設計
孝徳は一連の行政改革の実施にあたり、事前調査を目的に東国に使者 ( 国司 ) を派遣し たが、その使者たちに向かい、つぎのように訓令したという ( 『日本書紀』大化元年八月庚子 条 ) 。 とものみやっこあがたのいなぎ もし、地位や名声をもどめる者がいて、もどもど国造や伴造・県稲置などの地方 官を務めた経験や実績もないのに いども簡単に詐称して、 みやけ 「われらの先祖の時より、この官家を管理・連営し、この郡県の支配にあたってまい ど申し出る者かいたどしても、汝ら国司はそれを真に受け、そのまま朝廷に報告する こどのないよう一 「国造」や「伴造」「県稲置」とは、かって大王の命令・委任を受けて地方の支配にあた っていた役職てある。そのような役職歴のない者まてが、経歴を詐称して評の官僚の地位 を得ようとしていたことになる。列島の各地て猟官運動がエスカレートしていたようすか よノ、一分かる。 各地に派遣された使者たちは、評の官僚を選任するための予備審査、候補者や関係者か 165 飛島と、難波とーーー皇極・孝徳姉妺の契約