豪族は、部の制度を廃止する代わりに制定された新税制によって民衆から徴収された物資 の分配を受け、国家機構の運営にあたる官僚に転身していくことになったのてある。 孝徳の政権が、部に編成されていた民衆の地位・身分の変更よりも、部を統率・管理す き る豪族の地位・身分の変更から先に着手したことは、つぎの『日本書紀』大化二年八月癸 ゅう しなべ 酉条に見える詔勅 ( 「品部廃止の詔」とよばれる ) からも明らかてある。その一節を示そう。 おみむらじ 現在、天下を統治している天皇より始まって臣・連らに至るまて、それぞれ所有して ともの いる品部はすべて廃止し、国家の民どする。過去の天皇の名前をウジナにしている伴 みやっこ 造ども、天皇に対する始祖以来の奉仕の内容をウジナどしている臣・連ども、かれ われ らのなかには朕の考えをく理解てきすに、急にこのよう - こ、、出したこどを聞い て、「われらのウジナが消えてなくなってしまうのてはないか ! 」ど早合点する者も あらわれるてあろう。そこて、朕の考えるどころを申し聞かせる。王者の子孫が相次 いて王位を継ぎ、天下を統治して いくならば、時の天皇の名前ど歴代天皇の名前ど は、永遠に忘れ去られるこどはないのだ たとえば、白髪という名をもつ大王・王族に貢納・奉仕する部 ( 白髪部 ) を統率・管理 しらか しらかべ 161 飛鳥と、難波とーー皇極・孝徳姉妺の契約
けが 「それがしども蝦夷は、今より後、子々孫々まて一点の穢れもない清らかな心をもっ この誓いを破っ て天皇陛下の朝廷にお仕え申し上げまする。それがしどもが万か一、 みたま た時には、天地の神それに天皇の霊がそれがしどもの子孫を根絶やしにするてありま 敏達天皇の代、・ ' 大王家に服属した・蝦夷が、大王に対する忠誠を初瀬川から三輪山に向 かって誓ったというのてある。蝦夷の首魁、綾糟らの誓いのことばのなかに「天皇の霊」 が見 - んることが注目される。 「天皇の霊」が具体的に何を指すのか不明といわざるをえない。だが、それは、大王への 服属を誓った綾糟らが三輪山に向かって述べ上げたことばのなかにあらわれるのてあるか ら、「天皇の霊」とは三輪山に宿っていると当時信じられていた神霊てあり、大王家の祖 先神、あるいは大王家にとって守護神のような存在だったのてあろう。 みわのきみさかう 敏達は在位中、三輪君逆という人物を大変重用し、自身の死後の宰領まて彼に一任し いうまてもなく逆を出した三輪氏は、三輪山とその神を祭ることを世襲した氏 族てあったが、逆が敏達からこれほどの寵愛をうけたのも、当時の大王家にとって三輪山 が特別な存在だったからこそてあろう。 い . 飛鳥への道
紀につぎのよ - フに見・んる たちばなのとよひ あめくにおしはらきひろにわ とよみけかしきやひめ 豊御食炊屋竡天皇 ( 推古 ) は、天国排開広庭天皇 ( 欽明 ) の第ニ女てある。橘豊日 ようめい オ容貌は光り輝くように 天皇 ( 用明 ) の同母妹てあった。幼名を額田部皇女どいっこ。 ぬなくらふとたましき びだっ 美しく、振る舞いには無駄がなく節度があった。十八歳て渟中倉太玉敷天皇 ( 敏達 ) はっせべ の皇后どなった。三十四歳の時に天皇が亡くなった。三十九歳の時、それは泊瀬部天 おおまえっきみ すしゅん 皇 ( 崇峻 ) の五年十一月にあたったが、天皇が大臣蘇我馬子によって殺害されてし まえっきみ まった。王位が空白どなってしまったのて、群臣たちは渟中倉太玉敷天皇の皇后て あった額田部皇女に要請し、彼女を即位させようどした。皇后はそれを辞退した。官 僚たちは表をたてまつり即位を要請した。それが三度目におよんて、ようやく天皇の みしるし 璽印をたてまつるこどかてきた。 彼女は六二八年に七十五歳て亡くなっているのて、五五四年の生まれてある。欽明天皇 おおえのみこ 、だに生まれた七男・六女のうち四人目の子てあった。長兄に大兄皇子 と蘇我堅塩媛のあし ( 後の用明天皇 ) がいた 額田部の名前は、彼女が額田部氏出身の乳母の手て育てられたことをあらわしている。 0 飛鳥寺創建ーーー推古女帝の設計
