は大臣に振り返って、 「父上、それかしに追討軍を迎え討っこどをお許しください」 どいった。しかし、大臣は首を縦に振らなかった。 この日の夜、興志は宮殿 ( 小墾田宮 ) を焼き打ちにしようど考え、兵士を集めた。 注目されるのは、麻呂のむすこて抗戦を主張する興志が、月豸 、墾田宮の焼き打ちを企てて いたことてある 麻呂に徹底抗戦の意志はなく、 たからこそ彼は難波から飛島に逃げて来たようてある。 その麻呂にとって小墾田宮は決して焼いたりなどしてはならない建物なのてあり、その意 味て彼の無実を証明し、孝徳と彼との関係を調停してくれる人物がそこにいたことが考え られる。麻呂が難波を脱して飛鳥にやって来たのは、 小墾田宮の主人に助けをもとめるた めだったのかも知れない。 それに対し興志のほうは、父の意志に反して、父麻呂を追い詰めようとしている勢力に 一矢報いようと考えていた。その彼の目から見れば、父をここまて追い詰めた人物の片割 れ、またはその人物に大変親しい立場の人物が小墾田宮にいたことになる 。小墾田宮は、 興志が造営の指揮を取っていた山田寺とは至近距離にあった。血気にはやる彼がその襲撃 170
前に見たように、 小墾田より南が狭義の飛鳥てあった。推古がここに遷った理由について は明らかてはないが、それは飛鳥開発の構想に関係する可能性がある。 ふるみやどだん 小墾田宮の遺跡に関しては、かっては豊浦の北方にある古宮土壇がそれにあたるとされ いかずちのおか てきたが、近年になって雷丘東方遺跡が注目を集めている。九世紀の井戸の跡から「小 今日まてに直径一メートル以 治田宮」と書かれた土器数点が発見されたのをきっかけに、 上の礎石を並べた総柱建物一一棟、掘立柱建物五棟、幅が三メートルある土塀の遺構などが 確認されている。 さらに、雷丘の南麓からは花崗岩を組んて造った池や広場、溝といった庭園の遺構も見 つかっている。宮殿の中心部分の発掘はまだてあるが、推古女帝の小墾田宮が雷丘の東西 に広く展開しており、むしろ、雷丘が小墾田宮のなかにふくまれる可能性が高まってきた のてある。 しまのおおまえっきみ 他方の馬子てあるが、彼は後年、「嶋大臣」とよばれるようになったことから、明 しまのしよう 彼は敏達天 日香村の島庄の地に居館を営んていたことが知られる。すてに見たように 皇の時代には「石川の宅」や「槻曲の家」に住んていたことが明らかてあるから、現在の 地名ていえば橿原市内から明日香村の島庄に引っ越したことになる。そのタイミングとし とともに飛鳥の開発に乗り出した崇峻天皇の時代の末年ということにな ては、馬子が推古
推古や馬子の遺志を引き継ごうとしていたのてある。 なお、『日本書紀』は皇極が小墾田宮に遷ったことについて、 かりみや 東宮の南の庭の権宮に遷った。 し」コしている。 小墾田宮のなかの東側 「東宮」はいわゆる皇太子の居所のことてはなく、この場合は、 あった宮殿を指していると思われる。その南に拡がる庭のなかに彼女のための仮御所が造 いかずちのおか 営されたということてあろう」 。ハ墾田宮は雷丘を挟んて東西に展開していた可能性があ るのぞ、この「東宮」というのは、雷丘の東方にあった宮殿 ( 雷丘東方遺跡 ) のことだった のてはないだろ - フか いっ・はう さて、『日本書紀』皇極元年九月乙卯条にはつぎのように見える。 おおまえっきみそがのえみし 天皇 ( 皇極 ) は大臣 ( 蘇我蝦夷 ) につぎのように命じた。 われ おうみのくにこしのくによほろえきふ 「朕は大寺 ( 百済大寺 ) を造営したいど思う。近江国ど越国の丁 ( 役夫 ) を徴発せよ」 120
になり、難波長柄豊碕宮が造営されることになったのてある。 その時、女帝はどこに ? 孝徳が難波を拠点に国政の変革をすすめている頃、前大王となった皇極は一体どこにい たのてあろうか なにわ やまとのみやこ なかのおおえのみこ 従来は、後に六五三年、彼女がむすこの中大兄皇子に奉じられて難波から倭京すなわ しとともに一貫して難皮にいたと考えら ち飛鳥に帰ったとされているのぞ、それまては孝徳 ( 彼に国政の れてきた。しかし、すてに述べたように、皇極が弟の孝徳に位を譲るとともこ 改革を委ね、彼女自身は年来の課題としていた飛鳥の開発・建設にあたることになったこ おもむ とを考えれば、彼女が時に難波に赴くことがあったとしても、拠点そのものはやはり飛鳥 にあったと見るべきてあろう。 さいめい そのように考えるのは、一つには、皇極が再び王位を継承して斉明天皇になった時に おはりだのみやかわらぶ 。小墾田宮は、飛鳥の開発を 小墾田宮を瓦葺きにしようと企てて失敗しているからぞある 企画した推古女帝が、飛鳥建設の拠点とした宮殿てあった。再び王位に就いた皇極が、す 小墾田宮を ぐさまこの宮の改造に取り掛かっていることは、彼女が推古の先例にならい、 拠点に飛島の建設に取り組もうという意志をもっていたことを物語っている。と同時 ( 168
