十陵の筆頭は天智山科陵 桓武天皇が曾祖父、天智天皇の親政を模範とする旨を明確に示した詔勅はない。だが、 一一人の天皇の事績には何かしら似た点が多い。思えば壬申の乱以来、朝廷を揺れ動かす大 うっせき 変革はなく、国内に鬱積した不平不満も国家を転覆させるだけの力とはならなかった。天 みこし 皇はいっしか官僚たちの御輿にかつがれ、達官貴族たちの勢力争いに右往左往させられる ような飾り雛になりかけていた。壮年の四五歳て即位した桓武天皇はみすからの意志て国 家を動かす久しぶりの天皇てあった。その強いリーダーシップが桓武天皇と天智天皇の姿 を重ねさせるのてあろう。 前章ては光仁天皇の即位を皇室史の革命てあると表現した。少なくとも平安朝の皇族や 朝廷はそういう意識をもっていただろう。そのことは陵墓の扱いを見ればわかる。天安一一 のさき 年 ( 八五八 ) に清和天皇は「十陵四墓の制」を定め、数ある歴代陵墓の中から荷前を奉る やましな べき陵墓を選抜した。その筆頭にあげられたものは天智天皇の山階陵 ( 山科陵 ) てあり、 一一し」っ 天智天皇以前の陵と天武系天皇の陵は完全に除外された。なぜなら、平安朝の皇室 ( ての祖は天智天皇一身に限定されたからてある。 その後、何度かの入れ替えはあったが、十陵の筆頭はかならす山科陵てあった。天智天 びな 227 風水て、解く桓武天阜陵の謎
の選地てあるが、飛鳥時代の古墳とはずいぶん景観が違う。墓所を選定したものは、本人 てあれ他者てあれ、地形が醸し出す空気を好んてこの場所を選んだのだろう。私は太安万 てら 侶墓に衒いのない真の風水、つまり自然に融和する心を感じた。 天智系復活はひとつの革命 それとは対照的に、ほば完璧な谷奧部突出型の選地をもっ陵墓が田原にある。天智天皇 と光仁天皇の系譜を結ぶ施基皇子の墓てある。壬申の乱からおよそ一〇〇年の長きにわた ってつづいてきた天武天皇の皇統は称徳女帝の死をもって途絶え、ふたたび天智天皇の血 筋が戻ってきた。天智系と天武系の別ていうならば、今の天皇家は天智系の枝に実を結ん これは皇室史におけ ていることになる。そして、天智系復活の端緒が光仁天皇てあった。 るひとつの革命てある。 オ ( カ『延喜式』「諸陵寮」 革命とは王朝の交替を匂わせる言葉てあって穏やかてはよ : 、、 列せられた歴代陵墓を見て、復活した天智系天皇の陵に突然変異ともいえる広大な兆域が ことって想像以上に重大な意味 設定されている事実を知れば、光仁天皇の即位が後の皇室 ( をもつ出来事てあったことがわかる ( 頁コラム参照 ) 。そして、光仁天皇の父てある施基 皇子は前述のように春日宮天皇と追尊され、墓は田原の里に東西各九町、南北各九町の広 かも 198
がんぎよう 皇を皇祖と仰ぐ以上、当然のことてある。また逆に、元慶八年 ( 八八四 ) の改正て春日宮 たわら そうした結果が『延喜式』「諸陵寮」 天皇の田原西陵が十陵から脱落したのは寂しい。 きんりようきんぼ えんりようえんぼ 規定された「近陵・近墓」と「遠陵・遠墓」の分類てある。そこに示す遠近の差は平安 朝の天皇を基点とした親疎の差に等しく、天智系の天皇陵や藤原氏の墓には広大な兆域が 設定された。 天智天皇と桓武天皇を結ぶ選地 ここてすこし歴史を戻し、山科陵に焦点を合わせよう。ここに来てはじめて天智天皇陵 に注目するのは、陵の選地をもって桓武天皇と天智天皇を結びつけることがてきるからて ある。