収録。その書き下し文 ) などに見ることがてきる。 あきつみかみおほやしまぐに すめらおほみこと の 現御神ど大八鴫国知らしめす天皇が大命らまど詔りたまふ大命を : : : 天っ神の御子 よさ まっ まにま あまつひつぎたかみくらわざ ながらも、天に坐す神の依し奉りし随に、この天津日嗣高御座の業ど、現御神ど大八 やまとねこすめらみこと おほ たふと 鴫国知らしめす倭根子天皇命 ( 特統天皇 ) の、授け賜ひ負せ賜ふ貴き高き広き厚き大 かしこ 命を受け賜り恐み坐して、 これによれば、天皇は「天っ神の御子」すなわち神の子孫 ( 天孫 ) てあり、同時に「現 御神」、すなわち人の姿をした神そのものてあるというのてある。天皇がたんに「天っ神 の御子」ぞあるだけぞなく、「現御神」てもあるとするこのような考えが発生したのは、 天武の死後てあったと考えられる。 なせならば、つぎに見るように、天皇や一部の皇族を神の子孫てはなく神そのものとし て讃える歌が、 天武死後の一定期間に集中してあらわれるからてある。有名な「大君は神 にし上ムせ、は・ : 」に始まる歌てある。 おきそめのあずまひと ゅげのみこ ①弓削皇子が亡くなった時に置始東人が作った歌 ( 「万葉集」巻第ニ、ニ〇五番 ) おおきみ 2 8 1 飛鳥との訣別 そして、「日本」が生まれた
思われる。持統が飛鳥Ⅱ倭京のなかの飛鳥浄御原宮から藤原宮に遷ったのは、六九四年の 十一一月のことてあった。 持統の手て完成された「新益京」は、一体どの程度の規模だったのてあろうか。かって きださだきち その京域は、古道をもとにして決定されたと考えられてきた。それは、戦前の喜田貞吉の きしとしお 研究をふまえ、岸俊男氏によって推定されたものてある。 きよう」く あまのかぐやま それによれば、天香久山の山項を通る中っ道と下っ道が東西の両京極となる。中っ道 と下っ道のあいだは四里 ( 一里は約五三〇メートル、四里は約二・一キロメートル ) あり、東西に 八坊があったとすると、一坊は半里四方の大きさだったと見られる。京の中しに位置した 藤原宮は、発掘により二里四方だったことが分かっているから、宮は十六坊分を占めたこ し」にわなる あべのやまだみち つぎに北京極を横大路と見なすと、そこから十一一坊分を取れば、南京極は阿倍山田道と ほば重なる。そうだとすると、いわゆる藤原京は東西四里、南北六里の大きさてあり、半 里四方の坊が東西には八坊、南北には十二条、配置されており、藤原宮は京の中央よりに 十六坊を占めていたと見なすことがてきる。 目 ( し」ノ、にみ、のヨ ~ 果立ロ ところが、近年になって、岸氏によって復元された藤原京域の外倒 カ・らコョ立口にカ 、また西部からも条坊道路と見られる直線の道路遺構が相次いて発見され 0 よこおおじ なか 294
っており、両者に共通する舞台として吉野宮が存在するのだ、という意識を詠み上げてい る。ある天皇とは大海人皇子 ( 天武天皇 ) にほかならない。興味深いのは、実際には斉明 が造営したはすの吉野宮が、大海人の手て造られたとされていることてある。 それては、大海人とは一体、どのような意味て神だったというのだろう。また、どうし て史実とは異なり、彼が吉野宮を造ったことになっているのてあろうか。これに関して かきのもとのひとまろ くさかべのみこ は、柿本人麻呂が大海人のむすこてある草壁皇子の葬礼て作ったという長歌が手掛かり をあたえてくれる ( 『万葉集』巻第二、一六七番 ) 。 はじめ やほよろづちょろづがみ かむつど 天地の初の時ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ集ひ座し かむわか ひめみこと あしはら みづほ て神分ち分ちし畤に天照らす日女の尊天をば知らしめすど葦原の瑞穂 あめっち きはみ みこと の国を天地の寄り合ひの極知らしめす神の命と天雲の八重かき別けて とぶとり きよみ かむ ふとし 神下し座せまつりし高照らす日の皇子は飛鳥の浄の宮に神ながら太敷 すめろき きまして天皇の敷きます国ど天の原石門を開き神あがりあがり座しぬ ( 後略 ) ( 天地創造の初めはるか彼方の天の河原に数えきれないはどの神々が神々しく集まり神々を それぞれ支配すべき国にお分かちになった時天を支配する天照大神が葦原の中つ国の隅々まで あめっち 245 飛鳥をめぐる攻防 - ーー天武大皇の死闘