なにわながらとよさきのみや 翌六五四年の十月、孝徳天皇は難波長柄豊碕宮て死去した。それを受けて翌年の正月、 あすかいたぶきのみや ちょうそ 皇極天皇は飛鳥板蓋宮て再び即位 ( これを重祚という ) した。斉明天皇の誕生てある。以下、 彼女のことは斉明の名てよぶことにしごい。 おはりだのみや 孝徳の在位中、斉明は小墾田宮を居所としていた可能性がある、と前に述べた。難波か ら飛鳥に帰ると、彼女はすぐに飛鳥河辺行宮に入ったが、即位の儀式はかっての飛鳥板蓋 宮て挙行したのてある。それは、飛鳥板蓋宮が大王家の本居地てあり、王権の聖地てある あめのしたをしろしめすおおきみ 飛鳥の中枢をなす、その意味て治天下大王の地位と権力の象徴となる建物だったか らてあろう。大王位を正式に継承する以上、その儀式を執り行なう場所はこの宮殿以外に は考えかたかったに違いない。 その後、同年十月、斉明は小墾田の地に新たな宮殿の造営を開始している。この宮殿を かわらぶ 斉明は何と瓦葺きにしようとしたという。それは結局、失敗に終わったが、瓦葺きの宮殿 というのは、大王の居所を一般の豪族たちのそれとはまったく異質の、それを超越したも のにしょ - フとい - フ企てにほかならない これによって、大王の地位を高め、その権力を強 化しようという意図があったと田 5 われる。 小墾田宮は推古女帝以来、飛鳥建設の起点てあり、拠点てもあった。斉明が即位早々 に、その宮殿を一般の豪族層の居宅を凌駕したものにしようと企てたのは、大王の地位を 179 飛鳥 = 倭京の完成ー・一斉明女帝の創造
見たわけてある。 推古の豊浦宮や小墾田宮を飛鳥の 範囲にふくめれば、彼女がこれら宮 殿に君臨した時代を飛鳥時代とよん て何ら差し支えないてあろう。 寺跡古 田遺台 が、すてに述べたように、豊浦や小 飛 0 飛 墾田は飛島には入らない。 したがっ て、厳密な意味て飛鳥時代といえ ・宮 宮浦 ば、それは舒明天皇が飛鳥岡本宮を 造営し、そこに遷り住んだ六三〇年 以降とい - フことになる。 そして、通説のいうように、飛鳥時代の終わりを藤原 ~ 遷都した六九四年と見なすなら ば、六三〇年から六九四年まてのおよそ六十年間が飛鳥時代ということになるのてある。 このわず六十ほどの間 「天皇」という君主号と「日」国号が生み出されたわ けて、飛鳥としう土地が、さらにそこぞ展開した歴史が、「天皇」や「日本」を生み出し たといっても決していいすぎてはない。飛島に「天皇」と「日本」の起源があるといえよ 磐余と天香久山地図 ーの△三輪山 古 下 川墳上み つ 道 つ、、海石榴市 道 さくらい 鳥見山 中っ道 山 成 、 ( やま 磐余 天香久 阪 0 藤原宮跡 倉 御破裂山 多武峰 0 談山神社 隈
むすこ中大兄即位のための「中継ぎ」てなかったことは明らかてあろう。 このように、皇極天皇は、舒明の大后として、その執政経験と実績を評価されて即位す ることになったわけだが、彼女は舒明の後継大王だったとはいえ、大王家の本居地、王権 の聖地をどこに置くかに関しては、亡夫とまったく異なる立場と考えをもっていたのてあ る 再び、飛鳥へ : 六四二年の正月に即位した皇極は、当初、百済大宮にあったようてある。それは、まだ くだらおおでら 完成を見ていない百済大寺の造営工事を推しすすめるためにも、新大王てある彼女は百済 の地に止まるべきだったからてあろう。 だが、皇極にとって、百済という場所は亡き夫の舒明ほどには未練も執着もなかったよ おはりだのみや い - フまてもなく、か うてある。その年の十二月になって、彼女は小墾田宮に遷っている。 って推古女帝が君臨したあの王宮てある。 小墾田宮は、亡き推古が飛鳥を王権の聖域とするためにみずからの拠点と定めた宮殿て あった。いわば飛鳥開発の原点・基点といってよ、 し即位して間もない皇極があえてこの 宮に入ったということは、彼女の立場を鮮明に物語っている。皇極女帝は夫舒明てはな 119 板蓋宮の政変ーーー皇極女帝の陰謀