もちろん、山科陵と比較すべき陵は柏原陵てはない。桓武天皇みすからが選んだ宇 しよもう 多野の造陵予定地てある。私は宇多野を歩いて、桓武天皇が所望した場所、あるいは堪輿 家が天皇に薦めた場所はここしかないという地点を見つけた。それが単なる思い込みてあ ると批判されてもかまわない。私の意見をきっかけとして宇多野を訪れた人が共感して下 い。「もっともらしい」説明て人を納得させることも人文科学の真髄て されば、それてよ ある。 さて、ますは山科陵の立地を見よう頁参照 ) 。陵は京都の市街地から一山を隔てた山 228
そこて私は田原山陵を春日宮天皇陵、後佐保山陵を改葬前の光仁天皇陵てあると見た そうすれば、曾祖父の天智天皇、祖父の春日宮天皇、父の光仁天皇へ弟の処分を事後報告 する形となって理屈が通る。広岡は佐保山のどこかをさす地名てはなかったのか。つま り、桓武天皇が光仁天皇の改葬を思い立った理由は、天武系の天皇陵がひしめく佐保山か ら春日宮天皇が眠る田原の地へ父の亡骸を移し、天智 系の新陵区を画定することにあったのだろう。ならば 大和国へ派遣された一三人の調査団は、はなから田原 一帯に適地を見つけるという条件を背負わされていた 0 図 天 形 ) し」にわなる 仁 光 % の光仁天皇をどうしても田原に改葬しなければならな 皇いとすれば、谷の奧部に墳丘を設ける従来型の選地は 仁困難てあったはずてある。なぜならば田原には兆域を 設けるにふさわしい谷がもうないからてある。もちろ くらてもある。ご、、。、 オカ春日宮天 ん谷と呼べる地形はい 皇陵の谷に比肩するすばらしい形と景観をもった谷は やや感覚的な論 田原のどこを探しても見つからない。 0 白砂川 0 205 奈良時代の天皇陵を推理する
録された堪輿家の事績 : : : 佐保山に眠るニ人の女帝 : : : 「墳丘を造るな」という指示 江戸中期に発見された元明陵の石碑 : : : 聖武陵の地形を損なった多聞築城 : : : 平城 京ー佐保川ー聖武陵 : : : 宮城と陵を結ぶ水の流れ : : : 孝陵は歴代堪輿術の集大成 : : : 魄 の宿る場所を消し去る悪習 : : : 称徳女帝の陵を探せ : ・ : ・「山陵八町を除く」の割注 : 堪輿家の視点で推論すると : : : 太安万侶墓に見る真の風水 : : : 天智系復活はひとつの革 命 : : : 桓武天皇による父帝光仁陵の改葬 : : : 天智系の新陵区を造る 第六章風水て解く桓武天皇陵の謎 東アジア最高の風水の宝地 : : : 都から放り出された桓武天皇 : : : 平城天皇の言葉の裏を 読む : : : 桓武柏原陵の所在地を推理する : : : 四つの史料の記述から : : : 稲荷山の麓に見 つけたニ嶺一谷の兆域 : : : 十陵の筆頭は天智山科陵 : : : 天智天皇と桓武天皇を結ぶ選地 : 治定された 山科陵に見える朝山への糸 : : : 桓武天皇所望の地は村上陵であった : ・ 村上陵と「小右記』の矛盾 209
