氏族 - みる会図書館


検索対象: 出雲神話の成立
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1. 出雲神話の成立

個所にみられる。 意宇郡、安来郷。飛鳥浄御原宮御宇天皇 ( 天武 ) 意宇郡、飯梨郷。志貴嶋宮御宇天皇 ( 欽明 ) 出雲郡、健部郷。纒向桧代宮御宇天皇 ( 景行 ) 神門郡、日置郷。志貴嶋宮御宇天皇 ( 欽明 ) 数はこのように少なく、他国の『風土記』とは比ぶべくもない。しかし興味深いことには、 政治的・文化的に進んだ郡にこの事実がみとめられることである。 こうした風潮は時代のくだるにつれて、ますますはげしくなっていった。しかしここで注意 すべきことがある。それは本来国っ神の系統に属して、皇室の血縁をうけない氏族の帰趨につ いてである。彼らのなかでも幸いに記紀神話において、構成の都合上、高天原に属す天神とし て活躍したと記された多くの神もある。たとえば前述の鹿嶋の建御雷之男神のごときものであ る。しかもこの神は後に、権門藤原氏に奉斎されるようになって、天神としての地位を獲得し た。『姓氏録』のなかで天神の項目に属す氏族が多いのは、各氏族とも高天原の神の子孫とし て、皇室との関係をもとうとしたためである。 それに引きかえて、天孫・地祇の分類に属している氏族の数はあまりにも少ない。たとえば あたのはやと かささ 阿多隼人などは当然に地祇であるべきであるが、天孫の瓊々杵尊が今の鹿児島県川辺郡の笠沙 ににぎ 2 ー 2

2. 出雲神話の成立

惇戸主島取部勝来ロ建部玉依売年 + 一一 戸主神奴部歳尾ロ大伴部牛麻呂年七 同ロ大伴部床売年 + 四 戸主海部馬依ロ海部真虫売年 + 五 戸主額田部依馬ロ額田部手嶋売年 + 六 右のように杵築郷では、八十歳以上の高年者が四人、やもお ( 鰥 ) 四人、やもめ ( 寡 ) 三十九 人、独り者十人、そのほか不能自存者二人となって、合計五十九人が賑給の対象として列挙さ れている。ところが、右の表では点線の個所が欠文となって、実際には鰊四人・寡一一十一一人・ 襷五人しか記されていないので、点線のところで差引二十八人の名が脱落しているわけである。 そして里の名も因佐里 ( 稲佐 ) だけがみえるが、点線のところで一里か二里が落ちているもの 手とみてよい 掫さて、右の記録では戸主名も列挙されているので、これを戸主別に分類すると、左のように 話七氏族・十七家族となる。下段は戸主の名前である。 雲 因佐里 出 品治部奈理 額田部堅石 9

3. 出雲神話の成立

えって他地方の豪族である三輪氏や宗像氏が、みずからの系譜を曲げてまで大国主神の裔であ。 ると称している。もし彼らがな当に出雲族の血をひく者であるならば、町雲臣ど同じよう 0 ・内 穂日命を始祖とすべきである。それをことさらに大国主神を始祖であるとしたところに、この 間の秘密が存するわけである。 つぎぶみ 記紀は皇室に伝わる帝紀・旧辞のほか、各氏族の纂記などを参酌して編まれたが、ただそれ らを合理的に整理編集することにあったのではない。 白中心とする中央集権の確立という 大理念のもとに、皇室中心主義的な神話を編むことにあった。そのために、このときの神話創 作者の智恵は、その理念に添って随所に発揮された。 中でも国譲りの説話は、日本神話のピークをなす天孫降臨説話の前提をなす重要な説話であ る。それだけに神話創作者のもっとも創意の必要とされた部分であったといえる。したがって、 そこには出雲の神話を伝え記録しようなどという意図は、はじめから持たれていなかった。た だ高天原に対する根国として比定されている出雲国を、その神話の地域的背景として用いれば さき 事足りたのである。そこに「出雲国の伊那佐 ( 稲佐 ) 之小浜」や、「御大之前 ( 美保の埼 ) 」とい , っ地名が出ることになっこ。 しかし、舞台に登場する神々は、新しい神の名としてつくられた大国主神をはじめ、神話創 作者は自由に選ぶことができた。そして賀茂神戸に関係する神をます拾い上げてから後は、征

