まえて詠まれたものてないことは明らかてある。⑤⑥の歌の「皇」や「大王」は特定の天 皇を指しているのてはなく、飛鳥に都をおいた天皇たちを一括して、このように讃えてい ると見なすべきだろう。 これら「大君は神にしませば : ・ : 」の歌は、天武死後の持統の時代以降、一定の期間 ( 限って天皇や特定の皇子を対象に作られたものてあったといえよう。「大君は神にしませ : 」のフレーズが、持統女帝に仕えたという柿本人麻呂の創案に成るとする意見が出 るのも頷ける。特定の天皇や皇子たちが神そのものてあると賛美する歌が、天武が亡くな った後にあらわれたとすれば、天武の死後、過去の大王や天皇を「天っ神の御子」とする 従来の考えに飽き足らず、天皇や皇族を「現御神」すなわち神そのものと見なす必要性が 生じた、とノ、んることかてきる その必要性は、天武の死、その肉体の消滅によって生じたのてある。すなわち、清浄の 極み ( 穢れの対極 ) にいなければならないはずの天皇も、肉体をもつ以上、病気や死という 穢れに否応なく汚染され傷つけられる。それては、天皇の清浄性が損なわれ、天皇の天皇 ゆえん たる所以まてがそのたびに問われることになる。そこて、天皇や皇族の死は、人間や動物 などの穢れにまみれた一般的な死とは決定的に次元が異なるのだと説明するため、天皇や 皇族は「現御神」という神そのものなのだという考えが新たに考案されたのてある。これ 284
すえつくりのこうき くらっくりのけんき えかきいんしらがにしごりじようあんなこんおさみようあんな かみつももはら 陶部高貴・鞍部堅貴・画部因斯羅我・錦部定安那錦・訳語卯安那らを上桃原・ しもつももはらまかみのはら 下桃原・真神原の三箇所に移り住まわせるこどにした。 他方、『日本書紀』の崇峻元 ( 五八八是歳条にはつぎのように見える。 あすかのきぬぬいのみやっこおや 、つ′」、つじ このは そがのうまこ ( 蘇我馬子が ) 飛鳥衣縫造の祖てある樹葉の家を解体して、そこに初め興寺造 とまた るこどになった。その場所を飛鳥の真神原どいった。または飛島の苫田どよんだ。 「法興寺」すなわち飛鳥寺の創建を述べた記事てある。「真神原」とは現在の飛鳥寺跡 あんごいん ( 安居院 ) の所在地とその一帯ということになるだろう。雄略天皇の時代に百済から渡来し た集団がこの地に居住地を賜わったわけぞある。他方、「真神原」と並んて見える「上桃 原」「下桃原」は「真神原」の近傍の地と思われるが、現在のどのあたりを指すのか、今 ひとっ明確にしがたい。 ハ一六年に亡くなった・時子の・墓は、『日本書紀』によれば「桃の」し第れて しまのしよう いる。明日香村の島庄にある有名な石舞台古墳は馬子の墓と見なさ いるのて、石舞台 の周辺が「桃原」てはないかともいわれているが、実のところ確証はない。
国政改革に打ち込んだ。それは、飛鳥建設を強力かっ円滑にすすめるためには、是非とも やり遂げねばならない大仕事てあった。しかし、孝徳は道半ばの段階て斉明から変革の打 ち切りをいい渡され、失意のうちに亡くなった。孝徳はいわば、斉明の飛鳥建設計画の最 大の功労者にして犠牲者てあったといえよう。 ちゅうちょ 有間とすれば、斉明がその事業に何の躊躇もなく投じている労働力が、ほかならぬ亡 たまもの 父、孝徳による変革の賜物てあることを思うにつけ、押さえがたい憤懣が込み上げ、何と かして父の無念を晴らしたいと思ったに違いない。有間は斉明ともども、飛鳥それ自体を 破壊しようと企てたのてはあるまいか。暴走する十代といえよう。 有間は赤兄の罠にまんまと陥ったかのように見えるが、赤兄による挑発がなくとも、 きのゆ には挙兵にふみ切る意志と動機があった。すなわち彼は、斉明・中大兄の母子が紀伊温湯 に出掛け、飛鳥が留守になった隙をねらい挙兵を企てたのだが、実は斉明に紀伊温湯を推 奨したのは、ほかならぬ有間自身だったのてある。彼が斉明を誘い出し、その留守を衝い て武装蜂起を企てていたことは明らかぞあろう。 こういん つぎの『日本書紀』斉明四年 ( 六五八 ) 十一月庚寅条が引用する史料によれば、その計 画は実に大規模かっ周到なものてあった。 ふんまん 194
