馬子 - みる会図書館


検索対象: 日本書紀はなにを隠してきたか
28件見つかりました。

1. 日本書紀はなにを隠してきたか

きたしひめおあねのきみ 稲目といういわば氏素姓の知れない男のむすめが二人 ( 堅塩媛・小姉君 ) も、欽明と結婚す ることになったのはそのためではないかと考えられる。蘇我氏とい、「 ~ 物喇・に新、 馬子ーーなぜ崇峻天皇を殺したのか ? やまとのあやのあたいこま 五九一一年 ( 崇峻五 ) 、大臣の蘇我馬子は東漢直駒に命じ崇峻天皇を暗殺した。暗殺の舞 台となったのは「東国の調」が献上される儀式の場だった。『日本書紀』によれば、これよ り前に献上された猪を見て崇峻が馬子への憎悪を口にしたことが馬子に暗殺を決意させたこ とになっている 要するに、崇峻暗殺の原因は馬子と崇峻という叔父・甥の政治的主導権をめぐる対立にあ 史 亡ったというわけだ。このような理解の背景にはつぎのような認識がみとめられる。 族すなわち、稲目の代、大王家に后妃を出し、王権のミウチというえらばれた地位を独占す 名るようになった蘇我氏は、馬子に至り蘇我氏の血を引く王族を相次いで大王に擁立すること 有 代に成功、王位継承をまさに自在に操るようになったということである。大王の交替も馬子の このような理解は疑問であろう。 意のままだったというのだが、 章 馬子はたしかに蘇我氏の血を引く王族、いわゆる蘇我系の王族 ( 用明・崇峻・推古 ) を大王 223

2. 日本書紀はなにを隠してきたか

じよめい に擁立したが、彼は舒明天皇など非蘇我系の王族とも婚姻関係を結ぶことを決して忘れては いなかった。馬子を基点に見るならば、蘇我系と非蘇我系という血統の違いによる対立関係 を強調するのは疑問とせざるをえない。 びだっ あなほべ 敏達天皇死後の混乱のなかで、馬子は崇峻の兄にあたる穴穂部皇子も殺害している。この ことから馬子は、姉妹の堅塩媛と小姉君のうち、穴穂部や崇峻を生んだ小姉君とは対立関係 にあり、また、堅塩媛の子女と小姉君の子女どうしも対立していたのではないかという理解 も示されている。 しかし、馬子が穴穂部殺害を断行したのは、馬子を中心とした支配層が一丸となって討滅 しようとしている物部守屋に穴穂部が擁立される危険性があったためで、そうなる以前は、 穴穂部擁護のために馬子はそれこそ必死になって奔走している。馬子が堅塩媛系・小姉君系 という蘇我氏内部の血筋の相違を基準に行動していたとは考えられない。 以上要するに、馬子もふくめ蘇我氏の行動を考えるさい、「蘇我系い非蘇我系」、あるいは 「堅塩媛系小姉君系」といったように、血統とその相違にもとづく対立関係を強調するの は問題が多いということである。そして、蘇我氏が自在に操ったという当時の王位継承にお いて、血統という条件ないしは価値観が、後世のようにすでに最優先されていたとする見解 も大いに修正すべきであると思う。

3. 日本書紀はなにを隠してきたか

裏切られた守屋であったが、支配層全体から用明を死に至らしめた罪を糾弾され討たれよ、つ としているのだから、背に腹はかえられない。あえて自分のほうから手を差し伸べたが、穴 穂部は動かない。彼には守屋を裏切った負い目があったからである。 この守屋と穴穂部のやりとりを冷静に見つめていた男がいた。蘇我馬子である。翌六月の 七日。馬子は、大后の額田部皇女を奉じ穴穂部皇子の殺害を断行する。馬子から見て穴穂部 は甥であり、だからこそ一度は守屋との離間を策し、用明襲撃の罪をすべて守屋に着せてし まおうとしたのだが、 穴穂部が守屋によって再び担がれる危険があると判断した時、その決 断は驚くほど速く、そして容赦のないものだった。 七月になると、ついに守屋討滅軍が編成され、守屋の本拠地のある河内に向け進発する。 穴穂部殺害のさいには大后額田部の命を奉ずるという形式が採られたが、こんどは蘇我馬子 をが諸皇子や諸豪族に呼びかけるという形式を踏んだ。これは、用明に対する傷害致死という 説 王権に対する侵犯の大罪を犯した守屋が相手であるから、馬子が諸皇子や諸豪族を動員し、 通 の王権に対し責任をもって守屋を討ち果たすという形式がえらばれたのであろう。 はっせべ 代 ちなみにこの時、若き日の聖徳太子が泊瀬部皇子 ( 崇峻天皇 ) や竹田皇子 ( 敏達・額田部の 古 章子 ) とともに守屋討滅軍に名をつらねた。彼が四天王像を作り味方の士気を鼓舞したという 第エピソードが有名だが、残念ながら太子は、ほかの諸皇子とともに馬子によって駆り出され 173

