王位継承 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
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1. 日本書紀はなにを隠してきたか

実現しなかった。穴穂部が大王位を望んだことは、当時のルールを無視した無謀なものと見 なされがちだが、 そうではなかった。 当時は王族の範囲内で世代や年齢という条件が重視され大王がえらばれていたから、敏達 の異母弟で敏達と同世代だった穴穂部は、用明と同様に王位継承資格があったのである。そ れにもかかわらず穴穂部ではなく用明が即位することになったのは、ふたりが同世代とはい え用明のほうが穴穂部よりも年長だったからと思われる。穴穂部はそれを無視して自身の即 位を望んだのだから、彼の行動は乱暴といえば乱暴だったが、彼にまったく即位のチャンス や資格がなかったわけではないのである。 ぬかたべ 翌五八六年五月。穴穂部が敏達の殯宮にこもっていた大后額田部皇女を襲おうとするとい う事件が起きる。この事件は穴穂部の直接的な欲情から起こったものではない。 当時、王族内部で継承されていた主要な財産 ( 宮室やそれに付属する服属集団である部など ) の分割・細分化を防ぐため、そのような財産を保有する皇子・皇女が結婚することがあった。 多くの財産を継承・蓄積しえた皇子・皇女は、王族内部で優位を保つことができた。この事 例から考えれば、すでに穴穂部という服属集団を所有した穴穂部皇子は、額田部という服属 きさいちべ 集団に加え大后の地位に付属する私部を保有する額田部皇女と結ばれれば、統合されたふた りの財産を背景に王族内部で圧倒的な優位を確保することができる。穴穂部はなお王位継承 168

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

そして最終的に、推古天皇の先例にしたがおうということになったのである。 推古は敏達天皇の大后であった。五九一一年、崇峻天皇が蘇我馬子に殺された直後、大王と して擁立すべき皇子が三人もおり、いずれかひとりに特定しがたい状況があった。そこで彼 女は、かれら相互の無益な争いを回避し、王位継承をめぐる紛争を一時保留状態にするため、 亡き敏達の大后という資格で即位におよんだのである。 前述したように、大后は一般の皇女とは異なり、大王とほば同等の執政権をみとめられて いた。当時は次期大王の選定において、世代や年齢といった条件が重要視されていたから、 大王と同等の執政権をみとめられていた大后は、大王と同世代の王族であるという評価のも とに即位におよんだものと考えられる。 推古女帝の登極は、たしかに三皇子の紛争の鎮静化に役立った。ところが、大王が終身の 地位であり、譲位のシステムがなかったこともあり、推古の在位が予想以上に長期化する間 に、三皇子は厩戸皇子を最後に全員亡くなってしまったのである。そのため、大王の周囲に 結集していた豪族たちの間につぎのような共通意見が生まれた。すなわち、つぎにもし女帝 を立てる必要が生じた場合には、皇子どうしの王位継承の争いを保留状態にすることだけで なく、王位継承資格をもった皇子に即位の機会をひらくこと、言い換えれば大王位の生前譲 渡ということも政治日程に上らせる必要があるという意見だった。 132

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

一部分掌させたものだった。大王を選抜する世代が移行する時期には、二つの世代にまたが って王位継承資格を有する皇子たちがあらわれ、互いに王位を争い、収拾のつきがたい事態 に発展することが予想される。皇子どうしの王位継承の争いが激化する危険性がある時は、 それを鎮静化させるため大后が即位したわけである。これが女帝だった。 きんめい 六世紀の末に崇峻天皇が暗殺された段階で、欽明天皇の子の世代から孫の世代へと王位が 、つ。まやと おしさかのひこひとのおおえ 移行しつつあったが、押坂彦人大兄・竹田・厩戸などの諸皇子がおり、いずれかを大王と びだっ \ ぬかたべ すれば紛争は必至と判断された。そこで、敏達天皇の大后だった額田部皇の即位となった。 これが我が国最初の女帝、推古天皇である。 推古の即位はたしかに王立継承めぐる紛争の一時鎮静化に役立 0 た。しかし大王位の終 弖く間に、欽明天皇の孫の世代で王位継承資格をも 身性のために、推古の在位が予想外に長ー っ皇子たちが全員死に絶えてしまった。厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) が即位できなかったのは、ひ 勃とえにそのためである。 乱 この推古女帝の教訓から、つぎの女帝には王位継承の争いの鎮静化だけでなく、王位継承 の 立を実現することが課 壬資格をもった皇子たちに即位の可能性もひらくこと、すなわち生前譲イ 章題として負わされることになったのである。 じよめい 第 六四一年、舒明天皇が亡くなった時、王位継承資格のある皇子が欽明の曾孫・玄孫と一一世

