推古・馬子の遺志を継く その後、蝦夷は山背大兄に対して実に粘り強く説得を続け、結局、群臣らの意向を前大 一本化することに成功し、翌六二九年正月に田村皇子の即位を実現 王推古の遺志どおりに じよめい した。舒明天皇の誕生てある。 舒明の即位は、推古女帝と、蘇我馬子の後継者てある蝦夷という一一人の力によって実現 したといわねばならない その点から見て、舒明は大王としては推古の後継者てあり、推 古と、蝦夷の父、馬子が描いた構想や路線を引き継ぐ存在だったことになろう。 それは、即位の翌年、六三〇年に現実のものとなってあらわれる。 この年十月、彼は、飛鳥寺の南に拡がる空間に新たに構築された宮殿に遷ったのてあ あすかおかもとのみや る。この新宮は飛鳥岡本宮と命名されることになる。 飛鳥の地は、推古女帝と蘇我馬子の手て建立された飛鳥寺の存在によって、この頃まぞ には大王家の本居地、王権の聖地に相応しい場所になっていたのてあろう。推古と馬子 は、飛鳥が王権の聖地として熟成するまて、あえてそのなかに本居地を置こうとはしなか いつく った。かれらは慎重の上にも慎重に、大切な宝を慈しむかのように、飛鳥が特別な空間、 神聖な空間になるのをじっくりと待ち続けたといえる。 その成果を受け止めて、ついに舒明によって飛鳥のなかに大王宮が営まれたのてある。 100
の影響によるとして、七世紀後半に天皇号が成立したとするものてあった。 だが、近年、義江明子氏は天寿国繍帳の銘文に見える系譜に精緻な分析を加え、それを 推古朝当時のものと見なしてもよいと述べた ( 「天寿国繍帳銘系譜の一考察」『日本史研究』三二 五号、一九八九年 ) 。これにより、推古朝成立説に復 ~ の兆しがあらわれたのてある。 とばり 天寿国繍帳とは、一一枚の大きな帳に天寿国という異界のようすを刺繍によって描いたも のぞ、今はその断片しかのこっていない。六二二年二月に亡くなった厩戸皇子の妻の一 たちばなのおおいらつめ おわりのみこ 人、橘大郎女 ( 推古のむすこ、尾張皇子のむすめ ) が、天寿国に生まれ変わった夫の姿を是 非し見 たいということて、彼女の祖母にあたる推古女帝に懇願して作ってもらったと、 われている。この繍帳作成の由来を記した四百字も帳に縫い付けられていたとされ、その じようぐうしようとくほうおうていせつ 全文が平安時代の『上宮聖徳法王帝説』などに引用され今日に伝わっている。 義江氏は、天寿国繍帳銘文の前半に見える系譜 ( 厩戸・橘大郎女夫妻の祖先系譜 ) を詳細に 検討し、系譜の様式や構造などからいって、これが後世の造作とは考えられず、推古朝後 半に書かれたものと考えてよいとの結論を導き出した。天寿国繍帳には天皇の文字が四箇 所もあらわれるから、これが推古朝当時のものてあるとすれば、 たしかに推古女帝の時代 の後半には天皇の称号が成立し、それが使用されていたことになる。こうして、天皇号の 推古朝成立説が再び脚光を浴びることになった。
推古の遺詔ーー真の後継者は誰か うまやとのみこ おおまえっきみそがのうまこ 厩戸皇子が世を去ってから四年後、六二六年の五月に大臣蘇我馬子が亡くなった。 享年、七十六。 それから二年後の三月、推古女帝が永眠する。七十五歳てあった。 びだっ 敏達天皇の大后になってから五十二年、初の女性大王として即位してからは三十六年と いう長きにわたって権力の中枢に座り続けたことになる。彼女の死去によって、一つの時 代に幕が下ろされたことは間違いない。 