百済 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
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1. 日本書紀はなにを隠してきたか

かんこくかん その規模を推し量ることはできない。中国ではもともと、関 ( 函谷関 ) の西で用いられるも€ のを「船」といい、東で使われるものを「舟」 したがって、〕水軍の「百七十に対して倭国水軍「四百 , ということになる。両 軍の軍船の規模に決定的な格カったとする証拠がし。 カたいとするならば、白村江 という戦場に結集しえた戦力という点では、倭国軍は唐軍をはるかに凌駕していたと考えら れよ、つ。 唐はもともと陸軍を主力とする国家であり、海戦は伝統的に不得手だった。他方、倭国は さいめい あへのひらふ 白村江前夜の斉明天皇の時代、阿倍比羅夫の東北遠征が「百八十艘」あるいは「二百艘」と いう大船団によって実行されたことに見られるように、海軍における「軍拡」の時代を経験 していた。倭国は総合的な国力という点では唐帝国に遠くおよばないが、こと水軍の規模と 戦力では唐を上回っていたのである。歴史上、未開・野蛮な国家や勢力のほうが、同時代に おいてすぐれた文明や制度をもつ国家よりも時に強大な軍事力を擁する事例はよく見受けら れよ、つ。 このように、倭国軍は戦力では唐軍を上回っていたにもかかわらず、どうして大敗を喫し てしまったのであろうか。手掛かりになるのは「気象」ということばではあるまいか。倭国 水軍は「気象」を見ずに敵に突撃を敢行し敗れたという。「気象ーとは一般に天候、風向き、

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

六六三年 , ハ月のことであった。 と、つしら一 くだら 百済は三年前に唐・新羅によって滅ばされ、その後、復興をめざして百済遺臣が立ち上が ていたが、その主力が立てこもる周留 ( 州柔 ) 城の内部に大きな亀裂が生じた。倭国の援 さよ・つ、ご 助で百済王に擁立された余璋 ( 糺解・翹岐とも ) が、それまで百済復興運動を強力に牽引 きしつふくしん してきた鬼室福信を謀反の疑いで謀殺してしまったのである。 福信亡き今こそ、唐・新羅にとっては百済遺臣らを一挙にたたき潰す絶好のチャンスだっ た。唐・新羅両軍は大挙して周留城に攻め寄せた。これが同年八月十三日以前のことである。 周留城が落ちてしまえば、百済の復活は絶望的になる。百済復興を軍事的に援護し、再生 した百済を支配下におこうとした倭国は、同城を救うために水軍の増派を決定した。それ以 通説 「白村江」敗北の原因。ー本当に唐の軍事力の前に屈したのかワ 152

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

が国は未曾有の激動にのみこまれていく。大王宝皇女は、唐・新羅の前に滅亡した百済の要 請をうけ、百済再興のための大規模な出兵を決断するのである。 これは、倭済両国の数世紀にわたる外交関係が前提にあるが、実は、百済に軍事的援助を あたえ、復興なった百済を倭国の従属下に組み入れてしまおうという野望に満ちた企てであ った。それは、六六一年に大王宝皇女が急逝後、その後を襲った中大兄皇子が百済の遺臣た よほ、つよま・つしよ、つよ、つ一 ちの求めに応じ、人質として倭国にあった百済王子の余豊 ( 余璋、翹岐、糺とも ) を本国 おりもののこうぶり に送還したさい、中大兄が余豊に「織冠ーを授けていることから明らかである。 「織冠」とは、当時倭国内部で施行されていた冠位十九階の最高位には違いないけれども、 冠位はあくまでも大王の臣下の標識であるから、倭国は新百済王となる余豊を倭国王の臣下 に位置づけようと目論んでいたことになる。これは、中国の皇帝が外国の王に対して行った 当 ) 、は、つ 冊封という政治的行為と同質のものである。 大王宝皇女は、蝦夷・粛慎と同様に、百済も倭国に従属し、朝貢する異民族の国家にしょ うとして、百済救援を名目とする無謀ともいえる戦争にふみ切ったのであった。 空しいものとなったク華々しい仕掛けみ 宝皇女は大王としてこの海外派兵の陣頭に立とうとした。そして、自ら大軍を率い筑紫ま 148

