地位 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
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1. 日本書紀はなにを隠してきたか

たというのである。このように、中大兄が決起した動機は王位継承問題にあったといわれて いる ところが、中大兄は蘇我本宗家が滅んだ後、王位継承資格があるとされるにもかかわらず 、」・つとイ、 即位しなかった。そして、その後、孝徳天皇の死後 ( 六五四年 ) 、つぎの斉明天皇の死後 ( 六 おおきみ 六一年 ) も即位のチャンスがあったのに、大王の地位につかなかった。中大兄が即位して天 智天皇となるのは、乙巳の変からおよそ一一十三年後、六六八年のことだった。 こうなると、彼がいっ即位してもおかしくない資格の持ち主だったという理解が本当に正 しいのか、極めて疑わしくなってくる。通説によれば、中大兄が即位しなかったのは、即位 ・刀 っするよりも皇太子の地位 ( この地位自体、当時存在したかどうか疑問視されている ) にとどまっ たほうが政治の実権を掌握しやすいと判断したからであるといわれている。何が何でも、中 当大兄が早くから有力な大王候補だったとしたいようである。 本 しかし、当時は後世のように血統ではなくて、世代や年齢といった条件を重視した王位の 改継承が行われていたと考えられる。乙巳の変の頃、中大兄はまだ二十歳前後の若年であり、 彼以外にも即位するにふさわしい年長者がいたのである。そう考えてくると、つぎのように 章い、つことかできる。 第中大兄は即位できるのにあえて即位しなかったのではない、即位する条件が十分ではなか

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

変節とは、彼がその若すぎる晩年において我が子大友皇子を後継者にしようとしたことを指 す。 なかった。大海人 しかし、通説が一一一、・のど・は異なり、・・・大海人は有な王位継承資各 の即位があた力も当然のことであったように理解たのは、大海人の子孫によって編纂 され、彼の即位の正当性を強調してきた『日本書の論理と主張をそのまま鵜呑みにした 言説にすぎない 大海人は大皇弟とよばれる地位にあったとされる。これは一見、後世の皇太弟 ( 天皇の弟 で皇太子の地位にある者 ) と似てはいるが、大海人の地位はあくまでも大皇弟であって、皇太 弟ではなかった。大皇弟とはオホスメイロドと読むべきで、同母関係中の長子 ( いわゆる大 兄 ) でなくとも王族内部で一定の地位と財産の保有をみとめられていた有力王族のことであ 謎 る。大海人の大皇弟とは、天智の同母弟という資格において天智の執政を輔佐する地位であ の 勃って、かならずしもその即位が期待されていたわけではなかったと考えられる。 大海人は若年より兄の政治を輔佐し、ある時期以降は天智の考えた新しい王位継承の実現 壬のために協力する立場にあったと見られる。具体的には従来の世代・年齢という基準にもと づく王位継承に代わって、血統による王位継承を実現するため、天智と大海人の血を引く特 章 第別な血統をもっ皇子を生み出すため、結果的に兄のむすめを四人も妻に迎えたのである。そ おおとも おお

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

そして最終的に、推古天皇の先例にしたがおうということになったのである。 推古は敏達天皇の大后であった。五九一一年、崇峻天皇が蘇我馬子に殺された直後、大王と して擁立すべき皇子が三人もおり、いずれかひとりに特定しがたい状況があった。そこで彼 女は、かれら相互の無益な争いを回避し、王位継承をめぐる紛争を一時保留状態にするため、 亡き敏達の大后という資格で即位におよんだのである。 前述したように、大后は一般の皇女とは異なり、大王とほば同等の執政権をみとめられて いた。当時は次期大王の選定において、世代や年齢といった条件が重要視されていたから、 大王と同等の執政権をみとめられていた大后は、大王と同世代の王族であるという評価のも とに即位におよんだものと考えられる。 推古女帝の登極は、たしかに三皇子の紛争の鎮静化に役立った。ところが、大王が終身の 地位であり、譲位のシステムがなかったこともあり、推古の在位が予想以上に長期化する間 に、三皇子は厩戸皇子を最後に全員亡くなってしまったのである。そのため、大王の周囲に 結集していた豪族たちの間につぎのような共通意見が生まれた。すなわち、つぎにもし女帝 を立てる必要が生じた場合には、皇子どうしの王位継承の争いを保留状態にすることだけで なく、王位継承資格をもった皇子に即位の機会をひらくこと、言い換えれば大王位の生前譲 渡ということも政治日程に上らせる必要があるという意見だった。 132

