の歴史学界ー回顧と展望」では、書名すら取り上げられなかった。 わたくしの問題提起の仕方も、唐突で問題があったと反省はしているのだが、他方、『魏 志』倭人伝によって、いつの日か邪馬台国の所在地は突き止められるのであり、卑弥呼は何 といおうとも女王でなければならないのだ、といった思い込みの壁の厚さを思い知らされた というのが正直な感想である。今回は、拙著で述べた私見を摘記し、拙著刊行後に考えたこ となども加え、改めて大方の御批判を仰ぎたいと思う。 卑弥呼は邪馬台国の女王ではない 一般に卑弥呼とは、邪馬台国の女王の名前であり、彼女は一一世紀後半に起きた倭国大乱を 鎮めるために、その巫女 ( シャーマン ) としての能力が着目され女王に擁立されたのだ、と 見なされている。しかし、『魏志』倭人伝によるならば、卑弥呼とは邪馬台国の女王ではな く、邪馬台国をはじめとした数十の国々より構成された倭国の女王、ということになってい 卑弥呼が君臨した倭国とは、二世紀後半の倭国大乱 ( 第一次 ) の後に形成されたものであ り、大乱以前の倭国は、北部九州とその周辺を基盤とするものにすぎず、それは一一世紀の初 頭 ( 一〇七年 ) 、当時中国を支配していた後漢王朝の承認のもとに成立した ( 倭国王・帥升らに 188
よる遣使 ) 。倭国というのは、中国の皇帝から認知された日本列島内部の独立政権のことであ り、その所在地や支配領域は時期によって異なった。 第一次倭国大乱後に、倭国は西日本全体を基盤とするものに拡大・発展したと考えられる が、『魏志』倭人伝は、卑弥呼をこの倭国を統治した女王と位置づけているわけである。 卑弥呼は女王の名前ではない つぎに、卑弥呼というのは女王の個人名で、卑弥呼は個人名が分かる日本最初の女性であ ると考えられているが、これも誤りである。卑弥呼をどのように発音したかは明らかではな いか、ヒミコ、あるいはヒメコといった国語を漢字で表記したものといえよ、つ。ヒミコなら ば、ヒとよばれる特殊な霊力をもった貴人、ヒメコならば、そのような力をそなえた高貴な を女生ということになる。後世の語でいうならば、ヒメミコ ( 皇女・女王 ) に相当することば 説なのである。 のそのような意味・内容のことばを個人名にしたとは、まず考えられない。卑弥呼というの 代は個人を識別する記号 ( 個人名 ) ではなく、特定の女性が就任する地位や身分の呼称と考え 章るのが妥当であろう。これを卑弥呼職とよんでおきたい。そうなると、残念ながら、いわゆ 第る卑弥呼 ( 今まで卑弥呼とよばれてきた女性 ) 、すなわち初代卑弥呼職に就任した女性の名前は 2
が国は未曾有の激動にのみこまれていく。大王宝皇女は、唐・新羅の前に滅亡した百済の要 請をうけ、百済再興のための大規模な出兵を決断するのである。 これは、倭済両国の数世紀にわたる外交関係が前提にあるが、実は、百済に軍事的援助を あたえ、復興なった百済を倭国の従属下に組み入れてしまおうという野望に満ちた企てであ った。それは、六六一年に大王宝皇女が急逝後、その後を襲った中大兄皇子が百済の遺臣た よほ、つよま・つしよ、つよ、つ一 ちの求めに応じ、人質として倭国にあった百済王子の余豊 ( 余璋、翹岐、糺とも ) を本国 おりもののこうぶり に送還したさい、中大兄が余豊に「織冠ーを授けていることから明らかである。 「織冠」とは、当時倭国内部で施行されていた冠位十九階の最高位には違いないけれども、 冠位はあくまでも大王の臣下の標識であるから、倭国は新百済王となる余豊を倭国王の臣下 に位置づけようと目論んでいたことになる。これは、中国の皇帝が外国の王に対して行った 当 ) 、は、つ 冊封という政治的行為と同質のものである。 大王宝皇女は、蝦夷・粛慎と同様に、百済も倭国に従属し、朝貢する異民族の国家にしょ うとして、百済救援を名目とする無謀ともいえる戦争にふみ切ったのであった。 空しいものとなったク華々しい仕掛けみ 宝皇女は大王としてこの海外派兵の陣頭に立とうとした。そして、自ら大軍を率い筑紫ま 148