平城京の六陵一墓 飛鳥は日本史の原点てあるといわれる。日本国家の歴史を語るための種がわんさと落ち かんよ ているからてある。堪輿術の研究も飛鳥の陵墓を巡ることてひとつの種を得た。あとはそ の種をどう芽生えさせてゆくかを考えねばならない 育てる方法は意外に簡単てある。考古学の常套手段てあるが、まずは類例を集めること ぞある。集めるだけて終わるのは寂しいが、類例に当たってゆけば、たいていは次の着想 が生まれるものてある。ここては飛鳥時代以後の天皇陵を訪ね、堪輿術を感じさせる類例 を集めよ - フ。 てんじ まゆみ ひのくま 飛鳥京と藤原京に対応する陵墓区は檜隈と真弓てあった。大津京を造営した天智天皇の やましな 山科陵 ( 京都市山科区 ) を忘れているわけてはない。山科陵の立地からはすこし違った要素 あおに を引き出せるのて、第六章て扱おうと考えている。となれば、次に訪ねるところは、青丹 げんめい よし奈良の都、平城京に対応する陵墓区てある。平城京て政務を執った天皇は元明・元 じゅんにんこうにんかんむ しようしようむしようとく 正・聖武・称徳 ( 孝謙 ) ・淳仁・光仁・桓武の七帝てある。このうち、淳仁天皇は不幸に も藤原仲麻呂の乱によって淡路島に幽閉され、陵は淡路にある。桓武天皇は長岡京を経て 平安京へ朝廷を移し、陵所は洛南の伏見に落ち着いた。そのことは第六章て触れる。 164
どまんじゅう 砂礫を葺いた上饅頭形の円墳を馬蹄形の壇上に築き、前面には二段のテラスを付設して いる。これは孝明天皇陵よりも、より舒明天皇陵に近い設計てある。壇を含めた墳丘の平 つりがね 面形は西洋式の釣鐘のように裾が広がり、拝所から眺めた立体的な外観は、前方部から見 た前方後円墳に似ている。この「前方後円」の設計が大正天皇の多摩陵や昭和天皇の武蔵 野陵にそのまま採用されたことは、もうおわかりてあろう。谷奧部密着型の選地もしつか りと受け継がれた。復古的に再現された伝統が現在にまて到達しているのてある。 ただひとつ、桃山陵と多摩・武蔵野陵との相違点をあげるとすれば、それは陵前に広が る見事な風景てあろうか。この大胆な風景は桃山陵の個性てある。それは天智天皇の山科 陵や桓武天皇の所望した宇多野にもない広大て開放的な風景てある。 中国ては皇帝の死後に奉る諡号を人格や業績ぞ決定する習慣が古くから継承されてき おもむき た。陵の規模や趣にも皇帝の生格や実績が反映された。そして、同様の習慣が日本にも存 在したことは、本書て探訪した飛鳥の古墳や奈良朝の陵墓がそれぞれに個性をもっていた ことからも理解てきるだろう。陵が遺詔によって築かれたものなら、なおさら天皇の個性 が投影されたはすぞある。そうとなれば、桃山陵の個陸に明治天皇の人格と業績を見るこ し」がて、さよ , フ ならば、冒頭に訪れた多摩・武蔵野陵の個をどう解釈すればよいのだろう。多摩丘陵 0 269 天阜陵の環境を考える
結局、平城京の近くに葬られた天皇は元明・元正・聖武・称徳・光仁の五帝てある。た たわら 光仁天皇陵は平城京から東南へ山を越えた田原の里にあり、他の四陵とは事情が異な かすがのみや る。田原といえば、光仁天皇の父て春日宮天皇と追諡された施基皇子 ( 志貴皇子 ) の陵が おおのやすまろ あり、墓誌が出土して話題になった太安万侶 ( 安麻呂 ) の墓も近くにある。この六陵一墓 しながだに にはいすれも堪輿術が感じられる。磯長谷や飛鳥のようにかためて探訪することはてきな いため、個別に選地の特徴を指摘してゆくが、まずはその前に、平城京の風水論議に加わ ってお , フ。 元明女帝による遷都の詔 そがの 元明天皇は藤原京から平城京に遷都した女帝として知られる。父は天智天皇、母は蘇我 くらやまだのいしかわまろ 倉山田石川麻呂の娘、夫は草壁皇子、息子は文武天皇、娘は元正天皇てある。一一九歳のと きよううん きに夫を亡くし、四七歳のときに息子を失った薄幸の女性てある。慶雲四年 ( 七〇七 ) に おびとのみこ 息子の文武天皇が病没したのち、孫の首皇子 ( 聖武天皇 ) への中継ぎとして即位した元明 天皇は、翌年の和銅元年 ( 七〇八 ) 二月一五日に遷都の詔を発表した。遷都の動機には堪 輿術と大いに関わる内容が含まれているため、すこし長くなるが引用しておこう。『続日 本紀』に収録された詔からの抜粋てある。 しきのみこ 165 奈良時代の天皇陵を推理する
