「韓人」とは誰か ? ここに奇妙な、しかしながら貴重な証言がある。 六四五年六月十一一日未明、飛鳥板蓋宮で起きた蘇我入鹿暗殺の現場に居合わせた古人大兄 皇子 ( 舒明天皇の皇子。蘇我本宗家の推す次期大王候補であった ) は、一目散に自身の宮に逃げ 帰り、家人にこう告げた。 くらっくりのおみ 「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」 韓人とは朝鮮三国 ( 百済・新羅・高句麗 ) 人の総称であり、単独では百済人のことを指す。 鞍作とは入鹿の通称である。ーー韓人が鞍作どのを殺したんだ。ああ、わが胸は張り裂けん ばかり・に ~ 痛し 飛鳥板蓋宮内部の密室 ( おそらく、大王の日常起居空間である大殿とよばれた建物の一室。宮 蘇我入鹿は「韓人」に殺された からひと
したにもかかわらず、クーデターからわずか三カ月後、古人大兄が吉野山中で、比較的少数 の兵の手により妻子ともども斬殺されてしまった事実を思、つべきであろう。 古人大兄は、辛くも飛鳥板蓋宮を脱して自身の宮に帰還、固く門を閉ざしてしまう。どう して古人大兄だけが刺客たちの凶刃をかわし、虎口を脱しえたのか、不明といわざるをえな いが、少なくとも通説のいうように、古人大兄が蘇我氏の傀にすぎず、クーデターの展開 のなかで、まったく重要な役割を担っていなかったとはいえないであろう。後述するように、 入鹿亡き者にした後、のこされた蝦夷と古人大兄との連係を分断することに、クーデター 派の戦略的な目標がおかれていた可能性は大きい。 おおち しきのかみ 古人大兄は古人大市皇子ともよばれたことから、のちの大和国磯上郡の大市郷に宮を営ん っ あ でいたことが知られる。飛鳥板蓋宮から脱した古人大兄は、この大市宮に帰り、宮門を閉ざ ねやのうち 当し、積極果敢な行動に出ようとしなかったのである。『日本書紀』は、「即ち臥内に入りて、 門を杜して出でず」と、古人大兄の行動を非難めいた調子で述べている。従来の諸説は、 改『日本書紀』編者のこの暗黙の非難に照らして、この時、古人大兄にいかなる行動の選択肢 があったのかについて、あまりに無頓着だったと思われる。蘇我蝦夷・入鹿父子が、次期大 章王候補として擁立していた古人大兄が、大市宮の宮門を閉ざし、一切動こうとしなかったこ 第とが、クーデターの展開にいかなる影響を与えたのか、吟味してみる必要がある。
すとはもはや許されない。 蘇我よって造営された飛鳥寺について、それが官寺 ( 国家的寺院 ) だったのか、私寺 ( 氏寺 ) だったのか、かって議論されたことがあった。小論の結論をふまえていえば、飛鳥寺 はたんなる官寺とも、たんなる私寺とも言いがたいが、造営主たる蘇我氏の特性を考慮して あえていうなら、飛鳥寺は、氏寺でありながら、公的な性格を濃厚にもっ寺院だったと考え られる。すなわち、飛鳥寺造営とそれにまつわる諸儀礼は、王権と蘇我氏の特別な関係、蘇 我氏の特殊性をより荘厳化するために企画されたものだったと見られる。 王権と蘇我氏との関係が、王権の円滑な再生産という、支配層の結集の安定化を保証した と考えれば、飛鳥寺は、蘇我氏という一氏族の利害を超えた、支配層全体の「共同利益ー 奉仕するものだったといったほうが、より実態に近いと思われる。飛鳥寺の伽藍の西に拡が しよばん てき る広場が、諸蕃・夷狄の饗応など、支配層全体の公共の目的のために使用された空間だった ことを思うべきであろう。さらに、飛鳥寺の立地に注目したい。飛鳥寺の南方に位置する伝 のちのおかもとのみやきよみはらのみや 承板蓋宮跡は、岡本宮・板蓋宮・後岡本宮・浄御原宮が継起的に営まれた地であり、飛鳥 寺をふくんだこの一帯は、飛鳥盆地内に形成された都市的空間の中枢をなす地域だった。 つぎに、『日本書紀』が、皇極天皇の時代に蘇我蝦夷・入鹿父子によって大王家に対する 種々専横の振舞があったと記していることも、あまりに有名である。これは、己が身分をわ