4. 日本書紀はなにを隠してきたか

ってかき回したのは山背大兄のほうだった。山背大兄は偉大な父をもち、それを周囲からも てはやされ苦労知らずに育ったお坊っちゃまだったように思われる。 さて、蝦夷が同族の摩理勢を殺害した理由は王位継承問題と連動していたようにいわれて いるが、両者の確執は王位継承とは別次元で発生したと考えられる。蝦夷と摩理勢の対立が 表面化したのは、六二六年 ( 推古三十四 ) に亡くなった蘇我氏の前族長、馬子の墳墓造営の 現場だった。当時は族長が亡くなった場合、一族こぞって族長の墳墓造営に奉仕するならわ しだった。 摩理勢は馬子の弟だったといわれるが、稲目の弟の子だった可能性もある。いずれにせよ 亡き馬子と同世代、蝦夷には尊属にあたる。馬子と同世代という点で摩理勢にも蘇我氏の族 長位を継承する資格があった。前族長の墳墓造営は新族長としての初仕事である。そこで両 人が決裂したということは、蝦夷と摩理勢の対立の真因が馬子の後継者問題にあったことを 物語っている。 入鹿ーーー彼はどこで殺されたのか ? こ、つ、よく 六四五年 ( 皇極四 ) , ハ月十二日。この日、朝鮮三国がそろって朝貢する儀式が行われるこ あすかいたぶきのみや とになっていたが、蘇我入鹿は儀式が挙行される予定の飛鳥板蓋宮の大極殿に招かれ、そこ

5. 日本書紀はなにを隠してきたか

ている。生前譲位のシステムが未成立のこの段階では ( 後述するように、それが実現するのは 六四五年 ) 、人格・資質の点で失格者を大王に擁立してしまった場合、強制的な退位は暗殺と いう強硬手段を取らざるをえなかったと理解される。 おおまえっきみ 馬子は大臣として大夫 ( マエッキミ ) とよばれる群臣層を統括する立場にあった。大王 にふさわしくない人物を戴くことは群臣層の分裂を招き、ひいては支配階級全体の「共同利 益」を脅かす。馬子は崇峻暗殺を強行することによって、支配階級の「共同利益」を擁護す る途をえらんだといえる。崇峻暗殺は決して、馬子や蘇我氏だけの「個別利益」を満たすも のではなかったのである。 蝦夷ーーーなぜ山背大兄王を擁立しなかったのかフ 史 亡 前項で述べたように、蘇我氏の行動原理が絶えず血統とその相違にあって、それをもとに 興 族蘇我氏は王位継承に介入、それを自在に動かしたという理解は根本的な修正を要する。この 名ような認識が生み出されることになったのは、ひとつには推古女帝の死後 ( 六二八年 ) 、馬子 やましろのおおえのみこ の後を継いだ蝦夷が、甥にあたる山背大兄王を次期大王として擁立しなかった事実にあるよ 古 章、つに田 5 われる。 、つまやと ル山背大兄王は推古朝における有力な王位継承候補、厩戸皇子 ( 聖徳太子 ) の子で、その母 227

6. 日本書紀はなにを隠してきたか

崇峻天皇暗殺の事情について見ておこう。 崇峻が殺害された直後、とくに大きな混乱が起きたという形跡はない。たとえば、崇峻殺 害を命じた馬子の非を鳴らし、その糾弾・追討を唱える声はあがらなかった。これを単純に、 蘇我氏や馬子の権勢の大きさをおそれた結果と見なすべきではあるまい。崇峻殺害を命じた 馬子の背後には、支配層全体のいわば暗黙の同意があったことを読み取るべきだろう。 ところで、崇峻は「東国の調」献上の儀式で暗殺されたという。『日本書紀』はそれを十 一月のこととし、それに先立って「山猪、の献上があったとする。「東国の調」の献上はい わゆるニイナメ祭に付随する儀式だったのではあるまいか。「山猪ーはニイナメ祭に先立っ て献上された山幸にほかならない。崇峻殺害に手を下したという東漢駒の一族の末裔 ( 東西 文部 ) は、ニイナメ祭に奉仕する定めだった。 崇峻はニイナメ祭において暗殺されたと考えられていたことになる。これは崇峻暗殺の真 相を暗示している。ニイナメ祭は大王 ( 天皇 ) が新穀を神々と共食することを通じ再生する 儀式であり、臣下が再生した大王への服属を誓い、それを確認する場だった。それと同時に、 大王への服属の前提として大王の人格・資質が根本的に問い直される場がニイナメ祭だった。 ニイナメ祭で崇峻が殺害されたということは、崇峻に対する新たな服属を確認するにあた り、その人格と資質が問い直され、その結果、大王としての失格が宣せられたことを物語っ 226

