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検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
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1. 日本書紀はなにを隠してきたか

( 保管されていた ) のであり、船恵尺の属する船氏が文筆を職務とする渡来系の氏族であった ことから考えれば、恵尺が蝦夷邸に居合わせたのは、この時に蝦夷邸で天皇記・国記の編纂 が行われており、彼もその事業に参加していたからであろう。 この記述から、皇極朝のこの時期に天皇記・国記の編纂が行われていたことをみとめるこ とができよう。それが大臣の職位にあった蝦夷邸で行われていたことから考えれば、天皇 記・国記の編纂が始まったのは、さかのほったとしても蝦夷の大臣就任時と考えられる。そ じよめい れは、推古朝末年からつぎの舒明天皇即位にかけての時期であった。蝦夷の父、蘇我馬子の 死後であって、馬子はもちろんのこと、彼よりも四年前に亡くなった聖徳太子がこの編纂事 業に参加できるはずがない。 蘇我蝦夷邸において編纂が行われ、そこに保管されていたという天皇記・国記の存在形態 疑 を は、「諸家がもたらした」 ( 諸氏族が保管・伝来した ) といういわゆる帝紀・旧辞の存在形態と 合致する。天皇記・国記とは、帝紀・旧辞とよばれる書物群の一種であり、『古事記』序文 のに見える帝皇の日継や先代の旧辞、勅語の旧辞といったものと同様の具体的な書名だったの 代ではないかと考えられる。帝紀・旧辞の一種である天皇記・国記が、舒明・皇極朝に編纂さ 章れており、その内容や構想が『古事記』に引き継がれていると見なすならば、『古事記』の 第叙述が推古朝で終わ 0 ており、しかも、推古天皇の山陵にまで言及していることと符合する。

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

記・国記を編修した事実があったとはいえないと思われる。 なぜならば、まず、これが編纂の着手を示すのか、あるいは編纂の終了を示すのか、判然 としない上に、聖徳太子の事業と伝えられるもののなかで、天皇記・国記編纂の占めるウェ イトが極めて低いからである。太子の事業のなかで、歴史書編纂は本来的なものではなく、 後になって付け加えられた部類に属すると考えられよう。推古一一十八年是歳条の記事は、天 皇記・国記に関する総括的・回顧的な記述であって、これをもって、このような書物の編纂 がこの時期に実際に行われたとはいえないと思われる。 こ、つぎよく 天皇記・国記の確実な所見としては、つぎの『日本書紀』の皇極四年 ( 六四五 ) 六月己酉 条が注目される。 えみし 蘇我蝦夷は誅殺されるに臨んで、天皇記・国記や珍宝の類いを悉く焼いた。轣史恵尺 なかのおおえのみこ はその時素早く、焼かれようとしていた国記を取り出して中大兄皇子に献上した。 乙巳の変 ( 蘇我本宗家滅亡 ) のおりに、船恵尺という人物が蘇我蝦夷の邸宅から天皇記・国 記のうち国記を持ち出したという内容である。これは事件の実録的な叙述であって、先の推 古二十八年是歳条とは大いに異なる。天皇記・国記という書物は、この時蝦夷邸にあった きゅう 202

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

けんぞう 上で、『古事記』の叙述において、氏族の神話・伝承の類いが顕宗天皇の時代で終わってい ることに着目し、帝紀・旧辞が最初にまとめられたのは、顕宗朝からあまり隔たってはいな いが、その時代の記憶がかなり薄らいできた頃と考え、六世紀の中頃、欽明朝前後という推 定を導き出したのである。 この津田説は、戦後の古代史研究によって基本的に支持され、なおかっ補強が加えられた。 きんめい すなわち、 , ハ世紀の前半から半ば、継体天皇から欽明天皇の時代にかけて皇位継承をめぐる 紛争・混乱 ( 継体・欽明朝の内乱といわれることがある ) があり、それを乗り越えた欽明朝にお いて、王統譜の確立を軸に歴史書の編纂が行われる気運ないしは必然性がみとめられるとい うのである。欽明朝こそ、帝紀・旧辞のような書物が作られるにふさわしい時代だったとい 、つことになった。 疑 しかし、注意すべきなのは、津田は、彼が想定した旧辞の内容から導き出したその成立時 を 説期から、帝紀・旧辞全体の成立年代を推定していることである。津田は旧辞の成立時期しか 可論じていないはずなのに、その結論が帝紀・旧辞両方に適用されている。しかも、旧辞の成 史 立年代に関する津田の推論は極めて主観的である。顕宗朝が遠い過去ではないにしても、人 びとの関心や記憶から薄らぎつつある時代が、どうして欽明朝前後だったといえるのか、そ 章 第の根拠は何ひとっ示されていない。 199

