天武天皇 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
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1. 日本書紀はなにを隠してきたか

して王位継承の順位に関し、六皇子間の序列を確認することにあった。この盟約の結果、王 くさかべ 位継承順位は、草壁皇子が第一位、そして大津皇子が第一一位、それ以外は年齢に応じて三位 から六位が確定された。 この盟約について注意しなければならないことが二つある。ひとつは、王位継承の順番に 関し、草壁が第一位、大津が第一一位というのであって、天武を父とし、天智の女子を母にも っこの両皇子がとくに優遇されてはいるが、その他の四皇子の即位の可能性がこの時まった く否定されてしまったわけではないことである。天武に万一のことがあった時、あくまで従 来どおり、天武の子の世代に属 年齢順位 ( 推定生年 ) 位 畠子 ~ 父 ち し、成人したかれら六皇子たち 子 1 草壁皇子 ~ 天武天皇鶸野皇女 ( 天智皇女第三位 ( 六六二年 ) 継 位に王位継承資格があることを確 謎 2 大津皇子 ~ 天武天皇大田皇女 ( 天智皇女第四位 ( 六六三年 ) た ーレ れ認したにすぎない。極端なたと の 勃参 3 高市皇子 ~ 天武天皇 ~ 尼子娘 ( 胸形君 ) ~ 第一位 ( 六五四年 ) 定 確えをすれば、たとえば草壁・大 約 乱約 4 河嶋皇子 ~ 天智天皇 ~ 色夫古娘 ( 忍海造 ) - 第二位 ( 六五七年 ) 津が相次いで急逝してしまった 盟 は 第五位 ( 六六三ー ロ 5 忍壁皇子 ~ 天武天皇 ~ 欟媛 ( 宍人臣 ) 場合、王位は第一一一位の高市皇子 . ,. 。 六六年 ? ) 2 にまわってくることになる。決 章 表 6 芝基皇子 ~ 天智天皇伊羅都売 ( 越道君 ) ~ 第六位 ( 六六三ー 七二年 ? ) 註 第 して、草壁皇子とその直系の子 おおっ 7

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

縁集団間での王位の交替がみとめられないこの段階で、天智を秦の始皇帝になぞらえ、大海 人がみずからの新王朝の誕生を意識していたことをそのまま単純に事実としてとらえるのは 正しくない。それはあくまで、王権奪取に向けての大海人の戦略だったと見るのが妥当であ る。 さて壬申の乱やその後において、天智天皇の子孫と天武天皇の子孫とが明確な対立関係に あったか否か、あるいは、天武の子孫が代々天皇位を継承していた七世紀末から八世紀にか けて、血統が違うという理由で天智系があからさまに差別され冷遇されていたかどうか、以 下、この点を検討してみたい。 血統を問題にしなかった「吉野盟約」 まず、 ~ ・ ( 天武八 ) 五月のいわゆる「吉野盟約」である。天武天皇は壬申の乱の記 憶のまだ生々しいこの時期に、壬申の乱ゆかりの地である吉野で、吉野の神々を証人に諸皇 子との間に誓約を結んだ。この盟約に参加した皇子は表 1 のとおりである。 うののひめみこ 正確には、天皇・皇后 ( 鷓野皇女。のちの持統天皇 ) と六人の皇子たちとの間で誓約はなさ れた。 誓約の目的は、参加した六皇子たちに同母の兄弟同様の結束・連帯を呼びかけること、そ

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

大海人皇子は即位資格があったのか ? じんしん おおあまのみこ 壬申の乱における大海人皇子 ( 天武天皇 ) の戦略について考えてみたい。本来、戦略とは 戦争に勝っためのはかりごとや駆け引きを指すが、ここでは勝利の成果をより確実なものに するための計略なども戦略にふくめて考えてみたい。 大海人の場合、戦争に勝っ究極の目的は大王 ( 正確には治天下大王 ) 位を継承すること にあった。大海人の採った戦略の具体的な内容を考えるためには、その前提として、彼がも っていた王位継承資格、言い換えれば、彼の即位の可能性を明らかにしておく必要がある。 一般に大海人皇子は、天智天皇の弟ということで、有力な王位継承資格者だったと言われ ている。それにもかかわらず大海人は、兄天智の心変わりによってその資格を否定され、政 権からも疎外され、揚げ句の果てには生命の危険にまでさらされたというのである。天智の ク古代天皇制 , 誕生を見据えた大海人皇子の戦略