4. 出雲神話の成立

由で、またいっ杵築大社がつくられたのであろうか。 大社やその近くには縄文遺跡があり、とくに杵築大社の境内地から弥生時代の祭祀遺跡も見 つかっている。その住居が歴史時代へつながっていたかどうかについては確かめがたいが、こ の大社付近からは古墳が一つも見つからないことからいっても、大社付近は改めて新しく開発 されたように考えられる。しかし、それはさておくとしても、古代人が神の鎮まります場所と して考えた大社の地に、歴史時代の人も杵築の社をそのところに選定した。海にも近く、背後 きずき に適当な聖林を負っていることが、人びとの心をひきつけたのであろう。だが、支豆支社と呼 ばれた数多い神社の中から、現在の杵築大社をとくに取り上げ、しかも大国主神の社であると した人物は、一体誰であったのであろうか。 さきに示した『賑給歴名帳』の杵築郷のなかに、権勢ある氏族の名でもみえておれば、少 の見当がつくかもしれないが、すべて部民であるので決め手となるものを見つけることができ ない。またそこには七種類の部しか挙げてないが、この地域が新しく開発され、しかも数多く の小集団をつくって入植し、各々が神社をもって宗教的・社会的活動の基盤としていたことを 考えると、もっともっと多くの氏族がここに入植し、新しい天地を夢見ていたと思われるので ある。そして権力のある氏族は、あちらこちらに部民を分けて入植させたであろう。 九五頁の表の中からは、神門・出雲両郡で権勢をもっていた神門臣が四戸の部民を、若倭部

5. 出雲神話の成立

神奴部四戸 神戸 ( 神戸里で、十六名全員記載 ) 神奴部二戸 日置部 出雲積 これをわかりやすくするために、郡単位で臣姓のものを計上すると、順位は左のごとくなる。 ひおきべ 出雲郡では大領を出している日置部臣の一統は 出雲郡 神 断然他を引き離して多数である。しかし、少領の 日置部臣二十八戸神門臣十五戸 おおのおみ 建部臣十六戸刑部臣八戸大臣は上の表には現われていない。 この郡内の住 雲丈部臣九戸吉備部臣六戸人なのか、他からの移入者なのか不明である。 出出雲臣 四戸若倭部臣四戸 これに対して、神門郡の方は、その点において 日置部臣四戸 見 、り 勝部臣三戸明らかである。この地方のもっとも古い氏族とみ かんどのおみ 成 られ、朝山郷を本貫とする神門臣の一統が絶対多 おさかべのおみきびべのおみわかやまとべのおみひおきべの 族数を占めて、ここから大領が選ばれている。そのつぎは刑部臣・吉備部臣・若倭部臣・日置部 氏おみ 臣がやや同じ勢力でみとめられる。 四 吉備部臣の一族は郡の西部の多伎郷を中心として居住していたようであるが、日置部臣の一 4

6. 出雲神話の成立

領には『賑給歴名帳』にもその氏名を見ないほどの勢力の低い大臣をあてた。しかも政治の実 6 務にあたる主政には、みすからの日置部臣から選んであてたのである。 したがって出雲郡では、日置部臣の権力は独壇場のごとき呈を示したといえる。しかも日置 部臣の居住地は、出雲郡の中でも肥河に沿ってあったということに注意しなければならない。 さらにここで想起すべきことは、この日置部臣が舎人部としての御名代であったということ である。これについてはすでに第一部四節で述べたが、『出雲国風土記』の意宇郡舎人郷の条 くらのとねりべ にみえる倉舎人部で、天皇や皇族の近侍として雑役に仕えた。『風土記』にみえる日置臣志毘 は、大舎人として仕えたとあるが、大舎人は中務省に属し、雑事・宿直・供奉などをつかさど る職であった。この中務省というのは、侍従の任免・詔勅の布告を取り扱い、宣旨・上表を取 り継ぎ、また国史を監修し、さらに考課・位記などをつかさどる役所であった。そうした役所 に属し、近侍として雑用に奉仕する者を、朝廷へ送っていた部民であった。 このような事情を知った上で、改めて日置部臣の一族が肥河の流域に住みつき、特に出雲郡 では権勢をふるっていたことを考えるならば、肥河を舞台とする出雲神話が、大舎人として朝 廷に仕える者を出した日置部臣の人たちに負うものであることがわかるであろう。 おおのおみ ところが、さらにもう一つの有力な線がみとめられる。それは郡の少領の大臣である。『賑 給歴名帳』では出雲郡で健部・漆沼・河内・出雲・杵築の五郷しか記しておらす、宇賀・伊努 おおのおみ