ほっがん 始されていること、飛鳥寺の造営が守屋との戦争のさなかに発願されたという有名な伝え があることなどが、この推測を裏付けてくれる。守屋は、一般にいわれているように仏教 の受容それ自体てはなく、仏教という外来の宗教を利用した飛鳥開発に反対していたとい えるてあろう。 すしゅん また、崇峻天皇も推古・馬子の構想に一線を画しており、それゆえに非業の最期を遂 げた可能性がある。 崇峻暗殺には、後述するように朝鮮半島情勢が深く関係していると思われるが、崇峻と 推古・馬子のあいだにそれ以外の問題をめぐって確執があったとすれば、考えられるの は、飛鳥開発の間題をめぐってのことだったのてはないだろうか くらはし それは、崇峻がかっての磐余てもない、 また飛鳥の周辺てもない、山深い倉梯に宮殿を かいらい 営んているからてある。崇峻が倉梯に大王宮を造営したのは、彼を当初から傀儡としか見 なしていない馬子によって「押し込め」られた結果てある、というように何の証明もなし に断定されてきた。 だが、倉梯に大王宮を営んだのが崇峻自身の意志にもとづくと考えることがてきるなら ば、話は違ってくる。崇崚が、推古や馬子による飛鳥開発構想に、 少なくとも一定の距離 をおこうとしていたことだけは間違いあるま、 4 飛鳥寺創建 - ーー推古女帝の設計
題とすべきてはないだろうか。それは、倭国の統治者 ( 治天下大王 ) を中国の皇帝のように 一定の世界の中軸に位置すると見なす認識、独自の世界観てあって、それが誕生した時初 めて、天皇号は成立したと考えることがてきよう。 当時の倭国はみすからを「日出処」、すなわち中国という中軸から見た東方と位置づけ ており、中国を中心とした世界観からまだ脱却していなかった。独自の世界観をほとんど もち合わせていない推古朝の段階て天皇号が成立していたと考えることはてきない。倭国 が天皇号を生み出しうるような世界観を獲得するには、なお半世紀ほどの歳月が必要だっ たのてある。 斑鳩の都市プランーー飛鳥開発の「先取り」 斑鳩宮の造営は六〇一年二月に始まり、六〇五年の十月には完成したと見られる。後述 するように、厩戸皇子とその近親者のみならず、一族全体がここ斑鳩に遷り住んだようて ある。 この斑鳩宮の本格的な発掘が初めて行なわれたのは戦前のことて、斑鳩宮跡と伝えられ てきた夢殿を中心とする法隆寺東院の地下遺構を発掘したところ、北から西へ一一度の振 れがある、斑鳩地方の古地割りと同じ方位をもつ大小八棟の掘立柱建物跡や井戸跡が検出
中大兄が有間の尋問にあたっていることから、彼が事件の首謀者のように見なされてき た。しかし、中大兄が斉明女帝を輔佐する地位にあったことを思えば、この尋問を理由に 彼が事件の黒慕だったとはいい切れない。 たじひのおざわのむらじくにそ ふじしろのさか 翌々日 ( 十一日 ) 、有間は丹比小沢連国襲らの手て藤白坂て絞殺され、十九年の短す ぎる生涯を終えた。暴走の果ての無残な死といえよう。しかし、彼の挙兵が計画どおりに 実現していたならば、飛鳥は灰燼に帰していたはずだから、そら恐ろしいものがある。 ともあれ斉明女帝は、ようやく完成間近の飛鳥Ⅱ倭京を武力によって覆滅しようとした 有間らのクーデタを未然に封することに成功した。飛鳥は辛うじて守られたのてある。 東北遠征ーー新しいステージへ かくして斉明の手て完成された飛鳥Ⅱ倭京という都市空間は、明らかに一般の豪族たち の居館やそれを取り巻く空間とは異質て、それらを完全に超越したものてあった。大王の 地位と権力が一般の豪族層を凌駕するものてあることを、誰が見ても了解てきるように表 見したものが飛鳥Ⅱ倭京にほかならなかった。 それが完成を見た以上、つぎなる課題は、一般の豪族層を超越した大王の地位と権力の 198
を計画したのも分からないことてはない。 麻呂が身の潔白を証明してもらおうとした人物、興志が父の無念を晴らすべく攻撃を加 えようとした人物、小墾田宮にいたと思われるその人物とは、やはり前大王、皇極と見な すのが最も妥当てはないかと思われる。 以上見たように、孝徳が難波て改革に取り組んていた時期、皇極が前大王として、飛鳥 の建設に専念するため飛鳥に拠点をおいていたとするならば、結局、皇極は麻呂を見殺し にしたことになる。改革をすすめる過程て大王孝徳と確執を深めた麻呂は、孝徳に国政の 変革を委ねた前大王の皇極にすべてを託そうとして飛鳥にもどったのだが、非情にも彼女 はついに動かなかったのてある。 『日本書紀』によれば、麻呂は自殺する直前、つぎのように語ったという。 臣下たる者、どうして君主に逆らうこどかあろう。どうして父への孝行を忘れよう がらん か。この伽藍 ( 山田寺 ) は吾独りのために造ったのてはない。天皇陛下のためにお造 ざんげん むさし り申し上げたのだ。今、吾は身利 ( 異母弟、日向のこど ) めに讒言されて、不当な容疑 よみのくに を受けたまま死ぬるこどだけが無念だ。せめて、忠誠心を失なうこどなく黄泉国に罷 この寺にやって来たのは、吾が最期を安らかなものにしたいからてある。 171 飛鳥と、難波とーーー皇極・孝徳姉妹の契約
