自分を大切にしてもらいたいものてす」ど申しておるのてすよ。そのこど、肝に銘じ るよ、つ - ということてはなく、「遠い将来において」といった意て 「百年の後」とは、正確に百年 ある。これによれば、蝦夷も遠い将来における山背大兄の王位継承を想定し、それに期待 蝦夷とすれば、推古の遺詔にしたがい、あくまても王 も寄せていたことが分かる。ただ、 と考えていたのてある。 位継承順位第一位の田村皇子の即位を実現しなければならない、 大臣蝦夷の独断専行 ? このように考えてくると、蝦夷が群臣のひとり、阿倍麻呂と協議して自邸に群臣たちを 召集したことの真意が明らかになる。これについては『日本書紀』につぎのように見え る ( 推古の ) 葬礼が滞りなく終わった。この時、蘇我蝦夷は大臣てあったが、独断て次期 大王を決定しようど考えた。しかし、群臣たちかそれにしたかわないこどを危惧し、 阿倍臣麻呂ど協議して、群臣たちを召集、大臣の邸宅て饗宴をもよおすこどにした。
めに弓矢をかまえているどすれば、齶田浦の神々がお見過ごしにはなりますまい。清 き白き心をもって朝廷にお仕え申し上げたいど存します」 しようおつじよう こおりのみやっこ そこて、恩荷には小乙上の冠位を授け、亭代・肄軽ニ郡の郡司に任命した。そし わたりのしま て、ついには有間浜て渡島の蝦夷らを召集して、大いに饗応を行なった。 あへのひらふ 「阿倍臣名前は分からない」とあるが、おそらく阿倍比羅夫のことてあろう。六五八年四 月、斉明の命を受けた彼は、百八十艘から成る大船団を率いて東北地方の日本海側を北 上、その軍事力を背景にして沿岸の住民を大王の支配のもとに取り込んていった。この軍 事行動を通じて、大王への服属と朝貢を強制された人びとは、一方的に夷狄としての蝦夷 とされていったのてある。同年の七月、蝦夷一一百人が飛鳥にやって来たのは、比羅夫の戦 果といってよいだろう。 つぎに『日本書紀』斉明五年 ( 六五九 ) 三月条を見てみよう。 阿倍臣名前は分からない。を遣わして、軍船百八十艘を率いて、蝦夷国を討伐させた。 あぎた 阿倍臣は飽田・渟代のニ郡の蝦夷ニ百四十一人、捕虜三十一人、津軽郡の蝦夷百十ニ ふりさえ 人、捕虜四人、胆振鈕の蝦夷ニ十人を一箇所に集めて、大いに饗宴を行ない禄を授 200
かって東北遠征を行なった阿倍比羅夫の当時の肩書は越国の国司 ( 北陸一帯の行政の最高責任 者 ) てあり、越国は対蝦夷の軍事作戦の前線基地だった。その越国に敦賀や琵琶湖を介し てつながっている大津は、大王みずからが服属した蝦夷をコントロールし、それに睨みを きかせるという点て、それに代わる適地はもとめがたかったに違いない 以上のとおりだとすれば、天智天皇が飛鳥を離れ近江大津に本居地を遷したのは、彼が と、う成果を引き継いだこと 斉明の遺志と事業、すなわち東方の夷狄Ⅱ蝦夷に対する支配し を、誰の目から見ても分かるように示すためてあったことになろう。大津は飛鳥とは異な って、夷狄Ⅱ蝦夷を従属させ、その朝貢を受ける大王の政治的拠点として、新たにえらび 取られた場所だったのてある。 斉明の急逝からいわゆる近江遷都まて、五年八カ月という決して短くない時間を要する ことになったのは、その間に斉明から引き継いだ百済救援戦争の遂行、そして白村江の戦 後処理に繁にを極めたことに加え、蝦夷をしたがえた大王の新しい拠点に相応しい場所を 探しもとめ、さらに場所が大津と決まった後も、そこに宮殿を建設するのに予想以上に手 間取った結果といえるてあろう。 大津に大王の宮殿を造営するとなれば、宮殿だけを建設すればすむことてはない。現代 に生きるわれわれから見れば、なんと悠長なといいたくなるところだが、大王宮周辺の土 226
