孫のみによる王位継承を確約したものではなかったといえよう。 そして今ひとつは、それと密接に関連するのだが、この盟約に天武の皇子たちだけでなく、 天智天皇の皇子も参加しているという事実である。壬申の乱が天智系と天武系の血の対立か ら生じたとすれば、これは考えがたいことではないだろうか。通説的な立場から見れば、壬 申の乱後の天武朝においては、天智系の皇子など王位継承から完全に疎外されて当然なのに、 かわしまし」 「吉野盟約ーを通じ、河嶋・芝基の両皇子は、もちろん第一位・第二位ではないが王位継承 資格をきちんとみとめられている。 それでも天智系からはかれら二人だけではないかという反論が予想されそうである。だが 天武系からでさえ、わずか四皇子だけなのである。天智系・天武系を通じて、かれら六皇子 がえらばれ、ここで一定の序列をあたえられたのは、あくまでもかれらが六七九年五月の時 点で、大王として即位するのにふさわしい成人年齢に達していたからだった。成年に達して いない皇子は、天智系であろうと天武系であろうと、等しくこの盟約に参加できなかったの である。「吉野盟約」段階の王位継承が血統を最優先条件としたものではなかったことが窺 えみ ( 拙稿「『吉野盟約』の史的意義」『古代王権と大化改新』所収、雄山閣出版、一九九九年 ) 。 皇族を維持するク婚姻第
というのである。 そうなると、現在の斑鳩町・大和郡山市額田部一帯をも含んだ地域の墳墓群、たとえば斑 きたかつらぎ かわらづか 鳩の瓦塚古墳群や北葛城郡河合町の川合大塚山古墳群などが、五世紀代の平群氏の造営に なる古墳として注目されてくることになる。 しかし、旧平群郡内に散在する五世紀築造の古墳が、ただちに『日本書紀』『古事記』の 伝える平群氏専横の史実性を保証することには決してならない。『日本書紀』『古事記』の記 載をフィルターにして遺跡や遺物を解釈することは差し控えねばならないし、何よりも、考 古学研究の成果が、初めから『日本書紀』『古事記』の叙述の確かさを保証することにのみ 奉仕するようであってはならないであろう。 いうまでもなく、五世紀代の平群郡内の古墳群の築成は、後に平群臣という父系出自集 史 興団Ⅱ「氏」を形成していくことになる部族・氏族の政治的営為として、『日本書紀』『古事記』 族の叙述からは一歩も数歩も離れ、別個に再構成していくべき事柄であろう。 名 有律令貴族・官人の歴史認識 章 以上見てきたとおり、『日本書紀』『古事記』の描く平群氏の専横とそれに伴う没落の物語 ルは、五世紀代の史実を議論するための素材たりえないことは明白なのであるが、ここでは、 い・刀る・刀 211
官馬は届けられなかった。 かれら父子は、ヤマトの大王に取って代わる所存なのだ。しだいに醒めていく頭脳で、ワ カサザキはそう考えていた。かれらを誅滅するのにこれほど明央な理由があろうか。彼の脚 おおとものかなむらのおおむらじ は、ヤマト政権の軍事を掌る大伴金村大連の宅に向かっていた。 ならやま その夜、金村率いる数千の精兵が闇をひき裂いて走り抜けた。鮪は乃楽山でなす術もなく 殺され、影媛もそのあとを追った。 殺戮はさらに続く。大臣真鳥の邸が軍隊に包囲された。大王位を覬覦した「賊」の烙印を おされた真鳥に、すでに勝ち目はなかった。攻囲軍の放った猛炎の中、真鳥は大王家を呪詛 しながら斬殺された。 こうしてワカサザキは、亡父オケ大王 ( 仁賢天皇 ) のあとを継ぎ大王位に即いた。 だが、その治世は長続きしない。即位後八年、後嗣のないまま彼は死ぬ。治世中、この大 王は酷刑をもって人民に臨み、またあらゆる残虐行為の限りを尽くした。 おうじん 彼の死により、ホムタワケ大王 ( 応神天皇 ) に始まる王統は断絶の危機を迎える。そこで、 ↓いたい 近江から出現したヲホドが、大伴金村らによって大王に擁立されることになる。継体天皇で ある。ワカサザキの姉のタシラカが、新大王の妃となった。 208
