に先立ち、あるいはそれと同時進行て、これら寺院の建立も行なわれたとすれば、天智が 大津宮に遷るまてに多くの時間を要したのは、決して不思議なことてはない。 にしこおり 近江大津宮の全容は未解明てあるが、その中枢部分は大津市錦織地区て発掘により明ら なにわながらとよさきのみや かになっている。それによれば、建物の配置は全体として前期難波宮 ( 難波長柄豊碕宮 ) に酷似しており、東西二一・三メートル、南北一〇・四メートルの内裏西殿、東西二一 三メートル、南北六・四メートルの内裏南門のほか、回廊、塀などが確認されている。南 門の東西には約三七メートル四方の区画があった。 ひらうら 六五九年一二月、かって斉明は中大兄皇子とともに近江国の平浦に赴いたことがあった。 平浦は大津市の北方に位置する。あるいは、近い将来、大津の地に王権の拠点を設けよう との計画は、この時すてに斉明の口から発せられていたのかも知れない。 大津宮の風景ーーいまだ百済は滅びず ? 天智はその正式な即位にあたって、斉明が在位中に起こした二大軍事作戦の成果を引き 継がねばならなかったのだが、そのうち東北遠征のほうは現実に夷狄Ⅱ蝦夷を服属させ、 かれらへの支配の拠点となる近江大津宮を造営することがてきた。しかし、もう一つの軍 事作戦、百済救援のほうは、唐水軍を上回る大規模な軍事力を戦場に投入しながらも、結 228
ア情勢に関する情報を完全に独占していた天智天皇ら当時の支配者集団が、国家による民 衆への統制強化をねらって打ち出したデマゴーグと見なすのが妥当てあろう。 また、天智が飛鳥を離れて大津に遷ったのは、唐の列島への侵攻に備え、北部九州や瀬 戸内海沿岸に山城を築造したことの一環てあり、その総仕上げてあったといわれることが 多い。飛鳥よりも大津のほうが外敵の侵入に備えるには有利てあったというのてある。 じんしん しかし、これも疑問が多く、大津は水陸両方の交通の要衝てはあっても、後述する壬申 の乱における攻防を見ても明らかなように、防衛という点ては決して有利な場所てはなか った。天智が防衛上の観点から大津をえらんだとは考えがたい。 なぜ、近江の大津がえらばれたのか 天智は斉明女帝の在世中から、有力な王位継承資格者として彼女の輔佐役の地位にあっ たから、斉明急死後は事実上の大王ぞあったといっても過言てはない。間題は、その彼が どうして正式な即位の儀式を挙げなかったのかということてある。 それはやはり、天智が正式に王位を継承するにあたって、形式上の不備や不足があった ためと考えられよう。さらに、天智がその即位の場所として、どうして飛鳥てはなく近江 の大津をえらんだのかという間題もある。天智の称制が長期におよんだ理由と、彼が飛鳥 224
受け継いだものの、残念ながら実現てきなかった百済を蕃国として従属させることが、極 めて部分的とはいえ、このような形て現実のものとなったことを内外に示すというねらい があったのてはなかろうか。近江大津宮という空間のなかだけぞは、百済はいまだに滅び 去ってはいなかったといえよう。近江大津宮は、東方の夷狄てある蝦夷のみならず、西方 の蕃国としての百済をもしたがえた大王の拠点と見なされることになったのてある。 やまとのみやこ もちろん、斉明が完成させた飛鳥Ⅱ倭京も天智によって継承された。天智は大津宮に 遷った後も、みずから飛鳥に赴き、その掌握につとめている。また、常時は大津にいる自 るすのつかさ 分に代わって飛鳥を統括する留守司を任命しているのは、大王の地位と権力の象徴とし てこの都市空間がなお重要な存在てあったからにほかならない 天智後継の決定にも斉明の影 りよ、つカ 飛鳥Ⅱ倭京は、一般の豪族層を超越・凌駕した大王の地位と権力に見合う居所とそれを 取り巻く都市空間として築造された。他方、近江大津宮は、さらに東方の夷狄 ( 蝦夷 ) と 西方の蕃国 ( 百済など ) をしたがえる大王の政治的拠点として造営された。 天智は、飛鳥だけてなく近江大津宮という二つの政治的拠点を所有するという点て、従 来の大王とは比較にならない地位と権力をその手に入れた。したがって、彼の地位と権力 2 引飛鳥と、近江とーーー大智天皇の試練