部の制度によらない労働力動員の「実験」に彼女はすてに取り組んていたのてある。 他方、皇極女帝はみずからの大王宮の建設にも着手した。彼女は何のためらいも見せす に百済の地を棄てた。焼け落ちた飛鳥岡本宮のあったあの場所て、新宮殿の造営が始めら しんび れたのてある。それは『日本書紀』皇極元年九月辛未条につぎのように見える。 天皇 ( 皇極 ) は大臣 ( 蘇我蝦夷 ) に対して、 「今月より始めて十ニ月まてに宮室を造営したいど思う。諸国に命して宮殿の資材を とおとうみのくに あきのくに よほろ 伐採させよ。さらに東は遠江国、西は安芸国を限って宮室の造営にあたる丁 ( 役夫 ) を徴発するように」 ど命した。 百済大寺の完成工事の時と同様に、国を単位とした労働力の動員がなされている。それ も、百済大寺の時に徴発対象になったのは「近江国と越国」にすぎなかったのに、今度 は、東は「遠江国」、西は「安芸国」のあ、ご、 しオ現在の静岡県西部から広島県に至る中間 地帯という広域て国ごとに民衆を徴発しようと企てたのてある。それは大王の宮殿造営に 動員された労働者の数の多さ、という点ぞも画期的な試みてあったといえよう。 124
寺司になったことくらいてある。馬子や蘇我氏が飛鳥寺造営に関与したことは否定てきな いカ、かれらの役割を過大に評価するのは疑間てあろう。 ところて、飛鳥寺の性格をめぐっては、かっては大王家や政府が建設・維持した「官 寺」またはそれに準ずる寺院とするのが定説てあった。しかし、当初は蘇我氏の私的な造 営として開始されたが、後に大王家や政府が関与することになったとして、「私寺↓官寺」 という変遷を想定する意見があらわれ、それに対し、蘇我氏の飛鳥寺に対する関係や影響 力を重視して、一貫して蘇我氏の私寺てあったとする考えかたが唱えられるにいたった。 飛鳥寺の生格について、最も公式な立場から確実な情報を伝えているのは、つぎの『日本 てんむ このつき 書紀』天武九年 ( 六八〇 ) 四月是月条に見える詔てあろう。 およそ諸寺は、今から後、国の大寺どしたニ、三を除いて、政府の管轄外におくこど じきふ どする。ただ食封の支給を受けている寺については、先後三十年を限って支給を続け る。もし支給年数を数えて三十年におよんている場合は、直ちに支給を停止せよ。ま た思、つ - 上記の措置を適用すれば、飛鳥寺は今後、政府の管轄を受けないこどにな る。しかし、もどもど飛鳥寺は大寺どいうこどて、一貫して政府の管轄下におかれて きた。また、かって天皇に対し勲功もあった。そのようなわけてあるから、飛島寺は ・ 4
ろう。これは、あくまても百済の王権から倭国の王権に対する技術援助てあったと考えら せいおう れる。五三八年、百済の聖王は倭国の欽明天皇に仏像や経論を贈与したが、この出来事が 仏教公伝といわれていることからも分かるように、 飛鳥寺造営に対する百済からの技術援 助も、その主体は百済王権てあったと見なすべきてあろう。 馬子は、五九三年に行なわれた飛鳥寺の塔心礎 ~ の仏舎利埋納の儀式て「百済服」を着 たと伝えられるが、これは、飛鳥寺の建立が百済王権からの援助なしには実現てきなかっ たことを、誰の目にも見える形てあらわそうとしたものてあろう。この時代の倭国の仏教 が、百済を発信基地にするものてあったことを思えば、馬子が「百済服」を着用したという のも、仏教を介した百済と倭国との交流という文脈をぬきにしては考えがたいのてある。 」、つくり 他方、百済王権のみならす高旬麗王権からも、飛鳥寺の本尊てある丈六釈迦如来坐像の 造立に対して黄金三百両という物質的援助があったことも軽視てきない。飛鳥寺の伽藍配 せいがんりはいじ 置は一塔三金堂 という特殊なものてあったが、 高旬麗にも同様の伽藍配置 ( 清岩里廃寺 ) が 確認されるのて、高旬麗は寺院建立のプランも倭国に提供した可能性がある。 , ) のしょ - フ ) 飛鳥寺が国際的な援助をうけて倭国の王権が造営した公的な寺院てあった ことは、その立地からも明らかてあろう。後に大王家の本居地、王権の聖地として完成し た飛鳥の北半分を占めたのが飛鳥寺てあり、その南半分には飛鳥の名を冠した大王宮 ( 飛 4 4