おはりだ いかずちのおか 、。小墾田よりも南が飛鳥 った小墾田 ( 雷丘東方遺跡 ) は、狭義の飛鳥にはふくまれなし たちばなでら ということになる。他方、飛鳥の南限は、「聖徳太子生誕の地」といわれる橘寺がある橘 の地の手前あたりとされている。 要するに飛鳥とは、南北一・六キロ、東西は〇・八キロほどの極めて狭小な空間にすぎ とゆら 。ちなみに、推古女帝の最初の宮殿がおかれた豊浦は、飛鳥川西岸を指す地名ぞあ やはり飛にはふくまれなかった。 「天皇」と「日本」を生み出した地 し」い , っ , 、」し J 飛鳥時代といえば、明日香村とその周辺に政治・文化の中心があった時代 とゆらのみや て、推古女帝が豊浦宮て即位した五九二年から、明日香村の北方に拡がる藤原京 ( 正確に じとう うつ あらましのみやこ は城、あるいは新益京という ) の中むに位置する藤原宮に持統天皇 ( 女帝 ) が遷った六九四 年まてのおよそ百年間を指す、と一般的には考えられている。 おおきみ あめのしたをしろしめすおおきみ しかし、飛鳥というこの限られた空間に大王 ( 正確には治天下大王 ) の政治的な拠点が じよめい 置かれたのは、厳密にいうならば推古のつぎの舒明天皇の時代てあって、六三〇年、舒 おかもとのみや 明が飛鳥岡本宮を営んだのが最初てあった。この時、岡本宮の北にはすてに推古の時代に 、に飛鳥寺、その南に飛鳥岡本宮という都市空間がここに成立を 飛鳥寺が造られており --r 飛鳥への道
くだら はたのみやっこくまふんどし 吹負は兵を百済の家に集め、その南門から出撃した。秦造熊は褌一つの姿て馬に 乗るど、そのまま飛鳥寺の西にある大友皇子の本営に向けて疾駆した。そして、こう 叫んだのてある。 ふわ したがう兵士は数え切れないぞ」 「高市皇子が不破よりお出ましてあるー ほずみのおみももたり たかさかのおおきみ この時、留守司の高坂王、それに募兵のため倭京に遣わされていた穂積臣百足ら おはりだ は、飛鳥寺の西の槻のもどに置かれた本営にいた。ただ百足らは小墾田兵庫に赴き、 武器を大津宮に連ぶ指図をしていた。本営にいた人びどは熊の叫ぶ声を聞いて、すべ て逃げ散ってしまった。吹負はそれを見届けるど、数十騎を率いて本営に急行した。 態毛や何人かの倭漢直らは吹負に内通していたのて、大友軍の兵士は皆降伏した。 そこて高市皇子の命令を奉じて、穂積百足を小墾田兵庫からよび寄せようどした。百 足は騎乗のまま、わざどゆっくりやって来た。飛鳥寺の西の槻のもどに至ると、 「下馬するのだ ! 」 ど叫ぶ者がいたか、百足が馬から下りるのが遅かった。するど、何者かが百足の襟首 をつかみ、彼を馬から引きすり落どし、至近距離から弓を射た。そして抜刀するや、 彳車殺したのてあった。 262
ぞある。その崇峻といえども、倉梯宮は磐余の心地帯からは外れているのて、崇崚の段 階ぞすてに磐余に王宮がおかれる時代は終わりに近づいていたのかも知れない。 とゆら 詳しくは後述するように、崇峻のつぎの推古女帝は、大王宮を磐余から離れた豊浦、つ おはりだ いて小墾田の地にもとめることになる。すてに見たように、豊浦や小墾田は狭義の飛に はふくまれないが、推古がそれまての磐余の地から別の場所に王宮を移動しようと企てて いたことは明らかてあろう。 相霾 8 締はなせ、大王家の本居地、王権の聖地を磐余から結果として飛鳥に移すこ なったのてあろうか。それは、ハ世紀アジアと無関係てはなかった。 しん ′」しよく 中国は三世紀の三国 ( 魏・呉・蜀 ) 時代の覇者となった魏を乗っ取った晋 ( 西晋 ) の凋落 以降、分裂と混迷の時代に突入し、以来約三百年を数えていた。その中国にようやく統一 の機運があらわれたのてある。 ようけんずいんてい 、北周の功臣てあった楊堅 ( 隋の文帝 ) は主家を乗っ取っ隋朝を興した。 ( 天下一は成ったのてあ さらに五八九年、隋は南朝の陳をも滅ばして、ここに隋のもとこ る。およそ三百年ぶりに中国の政治的分裂に終止符が打たれ、強大な統一王朝が誕生した ことが、周辺の民族や国家に何の影響もおよばさないはずはなかろう。 「磐余から飛鳥へ」という変化が、ちょうど、このような東アジア情勢の変動期に起きて