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

総括的な呼称、つまり、歴史書とか古代史に関する本といったような普通名詞、一般名詞で あり、それに対して帝皇の日継や先代の旧辞、勅語の旧辞というのは、それこそ『日本古典 の研究』とか『日本古代国家の研究』といった具体的な書名、固有名詞なのである、と。 『古事記』序文を読んで、もう一点、注意を引くのは、『古事記』という書物が、帝紀・旧 辞と総称・概括される書物のうち、旧辞のみをもとにして書かれたということである。これ は、現存する『古事記』の内容から考える限り、帝紀が歴代大王の系譜、旧辞が諸氏族の伝 えた神話や伝承の類いといった単純な分類が成り立たないことを示している。それは、神 話・伝承の集成とされる旧辞のみをもとにしたはずの『古事記』が、明らかに大王とその一 族の系譜をふくんでいるからである。 津田説の崩壊 さて、帝紀・旧辞と総称・概括される書物がいっ頃作られたかに関しては、津田左右吉の 学説 ( 『日本古典の研究』上下、岩波書店、一九四六年・五〇年、『津田左右吉全集』第一・第二巻、 岩波書店、一九六三年に収録 ) が今日の定説になっている。 津田は、帝紀とは、神代の神々の系譜や歴代天皇の系譜、皇位継承の次第を記したもので、 他方、旧辞とは、神代の物語をはじめとした上代のことと伝えられている物語であるとした 198

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

年は二十八であった。人柄は聡明で、ひとたび目に触れればロで読み伝え、耳に一度聞 けば、いにとどめ忘れることがなかった。そこで阿礼に仰せられて、帝皇の日継と先代の よ 旧辞とを誦み習わせられた。しかし、時世が移り変わって、撰録をお果たしなさるには 至らなかった。 : ここにおいて、今上陛下 ( 元明天皇 ) は、旧辞の誤り違っているこ とを惜しまれ、先紀の誤り乱れていることを正そうとして、和銅四年 ( 七一一 ) 九月十 八日、臣安万侶に、「稗田阿礼の誦むところの勅語の旧辞を撰録して献上するように」 と仰せられたので、謹んで仰せのままに撰録を行うことになった。 これを読むと、帝紀・旧辞以外に、先紀や帝皇の日継、本辞や先代の旧辞、勅語の旧辞と いったさまざまな書名が見える。これらは、よく知られた帝紀・旧辞という書名をさまざま 疑 を に言い換えたものにすぎないという考えもある。 説 だが、帝紀・旧辞、あるいは先紀・本辞などが、そのような書物の一般的な存在形態につ 通 の いて述べている文脈にあらわれ、他方、帝皇の日継や先代の旧辞、勅語の旧辞などが、それ 史 代ら書物に関する具体的な命令を述べた文脈に登場するという違いから考えるならば、つぎの 章よ、つにい、んる。 第帝紀・旧辞、または先紀・本辞というのは、同様の主題と内容をもっ書物群を呼ぶさいの 197

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

第五章古代史の「通説」を疑う 首長の霊魂祭祀の空間であると同時に、王・首長の地位と権力の継承儀礼を執り行う政治的 空間でもあった。そうなると、古墳時代の準備段階にのみ存在した卑弥呼職が奉仕した「鬼 道」とは、今までいわれてきたようなたんなる農耕祭祀や、あるいは最近盛んに提唱されて いる道教などの外来宗教などではなく、それは弥生墳丘墓や古墳における王・首長位の継承 儀礼や祭祀との関連で、今後は追究していくべきではないかと提言して、小論の結びに代え たいと思、つ。 195

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

就任した台与が、事実上最後の卑弥呼となったのである。 どうしてそのようにいえるかといえば、この新しい倭国の統合のシンポルとして、それま で西日本で造営されていた前方後円形の墳丘墓と、東海・中部地方で造られていた前方後方 形の墳丘墓とが合体され、新たに前方後円墳をはじめとする超大型の墳丘墓 ( 古墳 ) とその 祭儀が創造されたからである。卑弥呼職はかって、前方後円形の墳丘墓とセットで創造され たものであったから、前方後円形の墳丘墓が前方後円墳などの古墳に発展的に解消した以上、 卑弥呼職も元の姿のままで存続することはもはや困難であったに違いない。 卑弥呼の「鬼道」と古墳祭祀 要するに卑弥呼職とは、第一次倭国大乱と第一一次倭国大乱のはざまにのみ存在し、その間 の倭国王の政治的支配を宗教的に支えた、この時期固有の地位・身分であったということで ある。第一次倭国大乱と第一一次倭国大乱のあいだという時期は、考古学的にいえば、西日本 で前方後円形の墳丘墓を営み、それに対し東日本では前方後方形の墳丘墓が造られていた時 期であり、いわば、そのつぎにやって来る前方後円墳の時代、いわゆる古墳時代の準備段階 に相当する。 前方後円形の墳丘墓のような弥生墳丘墓やその流れをくむ前方後円墳などの古墳は、王や 194

