なにわながらとよさきのみや 翌六五四年の十月、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮て死去した。それを受けて翌年の正月、 あすかいたぶきのみや ちょうそ 皇極天皇は飛鳥板蓋宮て再び即位 ( これを重祚という ) した。斉明天皇の誕生てある。以下、 彼女のことは斉明の名てよぶことにしごい。 おはりだのみや 孝徳の在位中、斉明は小墾田宮を居所としていた可能性がある、と前に述べた。難波か ら飛鳥に帰ると、彼女はすぐに飛鳥河辺行宮に入ったが、即位の儀式はかっての飛鳥板蓋 宮て挙行したのてある。それは、飛鳥板蓋宮が大王家の本居地てあり、王権の聖地てある あめのしたをしろしめすおおきみ 飛鳥の中枢をなす、その意味て治天下大王の地位と権力の象徴となる建物だったか らてあろう。大王位を正式に継承する以上、その儀式を執り行なう場所はこの宮殿以外に は考えかたかったに違いない。 その後、同年十月、斉明は小墾田の地に新たな宮殿の造営を開始している。この宮殿を かわらぶ 斉明は何と瓦葺きにしようとしたという。それは結局、失敗に終わったが、瓦葺きの宮殿 というのは、大王の居所を一般の豪族たちのそれとはまったく異質の、それを超越したも のにしょ - フとい - フ企てにほかならない これによって、大王の地位を高め、その権力を強 化しようという意図があったと田 5 われる。 小墾田宮は推古女帝以来、飛鳥建設の起点てあり、拠点てもあった。斉明が即位早々 に、その宮殿を一般の豪族層の居宅を凌駕したものにしようと企てたのは、大王の地位を 179 飛鳥 = 倭京の完成ー・一斉明女帝の創造
に庚午年籍の作成・施行を完了していた。 庚午年籍とは、日本列島の主要地域に住む民 衆をその住所において把握・登録した台帳てあって、我が国初の全国規模の戸籍として知 えとかのえうま られる。六七〇年の干支が庚午だったのて、この名がある。これ以前、一部地域て特定の 身分のみを対象に、このような台帳が作られたことはあったが、全国規模て、しかも統一 、」、つとく 基準て作成されたのは、これが史上最初となった。これはかって、あの孝徳天皇が難波を 拠点にして行なった国政改革の成果といってよい 天智は大友皇子らに対して、諸国に派遣してある国司に命じ、この庚午年籍をもとこ 庚午年籍を用いれば、民衆から容易に 衆から兵を徴発させるように指示したに違いない。 かっ確実に兵士を徴発することがてきるのぞある。このような台帳という最新の武器が手 と田 5 - フのは 元にあれば、これを使って兵を集め、危険と田 5 われる人物を討ち滅ばしたい、 極めて自然なことだったのてはないだろ - フか さらに天智は、大海人皇子を粉砕した後、大友皇子が晴れて即位するためには、近江大 やまとのふるきみやこ 津宮はもちろん、斉明女帝の手て完成された飛鳥Ⅱ倭古京 ( 現大王が近江大津宮にあった ために、倭京はこの時期、このようによばれていた ) を支配下におくことを指図するのを忘れな カったに違いない。飛鳥Ⅱ倭古京は、一般の豪族層を超越・凌駕した大王の地位と権力を 象徴する都市空間てあり、他方、近江大津宮はそのような大王の地位と権力の実質ともい こうごねんじゃく 2 う 2
熾烈化する猟官運動ーー孝徳の変革② 部の制度の廃止は大王とその周辺だけにとどまらず、地方にまて波及することになっ た。というよりも、部の制度は列島の各地に住む豪族や民衆まて編成していたから、部の 制度を解体する以上は、その基底をなす地方の変革も避けて通れない課題てあったといえ トフ 孝徳が改革に着手する以前、列島の各地には国とよばれる行政単位が存在し、その地域 ずいしょ の有力豪族が国造に任命されその支配にあたっていた。『隋書』倭国伝によれば、推古 くに 天皇の時代には百二十ほどの「軍尼」 ( 国Ⅱ国造 ) があったという。 こおり 孝徳はこれらの国を分割、あるいは統合して、新たに評とよばれる地方行政の拠点とな る施設を設置していった。各地にあって部を末端て統率・管理する業務を世襲していた豪 こおりのみやっこ 族たちは、その世襲職を取り上げられ、代わりに評の管理・運営にあたる官僚 ( 評造・ こおりのかみ 評督という ) になるチャンスをあたえられることになったのてある。 評の官僚には、地方行政に経験と実績のある者が優先的に選出されたようてある。その 審査は極めて厳正なものて、国造の地位を世襲してきた一族の出身ても、評の管理・運営 に不向きと判断された場合には、容赦なく落選の憂き目を見た。そのため、何とか評の官 僚の地位を得ようと猟官運動が熾烈なものとなった。 0 くにのみやっこ 164