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

大きな差異と断絶 藤原というウヂナの成り立ちを論ずることによって、藤原氏という氏族の形成とその特質 について言及してみたい。 周知のとおり、藤原のウヂナは中臣連鎌足が死去の前日に天智天皇から賜ったものであり、 史 亡その後、鎌足の家族のみならす彼の傍系親族たちによっても呼称されたが、天武天皇の ふひと かばね 「八色の姓」で朝臣姓を賜った後は藤原朝臣となり、文武天皇の時代、鎌足の子不比等の直 名系親族のみが藤原朝臣を称することになったとされている。姓とは天皇に仕える者が等しく 有 負う標識であり、とくに姓を構成したウヂナは天皇に対する奉仕内容を表現した記号だった。 古 したがって、王権と藤原氏との関係史から考えるならば、鎌足の段階における藤原のウヂナ 章 と不比等の段階におけるそれとの間には大きな差異・断絶があったことが想定される。藤原 藤原氏ーーー律令国家の " 名族誕生。の経緯と謎 もんむ てんむ 235

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

古代でいちばん熱い夏 てんじ 六七一 ( 天智十 ) 十二月、近江大津宮で天智天皇が亡くなった。 おおあま 翌年六月、出家して吉野宮に隠棲していた天智の弟大海人皇子 ( 天武天皇 ) は軍事行動を 開始する。大海人は吉野を脱出、美濃に急行して不破道を確保する。ここで東国の兵を糾合、 おおとも 大津宮にあった天智の子大友皇子に不気味な圧力を加えたのである。大友は大津宮の東方、 美濃に陣取った叔父大海人の存在に加え、大海人の部将たちが占拠した飛鳥の地を奪回せね ばならないという両面作戦を強いられ、各所で苦戦した。そしてついに近江瀬田の会戦にお たけち いて、大友はいとこの高市皇子率いる大海人方に大敗を喫する。決戦の翌日、進退窮まった 大友は自害して果てた。享年、わずかに一一十五。 六七一一年の六月から七月という酷暑のなか、倭国中心部で戦われた戦争。いわば、古代で 壬申の乱は天智系天武系の戦争ではない てんむ

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

息子の言いなりだった皇極・斉明女帝 ? たからのひめみこ その名は宝皇女。 あめとよたからいかしひたらしひめ 一一度にわたり大王位につき、天豊財重日足姫とおくり名された。いうまでもなく、推古 天皇に次ぐ史上一一人目の女帝、皇極・斉明天皇である。彼女について現在もっとも一般的な 理解を「国史大辞典』 ( 吉川弘文館 ) によって見ておこう ( 直木孝次郎氏執筆 ) 。 はじめ用明天皇の孫高向 ( たかむく ) 王と婚し、のち舒明天皇の皇后となって、中大兄 皇子 ( 天智天皇 ) ・間人 ( はしひと ) 皇女 ( 孝徳天皇皇后 ) ・大海人皇子 ( 天武天皇 ) を生む。 、卩立して皇極天皇となり、飛鳥板蓋 ( あすかいたぶき ) 舒明天皇の逝去の翌年 ( 六四一 l) 只イ 宮に居る。大化元年 ( 六四五 ) 、中大兄皇子らが蘇我氏本家を滅ばして、大化改新に着手 「未完の王権」ー皇極・斉明女帝の政治的生涯 118

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

ればかりでなく、天智のむすこ とおちのひめ 大友皇子に自分のむすめ十市皇 ぬかたのおおきみ 伊賀采女宅子 女 ( 母は額田王 ) を嫁がせた。 〒ー大友皇 ( 弘文天 大友皇子を天智の後継者にす 舒明天皇 天智天皇 大田皇女。 るという構想は、天智・大海人 蘇我倉山田 鶸野皇女 ( 持統天皇 ) 石川麻呂遠智娘 双方の血を引く皇子 ( 大津皇子 ど、さかべ 皇極 ( 斉明 ) 天皇 草壁皇子や草壁皇子 ) が幼年のためただ 間人皇女 ちに即位できそうもないので、 間人皇后 大海人皇子 ( 天武天皇 ) ( 舒明天皇の娘 ) 大津皇子かれらが成長するまでの「中継 孝徳天皇 大田皇女 ( 天智天皇の娘 ) ぎ」ということで採択されたも 有間皇子 阿倍 のだった。したがって、それは 倉梯麻呂ー小足媛 註・天皇名の右肩の数字は「日本書紀」の天皇の代数を示す。天智の亠々んた新しい王位継承の 修正案なのであって、その限りにおいて当初は大海人もそれに同意し、協力を尽くす関係に あったと見られる。 だが、天智の死後、大海人が結果的には決起した事実から明らかなように、彼は兄天智の 構想への同意と協力を土壇場になって放棄した。壬申の乱の前夜、天智の変節が内乱の原因 図 5 七世紀の皇室略系図 茅 渟 王 蘇我馬子ー法提郎媛 古人大兄 皇子 倭姫王 おおっ