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

実現しなかった。穴穂部が大王位を望んだことは、当時のルールを無視した無謀なものと見 なされがちだが、 そうではなかった。 当時は王族の範囲内で世代や年齢という条件が重視され大王がえらばれていたから、敏達 の異母弟で敏達と同世代だった穴穂部は、用明と同様に王位継承資格があったのである。そ れにもかかわらず穴穂部ではなく用明が即位することになったのは、ふたりが同世代とはい え用明のほうが穴穂部よりも年長だったからと思われる。穴穂部はそれを無視して自身の即 位を望んだのだから、彼の行動は乱暴といえば乱暴だったが、彼にまったく即位のチャンス や資格がなかったわけではないのである。 ぬかたべ 翌五八六年五月。穴穂部が敏達の殯宮にこもっていた大后額田部皇女を襲おうとするとい う事件が起きる。この事件は穴穂部の直接的な欲情から起こったものではない。 当時、王族内部で継承されていた主要な財産 ( 宮室やそれに付属する服属集団である部など ) の分割・細分化を防ぐため、そのような財産を保有する皇子・皇女が結婚することがあった。 多くの財産を継承・蓄積しえた皇子・皇女は、王族内部で優位を保つことができた。この事 例から考えれば、すでに穴穂部という服属集団を所有した穴穂部皇子は、額田部という服属 きさいちべ 集団に加え大后の地位に付属する私部を保有する額田部皇女と結ばれれば、統合されたふた りの財産を背景に王族内部で圧倒的な優位を確保することができる。穴穂部はなお王位継承 168

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

事を託したことには実は大きな意味があった。大海人は戦線から後退することによって、こ の戦争を治天下大王の地位をめぐる高市皇子と大友皇子の戦争にしたのである。 その結果、この戦争に勝利した者に保証されるのが治天下大王の地位だったとするならば、 勝利を得た高市皇子の上位にあって、彼に指令を出す立場にあった大海人に戦後もたらされ るものは、権力構造の上で従来の治天下大王を上回る地位ということになる。この地位こそ、 のちに天皇とよばれることになるものだった。したがって、大海人は従来の治天下大王に代 わる天皇という地位を創造し、彼自身がその初代に就任することを見越して、高市に軍事大 権を譲渡したのではないかと考えられる。これこそ、戦勝の成果 ( 王位継承の実現 ) をより確 実で大きなものにするための布石にほかならない。 さて、天皇とい、つ地位はスメラミコトとよまれることになる。スメラとは、死をはじめと して病気・災害・犯罪などによってもたらされる穢れから解放された最も清浄な状態を意味 勃することばだった。天皇という新しい地位の権威の源泉は、この宗教的な清浄性にもとめら のれたといっていいであろう。 壬大海人が治天下大王から天皇へという大転換を比較的スムーズに実現できたのは、彼が外 、はないかと思われる。どうしてかと一一一一口えば、法体の 章見的には俗人ではなく僧侶だった、 第身であれば、まず、死や流血としう穢れ。充満した空間である戦場に身をさらすことは避け

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

しかし、最近、大連という地位が本当に存在したのか、疑問視されている。大連とは実在 した大臣の地位から連想して後に創造された地位にすぎないのではないかというのである。 そうだとすれば、大臣オオオミではなく、大夫・群臣 ( マエッキミ ) を統括する地位とい う意味でオオマエッキミとよむべきであろう。 このような説もさることながら、蘇我氏のような臣姓豪族は後世の江戸時代の大名にたと えれば、毛利・島津・伊達といった有力外様大名ともいうべき存在だった。それに対し物部 ふだい 氏のような連姓豪族は、井伊・酒井・本多・榊原といった譜代大名に相当する存在だった。 蘇我・物部両氏はそれぞれ臣姓豪族・連姓豪族を代表する点では同等だが、早くから大王に こ、つひ 隷し、特定の奉仕や貢納を行ってきた連姓豪族は、大王」后を出すこともできなかった。 連姓豪族に対す臣豪族の優位は圧倒的なものだった。 しかも、臣姓豪族のなかでも蘇我氏は別格的な存在で、蘇我氏は歴代大王に固定的に后妃 を出す、大王家のミウチともいうべき氏族だった。強いて江戸時代の大名にあてはめるなら しんばん ば、それは外様にして親藩 ( 御三家 ) というところだろう。 ほうせん 物部氏は大王のもとで奉宣の任にあたる大夫とよばれる地位に就任しうる氏族のひとつに すぎす、蘇我氏はそれら大夫を統括する大臣の地位を世襲する隔絶した存在だった。その意 味でも物部氏は、宮廷内部で蘇我氏と対等になにごとかを競い合い、奪い合うような立場に 166

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

きたさだきち かって喜田貞吉は、天智死後、大后倭姫王が即位したと推断した ( 「女帝の皇位継承に関す る先例を論じて、『大日本史」の「大友天皇本紀」に及ぶ」「著作集』 3 所収 ) 。それは、当時唱え られていた大友即位論に対置し、それを否定するために提起されたものだった。しかし筆者 は、天智の没後、大友が即位したか否か、あるいは倭姫王が即位したか否かという単純な一一 者択一論とは異なる次元で、改めて倭姫王即位の可能性を主張したい。 それは、七世紀段階における大后の地位とその役割にことさら注目するからである。詳し くは拙著『大化改新ーー , ハ四五年六月の宮廷革命』 ( 中公新書、一九九三年 ) を見ていただき たいが、皇后の前身に相当する大后 ( キサキ・オホキサキ ) という地位は、当時の王位継承の 原則を追求していけば避けることのできない矛盾や紛争を、未然に回避・抑止するため作り 出されたものだった。その意味で大后を後世の皇后と同一視することはできない。 六世紀以来、大王にもとめられたのは後世のように血統的条件だけではなかった。大王と して擁立するにふさわしい人格・資質、それを保証する客観的条件としての世代・年齢、こ れらが重視され代々の大王はえらばれていたのである。大王として擁立すべき世代は、支配 者集団を構成した個々の豪族の意志によって決まった。このような王位継承の原則を「世代 内継承」と仮称したい。 大后とは、大王に最も近しい身内のなかから大王の配偶者をえらび、彼女に大王の政治を