吉野にあった大海人は、庚午年籍を用い独自に民衆から徴兵することが困難だったから、 クニノミコトモチを文字どおりへッドハンティングする作戦を採らざるをえなかったのであ る。 将軍を使いわけるク巧妙な戦略み 七月二日。『日本書紀』によると、大海人皇子は不破を拠点についに攻勢に打って出たと きのあへまろ おおのはむち いう。紀阿閉麻呂・多品治らの率いる数万という単位の大軍を大伴吹負が占領した倭古京の ふみのねまろ 増援に向かわせたのである。他方、村国男依・書根麻呂の率いるやはり数万という大軍によ って大友皇子の本拠、大津宮を直撃させようとした。 先に見たように、東国に対する募兵に着手したのは六月二十六日のことだったから、それ からわずか五日後のこの日までに東国から徴発された兵力のすべてが不破に到着していたと 勃は考えられない。倭古京・大津宮両方面に向かった大海人軍は、その日までに到着していた の東国の兵力だけでとりあえず進発したのであろう。とくに大津宮に向かった大海人軍の動き 壬が異様にゆっくりとしていたのは、ひとつには、後続の東国兵の到着を待ちながら進軍した 章ためと考えられる。 第 さて、倭古京・大津宮に派遣された軍隊を率いた将軍の顔ぶれを見ると、興味ぶかいこと
けた。それと前後して、東漢直の陣中にあった蘇我氏同族の高向国押が、古人大兄の動向に ふれて蝦夷を支援して戦うことの無益を主張、かねてからの申し合わせのとおり、自ら武装 を解きクーデター派に投降した。これを皮切りに東漢直の戦陣は瓦解、蝦夷を裏切りクーデ ター派への投降が相次いだ。 六月十二日の遅くか、あるいは翌十三日の早い段階に、古人大兄は大市宮から飛鳥寺に姿 をあらわし、そこでクーデター派が見守るなか、出家した。古人大兄は自らの王位継承資格 を放棄するとともに、蝦夷と共同戦線を組み、クーデター派と対決する機会を永遠に見送り 去ったのである。 古人大兄の出家を知った蝦夷は、十三日のうちに一族もろとも自決、ここに蘇我本宗家は 滅亡した。翌十四日早朝、クーデター派の所期の予定どおり、皇極女帝が譲位を表明、クー デター派の領袖、軽皇子の即位礼が行われた。 根底から否定された蘇我氏 以上のとおりであるが、こうして再構成されたクーデターの展開過程から、蘇我氏が滅ほ された理由と、それを通し、蘇我氏の特質がうかび上がってくるであろう。 蘇我氏は、皇極女帝から孝徳天皇への我が国最初の生前譲位という、まったく新しい王位
る。 この歌物語は、そもそもは平群山で行われた歌垣から発生したものと考えられている。そ あまぞく して、平群氏固有の伝承であるこの物語に、「鮪 . や「潮瀬の波折」などの海人族に関係の 深い詞章が含まれているのは、歌物語を構成したこれら個々の歌が、本来、海人たちのあい だで歌われた恋歌の一種であって、平群山での山遊び ( 薬猟 ) に奉仕した平群氏が、薬猟で なます の獲物を鱠につくるために必要とした塩を海人たちから入手したという関係にもとづき、こ れら恋歌群を自氏の伝承に摂取した結果であると説明されている。 さらに、五世紀代における平群氏専横の史実性を疑わしめる材料に、平群氏の本貫と考え られる矢田丘陵と信貴・生駒山脈とにはさまれた狭小な平群谷に営まれた古墳群の存在があ うどづか る。ここでの古墳築造が本格化するのは、烏土塚古墳・ツポリ山古墳・西宮古墳など、六世 おくつき 紀に入ってからである。平群谷を平群氏の本拠、あるいは神聖なる墓域Ⅱ「奥津城」と考え る限り、五世紀代の平群氏の繁栄Ⅱ専権を示すに足る考古学資料は見当たらないことになる のである。 だが、この見解に対しては、次のような反論が提起されている。すなわち、平群氏の支配 地域を狭小な平群盆地だけに限定して理解するのは疑問であって、その勢力は、律令制下の さかと あくなみ 平群郡内 ( 那珂・飽波・平群・夜摩・坂門・額田の諸郷 ) に拡がって存在したと見るべきである ぬかた 210
第五章古代史の「通説」を疑う 図 11 天皇家略系図 群臣たちの承認が必要だった。したがって権力関係や血縁関係に左右されやすいこのような 手続きがあったために、必ずしも原則どおりには行われなかったと述べている。 江上氏が比較の対象とした大王の王位継承とは、『古事記』「日本書紀』が述べる五世紀以 降の天皇位の継承をそっくりそのまま歴史的事実とみとめた上で導き出されたものである。 おうじん にんと ~ 、 『古事記』「日本書紀』によれば、応神天皇のつぎはその子仁徳、ついで仁徳の子たち ( 履 いん一よ、つ ちゅうはんぜい 中・反正・允恭 ) 、そして允恭 あんこ、つゆ、つりやく 稚野毛二派皇子ー意富々等王 の子である安康、雄略という ・乎非王・ : = ・彦主人王・・・ = = 継体よ、つに、たしかに応神天皇の 男系子孫の範囲内で兄弟継承 4 を基本としながら、天皇位が 住徳〔讃 ? 〕中〔讃 ? 〕ーー市辺押羽皇子仁賢ー武烈 っ ) つ」 継承されたように描かれてい 反正〔珍〕 顕宗 ふれつ る。武烈の後に即位した俶 恭〔済〕木梨軽皇子〔興 ? 〕 つな も、『古事記』『日本書紀』で 安康〔基 2 つ」 2 は詳細は不明ながら、応神天 雄略武ーー清寧 皇の五世孫ということになっ 註・数字は天皇の代数を示す。ている。 神 CD ( 0 181
