ものざね 天香久山は「倭国の物実」、すなわち大和国を代表 ( 象徴 ) する山とされていた。たとえ あまっかみ じんむ ば、これはあくまても伝承上の話てあるが、初代天皇神武が大和に入るにさいして天 の夢告があって、それによれば、げ土を取って来て、それぞ土器を造り天神を るならば、刃に血を塗ることなく大和平定を果たすことがてきるというのて、神武がその しょ - フに亠 9 るし」、 たしかに天神のお止ロげのとおりになったという あたひめ たけはにやすひこ すじん やはり天香久山の 崇神天皇の時代に反乱を企んだ武埴安彦の妻吾田媛は、決起を前に、 上を取ろうとしたというのてある。これらの伝承によれば、天香久山を押さえることが大 和国を支配することにつながる、と考えられていたことが分かる。 「を久は、後に天皇家の祖先神とされた天照ま、の祭配と大変関わの深い山 あまのいわや としても知られている。これまた伝承上のことてよあるが、天岩窟にこもってしまった どが必要とされ、別伝によれば、 天照大神をそこから引き出すために天香久山真坂↑ ーこ 天香久山は天照 天照大神を招来するために天香久山の金を用いて日矛が造られたという。 大神を祭るさいの物資を調達する山ということて、特別な山、神地な山と見なされていた のてある。 だが、天照大神という神格が生み出されるのはむ世紀後歩のことてあり、それは天皇号 の創出と関係する ( 後述 ) 。それても、皇祖神としての天照大神の誕生以前に、大王が天上 やまと 0 飛鳥への道
天香久山から見渡せるのは奈良盆地の一部にすぎなかったはすてある。しかし、「国原 は煙立ち立つ」、「海原はかまめ立ち立っとあるように、実際には見えない日本列島 の隅々の風景が大王・皇視界には入っていることになる。このような行為は、従来ど ちらかといえばマイナーオ存在と見られてきた舒明には似つかわしくない。だが、舒明が 国見を行なった場所が天香久山てあったことを見れば、疑間は水解するのてはないだろう 、刀 天香久山は、前に述べたように、 六世紀段階の王権の聖地てあった磐余を、三輪山とと もに、まさに王権の聖地たらしめている聖なる山てあった。舒明がその天香久山に登り 大王としての自己の支配権を確認しているのは、舒明が推古・馬子らによって切り拓かれ た飛島てはなく、それに先行する磐余になお強いこだわりをもっていたことを示している と田 5 われる。 じんしん おおあまのみこ 詳しくは後述することになるが、六七二年の壬申の乱のさい、大海人皇子 ( 天武天皇 ) おおとものふけい 側について活躍した武人に大伴吹負がいる。彼は大海人の密命を受け、同志を糾合して 飛鳥にあった大友皇子の陣営を奇襲する。吹負の出撃のようすを『日本書紀』はつぎのよ - フに廾田いている 0 108
藤原京の復元模型 ( 一部 ) 。北方に耳成山、東方 ( 右 ) に 天香久山、西に畝傍山が見える。橿原市教育委員会提供
王宮が集中して営まれることになったと考えることがてきる。 ごのは、欽明天皇の時代だ 磐余が大王家の本居地、王権の聖地と見なされ し′」う あめくにおしはらきひろに ったのてはないかと思われる。それは、欽明が「天国排開広庭という諡号をもってい るからてある。これは、「天と国を押し開いて広龕た御方」といった意味になる。 諡号はその人物の生前の偉業を集約してあらわしたものてある。欽明の生涯にそのような 事績があったのてあろうか。 「天国」の「天」とは、大王家の祖先神てある天神、または天神が住む天上の世界 ( 高天 原 ) のことてあり、他方「国」とは天神の子孫てある大王によって支配される地上世界の ことてあろう。前者の祭祀に関わる山が天香久山ぞあり、後者に関わるのが三輪山という ことになる。「広」・とは祭祀を行なう神聖な空間という意味てあるから、これは天香久 山と三輪山に囲まれた磐余そのものを指しているといえよう。 に解釈するならば、ほかならぬ欽明自身が、天香久山と三輪山と 欽明の諡号をこのよう に特別な意味を新たに注入したのてあり、その結果、二つの山に挟まれた空間が大王家に とっての「聖域」に変貎したということになろう。欽明の諡号から明らかなのは、すてに この時代に、天上世界とその支配をうける地上世界を一対の、しかも両極の関係てとらえ る考えかたが成立していたということてある。 飛島への道
たかまがはら の世界 ( いわゆる高天原 ) を支配する神 ( 天神 ) の子孫 ( アメタラシヒコ ) てあるという神話は すてに成立していたと考えられる。したがって六世紀の段階て、この天神の祭祀に必要不 可欠な物資を採取する山ということて、天香久山が一定の尊崇の対象となっていた可能性 は大いにありうると田 5 われる 磐余と三輪山 他方、三輪山は、天香久山とは違った意味て大王家にとって特別な山、神聖な山と見な うるう されていたようてある。たとえば、『日本書紀』の敏達十年 ( 五八一 ) 閏二月条につぎの記 事がある ( 現代語訳。断らない限りは以下も同じ ) 。 えみし 数千の蝦夷が辺境て騒乱を起こした。そこて、天皇は蝦夷の首領てある綾糟らを召し て、 なんじ おおたらしひこ ーし , 」う 「思えば、汝ら蝦夷については、大足彦天皇 ( 景行天皇 ) の時代に殺すべき者は殺 われ ちゅうさっ し、許すべき者は許した。今、朕はこの前例にならって元兇を誅殺するてあろう」 はっせ どいった。するど、綾糟らは恐れ畏まり、泊瀬 ( 初瀬川 ) の中流に足をふみ人れるど みもろのおか すす 三諸岳 ( 三輪山 ) に向かい リの水を畷り、 つぎのように誓いを立てた。 0 あやかす