く統一的に説き明かすならば、クーデターの展開に関して通説とはおよそ異なる筋書きが導 き出されてくる。それは、以下のとおりである。 通説とは異なる「乙巳の変」の顛末 六四五年六月十一一、朝鮮三国に関する儀式に出席するため、蘇我入鹿は飛鳥板蓋宮の大 殿に入ったか、そこで中大兄皇子以下、数名の刺客に襲われ、即死した。同じく大殿に招か れていた古人大兄皇子は、刺客の凶刃をのがれ大殿を脱出、自身の大市宮に帰った。古人大 兄は甘檮岡の蝦夷らと連絡をとり、クーデター派を挟撃できる立場にあったにもかかわらず、 の宮門を閉ざし、一切動こうとはしなかった。 っ クーデター派は、入鹿の遺体を甘檮岡に届けさせるとともに、皇極女帝と軽皇子を擁し、 あ 当飛鳥板蓋宮を出て、飛鳥川をはさんで甘檮岡と対峙する飛鳥寺に入り、同寺を占領、蝦夷側 本 の反撃にそなえた。甘檮岡には、クーデター派への報復を期し、東漢直らの面々が武装して 改結集し始めた。飛鳥寺のクーデター派のもとにも諸王族・諸豪族が参集し始めたが、甘檮岡 や飛鳥寺のあるのちの大和国高市郡の周辺は蘇我氏同族が数多く割拠しており、また大市宮 章の古人大兄の動向もあり、クーデター派にとって予断を許さない状況があった。 第武装した巨勢徳太が甘檮岡に遣わされ、東漢直らにクーデター派への帰順・投降を呼びかい
で暗殺されたという。 てんじ 入鹿暗殺を決行したのは現大王である皇極女帝の長子、中大兄皇子 ( 天智天皇 ) とその腹 かまたり なかとみ 心の中臣 ( 藤原 ) 鎌足であり、かれらは中国の隋や唐のような中央集権国家を建設するため には、王位継承を専断する蘇我本宗家の存在を実力で排除する必要があるとして決起したと いわれている。若くして英明のほまれ高く、また有力な王位継承候補でもあった中大兄は蘇 我本宗家に睨まれてもいた。座していれば、山背大兄王のように蘇我入鹿の餌食となり、滅 ばされてしまうおそれがあったというのである。 だが、これは事実とかなり異なるようである。 まず、入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で謀殺されたというが、七世紀半ばの飛鳥板蓋宮に大極 殿に相当する建物はまだ存在しなかった。当時は宮室の南に開いている宮門を入ると左右に 亡朝堂が並ぶ朝庭があり、朝庭の北にある大門をくぐると、そこに大王の日常起居空間である 族大殿があるという構造だった。王族や有力群臣をのぞく一般の臣下や外国の使節が入れるの 名は朝庭までで、大殿に出入りできる者は身分的に限られていた。 代入鹿が当日どのような名目で招き寄せられたかは不明だが、 入鹿暗殺の現場には皇極女帝 と蘇我倉山田石川麻呂らがいたというから、そこは出入りする者が限定されていた大殿だっ 章 たと考えられる。入鹿は大殿という「閉ざされた空間」で突然刺客たちに襲われ、一切抗弁 なかのおお、え 2 引
みたい。蘇我氏が、クーデターの展開のなかで、どのようにして滅んだのか、あるいは滅亡 せざるをえなかったのか。この問いを解くことによって、蘇我氏の正当な歴史評価、蘇我氏 の歴史的復権が展望できるものと思う。 疑問①古人大兄皇子の動き 「乙巳の変」における蘇我蝦夷・入鹿を考える上で、従来疑問とされながらも、あまりふみ こんだ論究がなされてこなかった論点が三つある。それは、まず第一に、古人大兄皇子は、 ? どうして蘇我入鹿暗殺の現場に居合わせたのか、ということである。古人大兄は、蘇我蝦夷 ほほてのいらつめ つの姉妹、法提郎媛が舒明天皇との間にもうけた皇子であり、蝦夷・入鹿父子が、世代・年齢 という条件に加え血統の点で次期大王にと策していた人物だった。 あすかいたぶきのみや 『日本書紀』「家伝』上によれば、入鹿は、六四五年の六月十二日、飛鳥板蓋宮の大極殿で 執行された三韓の進調 ( 上表 ) の儀式の場で殺されたという。大王臨席のもと、臣下や外国 改使臣の居並ぶ「開かれた空間」で惨劇は発生したことになる。だが、七世紀半ばの飛鳥板蓋 宮の段階で、大極殿に相当する施設が存在したとは考えがたく、朝鮮三国そろっての貢調と 章いうのも、前後に例を見ないものである。入鹿暗殺の現場に居合わせたのは、皇極女帝、古 そがのくらのやまたのいしかわのまろ 第人大兄皇子、それに女帝の面前で三韓の上表を読み上げた蘇我倉山田石川麻呂といった、権 ふるひとのおおえのみこ
なにわながらとよさきのみや クーデターによって発足した孝徳天皇の政権は、やがて難波長柄豊碕宮にその本拠を定め るにいたるが、前大王である宝皇女がつねに同じ難波の地にあったかどうかは、それを明示 する史料が存在しない。 おはりだ ところで、のちに宝皇女が再び王位についた時、焼失した飛鳥板蓋宮に代わり、小墾田に 瓦葺きの宮室を造営しようとしたことがあった。小墾田宮はいうまでもなく推古女帝の宮居 だったが、 推古没後も存続していたらしい。後年の壬申の乱のおりには、おそらく小墾田宮 の付属施設として兵庫があって、それが大海人・大友両陣営による争奪の対象となっている。 このように大王宮が飛鳥以外の地に移ってしまっても、飛鳥に支配機構を構成する政治的 施設があったことはたしかである。