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

いうから、彼女の実弟である倭国王とは邪馬台国王であったと考えてよいであろう。 卑弥呼職は、二世紀後半に起きた最初の倭国大乱の後に、統一が成った西日本一帯を支配 する倭国王の地位を宗教的に支えるために創出された。それは、かって倭国王の地位と権力 を支えていた後漢王朝が滅び、その後、魏・呉・蜀の三国鼎立時代に突入し、後漢に代わる 統一権力が中国に存在しない以上、倭国王の地位と権力を列島内部の独自のシステムによっ て維持・強化する必要から生み出されたのであった。 どうたくどう 倭国王を頂点とする西日本一帯の首長層は、結集のシンボルとして、それまでの銅鐸や銅 矛など青銅製の祭器を棄て、前方後円形の墳丘墓 ( 弥生墳丘墓とよぶ ) を造るようになった。 卑弥呼職とこの前方後円形の墳丘墓とは、第一次倭国大乱後に、いわばセットで生み出され た事情からいって、相互に関連するものであったと考えられる。すなわち、卑弥呼職が従事 をした「鬼道」という祭儀と、前方後円形の墳丘墓で行われた祭儀とのあいだには、重要な接 説点が想定されるということである。 の 史卑弥呼職の消減 古 章そして、三世紀半ば頃の第一一次倭国大乱の後、西日本に加えて東海・中部地方が新たに倭 第国王の統合に加わるようになると、卑弥呼職はその姿を消したようである。一一代目卑弥呼に 193

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

下ったとしても、シャーマンとしての王・首長の支配領域は極めて狭小なものであった。 「魏志』倭人伝が描く三世紀の日本列島はすでに階級社会に入っており、そのような複雑な 社会を統治する王や首長自身がなおシャーマンをつとめていたというのは、考えがたいこと である。少なくとも、『魏志』倭人伝に描かれた卑弥呼は、彼女を縛っている種々の規制や 禁忌の在りかたから考えて、倭国の行政に関与することはほとんど不可能であり、彼女は倭 国王の傍らにあって、あくまでも「鬼道」とよばれる祭儀にのみ奉仕する巫女だったと見な ければならない。 それにもかかわらず、卑弥呼職にあった女性が女王とされたのは、『魏志』倭人伝を書い た中国人のもつ中華思想と男尊女卑思想 ( とくに女性の政治参加を忌避する思想 ) ゆえの誤解 と偏見にもとづくという方向で十分に解釈が可能なのではないかと思われる。 倭国大乱と卑弥呼職 「魏志』倭人伝は、卑弥呼職に就任した女性には弟がいて、彼が一般政務を執っていたと記 すから、彼こそが真の倭国王だったのではないか。すると、卑弥呼職というのは、倭国王の 近親女性でシャーマンとしての資質に卓越した者が就任し、倭国王のために奉仕する地位・ 身分であったということになる。卑弥呼職の奉仕空間 ( 彼女の宮殿 ) は邪馬台国にあったと 192

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

されたといわれている。要するに、卑弥呼は巫女王だというわけである。古代には、男性と 女性、二人の王や首長がいて、それぞれ役割を分担するシステムがあったという考えがある。 ヒメ・ヒコ制という考えで、宗教や祭祀を受け持っ女性の王・首長Ⅱヒメと、一般の政務や 軍事を分担した男性の王・首長Ⅱヒコとが並び立って権力が構成されていたというのである。 「魏志』倭人伝に見える卑弥呼こそ、このヒメ・ヒコ制のヒメの典型であるといわれること か多かった。 だが、古代の文献史料の上でも、また考古学の研究成果からも、宗教や祭祀のみを分掌す る女性の最高首長の姿を確認することはできない。明らかに巫女にして最高首長といえるの じん《、、つ は、架空の人物であるが、神功皇后ひとりだけである。卑弥呼職に就任した女性は、「魏志』 倭人伝によれば、就任以来、人前に姿をあらわすことはなく、また、配偶者もなく、外部と をの交渉を極端に制限されるなど、種々の規制や禁忌に縛られた大変不自由な生活を強制され 説 ていた。それはひとえに、彼女の宗教的な能力の保持・増強のためであり、卑弥呼職に就任 通 のした女性は明らかにシャーマンであったといえよう。 だっこん 代 ところで、シャーマンとは厳密には、憑依・脱魂といった精神状態になって神霊の声や意 古 章志を伝える能力の持ち主のことをいう。歴史上、王や首長自身が、このようなシャーマンを 第っとめた時期もあるにはあったが、それはかなり古い時代のことであり、あるいは、時代が 191