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

これまでの例からいって、女帝の譲位には何らかの武力行使が必要とされていた。六六一 年、斉明女帝が自ら陣頭に立って百済救援のために朝鮮半島に出兵しようとしたのは、激動 する中国・朝鮮半島情勢に対応した結果だったが、この大規模な海外派兵とその華々しい成 功をもって、彼女から中大兄への譲位の契機にしようとしていたのではないだろうか。 ところが、この企ては斉明が筑紫の陣中で急逝したことによって挫折する。女帝からの譲 位の機会を失った中大兄 田村皇女 法提郎媛 ( 蘇我馬子の女子 ) は、斉明の指揮権を引き 古人大兄皇子 図 係一 舒明天皇 継いで海外派兵を主導し、 関 しらぎ はくそんこう 天智天皇ー大友皇子白村江で唐・新羅に敗れ 代継 押坂彦人ー茅渟王皇極天皇 時位 大兄皇子 た後は戦後処理と内政改 の王 斉明天皇天武天皇 敏達天皇 草壁皇子革を推進することによっ 小墾田皇女 持統天皇 古 て、大王としての実績を ( 天智の女子 ) る 竹田皇子 蓄積していかざるをえな れ六欽明天皇推古天皇 孝徳天皇ー有間皇子 ら かった。これが約六年に 用明天皇ー厩戸皇子 山背大兄王 章 およぶ中大兄の称制の中 四 第 崇峻天皇註・天皇名の右肩 0 数字は「日本書紀」の天皇 0 代数を示す。身である。 広姫

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

そして、今ひとつ、大王として即位するための形式面での不備を補うため、中大兄は自分 ましひと の妹で孝徳大后だった町人皇女からの譲位という形式をふもうとした。間人を亡き斉明女帝 の代役に立てたのである。 中大兄が、六六五年一一月に亡くなった間人皇女の霊を約二年にわたって奉じ、その遺骸を おうみおおっ 斉明陵に合葬しおえた翌月、彼が即位の地としてえらんだ近江大津への遷宮を宣言したのは、 このあたりの事情を物語っている。 やまとひめのおおきみ 中大兄こと天智天皇の死後も、天智大后・倭姫王 ( 古人大兄皇子の女子 ) が実際に即位し ないまでも、天智のつぎの新大王の即位に正当性をあたえる女帝としての役割を果たした形 おおあま じんしん 跡がみとめられる。六七一一年に起きた壬申の乱は、天智の弟・大海人皇子 ( 天武天皇 ) と天 おおとも 智の子・大友皇子が王位を争った内乱として有名だが、大海人、大友の双方に挙兵の契機と 正当性をあたえる女帝・倭姫王の存在があったことは無視できない。 壬申の乱とは倭姫王からの譲位を引き出すため、王位継承をめざす大海人、大友がそれぞ れ決起した戦争だったということができる。女帝の譲位をめぐる武力行使・武装蜂起は、山 背大兄王の討滅↓乙巳の変↓有間皇子の挙兵未遂↓百済救援戦争と、しだいに規模を大きく しながら繰り返されてきたが、壬申の乱に至り一挙に巨大化して爆発したのである。 世代・年齢重視の王位継承につきまとう危機回避の切り札だった女帝の役割も、ここに至

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

「古事記』序文から考える 『古事記』「日本書紀』のもとになったといわれる帝紀・旧辞は現存しない。それについて 述べるのは、有名な『古事記』序文である。まずは、その現代語訳を示そ、つ ( 傍線は筆者 ) 。 やすまろ : ここにおいて天武天皇は、「朕が聞いたところによると、 臣安万侶が申し上げます。 諸家がもたらした帝紀と本辞とは、すでに真実に違い、偽りを多く加えているという。 今この時に、その誤りを改めないならば、幾年も経たないうちにその本旨は滅びてしま うであろう。これこそ、すなわち国家の根本となるものであり、天皇の政治の基盤とな るものである。それゆえ、帝紀と旧辞をよく調べ正し、偽りを削り真実を定めて撰録し、 とねり 後世に伝えたいと思う」と仰せられた。時に舎人がいた。姓は稗田、名は阿礼といい、 根拠に乏しい『帝紀』『旧辞』の成立年代 てんむ ひえだ あれ 196