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

変節とは、彼がその若すぎる晩年において我が子大友皇子を後継者にしようとしたことを指 す。 なかった。大海人 しかし、通説が一一一、・のど・は異なり、・・・大海人は有な王位継承資各 の即位があた力も当然のことであったように理解たのは、大海人の子孫によって編纂 され、彼の即位の正当性を強調してきた『日本書の論理と主張をそのまま鵜呑みにした 言説にすぎない 大海人は大皇弟とよばれる地位にあったとされる。これは一見、後世の皇太弟 ( 天皇の弟 で皇太子の地位にある者 ) と似てはいるが、大海人の地位はあくまでも大皇弟であって、皇太 弟ではなかった。大皇弟とはオホスメイロドと読むべきで、同母関係中の長子 ( いわゆる大 兄 ) でなくとも王族内部で一定の地位と財産の保有をみとめられていた有力王族のことであ 謎 る。大海人の大皇弟とは、天智の同母弟という資格において天智の執政を輔佐する地位であ の 勃って、かならずしもその即位が期待されていたわけではなかったと考えられる。 大海人は若年より兄の政治を輔佐し、ある時期以降は天智の考えた新しい王位継承の実現 壬のために協力する立場にあったと見られる。具体的には従来の世代・年齢という基準にもと づく王位継承に代わって、血統による王位継承を実現するため、天智と大海人の血を引く特 章 第別な血統をもっ皇子を生み出すため、結果的に兄のむすめを四人も妻に迎えたのである。そ おおとも おお

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

たというのである。このように、中大兄が決起した動機は王位継承問題にあったといわれて いる ところが、中大兄は蘇我本宗家が滅んだ後、王位継承資格があるとされるにもかかわらず 、」・つとイ、 即位しなかった。そして、その後、孝徳天皇の死後 ( 六五四年 ) 、つぎの斉明天皇の死後 ( 六 おおきみ 六一年 ) も即位のチャンスがあったのに、大王の地位につかなかった。中大兄が即位して天 智天皇となるのは、乙巳の変からおよそ一一十三年後、六六八年のことだった。 こうなると、彼がいっ即位してもおかしくない資格の持ち主だったという理解が本当に正 しいのか、極めて疑わしくなってくる。通説によれば、中大兄が即位しなかったのは、即位 ・刀 っするよりも皇太子の地位 ( この地位自体、当時存在したかどうか疑問視されている ) にとどまっ たほうが政治の実権を掌握しやすいと判断したからであるといわれている。何が何でも、中 当大兄が早くから有力な大王候補だったとしたいようである。 本 しかし、当時は後世のように血統ではなくて、世代や年齢といった条件を重視した王位の 改継承が行われていたと考えられる。乙巳の変の頃、中大兄はまだ二十歳前後の若年であり、 彼以外にも即位するにふさわしい年長者がいたのである。そう考えてくると、つぎのように 章い、つことかできる。 第中大兄は即位できるのにあえて即位しなかったのではない、即位する条件が十分ではなか

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

称徳女帝の死後、この白壁王が即位して光仁天皇となる。彼は、草壁直系の聖武の女子を 妻とする皇族という資格で王位を継承したといえる。だから、称徳から光仁への「代替わり」 を天武系から天智系への大転換のようにいうのは正確ではない。むしろ、天智系と天武系と を対立的にとらえ、天智系の皇統確立を意図的に宣伝・強調したのは、光仁の後を継いだ かんむ 桓武天皇だった。 やまと やまべ 山部親王とよばれた桓武天皇は、渡来系の和 ( 高野 ) 氏出身の女性を母とした。いわゆる 卑母である。したがって異母弟の皇太子他戸親王がいる限り、彼は王位継承など絶対に望め ない立場にあった。ところが、他戸の母井上内親王の光仁殺害未遂容疑により、他戸が皇太 子の地位からおろされたので、ようやく桓武は陽のあたる場所に出ることができたのである。 幸運と偶然が重なり、立太子・即位できた山部親王、彼が自分の父方の曾祖父天智天皇の 存在と天智からの血のながれをことさらに強調したのである。それは、自己の母方の血統に 対するコンプレックスをはね返し、補うための戦略的な宣伝にほかならなかった。 桓武天皇が声高に主張した天智系皇統の復活・確立から、その前提となる天智系と天武系 の対立という図式をただちに事実と見なし、それを過去にさかのばらせるのは大いに疑問で あるといわねばならない。

