よる遣使 ) 。倭国というのは、中国の皇帝から認知された日本列島内部の独立政権のことであ り、その所在地や支配領域は時期によって異なった。 第一次倭国大乱後に、倭国は西日本全体を基盤とするものに拡大・発展したと考えられる が、『魏志』倭人伝は、卑弥呼をこの倭国を統治した女王と位置づけているわけである。 卑弥呼は女王の名前ではない つぎに、卑弥呼というのは女王の個人名で、卑弥呼は個人名が分かる日本最初の女性であ ると考えられているが、これも誤りである。卑弥呼をどのように発音したかは明らかではな いか、ヒミコ、あるいはヒメコといった国語を漢字で表記したものといえよ、つ。ヒミコなら ば、ヒとよばれる特殊な霊力をもった貴人、ヒメコならば、そのような力をそなえた高貴な を女生ということになる。後世の語でいうならば、ヒメミコ ( 皇女・女王 ) に相当することば 説なのである。 のそのような意味・内容のことばを個人名にしたとは、まず考えられない。卑弥呼というの 代は個人を識別する記号 ( 個人名 ) ではなく、特定の女性が就任する地位や身分の呼称と考え 章るのが妥当であろう。これを卑弥呼職とよんでおきたい。そうなると、残念ながら、いわゆ 第る卑弥呼 ( 今まで卑弥呼とよばれてきた女性 ) 、すなわち初代卑弥呼職に就任した女性の名前は 2
卑弥呼の実態 黒塚古墳やホケノ山古墳など、近年の相次ぐ発掘の成果により、卑弥呼の実態に関する議 論はいよいよ過熱している。そのような動向のなか、わたしは卑弥呼に関する年来の考えを 一書にまとめ、一九九九年夏、世に問うた。『卑弥呼の正体』 ( 洋泉社 ) という本である。 やまたいこく 疑 日く、『魏志』倭人伝をどんなに深く研究しようとも、そこから邪馬台国の位置が明らか を になるはずがない、なぜならば、卑弥呼は邪馬台国の女王ではなかったのだから、 のう内容の拙著は、残念ながら、邪馬台国ファン、卑弥呼フリ 1 クの方々のお気に召さなかっ 代たようで、反響らしい反響は得られなかった。学界のほうはといえば、吉田晶氏が卑弥呼に 関する最近の学説ということで紹介してくださったが ( 「新たな進展をみせる邪馬台国論」『別 章 第冊歴史読本』四十六号「日本史研究最前線」一一〇〇〇年六月 ) 、『史学雑誌』恒例の「一九九九年 卑弥呼は個人名にあらず 187
不詳なのであり、それに対して一一代目卑弥呼の名前は、なぜか『魏志』倭人伝に採録されて おり、それは台与 ( 壱与とも ) といったのである。このように、中国史料が倭人の名前に関 して大きな誤解を犯すことがあることにもっと注意を向ける必要があろう。 さて、卑弥呼が地位・身分の呼称、いわば職名であることは、すでに何人かの先学が指摘 しているのであるが、いまだに学説としての市民権を得ていないのは、一体どうしたことで あろう。冒頭にも書いたように、日本人はどうしても、日本の黎明期に卑弥呼という名の女 王がいたことにしたい ( しておきたい ? ) としか思えない。そして、その卑弥呼が君臨したと いう邪馬台国の所在地を探し出すことが可能であって、それこそが日本人にのこされた最後 の最高のロマンだと信じて疑わない。 これはもう、学問とはまったく違う次元のもので ある。 卑弥呼は女王ではなかった このように見てくると、卑弥呼というのは女性が就任する特定の地位・身分の呼び名であ るとしても、それは倭国の女王の地位・身分のそれではなかったのか、それで何ら問題はな いのではあるまいか、という意見が聞こえてきそうである。だが、そうは問屋が卸さない。 一般に卑弥呼はシャーマンとしての資質にすぐれた女性であって、それゆえに女王に擁立 190
