地からはあまりにも離れている。 出雲神話が国造出雲臣とも関係なく、また神門臣とも関連性が薄いということになると、一 体誰が神話の担い手であったのであろうか。こうした問題から、出雲神話の解明の糸口を手繰 っていくことにしょ , つ。 肥河を出雲神話の背景として取り上げた者は、当然に肥河の近くに住む者でなくてはならな ひおきべのおみ 。さきに神門郡日置郷を本貫とし、後に東へ伸びて肥河の流域に移り住んだ日置部臣の一族 のことについて述べた。そして彼ら一族は、肥河が郷の真中を貫流する出雲郡河内郷にもっと も多く群居するようになり、『賑給歴名帳』でも日置部臣二十三戸、日置部首四戸、日置部一 戸、合計二十八戸がみられるほどである。そして、この河内郷に彼らの手で寺院まで建立した。 やむや しかも、この一族は肥河に沿って、さらに塩冶郷・出雲郷へと伸びて行ったようである。 手 郡制が布かれて神門郡・出雲郡に分かれたときには、出雲郡では日置部臣は他の氏族を大き 掫く離した戸数の優勢さを示し、郡の大領の地位をも獲得した。これに反して、神門郡はかっての 話文化の中心であっただけに、神門臣・刑部臣・吉備部臣・日置部臣・若倭部臣などが共に優勢 雲な戸数をもって権力を競った。その点、出雲郡は文化の中心から離れていたので権力のある氏 族が見当たらず、ただ戸数においては健部臣が次ぐ程度であった。そして郡領としての大領・ 少領の二名をともに同姓で占めることが禁じられていたために、日置部臣は大領となって、少
六黄泉国の説話 と伯伎国の堺にある比婆山に葬るという説話となった。この『古事記』のしるす埋葬地の比婆 山をめぐって、、 しくつかの候補地が名のりをあげて争った。出雲の中では八東郡 ( 意宇郡 ) 岩坂 村の神納山、能義郡 ( 意宇郡 ) 日波村の峯山、同郡比田村の御墓山、仁多郡灰火山、同郡比布山、 さらに佐太神社や熊野神社まで御陵の所在地であると主張した。その他では鳥取県西伯郡賀野 村、広島県比婆郡美古登山、同恵宗郡比和村比布山などの名もあげられた。 これらの中で意宇郡岩坂村日吉の神納山は、江戸初期の承応二年 ( 一六五三 ) に雲州黒沢三右 衛門の撰になる『懐橘談』に比婆山としてみえるのが初めで、明治にはい 0 て宮内省から伊邪 那美命の御陵としての指定までうけた。しかし、高千穂峰が九州のどこの山でもよいように、 比婆山も黄泉国とされた出雲の国境近い所であれば、どこでもさしつかえがないのである。 なお、伊邪那美命を葬 0 たところの地名を明示しているものに、もう一つ『書紀』一書があ る。それには紀伊国の有馬村となっている。 かむさ 一書にいわく、伊弉冉尊、火の神を生みたもう時に、灼かれて神退去りましき。故れ紀伊 国の熊野の有馬村に葬しまつる「土俗、この神の魂を祭るに、花時にはまた花をもって祭 り、また、鼓・吹・幡旗をもて歌い舞いて祭る。 はなのいわや 現在の三重県熊野市有馬町に、海辺に近く俗に花窟という大きな岩壁が屹立し、その高さ 約五〇メートル、岩の下の正面に壇をつくり、玉垣をめぐらしている。伊邪那美命の御陵とし ざなみ
の国造などの豪族に課してつくらせ、その長にあてるので、国造家の出雲臣から選ばれ、その ためここでは蝮部臣という臣姓がついているのだと思われる。 こうしたことから仁多郡の大領が蝮部臣であり、少領が出雲臣であることは、この郡へ国造 家の勢力があったものとみてよかろう。 この復部臣が少領となっているのに秋鹿郡がある。大領は刑部臣であるが、これも允恭天皇 おしさかおおなかつひめ の皇后忍坂大中姫の御名代部で、允恭紀二年の条に、「忍坂大中姫侖を立てて皇后としたもう。 おさかべ この日、皇后のために刑部を定む」とあり、『古事記』には大后の御名代として刑部を定めた まい」とみえている。したがってこの刑部臣も、前と同様に国造に課せられた御名代の刑部を、 秋鹿郡から土地人民を献上し、国造一族からその長についたものであろう。しかも秋鹿郡から 雲さらに西部の楯縫郡の大領を、出雲臣が占めているのでもわかるように、秋鹿郡は国造の勢力 範囲にあったものとみられる。 こそべのおみ 見 、り この半島の楯縫・秋鹿につづく嶋根郡は、大領が社部臣、少領が社部石臣となっている。社 ( 注 ) 部 ( 渠曽部 ) は祭記関係の部であるというほか出自不明である。この半島の先端に美保神社があ 族るが、この神社の社家でもあったのであろうか。美保の関は山陰では名高い海の関所であるが、 氏 中海の出入口にあたっている大切なこの関所の支配権を、出雲国造が握っていなかったとは考 四 えられないことである。 9 4
大原郡 ( 郷八里二 + 四 ) 大領 正六位上勲十二等 勝部臣 少領 外従八位上 額田部臣 主政 无位 日置臣 工位 主帳 勝部臣 大郡では大領・少領・主政が各一名と主帳二名であるが、上郡ではすべてが各一名、中郡と 下郡はともに大領・少領・主帳が各一名、小郡は領・主帳各一名である。出雲の意宇郡は大郡 になるが、右の表では主政二名となっている。これには事情があったと思うが、いずれ後に触 れたい この中でとくに大領と少領の郡司には、国造をもってあてるというのが、大化改新の詔によ 雲 たる方針であった。この国造とは大国造と、小国造すなわち県主をさすものとみてよいが、それ らだけに、大領と少領がどの氏族から選ばれているかが問題になる。 しかし、その問題にはいるまえに、『出雲国風土記』に記録されている郡領が、実際にその地 族の勢力者から選ばれていたことを証拠だてる史料として、天平十一年の『出雲国大税賑給歴名 かんど 帳』を示そう。これには出雲郡と神門郡の二郡しかないし、また里内の全部の氏ではなく、扶 四 養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏だけを列記している。だが、それによっても大