それは、大王宮が難波の地に移動した孝徳天皇の時代も そがのくらのやまだのいしかわのまろ 同様であって、六四九年 ( 大化五 ) 三月、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑をう こ ) 」し け、飛鳥の山田寺で自殺したさい、麻呂の長子でひとり徹底抗戦を主張した興志は、小墾田 宮の襲撃・放火を進言したという。 退位した大王がどこにどのように住み、その権力がどのようなものだったかは、なお十分 に解明されていない重大な問題である。孝徳天皇の治世において、いわば留守となった飛鳥 の小墾田宮が、謀反の疑いをうけ追い詰められた麻呂らにとって襲撃する戦略的価値のある 対象だったこと、そして、のちにその小墾田に大王宝皇女が宮室を営んでいること、これら 136
したのを機会に、皇位を弟の軽皇子 ( 孝徳天皇 ) に譲る。孝徳天皇の死後 ( 六五五 ) 、斉 明天皇として再び皇位につき、はじめ飛鳥板蓋宮、のち飛鳥岡本宮を皇居とする。土木 事業を好み、多武峰の二槻 ( ふたっき ) 宮など大工事を行なった。七年 ( 六六一 ) 、百済 救援のため中大兄皇子らと筑紫にいき、七月一一十四日朝倉橘広庭宮 ( 福岡県朝倉郡 ) で 急死した。年 , ハ十八 ( 「本朝皇胤紹運録』 ) 。 そがほんそうけ さて、通説が依拠する『日本書紀』などの記述によれば、宝皇女は、事前に蘇我本宗家打 倒のクーデター計画を知らされてはいなかったとされている。だからこそ、クーデターの首 なかのおおえのみこ 謀者だった我が子中大兄皇子に、突然大王位を譲ろうと思い立ったというのである。彼女 代 時の譲位は中大兄によるいわば半強制の結果であり、あくまで突発的・衝動的なものだったと 女いう評価があたえられることになる。また、彼女が再び王位についたのも、クーデター以来、 古政治の実権阯し 0 いた中大兄の意志によるものと見られている。彼女は息子のいうがま る ざまに再度王位に臨み、果てに老いの身には過酷な外征の陣頭にまつり上げられ、筑紫の地で ら 急逝してしまったというのである。 知 このように宝皇女の生涯は、絶えず第三者、とくに中大兄皇子の意志に左右され続けた、 章 第それこそ受け身の人生だったように見なされている。ここから、彼女に政治的な実権などは
して徴発することを発表している。かって舒明の百済宮造営に投入された労働力は、たんに 「西の民 . だけであったから、このたび板蓋宮造営に投入されることになった労働力の規模 は、明らかに百済宮のそれを大きく上回っている。 このように、舒明天皇と皇極天皇があえて広範囲にわたって民衆から労働力の徴発を行っ たのは、百済大寺の巨大な塔により内外に向かって見せつけようとした王権の隔絶生・絶対 性を、民衆の労働力編成という点でも確立・強化しようとするねらいがあったのではないか と考えられる。皇極天皇のつぎの孝徳天皇の時代に行われた政治改革 ( いわゆる大化改新 ) に はくそうれい おいては、墳墓造営に限定されたものではあったが ( 薄葬令 ) 、一般民衆からの労働力の徴発 に関して王族や豪族の身分に応じた制限が加えられることになった。これは、墳墓の規模に 身分によって等差をつけることに主眼があったというよりも、むしろ全体としては、一般の 民衆が支配層の墳墓造営に無制限に動員されるのを規制するのが一番のねらいであった。支 配層が墳墓を営むにあたっては、大王以外の者が今後一切、民衆から無制限に労働力の徴発 を行ってはならないとい、つわけである。 このような政策は、孝徳朝になって突然問題となり立法化されたというよりも、舒明・皇 極朝に推進された二大造営事業を通じて考え出されたものと見なすのが妥当であろう。宝皇 女は、当初は大后として、のちには大王として、このような一連の政策の企画と実行に深く 130
くらっくり 飛鳥板蓋宮で入鹿が殺されたのを目撃した古人大兄皇子は「韓人が鞍作 ( 入鹿 ) を殺した」 と家人に告げたという。これは入鹿殺害の下手人を名指しした発言であり、「韓人」とよば れる人物が猛然と入鹿に斬りかかっていったのである。「韓人」とはその家系独自の系譜に 満智・韓子・高麗といった朝鮮半島に関係深い名前の祖先を戴いていた蘇我倉山田石川麻呂 その人であろう。 麻呂は入鹿と同様、蘇我氏の族長位を継承できる資格があった。軽皇子の即位をめざす麻 呂が入鹿に斬りかかっていったのは、蘇我氏族長の座をみずからの手でつかみ取るためでも あったのである。 からひと 234