7. 出雲神話の成立

臣が同じく四戸の部民を杵築の地の開拓のために入植させているのがわかる。一般に権勢ある 氏族ほど開発に力を入れたと思うが、この二氏族はともに神門郡内での権力者である。 海部は三戸みえるが、宍道湖に面した漆沼郷に海部首がみえ、また意宇郡司の主帳の名にみ える海臣も同じ系統かと思われるが、彼らは海岸で漁撈にたずさわり、この農業的開発とは関 係がなかったものとみてよい。鳥取部は一一戸であるが、神門郡に鳥取部臣、出雲郡健部郷に鳥 取部首がみえるので、その勢力のはいったものであろう。同じ二戸みえる額田部は二郡ではこ こだけに名をみるものであるが、大原郡の少領が額田部臣であるので、多分他郡からここに入 植したのであろう。同じ傾向のものとして津島部が一戸あるが、中臣氏の系統と思われる津島 直の勢力がどこからはいったのか不明である。品治部も二郡内では部民しかみられないが、仁 多郡司の主帳の名にみとめられるので、学問のある者があるいは仁多郡に住んでいたかもしれ 工丁、よ、 0 担 ( 注 ) 海部について『出雲国風土記』の出雲郡の産物の条に、「鮑は出雲郡尤も優れり。捕らうる者はいわゆる御埼 の 話 の海子これなり」と記されていることでわかるごとく、杵築郷の海部が鮑採りに従事していたことがわる。 神 以上は『賑給歴名帳』に記されている七つの部にだけついて戸籍調べをしてみたのであるが この北部山麓地域にかぎらず、簸川平野全体の開発には、各地から部民を入植させては土地の 私有をはかっていたものと思われる。この簸川平野を占める美談郷・伊努郷の氏族構成をうか あわび 9

8. 出雲神話の成立

( 注 ) 社部臣については他の文献で、天武天皇元年に近江軍についていた社戸臣大口という名がみえ、「姓氏録」に は左京皇別に許曽倍朝臣の名が記されていて、多分同族であろう。 すぐりべのおみ ぬかたべのおみ また意宇郡の西隣の大原郡の大領が勝部臣、少領が額田部臣で、これも表面上では国造との 関係をみとめがたいが、それを囲む飯石・仁多両郡の少領が出雲臣であることから、隣接の大 原郡とは深い関係が当然あったはずである。勝部というものの出自は不明であるが、韓からの 帰化族とみてよいようである。額田部は農耕の部であるが、『出雲国風土記』によると大領の 勝部臣虫麻呂も、少領の額田部臣押島もともに新造の寺院を建立しているところから、この郡 での権力者であったとみてよかろう。 以上のごとく各郡の郡領の調べからでは、大まかではあるが、国造の勢力が古くはその全域 にわたっていたものと判断してさしつかえない。しかもさらに知り得たことは、大領はその地 の国造あるいは小国造から選ばれているが、少領は別にその郡内居住者にかぎらず、広く人材 を求めたように受けとれることである。史料の上で明らかに当郡の勢力家から少領が選ばれて いるのは神門郡と大原郡ぐらいで、飯石郡のごときは意宇郡から移って任務についているし、 おおのおみ 出雲郡でも大臣という氏族を少なくとも『賑給歴帳名』では見出せないのである。秋鹿郡にし ても少領の蝮部臣は、本貫を仁多郡にもつものである。これは御名代であるだけに明らかであ る。したが 0 て、そこから秋鹿郡へ迎えたとも受け取れないことはない。楯縫郡の帰化族の高 0

9. 出雲神話の成立

の一一氏族の説話伝承は、日向神話の母体をつくったものである。ところが日向三代の神々は、 皇室の祖先として位置づけられたために、安曇・宗像両氏の説話伝承は、その三代の神々の事 績として語られる結果となった。そこで安曇・宗像両氏は神話の上で浮いてしまったわけであ る。ところが、南九州の隼人のように出自が低ければ、無理をしてでも天っ神の血筋をひく系 譜に改作したであろうが、彼らの門閥の故に国っ神としての地位に甘んじたのであろう。そし て安曇氏は祖神に綿積神を誇りをも「て挙げたのであるが、宗像氏は何を思「たか、彼らと血 縁的関係のない大国主神を祖神として届け出たのである。 たぎつひめ いちきしまひめ たきりびめ 宗像氏が斎きまつる三女神、多紀理毘売命・市寸嶋比売命・田寸津比売命は、天照大神と須 佐之男命の宇気比において、須佐之男命の子として生まれた。そして、その中の多紀理毘売命 を大国主神が娶って、味鈕高彦根命と下照比売命とを生んだことになっている。宗像氏は記紀 のこうした伝承を利用して、大国主神の子孫であると自称するようになったのである。しかし 厳密には、宗像氏が斎きまつる多紀理毘売命は大国主神の妻とされている。それをあえて大国 主神の血筋をびぐものである、 ~ 圄は、この国土のかっての統治者の一族であったことを っげようとしたためであろう。 三輪氏は前述もしたごとく、記紀には彼らの祖神大物主神が、出雲国の大国主神と同神であ るとは記していない。ただ『書紀』一書のみがそれに触れているのであるが、賀茂氏が神話の うけひ 214

10. 出雲神話の成立

四氏族構成から見た出雲 黄白水 / 穴 / 伊塩′ . 日 : 髙古志郷幻 神戸川 / / 、集 / 神門水藩 梵松山 健部郷 神、郷 多伎郷 佐比売 第 4 図出雲・神門郡の図