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

なかったのだといい切る所説も生まれてくる。ごが、 オ中大兄皇子が早くから有力な王位継承 予定者で、クーデターの前後を通じ、一貫して政局の中枢にあったという見方が、およそ史 実とかけ離れたものであることは拙著で詳述したところである ( 『大化改新ーー六四五年六月の 宮廷革命」中公新書、一九九三年 ) 。 中大兄の王位継承資格は、クーデター以後、徐々に高まっていったものと見られる。した がって、いやしくも一一度まで大王として擁立された彼女が、いくらその愛する息子とはいえ、 直ちに即位する資格もなく、政治的発言力も十分とはいえない中大兄の言いなりになってい たとは、どう考えても納得できない話である。 ここでは、従来、無批判に想定されてきた中大兄という「黒衣」の存在を取り払い、改め て宝皇女という一女性王族の生涯をたどってみたい。そのさい、キーワードになると思われ じよめい るのは、彼女が舒明天皇の大后であり、「史上二人目の女帝ーだったということである。や はり何といっても、女帝の地位・役割の再検討なしに、彼女の生涯をとらえなおすことはで きないと思われる。 皇子・皇女の命名と地名の関係 ちぬのおおきみ きびのひめみこ 宝皇女は、五九四年 ( 推古一 l) 、茅渟王を父、吉備姫王を母として、この世に生を享けた。 120

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

で、彼の姪にあたる。配偶者として迎えうる親族のなかで、彼女ほど近しい女性はいなかっ たといっていい。 舒明が宝皇女と結ばれたのが、彼が次期大王候補として注目されだした推古朝末年だった ことを重視するならば、この結婚は舒明即位という政治的筋書きのひとこまだったことにな る。宝皇女は、おそらく舒明の周辺からのたび重なる要請によって、高向王との離別を決意 したのであろう。それが彼女の本意だったか否かは分からない。だが彼女の再婚が、彼女の 王権内部における地位を否応なく高める結果になったことだけは間違いないところである。 百済宮・百済大寺造営プロジェクト 代 時舒明のミメになってからというもの、宝皇女をとりまく環境は激変した。ふたりの間には、 かつらぎ 帝 まず葛城 ( 中大兄 ) 皇子が生まれた。ついで、おそらくは舒明即位後であろう、間人皇女、 女 古大海人皇子が産声をあげた。 る ざそして , ハ一一九年、舒明天皇が大王位につくと、それに伴い宝皇女は晴れて大后に立てられ ら たのである。彼女が三十六歳の時のことだった。 知 章すでに述べたように、大后とは大王のたんなる正妻の地位ではない。大王の近親女性にし 第て配偶者というえらばれた資格のもとに、大王に集中した権力の一部を分掌する存在であっ盟

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

夫んとされた。天武朝に天皇家に后妃を出す資格を入手した不比等は、それを根拠として持 じゅだい 統朝に珂瑠皇子に接近、その成人をまって宮子の入内を実現したものと思われる。珂瑠皇子 に不比等の女子を引き合わせたのは、珂瑠の母、阿閇皇女 ( のちの元明天皇 ) に仕えており、 あがたのいぬかいのみちょ 不比等と夫婦の関係にあった県大養三千代であろう。 「東大寺献物帳」に見える黒作懸佩刀の由緒書によれば、不比等が草壁皇子から佩持刀を賜 与されたことは疑わしいとしても、彼が文武天皇の擁立に貢献し、のちに文武死去 ( 七〇七 おびと 年 ) にさいしては黒作懸佩刀を授けられ、その遺児の首親王 ( 聖武天皇 ) の擁護を委託され るといったように、文武の信頼を獲得していたことはたしかである。不比等は王権のミウチ の地位のみならず、王権を擁護する特別な役割を天皇家の側から期待されることになったの である。上記命令は文武即位一周年を期して出されており、文武即位に連動する措置だった と思われる。藤原朝臣姓を不比等の家系に限定したのは、王権のミウチの地位が拡散し、そ れが紛争の火種となることを未然に防止するためだったと考えられよう。 これによって、藤原というウヂナは王権との正真正銘のミウチ関係を象徴する標識となっ たのであるが、藤原のウヂナを不比等の家系に限定する必要は、藤原というウヂナの意味自 体の変化にも原因があったと思われる。なぜならば、王権の側からの不比等の家系に対する 特別扱いが、藤原のウヂナの呼称を限定することによってなされているということは、藤原 244