7. 日本書紀はなにを隠してきたか

はなかったといわねばならない。 以上見たように、「丁未の役」を蘇我・物部両氏による宗教戦争あるいは覇権争いと見な すことはできないと考えられる。それでは、「丁未の役」はどうして発生したのだろうか。 もりや 言い換えれば、当時物部氏を代表した守屋はどうして蘇我氏の族長だった馬子に滅ばされた のであろうか。 そもそも、「丁未の役」を、屋馬子という図、エて見ることに問題がある。以下述べ るよ、つに、物部守屋は蘇我馬子を中心とした支配者集団全体のなかで孤立を深め、集中砲火 を浴びるようにし ( ) 成ま〉 ~ 一れたレ〔 ) い、グ、 - ~ 」ほうが正確なのである。守屋がそこまで追い詰めら れるに至った原因を見極める必要があるだろう。 なほべのみこ 「丁未の役」に至る守屋を考えるうえで重要な人物がいる。穴穂部皇子、ある。欽明の白子 いなめ おあねのきみ をで、母は蘇我稲目の女子、小姉君。守屋はこの皇子ど、・・ある段階まては終始行動をともにし 説 ていた。穴穂部との行動のなかに守屋孤立の原因がかくされているのではないだろうか。 通 の 硬穴穂部皇子の果敢な行動 古 びだっ もがりのみや 章五八五年八月、敏達天皇が亡くなった。その殯宮に、いて穴穂部皇子は堂々と自分の王 第位継承権を主張した。結局、翌九月、敏達の異母弟、用俺が灣心しンた韶の野望は

8. 日本書紀はなにを隠してきたか

蘇我氏の発祥地については、つぎの四説がある。 たけち < 大和国高市郡曾我説 大和国葛城地方説 0 河内国石川郡説 百済からの渡来説 そがつひこ < 「 = は同地に宗我都比古神社があること、 , ハ世紀中葉以降、蘇我本宗家やその諸分家の邸 宅が同地周辺に営まれていたこと、『紀氏家牒』に「蘇我石川宿禰の家が大倭国高市県の蘇 我里にあった」と見えることなどが根拠である。しかし、蘇我氏が同地に本拠をかまえてい たことが確認できるのはあくまで , ハ世紀中期以降、すなわち稲目以降のことである。稲目以 前の蘇我氏が同地に住んでいたという証拠はない。 あがた 「 = 推古朝末年、蘇我馬子が推古女帝に葛城県を要求したさい、同地が本居 ( ウブスナ ) であると述べていることにもとづく。ゆえに馬子は葛城臣とも称していたとしし ) : 蘇我蝦夷 も葛城の高宮に「祖廟」を造ろうとしていたという。馬子が蘇我氏発祥の地を同地にもとめ ていた事実は重要であるが、それはあくまで推古朝当時の蘇我氏族長の政治的な主張にすぎ ない。これをもって蘇我氏の本拠が同地だったとはいえないであろう。 o 説八七七年 ( 元慶一兀 ) 、石川氏が研〈の改姓を要曹たお・りに、建内宿禰の子、宗 220

9. 日本書紀はなにを隠してきたか

もなく崇峻はのちに暗殺されることになる。尋常の死をとげたとは見られない大王がふたり、 宮室と陵墓が同一地域に営まれているのはただの偶然であろうか。 以上、述べてきたように、「丁未の役」は蘇我・物部両氏の宗教戦争や覇権争奪戦だった のではない。用明天皇に対する傷害罪、ついで傷害致死の罪、いわば「大逆罪」をその身に 着せられた物部守屋が、蘇我馬子を中心とする支配層全体に糾弾され、ついには滅ばされた 事件と位置づけるのが妥当と考える。王権に対する侵犯者を討っ軍事行動に主導力を発揮し た蘇我馬子と蘇我氏は、この後、王権のミウチとしての性格をますます強めていくことにな るのである。 【追記】小論は拙稿「「丁未の役」の再構成ーーー推古朝成立前夜の権力闘争」 ( 「国史学」一五九、一九九六年 ) を 疑もとにしている。詳細はこちらを参照願いたい。 を 説 通 の 史 古 章 五 第 175

10. 日本書紀はなにを隠してきたか

に磐余池辺宮を襲撃したのではないかと思われる。穴穂部と守屋のクーデターである。用明 はこの攻撃によって殺害されたとする説もあるが、用明が翌五八七年四月に亡くなったこと を否定することは困難である。 『日本書紀』によると、用明は五八七年四月二日に発病し、九日にこの世を去ったというが、 やくしによらいざぞうめい 法隆寺金堂の薬師如来坐像銘によれば、用明の発病は「丙午年、Ⅱ五八六年のこととされて いる。用明が穴穂部と守屋の襲撃をうけたことはたしかだが、そのおり即死したのではなく、 きゅうせい その時にうけた傷が翌年四月になって悪化し、急逝したのではないかと見たほうが妥当で あろ、つ。 穴穂部皇子の裏切り 穴穂部らが磐余池辺を囲んだ後、なおも逆を討とうとする穴穂部に対し、蘇我馬子は「刑 びと 人に近づいてはなりません」といい、守屋と行動を共にすることを諫めている。「刑人 ( 罪人 ) とは一般に三輪逆のことを指すといわれるが、守屋の離間を策す馬子の口から出たことば であることを思えば、守屋自身のことを指しているのではないかと思われる。五八六年の時 点で、穴穂部の命をうけてのこととはいえ、守屋は用明に対する傷害罪を負ってしまったと いえるだろ、つ。 170