それかしども群臣か、とうして恣意的に次期大王を决めるようなこどかあるてしよう か。それがしは、ただただ天皇の遺詔を奉し、群臣たちに披露したまててす。群臣ど もが申しますには、「遺詔がそのどおりてあったならば、田村皇子の即位が妥当てあ ろう。今更、誰が異論を唱えようか」どのこどてした。これは群臣たちの意見てす。 断じて、それかしの恣意などてはありません。ただ、それがしにも思うどころかあり ますか、畏れ多いのて、それを伝言するこどは差し控えたいのてす。いすれ、お目に かかったおりに直接申し上げたいど思います。 要するに、蝦夷は推古の遺詔を忠実に実行することが自分の使命なのだ、と繰り返し述 べているのてある。恣意や独断は極力排することをみずからに厳しく課していることを強 調している。それは、大臣という地位に付随する使命てあり、課題なのてあろう。したが って、「独断て次期大王を決定しようと考えた」というのは、文面どおり、蝦夷が恣意的 に新大王を決めようとしたという意味てはありえない。 次期大王の指名に関しては前大王の遺志が決定的なのてあって、蝦夷を筆頭とする群臣 たちはそれに同意と承認をあたえる程度の権限しかもっていない。だから、群臣を統括す る大臣の蝦夷としては、 いちいち個々の群臣たちの意向を確認するまてもなく、前大王の
遺志をそのまま実行に移してもよいのてある。それが「独断て次期大王を決定しようと考 えた」ということの真意てあろう。 だが、初めての試みてある今回は、山背大兄とその一派の動きを見る限り、どうも予定 どおりには事が運ばないようてあった。蝦夷が「群臣たちがそれにしたがわないことを危 県し」たというのは、この点に関わるのてあろう。そこて蝦夷は、群臣たちの意志を調整 し、それを一本化するため、自邸にかれらを召集することにしたというわけてある。 なお、蝦夷が伝言を避けて、山背大兄に直接話したいといっている「田 5 うところ」とい うのは、彼が日頃から推古らに語っていたこと ( 遠い将来における山背大兄の即位 ) からすれ ば、おそらく、田村皇子のつぎの大王は山背大兄なのだから、慎重の上にも慎重にふるま ってもらいオ ( といった叔父から甥への親身な助言・忠告だったのてはないかと思われ る 蝦夷は、後にむすこ入鹿とともに逆賊として討たれたこと ( 乙巳の変 ) から、「赤面の敵 役」というイメージが定着している。しかし、『日本書紀』の叙述を正確にたどるならば、 それとはまったく異なる、公的には自身の立場に忠実て、その使命を貫き通す信念をも ち、他方、プライベートては甥の将来にも細々とむを砕く人間像が浮かび上がってくる。 飛鳥か、百済か - ーー舒明大皇の挑戦
とねり そ、つ い終わるど、古人大兄は佩刀を外し地に投げ打った。また舎人たちに命じて、 ほうこうじあすかでら 刀を棄てさせた。そして、みすから法興寺 ( 飛鳥寺 ) の仏殿 ( 金堂 ) ど塔どの司 - と、そこて髭ど髪を剃り、袈裟を身に着けた。結局、軽皇子は断わるこどがてきす たかみくら この日、高壇に上り即位するこどになったのてある。 『日本書紀』のこの話が事実だとすれば、政変が勃発した時点て、最も有力な王位継承資 格者は文句なく中大兄だったことになる。中大兄以外の皇子、たとえば軽皇子の出る慕は ほとんどなかった、といえよ - フ しかし、この三人の皇子による王位譲り合いの話は明らかに『日本書紀』の捏造といわ ざるをえなし 、。なぜならば、古人大兄が出家したのは、蘇我蝦夷が自殺した翌日の六月十 四日などてはなく、蝦夷が自殺する前てあったと考えられるからてある。 古人大兄の出家した場所は「法興寺の仏殿と塔との間」てあり、彼が寺院の内部てはな あえてそのようなオープンスペース、すなわち何者かの視線を意識した場所て出家さ せられていることは無視てきない。彼が出家した時点て、「法興寺の仏殿と塔との間」を 見下ろすことがてきる甘檮岡て蝦夷らはまだ健在だったのてあり、換言すれば、蝦夷らは 政変を一挙に覆す可能性をなお保持していた、と考えるべきてある。 0 14 ろ板蓋宮の政変ーー皇極女帝の陰謀
代皇帝は道教を厚く尊崇した。高宗もその一人ぞあって、彼が天皇号を採用したのも、そ れが道教の説く最高の神格だったからぞある。 これまては、我が国の天皇号はこの高宗による天皇号採用の影響を受けて成立したとさ れてきた。しかし、本書て述べてきたように、壬申の乱後、天武によって新しい君主号と して天皇号が採択されたとすれば、それは彼が正式に王位を継承した六七三年一一月のこと になろう。それに対し、唐の高宗が天皇号を採用したのは翌年の八月のことだった。わず か一年半てはあるが、天武のほうが高宗よりも早かったといわねばならない。天武への影 響をいうならば、高宗よりも斉明女帝の存在を考えるべきだろう。 この時代の倭国は、東方の夷狄として蝦夷、西方の蕃国として百済を支配下におこうと 企てていたことからも明らかなように、その統冶者は中国皇帝を中むとした世界とは別に 形成された世界の中軸に位置すると考えられていた。だから天武は、もしも唐の皇帝が先 に天皇号を採択したのを知っていたとすれば、これとまったく同じものをえらぶことは避 たのてはないかと思われる。 逆に、高宗は倭国における君主号の改変などまったく知らすに、道教を信奉するあまり に天皇号をえらび採ったと考えられる。高宗にとって自分が世界の中軸に位置することは 自明てあって、東夷の王がどのような称号を名乗ろうとも、およそ関心は薄かったに違い GS 272