また、推古や馬子の課題てあった飛鳥の開発も、 万しいルス階に入ったといって たむらのみこ 推古は亡くなる前日、一一人の皇子を病床によび寄せた。ひとりは田村皇子、今ひとりは やましろのおおえのおおきみ 山背大兄王てあった。 おしさかのひこひとのおおえのみこ 田村皇子は、推古の夫だった敏達の孫てあり、押坂彦人大兄皇子のむすこぞあった。 押坂彦人大兄はかって有力な王位継承資格者のひとりてあったが、つし ( 只イ 、こ卩立の日を迎え ることなく亡くなった。 山背大兄王は、「外相」厩戸皇子の長子てあり、若年にも拘わらず厩戸の後継者という ことぞその名望は高かった。 0 8
る。そして厩戸死去の翌年、倭国ては十数年ぶりに新羅への出兵が断行された。 このような形て出兵に踏み切った 「外相」厩戸皇子が生きていれば、このような時期に、 違いなくいえるのは、倭国が百済・新羅の上位にあることを保証し てあろ - フかたたド、 てくれる隋が消滅した以上、倭国は再び、自力て新羅に「任那の調」を強要しなければな らなかったとい - フことてある 推古朝に天皇号はあったか ? かって、天皇号は推古女帝の時代 ( 推古朝 ) に成立したと考えられていた。それは、こ の時代が中国の隋王朝に対して対等の立場を主張する積極果敢な外交を展開した時期てあ てんじゅこくしゅうちょうめい やくしによらいぞうこうはいめい ったことに加え、法隆寺金堂にある薬師如来像光背銘や中宮寺の天寿国繍帳銘など、推 古朝に作られた仏像の銘文に天皇の文字が使用されていることが史料的な根拠とされた。 しかし、推古朝の作といわれた仏像の銘文が当時のものとは考えられないとする研究が 大幅な後退を余儀なくされた。代 あらわれ、推古朝成立説はにわかにその足場を失ない、 じとう てんむ わって有力な学説となったのが天武朝成立説や天武・持統朝成立説てある。詳しくは後述 - 」、っそ、つ これらは主として、唐の第三代皇帝の高宗が六七四年 ( 天武三年にあたる ) に 亠 9 るトま - フに、 皇帝に代えて天皇の称号を用い始めたことに着目し、我が国て天皇号が採用されたのはそ 飛鳥と、斑鳩と - ーー厩戸皇子の実験
と述べたというのてある。 これによれば、当時、次期大王の決定に関しては前大王 ( この場合、推古 ) の意志は絶対 的てあり、群臣らがそれを批判したり覆したりするといったことは基本的にはありえなか った、と考えられる。そして、大伴鯨が明言しているように、推古の意向は田村皇子の即 位にあったのてあり、群臣たちがそのように受け取っていたことは明らかたろう。 きんめい 田村皇子と山背大兄王は、欽明天皇の孫てある押坂彦人大兄皇子・厩戸皇子を父にもっ ていたから、同世代ということになる。しかし、田村皇子のほうが山背大兄王より若干年 とじこのいらつめ 長だったようてある ( 山背大兄の母は蘇我馬子のむすめⅡ刀自古郎女だが、田村皇子は馬子のむすめ ほほてのいらつめ Ⅱ法提郎媛を妻にしていた ) 先に述べたように、当時は大王を選出するのに世代・年齢 ( と、う条件が重視されてい た。推古は王位継承順位、すなわち田村皇子が第一位、山背大兄王が第一一位という形て、 次期大王について明確な意志を述べていたといえる。推古が最初に田村皇子、ついて山背 大兄し」い - フト - フに、 かれらを枕元によんだ順番も考慮に入れる必要があろう。 災いとなった「外相」厩戸の名声 このように、前大王が次期大王を指名・決定するということは、かねてから行なわれて