麗滅亡後は、新羅との戦争に備えて倭国に厳正中立をもとめるか、あるいは倭国から積極的 に軍事援助を引き出すか、いずれかだったに相違ない。 その敗因が自軍の戦力や物 倭国水軍はたしかに、錦江河口における海戦に敗れはしたが、 量の決定的な不足・欠乏にあったならば、このような強硬な態度には出られなかったと考え られる。そのように考えてくると、戦後各地に建設された防衛施設が倭国にとって受け身一 辺倒のものだったと見なす通説にも再考が必要となろう。また、六七〇年に作成された「庚 ごねんじゃく 午年籍」は、全国統一基準による我が国最初の戸籍であり、兵士徴発の基礎データを収集・ 確保するねらいもあったといわれている。これによって徴発された兵士が、たんに列島の防 衛のみに充てられる性質のものだったといい切れるであろうか。 さらに広く白村江戦後という時代を見渡すならば、この時期、倭国は「日本」という新し をい国号とともに「天皇」という新たな君主号の採用にふみ切っている。国号「日本」は、か ひいずるところ 説 っての「日出処」すなわち中国から見て東方という呼称とは決定的に異なり、昇りきった太 通 の陽の真下にある国、すなわち世界の中心に位置する国という意味の大それた国号である。大 代王に取って代わった「天皇」の称号も、唐の高宗が一時期使用したものであって、ある意味 章において唐と対等の国家であることを表現しようとした大胆不敵な君主号にほかならなかっ 第た。総じてこれらは、手痛い敗戦を味わった国が国号や君主号としてえらぶような代物では
不詳なのであり、それに対して一一代目卑弥呼の名前は、なぜか『魏志』倭人伝に採録されて おり、それは台与 ( 壱与とも ) といったのである。このように、中国史料が倭人の名前に関 して大きな誤解を犯すことがあることにもっと注意を向ける必要があろう。 さて、卑弥呼が地位・身分の呼称、いわば職名であることは、すでに何人かの先学が指摘 しているのであるが、いまだに学説としての市民権を得ていないのは、一体どうしたことで あろう。冒頭にも書いたように、日本人はどうしても、日本の黎明期に卑弥呼という名の女 王がいたことにしたい ( しておきたい ? ) としか思えない。そして、その卑弥呼が君臨したと いう邪馬台国の所在地を探し出すことが可能であって、それこそが日本人にのこされた最後 の最高のロマンだと信じて疑わない。 これはもう、学問とはまったく違う次元のもので ある。 卑弥呼は女王ではなかった このように見てくると、卑弥呼というのは女性が就任する特定の地位・身分の呼び名であ るとしても、それは倭国の女王の地位・身分のそれではなかったのか、それで何ら問題はな いのではあるまいか、という意見が聞こえてきそうである。だが、そうは問屋が卸さない。 一般に卑弥呼はシャーマンとしての資質にすぐれた女性であって、それゆえに女王に擁立 190
下ったとしても、シャーマンとしての王・首長の支配領域は極めて狭小なものであった。 「魏志』倭人伝が描く三世紀の日本列島はすでに階級社会に入っており、そのような複雑な 社会を統治する王や首長自身がなおシャーマンをつとめていたというのは、考えがたいこと である。少なくとも、『魏志』倭人伝に描かれた卑弥呼は、彼女を縛っている種々の規制や 禁忌の在りかたから考えて、倭国の行政に関与することはほとんど不可能であり、彼女は倭 国王の傍らにあって、あくまでも「鬼道」とよばれる祭儀にのみ奉仕する巫女だったと見な ければならない。 それにもかかわらず、卑弥呼職にあった女性が女王とされたのは、『魏志』倭人伝を書い た中国人のもつ中華思想と男尊女卑思想 ( とくに女性の政治参加を忌避する思想 ) ゆえの誤解 と偏見にもとづくという方向で十分に解釈が可能なのではないかと思われる。 倭国大乱と卑弥呼職 「魏志』倭人伝は、卑弥呼職に就任した女性には弟がいて、彼が一般政務を執っていたと記 すから、彼こそが真の倭国王だったのではないか。すると、卑弥呼職というのは、倭国王の 近親女性でシャーマンとしての資質に卓越した者が就任し、倭国王のために奉仕する地位・ 身分であったということになる。卑弥呼職の奉仕空間 ( 彼女の宮殿 ) は邪馬台国にあったと 192