天武がやり遺した諸事業のうち最大とい 定の藤原宮建設という一件以外には考えがたい。 うべきこの課題に取り組み、それを完成させた者こそが、真の天武の後継者の座に就くこ とがてきるのぞある。 この課題に取り組んていたのは草壁皇子てはなく、やはり持統天皇その人ぞあったと見 られる。それは、彼女が六九〇年正月の正式即位に先立ち、吉野宮への行幸を開始してい ることからも明らかてある。その後、彼女の吉野への行幸は何と三十一回を数えた。異常 なまての吉野への執着といえよう。 このように持統が何度も吉野に脚をはこんだのは、壬申の乱前夜、そこて夫やむすこと 過ごした日々を懐かしんだためてあるという見方には根強いものがある。しかし、彼女と 吉野を結び付けるものが、天武や壬申の乱以外にないと決めつけるのは疑問てあろう。 吉野への行幸が持統即位の直前に始まり、その在位期間中に吉野宮への行幸が繰り返さ ものみゆさん れていることから見て、それはたんなる物見遊山や感傷旅行などてはありえなかった。そ 強化するためてあったと考え れはひとえに、彼女の天皇としての権威や正当性を補ない、 られる。それては、その場所がどうして吉野、ことに吉野宮だったのだろうか。 持統の即位は、推古や皇極・斉明らの場合と同様に、前皇后としての執政経験と実績を 評価されてのことてあったわけだが、彼女がその皇后の地位に正式に就任し、それが承認 289 飛鳥との訣別 そして、「日本」が生まれた
陵の築造を率先して行なっている。彼はこのような行為を繰り返さなければ、支配者集団 のなかて天武の正当な後継者としてはみとめられなかったのてあって、草壁の即位はまだ 遠い将来のこととされていたと思われる。 吉野へーー斉明に直結しようとした持統 それにしても、持統が天武死後直ちに即位しなかったのは、彼女が天武の意向を受けて 次期天皇になるとしても、それにはそれ相応の手続きをふむ必要があったためと考えられ る。天武は初代天皇てあったから、当然のことながら、彼から引き継ぐものはこれまての ような大王の地位や権力てはありえない。今回は新たに天皇の地位と権力を継承する最初 の機会だったから、それ相応の段取りが必要とされたのてあろう。 また、かって天智天皇は、前大王だった斉明女帝の遺志と事業を正当に継承しない限り は、正式に王位に就任することがてきず、結果的に六年余におよぶ称制期間を過ごさねば ならなかった。これを参考にすれば、天武死後すぐに持統が即位しなかったのも、同様の 事情にもとづくと考えられよう。 新天皇が亡き天武から引き継ぐべき最も重要な事柄とは一体何かといえば、それはやは 彼が着手しながら、 いまだに完成を見ていない「新城」とその中央に位置を占める予 288
ている。、、ご、、。、 オカ草壁は諸皇子中、筆頭の位置にあるとはいえ、執政の経験と実績という点 ては、生母てある野讃良に遠くおよばなかった。 鷓野讃良は我が子 天武の意向としては、次期天皇は鷓野讃良と決めていたに違 草壁の即位を熱望していたといわれるが、客観的に見るならば、彼女は草壁最大のライヴ アルというべき存在だった。この後、彼女が正式に即位するのは六九〇年正月のことぞあ じとう るが、以下の叙述ては彼女のことを持統天皇の名てよぶことにしたい。 同年九月に天武が亡くなると、大津皇子が草壁皇子を殺害しようとした容疑によって捕 らえられ、自殺を命じられた。大津の享年はわすかに二十四てあった。この事件は、何が 何ても草壁を次期天皇に擁立しようとした持統の企てによるといわれているが、彼女が事 といわねばならない。 件の黒幕てあったとする決定的な証拠は今のところない、 むしろ事件の背後にあったのは、皇子たちのうち皇位継承順位一位と同じく二位のあい たて起きた暗闘てはなかったか、と見られる。すなわち第一位の草壁は、第二位の大津を 亡き者にして自身の地位の安泰をはかろうとしたのに対し、大津は第一位の草壁を廃して 自己の優位を確立しようと企てた。結局、草壁のほうが機先を制して、大津に謀反の容疑 を着せ、体よくライヴァルを蹴落とすことに成功したのてある。 もがりのみや 事件の後、草壁皇子は公卿百寮を率い、天武の殯宮に参拝を繰り返し、さらには天武 そして、「日本」が生まれた 287 飛鳥との訣別