後飛鳥岡本宮を拡張した宮殿を飛鳥浄御原宮と命名することになった。 、」、つ A 」く 朱鳥とは、道教において生命力の充実の象徴とされる霊鳥てあった。年号は孝徳天皇の はくち 時代、大化・白雉以来のことてあったが、朱鳥の年号を建てたのは、朱鳥の生命力にあや かって天武の病気回復を期すためにほかならなかった。他方、飛鳥浄御原宮の宮号のうち 浄とは、穢れの対極にある概念てあった。当時は病気も穢れとされていたから、宮の名前 に浄を冠することによって、宮の主人てある天武の病気を除去しようとしたのてある。 それにも拘わらす、九月九日、天武は不帰の客となる。 病気はいうまてもなく死は、間違いなく穢れとされていた。清浄の極致にあるはずの天 皇が、死 という最大の穢れに否応なく汚染されたことになる。これては、天皇が天皇ては なくなってしまう。ここて、天武だけてなく、これからの歴代天皇も避けることがてきな という現実を一体どのように説明するかが問題とならざるをえない。 い死 あまっかみ あめみま 天皇は天上世界を支配する神 ( 天神 ) の子孫 ( 天孫 ) とされていたが、神そのものてはな かった。それに対し、本来、神は人の目には見えないものてあるが、神のなかには人間の 姿をしてこの世に姿をあらわす神がいると考えられており、天皇はこのような神にほかな らないという考えが生まれてきたのてある。 もんむ せんみよう しよくにほんぎ それは、つぎに掲げる文武天皇の即位宣命 ( 『続日本紀』文武元年〈六九七〉八月甲子朔条に かっしさく 280
っており、両者に共通する舞台として吉野宮が存在するのだ、という意識を詠み上げてい る。ある天皇とは大海人皇子 ( 天武天皇 ) にほかならない。興味深いのは、実際には斉明 が造営したはすの吉野宮が、大海人の手て造られたとされていることてある。 それては、大海人とは一体、どのような意味て神だったというのだろう。また、どうし て史実とは異なり、彼が吉野宮を造ったことになっているのてあろうか。これに関して かきのもとのひとまろ くさかべのみこ は、柿本人麻呂が大海人のむすこてある草壁皇子の葬礼て作ったという長歌が手掛かり をあたえてくれる ( 『万葉集』巻第二、一六七番 ) 。 はじめ やほよろづちょろづがみ かむつど 天地の初の時ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ集ひ座し かむわか ひめみこと あしはら みづほ て神分ち分ちし畤に天照らす日女の尊天をば知らしめすど葦原の瑞穂 あめっち きはみ みこと の国を天地の寄り合ひの極知らしめす神の命と天雲の八重かき別けて とぶとり きよみ かむ ふとし 神下し座せまつりし高照らす日の皇子は飛鳥の浄の宮に神ながら太敷 すめろき きまして天皇の敷きます国ど天の原石門を開き神あがりあがり座しぬ ( 後略 ) ( 天地創造の初めはるか彼方の天の河原に数えきれないはどの神々が神々しく集まり神々を それぞれ支配すべき国にお分かちになった時天を支配する天照大神が葦原の中つ国の隅々まで あめっち 245 飛鳥をめぐる攻防 - ーー天武大皇の死闘
天皇 " スメラミコトの誕生 天武天皇は内乱を通じ、飛鳥Ⅱ倭京と近江大津宮の双方を軍事的に制圧することに成功 した。飛鳥Ⅱ倭京は、一般の豪族層を超越した大王の地位と権力の象徴ともいうべき都市 空間てあって、それは斉明女帝の手て完成された。他方、斉明の後を引き継いだ天智天皇 てき が、斉明の遺志と事業をよりたしかなものとするために、具体的には、大王が東方の夷狄 くだら えみし ばんこく ぞある蝦夷と、西方の蕃国てある百済とを双方ともに従属させるための政治的拠点として 設定されたのが近江大津宮てあった。 この二つを軍事的に我がものとした天武は、斉明そして天智の真の後継者の資格を得た 一般の豪族層を超越・凌駕した存在となったことになろう。彼 あめのしたをしろしめすおおきみ のことを従来の大王 ( 正式には治天下大王 ) の称号てよぶことは最早相応しくない。 こに、大王に代わって天皇という新たな称号が誕生するお膳立てが出来上がったのぞあ る たけちのみこ また、壬申の乱のさなか、天武は高市皇子に軍事大権を委譲し、みすからは戦線の後方 一退いたが、これにより、内乱は大王の地位をめぐる大友皇子と高市皇子の争いに転化し た。そのため、戦争に勝利した高市に約束されるのが従来の大王の地位と権力てあったと するならば、高市の上位にあって彼に指令を発する天武の立場と権力は大王を超越・凌駕 0 270