あかごま はらば たゐ みやこ 皇は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を京師ど成しつ ( 神ていらっしやる天皇赤駒腹ばう泥田ても いども容易く都に変える ) ⑥壬申の乱の平定以後に作られた歌 ( 「万葉集」巻第十九、四ニ六一番 ) みぬま みやこ おほきみ 大王は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都ど成しつ たやす ( 神ていらっしやる大王水鳥集まる沼地ても いども容易く都に変える ) 「大君は神にしませば : : 」という歌は、壬申の乱によって絶大な権力を掌中にした天武 、つ を讃えたものといわれてきた。しかし、これらの歌て神と絶賛されているのは、②ては鷓 ののさららのひめみこじとう 野讃良皇女 ( 持統天皇 ) てあり、①③④ては天武の皇子たちてある。⑤⑥の場合は天武天 てんびようしようほう 皇と考えられないてもないが、この二首は天平勝宝四年 ( 七五一 l) 二月二日に採録され たものとされており、 いっ頃の作てあり、「皇」「大王」が果たして天武自身を指すのかど うか、断定はしがたい。 ⑤の「赤駒の腹這ふ田居を京師と成しつ」、⑥の「水鳥のすだく水沼を皇都と 成しつ」は、飛鳥浄御原宮の建設を指しているといわれるが、すてに述べたように、浄御 のちのあすかおかもとのみや 原宮が後飛鳥岡本宮を拡張して造営されたことを考えれば、これらが具体的な事実をふ 28 ろ飛鳥との訣別 そして、「日本」が生まれた
ひきで かなき 「鉗着け吾が飼ふ駒は引出せず吾が飼ふ駒を人見つらむか ( 鉗を着け吾が大切 うまや に飼っていた駒厩から引き出しもしないて大切に飼っていた駒どうしてそれを他人が見たのか ) 」 というものてあった。 大王孝徳と有力な王位継承候補の中大兄皇子との対立が決 どこに都を置くかをめぐり、 定的となり、中大兄はおのれの意志を強硬に実行に移してしまったのてある。これを、難 波と飛鳥とに王権が分裂するという深刻な事態と考える人もいる。 しかし、中大兄は前大王てある母と現大王の大后だった妺という王権中枢を構成する肉 親二人を奉ずることによって、初めて自分の意志を実現てきていることに留意する必要が あろう。「孝徳対中大兄」という単純な対立の構図ては真相はとらえ切れない。 ちなみに、間人皇女を難波から連れ去ったのは中大兄だと見られている。それは、『日 本書紀』に孝徳が間人に贈ったという自作の歌が載せられており、その歌の解釈によって 日人皇 、ごにごごよらぬ関係があったことになるからてあった。門 は、中大兄と間人とのあし 、、。、、結果的に夫てある孝徳を見棄てたのだと考えられ 女は男女の関係にあった兄にした力し てきた。 だが、皇極と間人は、後に中大兄の手て合葬されており、その意味ぞ両者は政治的に一 175 飛島と、難波とーー皇極・孝徳姉妺の契約
くまそ ちゅうあい 八世紀初頭に成立した『古事記』の仲哀天皇段を見てみよう。熊襲を討っため九州 出征した天皇に、ある神の託宣が下った場面てある。 ひょうい じんぐうこうごう 皇后 ( 神功皇后 ) に憑依した神かいうには、 「西方に国がある。金・銀を初めどして、目も眩むような種々の珍宝がたくさんその 国にはある。吾は今、その国を服属させようど考えているのだ」 どいうこどてあった。 この「西方」にある国とは新羅を指した。ちなみに、仲哀天皇はこの神託を無視したた めに頓死してしまったことになっている。 きんめい 『日本書紀』にも同様の例は少なくない。たとえば、欽明十三年 ( 五五一 l) 十月条、有名 な仏教公伝を記しごくだりてある 天皇は百済の使者の口上を聞き終わるど、喜び躍りあがり、使者に向かい われ 「朕は生まれて以来、このように不思議てすばらしい教えを聞いたこどかない し、朕独りて决するべきてはなかろう」 0 くら 202