うか、多分に疑わしい 。また、斬りつけられた入鹿の台詞も、皇極の下問を受けた中大兄 の回答を予想したかのような内容になっており、緊迫した場面にはまったく相応しくな これまては、入鹿の暗殺に身を挺して活躍している中大兄皇子やその腹心の中臣鎌足 が、『日本書紀』のなかてこの政変の首謀者のように描かれているのて、それが疑いよう のない事実てあると考えられてきた。しかし、中大兄や鎌足らは刺客の一員にすぎず、仕 損じれば落命しかねない非常に危険な役回りてあったことを思えば、黒幕はかれら以外に にいたと見なければならない。 中大兄や鎌足以外て、今回の政変に加担、あるいは協力したと思われる人物は、中大兄 の叔父てある軽皇子を領袖とする派閥の面々てあった。 実は鎌足も、当時はそのような派 閥の一構成員にすぎなかったと考えられるのてある。 入鹿暗殺に始まり蘇我本宗家の滅亡に終わった政変とは、王位継承資格をもっ軽皇子 が、古人大兄の既得の地位と権限を武力によって否定し、それを奪い取ろうとしたものて あったといえよう。それは、古人大兄の即位を支持する蘇我入鹿と蘇我本宗家を打倒し、 古人大兄の擁立基盤を根こそぎ粉砕してしまおうという作戦てあった。古人大兄の即位の 可能性を否定する直接行動を起こすには、彼が正式に女帝輔佐の地位に就任するまさにそ 、 0 140
天皇 " スメラミコトの誕生 天武天皇は内乱を通じ、飛鳥Ⅱ倭京と近江大津宮の双方を軍事的に制圧することに成功 した。飛鳥Ⅱ倭京は、一般の豪族層を超越した大王の地位と権力の象徴ともいうべき都市 空間てあって、それは斉明女帝の手て完成された。他方、斉明の後を引き継いだ天智天皇 てき が、斉明の遺志と事業をよりたしかなものとするために、具体的には、大王が東方の夷狄 くだら えみし ばんこく ぞある蝦夷と、西方の蕃国てある百済とを双方ともに従属させるための政治的拠点として 設定されたのが近江大津宮てあった。 この二つを軍事的に我がものとした天武は、斉明そして天智の真の後継者の資格を得た 一般の豪族層を超越・凌駕した存在となったことになろう。彼 あめのしたをしろしめすおおきみ のことを従来の大王 ( 正式には治天下大王 ) の称号てよぶことは最早相応しくない。 こに、大王に代わって天皇という新たな称号が誕生するお膳立てが出来上がったのぞあ る たけちのみこ また、壬申の乱のさなか、天武は高市皇子に軍事大権を委譲し、みすからは戦線の後方 一退いたが、これにより、内乱は大王の地位をめぐる大友皇子と高市皇子の争いに転化し た。そのため、戦争に勝利した高市に約束されるのが従来の大王の地位と権力てあったと するならば、高市の上位にあって彼に指令を発する天武の立場と権力は大王を超越・凌駕 0 270
。皇太子制の成立以前は、即位資格をもった皇子が複数存在したのてあって、廐戸はあ る時期以降 ( 後述 ) 、王位継承資格者をもった皇子たちのなかて最も有力な人物というにす ぎなかった。 「国政を統括させた」の箇所は、原文ては「録摂政」となっている。「摂政」の文字が見 えることから、厩戸皇子があたかもこの時、「摂政」という役職に就任したかのように誤 解されてしまったのてある。しかしながら、実態としては、彼が女帝推古のもとて国政に 参画する地位に就いたことを示しているにすぎない。 要するに厩戸皇子は、有力な王位継承候補として国政に参与するようになったというこ となのだが、 それが『日本書紀』のいうように推古即位に伴なうものてあったかとなる と、そ - フとは老 / んられたい。 なぜならば、この時期、大王は世代や年齢などの条件によっ て選出されており、三十歳前後の壮年に達していなければ、その即位は容認されなかった からてある。 したがって、大王候補として国政に参画する場合ても、年齢がまったく間題にならなか ったとは思われない。厩戸皇子は五九三年当時、まだ二十歳てあり、大王としての即位 はもちろん、有力な皇子として国政に参画することも、なお遠い将来のことだったに違い
ア情勢に関する情報を完全に独占していた天智天皇ら当時の支配者集団が、国家による民 衆への統制強化をねらって打ち出したデマゴーグと見なすのが妥当てあろう。 また、天智が飛鳥を離れて大津に遷ったのは、唐の列島への侵攻に備え、北部九州や瀬 戸内海沿岸に山城を築造したことの一環てあり、その総仕上げてあったといわれることが 多い。飛鳥よりも大津のほうが外敵の侵入に備えるには有利てあったというのてある。 じんしん しかし、これも疑問が多く、大津は水陸両方の交通の要衝てはあっても、後述する壬申 の乱における攻防を見ても明らかなように、防衛という点ては決して有利な場所てはなか った。天智が防衛上の観点から大津をえらんだとは考えがたい。 なぜ、近江の大津がえらばれたのか 天智は斉明女帝の在世中から、有力な王位継承資格者として彼女の輔佐役の地位にあっ たから、斉明急死後は事実上の大王ぞあったといっても過言てはない。間題は、その彼が どうして正式な即位の儀式を挙げなかったのかということてある。 それはやはり、天智が正式に王位を継承するにあたって、形式上の不備や不足があった ためと考えられよう。さらに、天智がその即位の場所として、どうして飛鳥てはなく近江 の大津をえらんだのかという間題もある。天智の称制が長期におよんだ理由と、彼が飛鳥 224