かって東北遠征を行なった阿倍比羅夫の当時の肩書は越国の国司 ( 北陸一帯の行政の最高責任 者 ) てあり、越国は対蝦夷の軍事作戦の前線基地だった。その越国に敦賀や琵琶湖を介し てつながっている大津は、大王みずからが服属した蝦夷をコントロールし、それに睨みを きかせるという点て、それに代わる適地はもとめがたかったに違いない 以上のとおりだとすれば、天智天皇が飛鳥を離れ近江大津に本居地を遷したのは、彼が と、う成果を引き継いだこと 斉明の遺志と事業、すなわち東方の夷狄Ⅱ蝦夷に対する支配し を、誰の目から見ても分かるように示すためてあったことになろう。大津は飛鳥とは異な って、夷狄Ⅱ蝦夷を従属させ、その朝貢を受ける大王の政治的拠点として、新たにえらび 取られた場所だったのてある。 斉明の急逝からいわゆる近江遷都まて、五年八カ月という決して短くない時間を要する ことになったのは、その間に斉明から引き継いだ百済救援戦争の遂行、そして白村江の戦 後処理に繁にを極めたことに加え、蝦夷をしたがえた大王の新しい拠点に相応しい場所を 探しもとめ、さらに場所が大津と決まった後も、そこに宮殿を建設するのに予想以上に手 間取った結果といえるてあろう。 大津に大王の宮殿を造営するとなれば、宮殿だけを建設すればすむことてはない。現代 に生きるわれわれから見れば、なんと悠長なといいたくなるところだが、大王宮周辺の土 226
ている。、、ご、、。、 オカ草壁は諸皇子中、筆頭の位置にあるとはいえ、執政の経験と実績という点 ては、生母てある野讃良に遠くおよばなかった。 鷓野讃良は我が子 天武の意向としては、次期天皇は鷓野讃良と決めていたに違 草壁の即位を熱望していたといわれるが、客観的に見るならば、彼女は草壁最大のライヴ アルというべき存在だった。この後、彼女が正式に即位するのは六九〇年正月のことぞあ じとう るが、以下の叙述ては彼女のことを持統天皇の名てよぶことにしたい。 同年九月に天武が亡くなると、大津皇子が草壁皇子を殺害しようとした容疑によって捕 らえられ、自殺を命じられた。大津の享年はわすかに二十四てあった。この事件は、何が 何ても草壁を次期天皇に擁立しようとした持統の企てによるといわれているが、彼女が事 といわねばならない。 件の黒幕てあったとする決定的な証拠は今のところない、 むしろ事件の背後にあったのは、皇子たちのうち皇位継承順位一位と同じく二位のあい たて起きた暗闘てはなかったか、と見られる。すなわち第一位の草壁は、第二位の大津を 亡き者にして自身の地位の安泰をはかろうとしたのに対し、大津は第一位の草壁を廃して 自己の優位を確立しようと企てた。結局、草壁のほうが機先を制して、大津に謀反の容疑 を着せ、体よくライヴァルを蹴落とすことに成功したのてある。 もがりのみや 事件の後、草壁皇子は公卿百寮を率い、天武の殯宮に参拝を繰り返し、さらには天武 そして、「日本」が生まれた 287 飛鳥との訣別
地を特別な場所、神聖な空間とする基礎工事が不可欠となる。近江大津宮の周辺には、天 おんじようじ すうふくじ 智が建立したという崇福寺を初めとして、南志賀廃寺や園城寺 ( 三井寺 ) 前身寺院、それ あのう に穴太廃寺など、宮殿とほば同時期に造営された寺院が存在した。おそらく大津宮の造営 想定回廊ないし大垣 大津宮の中枢建造物配置図 想定大垣 想定大垣 内裏 廂付建物 塀 塀内裏正殿 塀 内南門 裏西殿 ? 塀 ヨ EEI 回廊 朝堂院 よ 京 津 大 る え 、刀 み よ 都 宮 の 代 館 西第一堂 物 博 市 想定回廊ないし大垣大 みいでら 227 飛鳥と、近江とーー天智大皇の試練
きびつくし 地方の外延、東国、吉備、筑紫の各地て兵を集め、さらに兵力を増強しようと手配した。 また、留守司に対して飛鳥Ⅱ倭古京の統制を一段と強化するように命ずるとともに おはりだ 鳥Ⅱ倭古京の北の入り口にあたる小墾田にあった兵庫の武器を近江に運搬するように指示 した。これはおそらく、近江大津宮の防衛を強化するためてあり、亡き天智の指示にあっ たものてはないかと思われる。 たらの 六月二十五日の夜明けを大海人一行は薊萩野 ( 上野市荒木付近か ) て迎えた。そこて朝食 つむえ をとってすぐさま出発すると、積殖山口 ( 阿山郡伊賀町柘 ) て近江大津宮から逃れて来た たけちのみこ 高市皇子に出くわす。高市皇子は大海人の長男て、当時十九歳てあった。 すずかのこおり かぶと 大海人らは大山 ( 加太越え ) を越え、伊勢国鈴鹿評 ( 鈴鹿郡 ) に至り、そこて五百人の援 かわわ 軍を得ると、その兵力を鈴鹿山道の封鎖にあてた。この日は川曲坂本 ( 鈴鹿市山辺付近か ) て日殳となっ ' 驀、 オカ暗くなってから激しい雷雨となり、また気温も急激に下がって、寒さ みえのこおりのみやけ が一行の体力ばかりか気力まて奪っていった。そこて、三重評家 ( 四日市市采女町付近 ) を焼き、かれらは暖を取ったのてある。 とほ・かわ あさけのこおり こうして最も苦しかった夜を乗り越え、六月二十六日の朝は伊勢国朝明評の迹太川 ( 朝 あまてらすおおみかみ 明川 ) ぞ迎えた。大海人はここて天照大神を遥拝したという。その直後、やはり大津宮 から脱出して来た大津皇子が一行に合流、前途に少しだけ明かりが射し込んてきた。この 258