いうから、彼女の実弟である倭国王とは邪馬台国王であったと考えてよいであろう。 卑弥呼職は、二世紀後半に起きた最初の倭国大乱の後に、統一が成った西日本一帯を支配 する倭国王の地位を宗教的に支えるために創出された。それは、かって倭国王の地位と権力 を支えていた後漢王朝が滅び、その後、魏・呉・蜀の三国鼎立時代に突入し、後漢に代わる 統一権力が中国に存在しない以上、倭国王の地位と権力を列島内部の独自のシステムによっ て維持・強化する必要から生み出されたのであった。 どうたくどう 倭国王を頂点とする西日本一帯の首長層は、結集のシンボルとして、それまでの銅鐸や銅 矛など青銅製の祭器を棄て、前方後円形の墳丘墓 ( 弥生墳丘墓とよぶ ) を造るようになった。 卑弥呼職とこの前方後円形の墳丘墓とは、第一次倭国大乱後に、いわばセットで生み出され た事情からいって、相互に関連するものであったと考えられる。すなわち、卑弥呼職が従事 をした「鬼道」という祭儀と、前方後円形の墳丘墓で行われた祭儀とのあいだには、重要な接 説点が想定されるということである。 の 史卑弥呼職の消減 古 章そして、三世紀半ば頃の第一一次倭国大乱の後、西日本に加えて東海・中部地方が新たに倭 第国王の統合に加わるようになると、卑弥呼職はその姿を消したようである。一一代目卑弥呼に 193
かんこくかん その規模を推し量ることはできない。中国ではもともと、関 ( 函谷関 ) の西で用いられるも€ のを「船」といい、東で使われるものを「舟」 したがって、〕水軍の「百七十に対して倭国水軍「四百 , ということになる。両 軍の軍船の規模に決定的な格カったとする証拠がし。 カたいとするならば、白村江 という戦場に結集しえた戦力という点では、倭国軍は唐軍をはるかに凌駕していたと考えら れよ、つ。 唐はもともと陸軍を主力とする国家であり、海戦は伝統的に不得手だった。他方、倭国は さいめい あへのひらふ 白村江前夜の斉明天皇の時代、阿倍比羅夫の東北遠征が「百八十艘」あるいは「二百艘」と いう大船団によって実行されたことに見られるように、海軍における「軍拡」の時代を経験 していた。倭国は総合的な国力という点では唐帝国に遠くおよばないが、こと水軍の規模と 戦力では唐を上回っていたのである。歴史上、未開・野蛮な国家や勢力のほうが、同時代に おいてすぐれた文明や制度をもつ国家よりも時に強大な軍事力を擁する事例はよく見受けら れよ、つ。 このように、倭国軍は戦力では唐軍を上回っていたにもかかわらず、どうして大敗を喫し てしまったのであろうか。手掛かりになるのは「気象」ということばではあるまいか。倭国 水軍は「気象」を見ずに敵に突撃を敢行し敗れたという。「気象ーとは一般に天候、風向き、
、 0 これから判断するならば、倭国改め日本という国家は、白村江戦後の自国がたんなる敗戦 国であると認識してはいなかったと考えられる。それは、白村江における敗因が唐に対する 単純な意味での戦力Ⅱ物量の不足・欠乏にあったのではなかったからではあるまいか。 その新しい解釈 それでは、白村江の敗因は一体何だったのか。 その前にまず、戦場の呼び名であるが、これは参戦した各国によって異なる。唐はたんに りゆ、つじんき 白江 ( 『旧唐書』劉仁軌伝 ) と称し、新羅は沙 ( 『三国史記』新羅本紀 ) とよんでいる。白 村・白村江 ( 『日本書紀』。読みはハクスキ・ハクスキノエ ) とするのは倭国のみである。このよ うに呼び名が異なるとしても、戦場が現在の錦江河口付近だったことは動かないであろう。 つぎに、唐・倭国両軍の戦力と規模についてである。『日本書紀』は唐の「戦船一百七十 艘ーが白村江に着陣したといい 、『旧唐書』劉仁軌伝は倭国軍の「舟四百艘ーを焼き払った とする。『三国史記』新羅本紀は「倭船千艘」が白沙に停泊していたと記す。 『日本書紀』が敵である唐水軍の規模にのみ言及し、自国の戦力について沈黙しているのは、 この時に倭国が擁した戦力が敗戦という厳然たる事実に照らして極めて不都合なものだった はっこ、つ 158
第五章古代史の「通説」を疑う にあずかった。同書では白村江の敗因について著者とは百八十度異なる見解が述べられている ( もちろん、著者 の見解が異端なのである ) 。だが、こと倭国水軍の戦力に関する森氏の評価は、唐・倭両国の推定される国力の 格差にもとづく一般論にすぎず、この海戦における兵力に対する独自の分析・考証を欠いている。 163