下ったとしても、シャーマンとしての王・首長の支配領域は極めて狭小なものであった。 「魏志』倭人伝が描く三世紀の日本列島はすでに階級社会に入っており、そのような複雑な 社会を統治する王や首長自身がなおシャーマンをつとめていたというのは、考えがたいこと である。少なくとも、『魏志』倭人伝に描かれた卑弥呼は、彼女を縛っている種々の規制や 禁忌の在りかたから考えて、倭国の行政に関与することはほとんど不可能であり、彼女は倭 国王の傍らにあって、あくまでも「鬼道」とよばれる祭儀にのみ奉仕する巫女だったと見な ければならない。 それにもかかわらず、卑弥呼職にあった女性が女王とされたのは、『魏志』倭人伝を書い た中国人のもつ中華思想と男尊女卑思想 ( とくに女性の政治参加を忌避する思想 ) ゆえの誤解 と偏見にもとづくという方向で十分に解釈が可能なのではないかと思われる。 倭国大乱と卑弥呼職 「魏志』倭人伝は、卑弥呼職に就任した女性には弟がいて、彼が一般政務を執っていたと記 すから、彼こそが真の倭国王だったのではないか。すると、卑弥呼職というのは、倭国王の 近親女性でシャーマンとしての資質に卓越した者が就任し、倭国王のために奉仕する地位・ 身分であったということになる。卑弥呼職の奉仕空間 ( 彼女の宮殿 ) は邪馬台国にあったと 192
いうから、彼女の実弟である倭国王とは邪馬台国王であったと考えてよいであろう。 卑弥呼職は、二世紀後半に起きた最初の倭国大乱の後に、統一が成った西日本一帯を支配 する倭国王の地位を宗教的に支えるために創出された。それは、かって倭国王の地位と権力 を支えていた後漢王朝が滅び、その後、魏・呉・蜀の三国鼎立時代に突入し、後漢に代わる 統一権力が中国に存在しない以上、倭国王の地位と権力を列島内部の独自のシステムによっ て維持・強化する必要から生み出されたのであった。 どうたくどう 倭国王を頂点とする西日本一帯の首長層は、結集のシンボルとして、それまでの銅鐸や銅 矛など青銅製の祭器を棄て、前方後円形の墳丘墓 ( 弥生墳丘墓とよぶ ) を造るようになった。 卑弥呼職とこの前方後円形の墳丘墓とは、第一次倭国大乱後に、いわばセットで生み出され た事情からいって、相互に関連するものであったと考えられる。すなわち、卑弥呼職が従事 をした「鬼道」という祭儀と、前方後円形の墳丘墓で行われた祭儀とのあいだには、重要な接 説点が想定されるということである。 の 史卑弥呼職の消減 古 章そして、三世紀半ば頃の第一一次倭国大乱の後、西日本に加えて東海・中部地方が新たに倭 第国王の統合に加わるようになると、卑弥呼職はその姿を消したようである。一一代目卑弥呼に 193
の歴史学界ー回顧と展望」では、書名すら取り上げられなかった。 わたくしの問題提起の仕方も、唐突で問題があったと反省はしているのだが、他方、『魏 志』倭人伝によって、いつの日か邪馬台国の所在地は突き止められるのであり、卑弥呼は何 といおうとも女王でなければならないのだ、といった思い込みの壁の厚さを思い知らされた というのが正直な感想である。今回は、拙著で述べた私見を摘記し、拙著刊行後に考えたこ となども加え、改めて大方の御批判を仰ぎたいと思う。 卑弥呼は邪馬台国の女王ではない 一般に卑弥呼とは、邪馬台国の女王の名前であり、彼女は一一世紀後半に起きた倭国大乱を 鎮めるために、その巫女 ( シャーマン ) としての能力が着目され女王に擁立されたのだ、と 見なされている。しかし、『魏志』倭人伝によるならば、卑弥呼とは邪馬台国の女王ではな く、邪馬台国をはじめとした数十の国々より構成された倭国の女王、ということになってい 卑弥呼が君臨した倭国とは、二世紀後半の倭国大乱 ( 第一次 ) の後に形成されたものであ り、大乱以前の倭国は、北部九州とその周辺を基盤とするものにすぎず、それは一一世紀の初 頭 ( 一〇七年 ) 、当時中国を支配していた後漢王朝の承認のもとに成立した ( 倭国王・帥升らに 188