とを知っていた。絶えて久しい古墳を再現することに谷森ら御陵学者の情熱が注がれたの てある。 山腹を平たく削って墳丘を載せるテラスを三段に築き、段ごとに自然石の垣て囲み、縁 には柵をめぐらせ、南に拝所を設け、その上二段には鳥居を立てた。テラスの上面は白砂 されき を敷き、中央には石室を覆う砂礫の円墳を築き、墳項には巨岩を据え、松を植えた。棺槨 は中国の制度に倣い、石室は上古の古墳を復元し、墳丘には庭園を思わせる風流な造作が なされたのてある。そして、谷森善臣が孝明天皇陵の選地に求めた模範は、天智天皇の じよめい おさかのうち 父、舒明天皇の押坂内陵てあった。 とがまやま 第三章て訪れた舒明天皇陵を振り返っていただきたい。 陵は外鎌山から下る尾根の斜面 に造成した蹄形の壇上に築かれ、そこから前方に下る斜面には石垣て保護した二段のテ ラスが築かれていた。 孝明天皇陵にめぐらされた石垣の段は明らかに舒明陵の模倣てあ る。そして、「東を奧にして西へ口を開く谷の、開口部に近い北側斜面」に置かれた舒明 陵の選地法が孝明陵に採用されていることも、次頁の図から読めるてあろう。 各地の天皇陵をつぶさに見聞した谷森の頭 ~ 凶には諸陵の立地がすべて収まっていたはす てある。そして、泉涌寺の裏山て適地を探せと戸田に頼まれた谷森が月輪陵背後の山谷に おっさか 重ねた景色は、忍阪の谷てあった。「そうだ、 舒明陵てゆこう」と思わず手を打っ谷森の 265 大皇陵の環境を考える
E 型 40 溿 30 物 20 10 245 CoIumn 4 ーー歴代陵墓の兆域ーー えんぎしき へんさん 醍醐天皇の命により編纂が開始された「延喜式」は 927 年にお よその完成を見た。その「藷陵寮」には平安時代における陵 墓管理の袖則が記されている。歴代の天皇陵や皇族墓、あるい は外戚墓などが醍醐天皇からの親疎によって遠陵・近陵・遠 てんじ 墓・近墓に 4 分類され、近陵に位置付けられたものは天智天皇 の山不夋、こ天皇の由陵、桓武天皇の柏原陵などを代 表とする天智系列の天皇陵であった。それに対し、天武系列の えんりよう 天皇陵は上古の天皇陵と同枠の遠陵に分類され、管理ランキ ングの下位に置かれた。下の表から読み取れるように、諸陵の 丿或にもずいぶんと面積の差があり、仁徳天皇陵などの大型前 方後円墳は別として、大化改新以後の天皇陵では、天智系天皇 せつかん , 篁、 の丿或カ沃武系天皇の丿或よりも格段に広い。また摂関豕であ 崇応仁欽推舒斉天文元元聖称天春光桓藤藤藤 16 ー 16 る藤原氏の丿或が異常に広くとられたのは平安時代の政治性を 如実に物語るものであろう。 ロ天武・天智以前 ロ天武系 - 天智系 摂関家 32 30 8 20 20 8 16 36 16 幻 .4 宮 神神徳明古明明武武明正武徳智日 歴代天皇と摂関家の兆域比較グラフ 仁武原原原 不 等 48 34 22 呂 武久 天皇陵の環境を考える