は、世代や年齢を重視して大王を選出してきたが、それては時に候補者が集中してしま おそ 王位継承間題が紛糾する惧れがあった。そこて、王位継承の条件をより限定すること によって、そのような危機を未然に回避しようと企てたのてある。 王位継承の変革を目指した、 このような近親結婚が行なわれるようになった六六〇年頃 といえば、斉明女帝はなお健在てあった。すると、このような近親結婚を計画したのは、 天智・大海人兄弟の母てある斉明その人てあった可能性が極めて大きい。草壁や大津のよ うな皇子が将来即位することになれば、斉明の血筋は確実に引き継がれていくことになる からてある。あるいは彼女は、そこまて考えてこの結婚を仕組んだのだろうか。そうだと すれば、斉明の遺志と事業を引き継ぐことによって、晴れて王位を継承することがてきた 天智てあるが、彼は後継者を選定するさいにも、 母親の意向を無視することがてきなかっ に一 ) し J にた 6 る ところが、只から三年経った頃、天智は自分の余命が決して長くはないことを語り、 ここ数年のうちに自分が亡くなった場合、草壁や大津はまだあまりに幼なく、とても即位 よ虹理ごということを思い知らされる。そこて、大津や草壁が成長し、即位が可能になる まぞのあくまても「中継ぎ」の大王ということて、天智の最年長のむすこだった大友皇子 に着目するに至ったのぞはないだろうか 2 ろ 4
から近江に遷った理由については、両者を切り離して考えるべきてはなく、二つの設問は 関連させて解明すべきてあると思われる。 天智は前大王斉明の遺志や事業を正当に引き継ぐことがなければ、 先に述べたように、 正式な王位継承を果たすことがてきなかった。白村江戦後、天智の即位が順延され、その 結果、彼による称制が長期におよぶことになったのは、斉明の遺志や事業の引き継ぎにそ れだけ多くの時日を要したためてあった、と考えることがてきよう。そして結果的に、天 智が飛鳥から近江の大津に大王の政治的拠点を遷したのは、そこが斉明の遺志と事業を引 と見なされたからに違いない。 き継いた新大王の本居地として最も相応しい、 あへのひらふ かって斉明は、阿倍比羅夫らを東北の日本海側に派遣し、軍事力を背景に沿岸の住民を 服属させて、かれらを大王の支配領域のはるか東方にあって大王に従属・朝貢する夷狄Ⅱ えみし 蝦夷に仕立て上げようと企てた。天智はまず何よりも、この成果を引き継ぐ必要があった わけて、斉明によるそのような達成をたんに受け継ぐだけてなく、それをさらに強化する のに都合のよい場所に政治的な拠点を設ける必要があったのてある。 古来、水陸交通の要衝てあった近江の大津は、その点て申し分のない場所だったのてあ えちぜん つるが ろう。大津は琵琶湖の水運によって越前国 ( 現在の福井県 ) の要港、敦賀との連絡に便があ こしのくに 、敦賀を起点にすれば当時は越国とよばれていた北陸一帯との往来も容易てあった。 いてき 225 飛鳥と、近江とーー天智大皇の試練
大友皇子が任命した留守司たちゃ、大海人の吉野脱出後に派遣された使者たちは、飛鳥 寺の西の広場 ( そこには槻の木があった ) に本営を置いていた。ここは、大王家の本居地、王 権の聖地としての飛鳥のなかても、とくに特別ぞ聖なる空間とされていたようてある。大 伴吹負は最も初歩的な奇襲作戦によって、その場所をほんの少数の兵力て押さえ、飛鳥Ⅱ 倭古京を軍事的に制圧することに成功したのてあった。 こうして、飛鳥Ⅱ倭古京はあっけなく大海人軍の手に落ちた。しかし、この大海人軍、 奇襲成功の直後に倭国の豪族たちが続々と馳せ参じて来たというが、その数は大友軍に遠 なら くおよばなかった。それなのに、翌日 ( 七月一日 ) 、大伴吹負らは大津宮を襲うべく乃楽 ( 奈良市 ) に向けて北上を開始したのてある。大海人からは「飛鳥Ⅱ倭古京を死守せよ」と の命が伝えられたはすてあるが、吹負は一刻も早く大友皇子を討とうと、功を焦ったとし か考えようがない。 翌二日、不破の大海人は、それまてに集まった兵を二手に分け、一方を倭古京の救援 他方を近江大津宮の直撃に差し向けた。大海人が王位継承を果たすためには、倭古京 に加えて近江大津宮を押さえる必要があったわけだから、この出兵は彼の戦略目標を的確 にあらわしている。 ひえだ この日、吹負は稗田 ( 奈良県大和郡山市稗田町 ) に至って初めて、河内方面から大友側の大 26 ろ飛鳥をめぐる攻防ーーー天武大皇の死闘