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

きたさだきち かって喜田貞吉は、天智死後、大后倭姫王が即位したと推断した ( 「女帝の皇位継承に関す る先例を論じて、『大日本史」の「大友天皇本紀」に及ぶ」「著作集』 3 所収 ) 。それは、当時唱え られていた大友即位論に対置し、それを否定するために提起されたものだった。しかし筆者 は、天智の没後、大友が即位したか否か、あるいは倭姫王が即位したか否かという単純な一一 者択一論とは異なる次元で、改めて倭姫王即位の可能性を主張したい。 それは、七世紀段階における大后の地位とその役割にことさら注目するからである。詳し くは拙著『大化改新ーー , ハ四五年六月の宮廷革命』 ( 中公新書、一九九三年 ) を見ていただき たいが、皇后の前身に相当する大后 ( キサキ・オホキサキ ) という地位は、当時の王位継承の 原則を追求していけば避けることのできない矛盾や紛争を、未然に回避・抑止するため作り 出されたものだった。その意味で大后を後世の皇后と同一視することはできない。 六世紀以来、大王にもとめられたのは後世のように血統的条件だけではなかった。大王と して擁立するにふさわしい人格・資質、それを保証する客観的条件としての世代・年齢、こ れらが重視され代々の大王はえらばれていたのである。大王として擁立すべき世代は、支配 者集団を構成した個々の豪族の意志によって決まった。このような王位継承の原則を「世代 内継承」と仮称したい。 大后とは、大王に最も近しい身内のなかから大王の配偶者をえらび、彼女に大王の政治を

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

関わったと考えることができる。 推古女帝と異なる役割とは ? 六四一年、宝皇女の生涯に第二の転機が訪れる。この年十月、夫舒明天皇が不帰の人とな ったのである。享年四十九。宝皇女は齢四十八で寡婦となったわけである。だが、舒明大后 の地位にあった彼女に、夫の死を悲しんでいる余裕などはなかった。大后として果たさなけ ればならない務めが待っていたのである。 かって、推古没後において次期大王候補は田村皇子と山背大兄王の一一名だったが、舒明没 後の大王候補者は、山背大兄王を筆頭に軽皇子・古人大兄皇子、そして中大兄皇子というよ 代 時うに四人もいたのである。年齢・経歴の点からいえば、最年長の山背大兄の即位が順当なの 女だが、豪族たちの間でそれに反対する声も高かった。年齢の上で第一一位の軽皇子は宝皇女の 古実弟、第四位の中大兄は彼女の実子だった。第三位の古人大兄は、亡夫舒明が法提郎媛との る 間にもうけた皇子で、彼女にとっていわば継子にあたった。 れ ら 宝皇女が、四人のうち一体誰に大王位を継がせようと考えていたかは分からないが、当時 知 章の王位継承はいかに大后といえども、一個人の意思によって簡単に決定されるようなもので 第はなかった。大臣の蘇我蝦夷を中心に重立った豪族たちが招集され、何度も会議が重ねられ、 ほほてのいらつめ 1 引

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

第四章知られざる古代女帝の時代 うののさらら り限界に達していた。天武の死後、鷓野讃良皇女 ( 持統女帝 ) は旧来の原則にしたがい、天 武大后 ( つまり天武と同世代の王族 ) として即位したが、その在位期間中、有力な王位継承資 格者だった太政大臣・高市皇子の死後、新しい王位継承への転換を果たしていく。 持統こそは八世紀の新しいタイプの女帝への転換点に位置したといえるであろう。

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

紛争を防ぐために即位する ? 以上見てきたように、壬申の乱の原因が王位継承問題にあったことは間違いないとしても、 それが単純な意味での天智系と天武系の血の対立に根ざすものであったとは考えられない。 それでは、壬申の乱の背景にあった王位継承問題とは一体どのようなものだったのであろ この問題を考える上で貴重な示唆をあたえてくれるのは、天智天皇の病床によばれた大海 人皇子 ( 天武 ) が、天智に対していったことばである。天智は彼が亡き後、大海人が王位を おおきさきやまとひめのおおきみ 継ぐよう要請した。ところが大海人はそれを謝絶、代わりに天智の皇后 ( 大后 ) 倭姫王の 即位と大友皇子がそのもとで輔政の任にあたるべきことを提案、自身は出家して吉野に隠棲 することを願い出たのである。 勃従来、この大海人の提案は結局採用されなかったと見なされているようである。天智が亡 乱 の くなった後は、天智の願いどおり、大友がただちに即位したか、あるいは、いずれは近い将 壬来、即位礼を挙行することを期し、大友が近江大津宮の主宰者になったと解されている。だ 章が、大海人の提案がまったく検討されることなく、その実現が簡単に見送られたといい切っ 第てしまっていいだろ、つか