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

潮の流れなどを指す。。こが、 オ「気象」には人間の心理状態や感情を指す用例もみとめられる。 倭国水軍は我先に敵軍に突進する戦法を採用しているから、軍を率いる将軍たちの意志およ び作戦が統一されていなかったことが窺われる。「気象 , を見ずというのは、このような将 軍らの意志・作戦の不統一のことを指していると解釈できないであろうか。 そうであるとすれば、このような意志や作戦の不統一はどうして生じてしまったのかが問 題となる。考えられるのは百済王だった余豊璋の存在と行動であろう。豊璋は周留城にあっ 、白村江の会戦前夜、同城を出てしまっている。同城救援のために駆けつけるという 「健児万余」の倭国軍を白村に迎え、みずから饗応するというのが理由だった。 周留城の戦略的位置について考えてみたい。同城は百済復興の拠点であり、百済旧領に割 拠する諸城に対してまさに司令塔的な位置を占めていた。それは百済復興の精神的なシンボ 疑 を ルである豊璋と、百済復興の軍事的な支柱である鬼室福信がいたからだった。ところが、福 説 通 信は豊璋と対立し、彼によって無惨にも斬られてしまった。両者の対立が表面化するきっか のけになったのは、六六二年の暮れから翌年初頭にかけて起こった周留城から避城への遷居と 代その失敗だったと思われる。 章福信という軍事的支柱が失われ、今また精神的な支柱である豊璋が周留城を出てしまえば、 第同城の戦略的な価値は激減する。それは唐・新羅両軍からすれば、同城の攻略が極めて容易 161

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

た既業、、・ ( 別 ) ーで生まれ、その後、宗我の大家を継承したので宗我宿禰 を名乗ったと述べたことを根拠にしているが、石川を名とする人物にとって同地が別荘の所 在地にすぎなかったというのも不審であろう。同地は蘇我氏のなかでも倉の管理にあたった か完蘇我倉石川氏 ) の本拠地であり、蘇我氏全体の発祥地ではありえなかった。 宗我石川の本来居所が同地にあった別荘で、のちに宗我の大家に移ったというのは、蘇我 本、の滅亡後、蘇我倉氏が本宗家に昇格した事実と照応するようである。 もくまんち 説蘇我満智の名前がほば同時代の百済の有力貴族、木満致の名前と類似し、四七五年、 百、、、冫城陥落のさいに満致が文周王を擁して「南行」したと見え、その後、百済側の史料に あらわれないことによる。満致は倭国に渡来し蘇我満智になったというわけである。しかし、 満致と満智の活躍時期はかならすしも一致しない。満致の「南行」というのも、高句麗軍に 史 力いろ 亡よって殺害された蓋鹵王の命により新羅に援軍を要請しに向かったことを指す。倭国への渡 の 来まで読み取れるものではない。 族 氏 また、説は満智・韓子・高麗三代の名が朝鮮半島と関係が深いことも傍証とするが、実 名 代際に朝鮮から渡来した者が渡来の事実をあからさまに一小す名前を称するというのも不審であ 章 る。 ( 2 子は倭んし人の測血喇ず引通称にすぎず、高麗が実名とすれば、満智にと 0 ルて旧主を殺した憎むべき仇敵、高句麗の名をその孫につけたことになってしまう。蘇我石川 221

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

、 0 これから判断するならば、倭国改め日本という国家は、白村江戦後の自国がたんなる敗戦 国であると認識してはいなかったと考えられる。それは、白村江における敗因が唐に対する 単純な意味での戦力Ⅱ物量の不足・欠乏にあったのではなかったからではあるまいか。 その新しい解釈 それでは、白村江の敗因は一体何だったのか。 その前にまず、戦場の呼び名であるが、これは参戦した各国によって異なる。唐はたんに りゆ、つじんき 白江 ( 『旧唐書』劉仁軌伝 ) と称し、新羅は沙 ( 『三国史記』新羅本紀 ) とよんでいる。白 村・白村江 ( 『日本書紀』。読みはハクスキ・ハクスキノエ ) とするのは倭国のみである。このよ うに呼び名が異なるとしても、戦場が現在の錦江河口付近だったことは動かないであろう。 つぎに、唐・倭国両軍の戦力と規模についてである。『日本書紀』は唐の「戦船一百七十 艘ーが白村江に着陣したといい 、『旧唐書』劉仁軌伝は倭国軍の「舟四百艘ーを焼き払った とする。『三国史記』新羅本紀は「倭船千艘」が白沙に停泊していたと記す。 『日本書紀』が敵である唐水軍の規模にのみ言及し、自国の戦力について沈黙しているのは、 この時に倭国が擁した戦力が敗戦という厳然たる事実に照らして極めて不都合なものだった はっこ、つ 158

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

「韓人」とは誰か ? ここに奇妙な、しかしながら貴重な証言がある。 六四五年六月十一一日未明、飛鳥板蓋宮で起きた蘇我入鹿暗殺の現場に居合わせた古人大兄 皇子 ( 舒明天皇の皇子。蘇我本宗家の推す次期大王候補であった ) は、一目散に自身の宮に逃げ 帰り、家人にこう告げた。 くらっくりのおみ 「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」 韓人とは朝鮮三国 ( 百済・新羅・高句麗 ) 人の総称であり、単独では百済人のことを指す。 鞍作とは入鹿の通称である。ーー韓人が鞍作どのを殺したんだ。ああ、わが胸は張り裂けん ばかり・に ~ 痛し 飛鳥板蓋宮内部の密室 ( おそらく、大王の日常起居空間である大殿とよばれた建物の一室。宮 蘇我入鹿は「韓人」に殺された からひと