の橿原市石川町のあたりにあったといわれる。 おおとものひらふ 馬子らと守屋との対決が必至の情勢となった時に、大伴砒羅夫は手に弓箭と皮楯をも つきくま って、馬子の「槻曲の家」の警衛にあたり 、非常に備えたという。この「槻曲の家」と、 いなめ かるのまがりどの うのは、その呼称が似ていることからいって、蘇我稲目の「軽曲殿」を継承した居館て ある可能性が大きい 「槻曲」の槻は、神が宿る木とされたケヤキのことてあるから、「槻曲の家」というのは、 かるのきむらにいます ケヤキの古木が祭られていたことて知られる軽樹村坐神社 ( 橿原市西池尻町 ) の近傍にあ つきさか つきさか ったのてはないかと思われる。また、「槻曲」の槻が「築坂」「桃花鳥坂」のツキを指すと すれば、それは橿原市鳥屋の付近となる。いずれにせよ、「軽曲殿」「槻曲の家」の所在 は、現在の橿原市の範囲内にもとめられることになる。 とゆらのみや さて、前大后として海石榴市宮にあった推古は、五九二年十二月に豊浦宮に遷り、そこ て王位を継承した。すてに述べたように、豊浦は飛鳥川西岸の地名てあり、そこには推古 むくはら の祖父、蘇我稲目の「向原の家」、また彼が造った「向原寺」があったようてある。推古 が即位の場所を豊浦にもとめたのは、そこが彼女の祖父によって切り拓かれた土地だつご からなのてはあるまいカ おはりだのみや 推古が即位してからおよそ十年後の六〇三年十月、彼女は豊浦宮から小墾田宮に遷る。 ゆみや 飛鳥寺創建ーー推古女帝の設計
ほっがん 始されていること、飛鳥寺の造営が守屋との戦争のさなかに発願されたという有名な伝え があることなどが、この推測を裏付けてくれる。守屋は、一般にいわれているように仏教 の受容それ自体てはなく、仏教という外来の宗教を利用した飛鳥開発に反対していたとい えるてあろう。 すしゅん また、崇峻天皇も推古・馬子の構想に一線を画しており、それゆえに非業の最期を遂 げた可能性がある。 崇峻暗殺には、後述するように朝鮮半島情勢が深く関係していると思われるが、崇峻と 推古・馬子のあいだにそれ以外の問題をめぐって確執があったとすれば、考えられるの は、飛鳥開発の間題をめぐってのことだったのてはないだろうか くらはし それは、崇峻がかっての磐余てもない、 また飛鳥の周辺てもない、山深い倉梯に宮殿を かいらい 営んているからてある。崇峻が倉梯に大王宮を造営したのは、彼を当初から傀儡としか見 なしていない馬子によって「押し込め」られた結果てある、というように何の証明もなし に断定されてきた。 だが、倉梯に大王宮を営んだのが崇峻自身の意志にもとづくと考えることがてきるなら ば、話は違ってくる。崇崚が、推古や馬子による飛鳥開発構想に、 少なくとも一定の距離 をおこうとしていたことだけは間違いあるま、 4 飛鳥寺創建 - ーー推古女帝の設計
いたことてはなかった。のこされている史科による限り、それはこの推古女帝の時を最初 とすると見られる。これは、敏達の大后、ついて前大后、そして初の女性大王として、お よそ半世紀にわたって権力の中枢にあり続けた彼女だったからこそ成し得たことだったの てある。 推古は、女帝としての統治の経験と実績に物をいわせ、これまて男性の大王てもてきな かった次期大王の指名・決定を行なったといえよう。これにより、前大王と新大王が交替 するさいに必然的に生ずる権力者の不在、権力の空白という政治的に見て危険極まりない 時間を短縮、または解消することに向けて、大きな前進が見られたことになる。この点、 女帝統治の実績と達成として大いに評価する必要がある。