多くの非戦闘員をふくみ、大友側の攻撃にあえば、ひとたまりもなかったてあろう。 うだのあき かんら かれらは菟田吾城 ( 奈良県宇陀郡大宇陀町 ) て食事をとり、 甘羅村 ( 大宇陀町神楽岡か ) て狩 うだのこおりの 人二十人余を一行に加えた。狩人は願っても得られないナビゲーターとなった。菟田評 みやけ よいまら 家 ( 宇陀郡格町 ) の前ては、 たまたま駄馬五十頭に出くわし、これに騎乗することがて この日は大野 ( 宇陀郡室生村大野 ) て日没を迎えたが、ここてゆっくり休んぞいるわけに なばりのこおり なばりのうまや はいかない。隠評 ( 三重県名張市 ) に入ると、隠駅家を焼いている。これは追撃者に駅 家を利用させないための苦肉の策だった。横河 ( 名張川 ) を渡る時には、天空に黒雲が棚 弓いているのが見えこ。 ) オカれらは前途の不安を思わすにはいられなかったが、大海人が得 意の占いによって人心を鼓舞したのはこの時てあった。 いがのこおり さらに夜の闇をすすんて、伊賀評 ( 三重県名賀郡の東部 ) に入り、また駅家を焼、 れは、伊賀が大友皇子の母の生家の勢力圏てあったことを思えば、大友に対する大海人の 宣戦布告の意味もあったといえよう。その後、伊賀中山 ( 上野市南部か ) て数百の兵士を得 て、大海人一行はようやく、戦闘集団らしい体裁を整えることになる。 るすのつかさ 大友皇子は留守司からの通報を受け、おそらくこの夜のうちに、大海人が吉野宮を出て 東国に向かったことを知ったに違いない。 大友は直ちに、すてに徴兵を完了していた近畿 257 飛鳥をめぐる攻防ーー大武大皇の死闘
藤原京の復元模型 ( 一部 ) 。北方に耳成山、東方 ( 右 ) に 天香久山、西に畝傍山が見える。橿原市教育委員会提供
うしたわけか、『日本聿日紀』には記されていない。 あめあざなたりしひこ おおきみ かいこう 開皇ニ十年 ( 六〇〇 ) 、倭王の姓は阿毎て字はラ利思比孤、阿輩難弥を号する者が使い を遣わして隋都 ( 長安 ) に至った。文帝は役人に命じ、その風俗を尋ねさせた。使者 「倭王は天を兄どし、日を弟どしております。天がまだ明けない時、出御して政務の あぐら 報告を聞き、胡座をかいてすわり、日が上れば、そこて政務を執るこどをやめ、『後 のこどは弟・に任せよ、つ』ど います」どのこどてあった。文帝は、 「まったく道理に合わない、。た」 使者にそれらを改めるよう教え諭した。 おののいもこ 『日本書紀』に見える最初の遣隋使は六〇七年、有名な小野妺子を大使とするものてあっ たか、これについては『隋書』倭国伝につぎのように見える。 大業三年 ( 六〇七 ) 、その王、多利思比孤が使者を遣わして朝貢してきた。使者は、 ぼさってんし 「海西の菩薩天子てある陛下がさかんに仏法を興していらっしやるど承っておりま たいぎよう 飛鳥と、斑鳩と - ーー厩戸皇子の実験
したものということになる。このように内乱のなかて、従来の大王に代わる、それを越え たよと権力が、ほかならぬ天武の手によって確実に準備されていたのてある。 天武の地位は新たに天皇の名てよばれることになった。彼はどうして、天皇という称号 をえらんだのてあろうか。そもそも、天皇とは一体何てあろうか こうてんじようてい てんこうたいてい これについては、①中国において宇宙の主宰神とされる昊天上帝の別名、天皇大帝に 由来するとする説、図中国の道教の最高神てある天皇大帝にもとづくと見なす説があり、 さらに近年ては、 3 従来の大王号の権威を増すために、大を天に、王を皇に画数を足して 出来上がった日本て作られた漢語てあったとする説などがある。 天武の継承した王位・王権が、天智を介して斉明女帝から引き継いだものてあったこ と、そして、その斉明が飛鳥Ⅱ倭京の建設・完成を通じて、その王位と王権とを道教的な 世界観て説明し権威づけようとしていたことなどから考えるならば、現在のところ、図説 を支持するのが最も妥当かと思われる。 ′」、っそ、つ 六七四年、それは天武が即位して二年目のことてあるが、唐の第三代皇帝、高宗は従来 ナ一、れは ~ のノ、↓ の皇帝に代えて天皇の称号を採用、同時に皇后を天后と称することにしご。 て高宗一代限りの個人的な称号てあり、厳密な意味ぞの君主号とはいえない。李姓を称す まっえい る唐の帝室は、道教の開祖とされる老子の末裔をもって自認しており、そのために唐の歴 271 飛鳥をめぐる攻防ーーー天武天皇の死闘