た駒のひとつにすぎなかった。馬子は王位継承資格をもっ諸皇子 ( 欽明の子あるいは孫の世代 ) をこれ見よがしに多数動員することで守屋討滅軍に威厳をあたえ、戦う前から守屋に政治的 敗北を思い知らせようとしたのである。 守屋討滅の理由が用明の発病や死去と関係があると思われることは、用明の葬礼が終了し たのが守屋滅亡と同じ七月だったことからも明らかだろう。『日本書紀』によれば、七月一一 いわれのいけのへのみささぎ 十一日に用明は磐余池辺陵に埋葬されたとあり、用明の葬礼は七月になって終了したこと になる。 守屋討滅軍の進攻開始が七月の何日だったかは不明だが、それが用明の葬礼終了の直前だ ったとすれば、後世風にいうと、「用明の墓前に仇敵守屋の首級を供える」という意識にも とづく行動だったのであろう。他方、用明の葬礼が終了した直後に進撃が開始されたとする ならば、用明の葬礼終了を機に一気に討滅断行に踏み切ったということになろう。 しなが 用明の陵墓は磐余に営まれたが、後に河内の磯長陵に改葬される。この点を重視すると、 磯長が守屋の本拠地や主戦場に近接していたことからいって、用明の葬礼は守屋討滅の前に ひとまずは完了していたことになる。 ところで、この前後の大王について室と陵墓ゞ た場所を調べてみると 墓とに同一地域に営まれた例は、この用明 ? 崇峻例しか確認できない。いうまで 174
のである。 孝徳没後、中大兄皇子や有間皇子といった次期大王候補者がいたが、中大兄が直ちに即位 できるほど、彼を次期大王として支持する豪族の数はなお絶対多数になってはいなかったの であろう。ここで、王位継承問題を一時保留状態にし、無用な混乱を回避するため、前大王 宝皇女の再登板となったわけである。宝皇女、時に齢六十一一だった。 政治的に意図された浪費 あめのしたをしろしめすおおきみ のちの 再び治天下大王となった宝皇女は、ます、大王としての支配の拠点となる宮殿、後 あすかおかもとのみや たむのみね 飛鳥岡本宮を造営した。また、この宮の東にあった丘陵 ( 田身嶺 ) に石垣を積み上げ、その ふたっきのみや 山頂部に天宮あるいは両槻宮とよばれる高殿を建造したのである。この石垣を造るにあたっ かぐやま いそのかみやま みぞ ては、香久山の西から石上山まで渠 ( 運河 ) を掘削し、これを使って舟一一百艘によって石上 『日本 山の石を田身嶺まで運ばせたという。さらに吉野宮も造営した。「興事を好む」 書紀』の付した有名なコメントは、宝皇女の真意を測りかねている、上うである。 これら造営・土木工事を宝皇女の女性ゆえの独断・恣意るい奢侈にるものと考える のは大いに疑問である。これまでは、女帝一般は所詮中継ぎ」にす、オいという偏見も手 伝って、老齢の大王宝皇女は彼女の欲望の赴くままに、民衆を使役して贅沢極まりない建造 138
いちばん熱い夏に起きたこの内戦こそ、壬申の乱である。 壬申の乱が、いわゆる王位継承問題をめぐって起こった内乱であることは、今更第うまで もない。通説はこのようにいう。内乱の背景にあったのは、王位の兄弟継承という従来の原 則にしたがい、天智の弟大海人の即位を支持する勢力と、それに反対し、天智の子大友をい ただいて王位の父子継承を実現しようとする勢力との意見対立だった、と。 そうだとするなら、たしかに壬申の乱は、大海人の系統 ( 天武系 ) と大友の系統 ( 天智系 ) という相異なる血統間の、それぞれ自己の存立を賭けた戦争だったということになる。 しかし壬申の乱の背景に、天智系と天武系の間の血の対立、いってみれば「天智王朝」と 「天武王朝」間の確執・抗争を想定するのは、はたして妥当なことであろうか。後述すると おり、それはあくまで、当時の王位継承が血統的条件をそれこそ最優先に行われていたとい 謎 う前提がみとめられた上での話ではないかと思われる。 の 発 たとえば、天智と天武は実の兄弟ではなかった、とする説がある。それが事実だとすれば、 勃 乱 たしかに天智系と天武系間の王位をめぐる対立は深刻なものとなろう。だが「天智・天武非 の 壬兄弟説」は、十分な史料的根拠をもつものとはみとめられない。 また、大海人がみずからを漢の高柤 ( 劉邦 ) に擬し、赤衣・赤旗を自軍の目印とした事実 章 第から、「天智王朝」対、「天武王朝」という図式が強調されたりする。だが、すでに異なる血 じんしん