女帝がこのような実績をのこせ たことから見て、女帝を「中継ぎ」とする理解は疑間といわざるをえない しかし、今回は史上初の試みだったことが裏目に出たといえようか、残念ながら、推古 が生前危惧していた事態が出来したのてある。それが山背大兄王と彼を支持する群臣たち てあった。この山背大兄派の群臣は、かって厩戸皇子に恩顧を蒙った人びとだったらし 山背大兄は、彼が聞いた推古の遺詔によれば、次期大王は田村皇子てはなく自分だと強 彼はいう。 硬に主張し、それを支持する群臣も当初は三名ほどいた 、 0 飛鳥か、百済かーー舒明大皇の挑戦
鳥岡本宮など ) が営まれることになる。大王家の拠点てある飛鳥の北半を占める飛鳥寺が、 ほっがん 馬子という一個人の発願になる、一蘇我氏のための私的な寺院てあったとは到底考えがた いてあろ - フ。 馬子と蘇我氏が飛鳥寺の造営に多大の貢献をしたのは、蘇我氏と王権との関わりて理解 すべきぞはないかと思われる。馬子は大王家のミウチという立場から、大王家の本居地、 王権の聖地を建設するための飛鳥寺建立に力を尽くしたのてあろう。 他方、推古女帝が飛鳥寺の造営に関したことは、これまてあまり評価されてこなかっ た。しかし、最近、彼女の「豊御食炊屋姫」という名前が諡号てはなく、生前の通称的な 呼び名だったのてはないかと見なされるようになり、話は変わってきた。 仏教ては寺院などを建立するさい、男は寺院の建設に、女は働く男たちのための炊事を 通じて仏に奉仕を行なうものとされていた。推古が生前から「炊屋姫」の名てよばれてい たとするならば、彼女は特定の寺院の造営にみすから献身したことになる。少なくとも、 同時代にそのように記億されていたということてある。女生大王てある推古が関わった寺 院造営となれば、やはり飛鳥寺と考えるのが最も妥当てあろう。 大王家との 飛鳥川の東岸、真神原とその周辺は、磐余とは違い、 すてに述べたように ここを大王家の本居地、王権の聖地に仕立て上げるため 接点をもっ神聖性が乏しかった。 飛鳥寺創建ーーー推古女帝の設計
おはりだ いかずちのおか 、。小墾田よりも南が飛鳥 った小墾田 ( 雷丘東方遺跡 ) は、狭義の飛鳥にはふくまれなし たちばなでら ということになる。他方、飛鳥の南限は、「聖徳太子生誕の地」といわれる橘寺がある橘 の地の手前あたりとされている。 要するに飛鳥とは、南北一・六キロ、東西は〇・八キロほどの極めて狭小な空間にすぎ とゆら 。ちなみに、推古女帝の最初の宮殿がおかれた豊浦は、飛鳥川西岸を指す地名ぞあ やはり飛にはふくまれなかった。 「天皇」と「日本」を生み出した地 し」い , っ , 、」し J 飛鳥時代といえば、明日香村とその周辺に政治・文化の中心があった時代 とゆらのみや て、推古女帝が豊浦宮て即位した五九二年から、明日香村の北方に拡がる藤原京 ( 正確に じとう うつ あらましのみやこ は城、あるいは新益京という ) の中むに位置する藤原宮に持統天皇 ( 女帝 ) が遷った六九四 年まてのおよそ百年間を指す、と一般的には考えられている。 おおきみ あめのしたをしろしめすおおきみ しかし、飛鳥というこの限られた空間に大王 ( 正確には治天下大王 ) の政治的な拠点が じよめい 置かれたのは、厳密にいうならば推古のつぎの舒明天皇の時代てあって、六三〇年、舒 おかもとのみや 明が飛鳥岡本宮を営んだのが最初てあった。この時、岡本宮の北にはすてに推古の時代に 、に飛鳥寺、その南に飛鳥岡本宮という都市空間がここに成立を 飛鳥寺が造られており --r 飛鳥への道