挑発したりする意図はなかったと見られる。重要なのは、倭国が自国をあらわすの に、中国人の発明した用句「日出処」をそのまま用いていることて、この段階の倭国 は、なお中国を中心とする世界観のなかに生きていたといえよう。 つぎに「天子」てあるが、「天子」とは皇帝の別名てあり、天命 ( 天帝の指名・命令 ) を受 けて全世界を支配する唯一絶対の君主のことてあるから、これが「日出処の天子」「日没 というように、東西相並んて存在するのはどう考えてもおかしい。ただ、厩戸 処の天子」 皇子はこの「天子」の語を中国とは違った意味て用いたようてある。 六〇〇年の遣隋使は、中国側に「倭王の姓は阿毎て字は多利思比孤」と誤解されるよう な報告を行なったらしいが、「阿毎」は中国人が考えたような倭王の姓てはなく、「多利思 比孤」も倭王の字 ( 通称 ) などてはなかった。「阿毎多利思比孤」と一続きて、それは倭王 の地位をあらわす尊称だったのてある。 それは、「天垂らし彦」 ( 天降られた高貴な男性 ) または「天足りし彦」 ( 天上の世界て充足さ れている高貴な男性 ) なのてあって、天は中国の天とは大きく異なり、倭国独特の天 ( それは 天上にある神々の世界てあった ) とそれを主宰する最高神を意味した。倭王はそのような天上 の世界を主宰する神の子孫てあるからこそ、日本列島を支配する資格と正当性がある、と 厩戸が隋への国書のなかて用いた「天子」と いう田 5 想も当時すぞに生み出されていた 飛鳥と、斑鳩とーーー厩戸皇子の実験
ものざね 天香久山は「倭国の物実」、すなわち大和国を代表 ( 象徴 ) する山とされていた。たとえ あまっかみ じんむ ば、これはあくまても伝承上の話てあるが、初代天皇神武が大和に入るにさいして天 の夢告があって、それによれば、げ土を取って来て、それぞ土器を造り天神を るならば、刃に血を塗ることなく大和平定を果たすことがてきるというのて、神武がその しょ - フに亠 9 るし」、 たしかに天神のお止ロげのとおりになったという あたひめ たけはにやすひこ すじん やはり天香久山の 崇神天皇の時代に反乱を企んだ武埴安彦の妻吾田媛は、決起を前に、 上を取ろうとしたというのてある。これらの伝承によれば、天香久山を押さえることが大 和国を支配することにつながる、と考えられていたことが分かる。 「を久は、後に天皇家の祖先神とされた天照ま、の祭配と大変関わの深い山 あまのいわや としても知られている。これまた伝承上のことてよあるが、天岩窟にこもってしまった どが必要とされ、別伝によれば、 天照大神をそこから引き出すために天香久山真坂↑ ーこ 天香久山は天照 天照大神を招来するために天香久山の金を用いて日矛が造られたという。 大神を祭るさいの物資を調達する山ということて、特別な山、神地な山と見なされていた のてある。 だが、天照大神という神格が生み出されるのはむ世紀後歩のことてあり、それは天皇号 の創出と関係する ( 後述 ) 。それても、皇祖神としての天照大神の誕生以前に、大王が天上 やまと 0 飛鳥への道
題とすべきてはないだろうか。それは、倭国の統治者 ( 治天下大王 ) を中国の皇帝のように 一定の世界の中軸に位置すると見なす認識、独自の世界観てあって、それが誕生した時初 めて、天皇号は成立したと考えることがてきよう。 当時の倭国はみすからを「日出処」、すなわち中国という中軸から見た東方と位置づけ ており、中国を中心とした世界観からまだ脱却していなかった。独自の世界観をほとんど もち合わせていない推古朝の段階て天皇号が成立していたと考えることはてきない。倭国 が天皇号を生み出しうるような世界観を獲得するには、なお半世紀ほどの歳月が必要だっ たのてある。 斑鳩の都市プランーー飛鳥開発の「先取り」 斑鳩宮の造営は六〇一年二月に始まり、六〇五年の十月には完成したと見られる。後述 するように、厩戸皇子とその近親者のみならず、一族全体がここ斑鳩に遷り住んだようて ある。 この斑鳩宮の本格的な発掘が初めて行なわれたのは戦前のことて、斑鳩宮跡と伝えられ てきた夢殿を中心とする法隆寺東院の地下遺構を発掘したところ、北から西へ一一度の振 れがある、斑鳩地方の古地割りと同じ方位をもつ大小八棟の掘立柱建物跡や井戸跡が検出
天皇がどのように考えられたのかは知らぬが、田村皇子に「天下統治は大任てある。 気を緩めてはならぬ」ど仰せられたどいうのてあれば、次期大王はすてに決まったも 同然だろう。誰が異論を差し挟むこどなどてきようか。 うねめのおみまれしたかむくのおみうまなかとみのむらじみけ と話したという。これに対し、采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気 ( 鎌足の父てあ きしむさし る ) ・難波吉士身刺ら四人の群臣は、 大伴連の意見に何ら異論はな、 天皇 ( 推古 ) の遺詔にしたがうまてのこど。今更、われら群臣の意を問う必要はある あへのおみまろ この場の司会役だった阿倍臣麻呂が、今少し具体的に述べて欲しいとうながすと、鯨 かまたり 飛鳥か、百済かーー - 舒明天皇の挑戦