たのてはあるまいか。磐余が大王家の本居地、王権の聖地とされたのは、王位がようやく 特定の一族に固定したことに対応するものてあったと見なすことがてきよう。 磐余に王宮を営んだ最初の大王はあくまても継体天皇なのてあるが、天香久山と三輪山 とにそれぞれ特別な意味をあたえ、両者の中間地帯を特別かっ神聖な空間に仕立て上げた のは、継体てはなく欽明てあったと思われる。欽明以後の大王たちは、欽明によって画定 された「聖域」のなかに、次々と大王宮を造営していくことになったのてある。 真神原ーー開発以前の飛鳥 ものざね 他方、盤余に王宮があった当時の飛鳥は、大和の「物実」が宿るとされた天香久山のや へんび や南に位置するものの、飛鳥川の東の河畔に形成された辺鄙な土地にすぎなかった。少な くとも、大王家との接点や関わりは極めて乏しかったといわねばなら第 . 「 .... -.. 。 , ' 」・ ' ・・・・・、暦 ~ グ川い〔町釋い・上に初めてあらわれるのは、つぎの『日本書紀』雄略七年の是歳条 てあろう。『日本書紀』の編年によれば、西暦四六一一のこととなる。 あとひろきつのむら くだら たなすえてひと ( 雄略天皇は百済が献上した手末のオ伎たちを ) 倭国の吾礪のム肄邑に住まわせた。病死す おおとものおおむらじむろやみことのり とのああたいっか る者が多く出たのて、天皇は大伴大連室屋に詔し、東漢直・掬に命して、新漢 いまきのあやの 飛鳥への道
序章飛島への道 飛鳥とは何か「天皇」と「日本」を生み出した地磐余と天香久山 磐余と三輪山真神原・ー。開発以前の飛鳥 磐余から飛鳥ヘーー東アジア世界の変動期 第一章飛島寺創建ーー推古女帝の設計 蘇我氏の登場額田部皇女、その前半生大后から大王ヘーー女帝誕生 飛鳥寺を創るということ 飛鳥寺ーー官寺か ? 私寺か ? 小墾田の女帝、嶋の大臣 飛鳥開発を阻んだ人びと 目次
第一一章飛島と、斑鳩とー厩戸皇子の実験 厩戸皇子の登場女帝がいたから彼がいた なぜ、斑鳩をえらんだのか 「外相」厩戸のたた力い 「日出処天子」とは何かーーその達成と限界と 推古朝に天皇号はあったか ? 斑鳩の都市プランーー飛鳥開発の「先取り」 第三章飛鳥か、百済かー・舒明天皇の挑戦 推古の遺詔ーー真の後継者は誰か災いとなった「外相」厩戸の名声 大臣蝦夷の独断専行 ? 推古・馬子の遺志を継ぐあっさりと飛鳥を棄てて 舒明はなぜ天香久山に登ったのか厩戸一族への対抗意識 まほろしの百済大寺ーー舒明天皇の試練 第四章板蓋宮の政変ーー皇極女帝の陰謀 舒明と皇極のあいだ 再び、飛鳥へ : 板蓋宮ーー労働力編成の「実験」
たことにより、藤原京は従来考えられていたよりも巨大なものてあったことが明らかにな りつつある。いわゆる「大藤原京」てある。さらに、桜井市の上之庄遺跡や橿原市の土橋 遺跡て、条坊道路の側溝がその外側に向かって伸びていないことが確認されたため、藤原 京の東西京極が確定的になった。 それによれば、藤原宮の中軸から東西にそれぞれ二・六五キロメートル ( 五里 ) 、京域の 東西幅は五・三キロメートルあったことになる。南北の京極は未確認てあるが、現在のと ころ、東西と同様に南北も五・三キロメートルだったのてはないか、とする説が有力てあ うねびやま る。耳成山・天香久山・畝傍山の大和三山はすべて京域内に入り、飛鳥寺のあたりが南京 極だったのぞある。 飛鳥よ、さらばーー「日本」誕生の時 天武天皇によって大王が天皇に改称された段階ても、天皇の統治する国の名は、依然と ひいずるところ やまとのくに ナごいのは、 , れか して「倭国」または「日出処 ( 国 ) 」てあった。本書て最後に見届 : 「日本」に転換した瞬間てある。 くとうじよ このあたりの事情を窺うのに至便なのは、さしあたり、 つぎの『旧唐書』日本伝の記述 てあろう。 みみなしやま 295 飛鳥との訣別 そして、「日本」が生まれた
宮、あるいは百済大寺の所在が突き止められ れば、すべては明らかになるはずてある。 、推基通舒明はなぜ天香久山に登ったのか は塔同 百済大宮の遺跡はなお不明てあるが、百済 。提大寺に関しては有力な候補が近年になって発 寺跡真 き癶レいけはい 廃廊写見され話題となった。桜井市吉備の吉備池廃 池回 寺がそれてある。 吉れ たさ 吉備池廃寺ては、東西三七メートル、南北 し掘 こんどうきだん 定発 二八メートル、高さ二メートルの金堂基壇に ば年 加え、一辺約三〇メートル、高さ二・一メー 、刀 1 人 トルという巨大な塔基壇が発見されている。 こ印跡 る矢のこの塔基壇には中央に南北八メートル、東西 あ。壇 で跡基六メートル、深さ〇・四メートルの穴があ とうしんそ 寺廊堂 大回金る。これは塔心礎を抜き取った跡てある。百 済るは 百れ②済大寺の塔は九重塔てあったと伝えられてい 物イ 105 飛鳥か、百済かーー舒明大皇の挑戦