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

しかし、およそ三十年も前の江上氏の意見を現在の研究段階から一方的に批判するのは心 苦しいのだが、応神天皇以降の王統譜は六世紀初頭以降に一定の政治的意図のもとにまとめ しし ( し力ないのである あげられたものであって、それを直ちに史実と見なすわナこよ、、 『宋書』倭国伝などの外国史料や金石文史料によって『古事記』『日本書紀』の王統譜を批 判的に検討した川口勝康氏の研究によれば ( 「五世紀の大王と王統譜を探る」「巨大古墳と倭の五 王』青木書店、一九八一年、所収など参照 ) 、五世紀段階では大王を出す集団は複数存在して、 そのなかから大王として推戴するのにふさわしい人物が選出されており、大王の地位はまだ 特定の血縁集団に固定していなかったとされている。 「宋書』倭国伝に見える倭の五王のうち、讃・珍と済・興・武とは血縁集団を異にしており、 同時代の百済の事例を参考にすれば、珍から済への代替わりの時は明らかに政変に伴う王 系・王家の交替があったとするのである。 川口氏の意見にしたがえば、王位の継承は建国者の男系子孫に限るという江上氏のいうよ うな血統の大原則は、当時の倭国ではまだみとめられないことになる。わたしは川口氏の意 見に基本的に賛成である。当時の大王には外交・軍事の指導能力の卓越性がもとめられたか ーし力なかったのであろう。血統よりも実力 ら、大王位を特定の血縁集団に固定するわけにま ) ゝ の段階だったのである ( この点は拙著「大化改新ーー六四五年六月の宮廷革命」中公新書、一九九 182

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

気象条件を無視して、我先に唐水軍に突進すれば容易に敵を撃破できるとして一斉に攻撃を 開始した。倭国水軍の中軍は隊伍も整っていないのに、戦闘態勢に入らねばならなかった。 釣り舟程度の倭国の軍船は、城楼のように巨大な唐の軍船に左右から挟み込まれ、嬲られ るようにして撃沈されていった。多くの倭国兵は軍船から海に放り出されて溺死した。錦江 またた 河口の海水が瞬く間に血の色に染まっていった。倭国水軍の大惨敗だった。これにより、百 済復興は夢と消えた。 唐水軍の圧倒的な戦力Ⅱ物量の前に敗れ去った倭国には、その後、唐軍侵攻の恐怖に絶え ず脅えながら、他方で唐の圧倒的な戦力Ⅱ物量を支えていた法や制度の摂取につとめ、ひた すら復興をめざすという長い長い戦後が待ちうけていた : 通説に対する疑問 はくそんこう 以上が、『日本書紀』を中心にして白村江の戦いとその前後を再構成した文章である。白 村江の戦いに関する通説は、大体このようなものといってよいであろう。 戦闘の経過などについてはとりあえず措くとしても、白村江戦後の評価に問題があると思 みすき われる。戦後の倭国は、唐侵攻の危機に脅え続け、筑紫の水城や瀬戸内海沿岸の朝鮮式山城 など、各地に防衛施設を建設して最悪の事態に備えたという。そして、その一方で唐の戦力 154

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

りゆ、つと / 、 てきたが、彼は私の使いにすぎないとして筑紫から放却されている。翌六 , ハ五年九月、劉徳 高と郭務慓が筑紫にやって来た。かれらは十月には入京を果たすが、この時、菟道 ( 宇治 ) で大規模な閲兵の儀式が行われている。これは劉らに対するデモンストレーションだったに 、 0 しよほ、っそ、つ 六六七年十一月、劉仁願の使者として司法聡が筑紫に到着した。六七一年正月にも劉仁 りしゅしん 願の使者として李守真がやって来たが、倭国は彼に対し「請ふ所の軍事。について宣してい おうみ る。翌六六八年七月には、近江国において軍事演習が行われている。各地に牧が作られ、軍 馬が放たれたのもこの年のことだった。 六七一年十一月には郭務慓が大船団を率いて筑紫に来航したが、船に乗っていたのは唐軍 捕虜となっていた倭国軍兵士と百済の難民たちだった。捕虜の返還は戦争状態の終結を意味 する。白村江から八年、唐帝国と倭国との間には和平協定が結ばれたといってもよいであろ う。そして、六七二年の三によ。小ゞ これらを通覧するならば、倭国は戦勝国である唐帝国の前に萎縮し、その侵攻こ戦々ズ としていたとはいえないことに気付く。どう考えても、倭国の唐使に対する態度は敗戦国の それではない。むしろ倭国は、唐の命令というよりも要請を聞き入れる立場にあったようで ある。その要請とはおそらく、白村江の直後は対高句麗戦争に対する軍事援助であり、高句 156