と考えざるをえない。 山背大兄の討減を命じた者 以上見たように、山背大兄王の滅亡を入鹿の単独犯行とする『日本書紀』の記述を覆す のに十分な後世の史料は存在しないことになる。それては、『日本書紀』の描くとおりに、 山背大兄は入鹿の独断専行によって討たれたと断一言てきるのかといえば、決してそうては ないと思われる。 それは、『日本書紀』のなかて、入鹿が山背大兄を滅ばそうとしたのは、「独りて」「古 人大兄皇子を天皇にしようと企てた」と記されているからてある。「独りぞ」は、本当に 「独断て」「一人て勝手に」という意味に解してよいのてあろうか 第三章て見たように、推古女帝の没後、大臣の蘇我蝦夷は「独断て次期大王を決定しょ うと考えた」と『日本書紀』に見えるが、この「独断て」とは決して単純な意味ての蝦夷 まえっきみ による独断専行を意味するのてはなかった。群臣たちを統括する立場にあった大臣の蝦夷 は、あくまて前大王の遺志を奉じ、それを忠実に実行することが第一にもとめられていた のてあって、その実行にあたってはかならすしも群臣一人ひとりの意向をたしかめる必要 はなかった、と考えられるのてある。「独断て」とは、決して非難されるべき行為てはな 151 板蓋宮の政変ーー - 皇極女帝の陰謀
漏れ聞いたどころによれば、叔父上たち群臣どもは田村皇子を次期大王に擁立しよう どお考えのようてすが、吾はそのこどを聞き、立って考えても、座って考えても、ど うしてそういうこどになるのか、まったく理解てきません。どうかお願いてす、詳し く叔父上のお考えをお聞かせください とじこのいらつめ 山背大兄の母 ( 刀自古郎女 ) は蝦夷の姉妺てあったから、蝦夷と山背大兄は叔父・甥の間 柄てある。山背大兄は蝦夷が遣わした群臣らを前にして、つぎのように述べた。彼が女帝 の遺詔を聞いた日のようすを克明に語って聞かせた後のことてある。 吾は ( 推古の ) 有り難い遺詔を承り、恐縮するどどもに、悲しみの情すら込み上げて きた。走り出したいほど熄しく、どうしてよいか分からないほどだった。吾は考え 、くこどは大変な任務てあり、まだ若く未熟な吾にどうして た、国家や社会を治めて、 それを担、つこどかて医、るたろ、つか : ど。この時、叔父上や群臣どもに女帝の思し 召しを話して聞かせたいど思ったのだか、今はそれを口にする時期てはないど考え、 今日まて明かさなかったのだ。 : 前大王は吾に即位するよう、はっきりど仰せられ
けが 「それがしども蝦夷は、今より後、子々孫々まて一点の穢れもない清らかな心をもっ この誓いを破っ て天皇陛下の朝廷にお仕え申し上げまする。それがしどもが万か一、 みたま た時には、天地の神それに天皇の霊がそれがしどもの子孫を根絶やしにするてありま 敏達天皇の代、・ ' 大王家に服属した・蝦夷が、大王に対する忠誠を初瀬川から三輪山に向 かって誓ったというのてある。蝦夷の首魁、綾糟らの誓いのことばのなかに「天皇の霊」 が見 - んることが注目される。 「天皇の霊」が具体的に何を指すのか不明といわざるをえない。だが、それは、大王への 服属を誓った綾糟らが三輪山に向かって述べ上げたことばのなかにあらわれるのてあるか ら、「天皇の霊」とは三輪山に宿っていると当時信じられていた神霊てあり、大王家の祖 先神、あるいは大王家にとって守護神のような存在だったのてあろう。 みわのきみさかう 敏達は在位中、三輪君逆という人物を大変重用し、自身の死後の宰領まて彼に一任し いうまてもなく逆を出した三輪氏は、三輪山とその神を祭ることを世襲した氏 族てあったが、逆が敏達からこれほどの寵愛をうけたのも、当時の大王家にとって三輪山 が特別な存在だったからこそてあろう。 い . 飛鳥への道