就任した台与が、事実上最後の卑弥呼となったのである。 どうしてそのようにいえるかといえば、この新しい倭国の統合のシンポルとして、それま で西日本で造営されていた前方後円形の墳丘墓と、東海・中部地方で造られていた前方後方 形の墳丘墓とが合体され、新たに前方後円墳をはじめとする超大型の墳丘墓 ( 古墳 ) とその 祭儀が創造されたからである。卑弥呼職はかって、前方後円形の墳丘墓とセットで創造され たものであったから、前方後円形の墳丘墓が前方後円墳などの古墳に発展的に解消した以上、 卑弥呼職も元の姿のままで存続することはもはや困難であったに違いない。 卑弥呼の「鬼道」と古墳祭祀 要するに卑弥呼職とは、第一次倭国大乱と第一一次倭国大乱のはざまにのみ存在し、その間 の倭国王の政治的支配を宗教的に支えた、この時期固有の地位・身分であったということで ある。第一次倭国大乱と第一一次倭国大乱のあいだという時期は、考古学的にいえば、西日本 で前方後円形の墳丘墓を営み、それに対し東日本では前方後方形の墳丘墓が造られていた時 期であり、いわば、そのつぎにやって来る前方後円墳の時代、いわゆる古墳時代の準備段階 に相当する。 前方後円形の墳丘墓のような弥生墳丘墓やその流れをくむ前方後円墳などの古墳は、王や 194
されたといわれている。要するに、卑弥呼は巫女王だというわけである。古代には、男性と 女性、二人の王や首長がいて、それぞれ役割を分担するシステムがあったという考えがある。 ヒメ・ヒコ制という考えで、宗教や祭祀を受け持っ女性の王・首長Ⅱヒメと、一般の政務や 軍事を分担した男性の王・首長Ⅱヒコとが並び立って権力が構成されていたというのである。 「魏志』倭人伝に見える卑弥呼こそ、このヒメ・ヒコ制のヒメの典型であるといわれること か多かった。 だが、古代の文献史料の上でも、また考古学の研究成果からも、宗教や祭祀のみを分掌す る女性の最高首長の姿を確認することはできない。明らかに巫女にして最高首長といえるの じん《、、つ は、架空の人物であるが、神功皇后ひとりだけである。卑弥呼職に就任した女性は、「魏志』 倭人伝によれば、就任以来、人前に姿をあらわすことはなく、また、配偶者もなく、外部と をの交渉を極端に制限されるなど、種々の規制や禁忌に縛られた大変不自由な生活を強制され 説 ていた。それはひとえに、彼女の宗教的な能力の保持・増強のためであり、卑弥呼職に就任 通 のした女性は明らかにシャーマンであったといえよう。 だっこん 代 ところで、シャーマンとは厳密には、憑依・脱魂といった精神状態になって神霊の声や意 古 章志を伝える能力の持ち主のことをいう。歴史上、王や首長自身が、このようなシャーマンを 第っとめた時期もあるにはあったが、それはかなり古い時代のことであり、あるいは、時代が 191
第五章古代史の「通説」を疑う 首長の霊魂祭祀の空間であると同時に、王・首長の地位と権力の継承儀礼を執り行う政治的 空間でもあった。そうなると、古墳時代の準備段階にのみ存在した卑弥呼職が奉仕した「鬼 道」とは、今までいわれてきたようなたんなる農耕祭祀や、あるいは最近盛んに提唱されて いる道教などの外来宗教などではなく、それは弥生墳丘墓や古墳における王・首長位の継承 儀礼や祭祀との関連で、今後は追究していくべきではないかと提言して、小論の結びに代え たいと思、つ。 195
壬申の乱は天智系天武系の戦争ではない ク古代天皇制 4 誕生を見据えた大海人皇子の戦略 第四章知られざる古代女帝の時代 激動の七世紀に誕生した女帝時代 1 「未完の王権」ーー皇極・斉明女帝の政治的生涯 第五章古代史の「通説ーを疑う 「白村江敗北の原因・・ーー本当に唐の軍事力の前に屈したのか ? 「蘇我・物部戦争」は宗教戦争だったのか 倭王の系譜と江上波夫の「騎馬民族渡来説」への疑問 卑弥呼は個人名にあらず 根拠に乏しい『帝紀』『旧辞』の成立年代 118 196 176 152