宇郡が出雲国の文化・政治の中心であったため、中央から国司が派遣されたときも、国司が政 務をとる国庁は、意宇川が平野にかかるところ、すなわち意宇平野の西南端、いまの松江市大 ろくしょ 草町の六所神社の西北方あたりに設けられた ( 注 ) 。ここから国造の館は近い。そして、この国 庁に意宇郡の郡家もおかれたが、国造はその意宇一郡の郡領という地位に限定されるようにな ったのである。 ( 注 ) 国庁の位置については、これまで八東郡出雲郷の上夫敷にあったとされてきたが、加藤義成氏は「出雲国風土 記参究』で、今の松江市大草町の六所神社の西北方あたりに設定すべきであるとした。そこには慶長七年や元禄四年 の検地帳に、「こくてう」の小字のみえることからも認めてよいと思う。六所神社は国司が出雲国の総社として創立 したもので、この種の神社は国庁の近くに建てられることが多かった。 ところが、理解に苦しむ事件が国造果安の時代におこった。それは国造家がこの故地を見捨 てて、和銅元年から養老五年の間 ( 七〇八 ~ 七二一 ) に、出雲郡の杵築大社のある地へ移転したこ はたやす とである。国造家の系譜の第二十六代の国造果安の注記に、 伝に云う。始祖天穂日命、大庭に開斎し、ここに至って始めて杵築之地に移る云々。 とみえている。しかも、この移転の行なわれたときは、国造果安はなお意宇郡の大領であった。 つぎの国造広嶋が国造職を相続したのは、のちの養老五年 ( 七一一一 ) である。果安が意宇郡の大 領の職にありながら、事務もとれない遠い杵築の地へ、何故に館を移したのであろうか。
のせる新院の条に、 新造の院一所。山代郷の中にあり。郡家の西北二里なり。厳堂を建立つ。〔住僧一躯。〕飯 石郡少領出雲臣弟山が造る所なり。 とみえている。この山代郷には国造家があるので、国造家のための菩提寺を建立したものと思 われるが、その寺院を飯石郡の少領である出雲臣弟山が建てているのである。彼の名は『出雲 国風土記』と同じ位階で、天平六年の『出雲国計会帳』の九月一一日の条に、「飯石郡少領外従八 位上出雲臣弟山に伝馬参匹の還却状を給う」とみえているが、『続日本紀』の天平十八年三月 の条では、「外従七位下出雲臣弟山に外従六位下を授け出雲国造となす . とあって、彼が出雲 国造を相続している。そして『出雲国風土記』の監修者であり、意宇郡で国造兼大領の職にあ 雲った広嶋の跡を継いで、第二十八代の国造になった。国造も郡領も終身なので、広嶋の死後に た継いだのであろうが、弟山が子であったかどうかは不明である。しかし国造の相続者が飯石郡 らの少領であり、その少領のときに郷里に寺院を建立したことなどから考えて、この弟山はもと 曜国造家の一員であ「たのを、飯石郡へ少領として派遣されたものとみてよかろう。大領が直系 族をもって相続されている好例としては、『出雲国風土記』の出雲郡の条に、 ふね 氏 新造の院一所。 : 旧の大領日置部臣布禰が造る所なり。今の大領佐底麻呂が祖父なり。 ( 注 ) 四 とみえて、大領が直系親族で継がれている。そこで弟山は国造兼意宇郡の大領の職をつぐべく
0 譲りをするほどの大神の大きな社があ・ ? たとほ考えられない。この大国主神をまつる大 9 社の創建を、国造まその大神の子孫であるといって朝廷に願い・出、・・軒廷でもぞの・創立ば当然計 可ざれるべ・きものであ「たから、その許可によ「て国造が杵築に赴き、かくして杵築大社の創 建となったものと考えられる。 きずき もちろんその時には、『出雲国風土記』にみえる名の支豆支社と呼ばれていたものの中の一 つが選ばれたであろうし、またこの大社創立を契機として、地主神の属性から、大国主神とい う偉大な神格へと発展させられたとみてよかろう。 こうした出雲神話の裏付けとして、その社を建てその神をまつる役目を朝廷から許されみと められたがために、意宇郡の ' 大という重職を他方でもちながらも、あえて権の地に転居し て、 大社にをび・どすぎ灣い - ・でろう。そして、国造は意宇郡の大領という地位にあり ながら、身は四十キロも遠く離れた出雲郡の杵築の地に置いて、ひたすら杵築大社に奉仕し た。こうした常識では許されないみ一ん・て訛ざれ・たのは一に出雲神話を裏付けることに お・・。・・て、、、島叫 3 ・・記紀祕話の正当性をしめす必要があう・たからである。 しかし実際の問題として、意宇郡の最高責任者である大領を遠く他郡に住まわせて、行政の 実務につかせないことは、郡行政の上では不便なことであった。ところが幸いなことに、意宇 郡は神郡とされて、そのため父子兄弟から大領・少領をともに選ぶことが許されていた。『出
高麗の帰化人とみている。加藤義成氏の『出雲国風土記参究』をはじめその他各書も同じ見解である。しかし、これ 6 は欽明天皇の倉皇子の御名代部である。 ( 注 2 ) 意宇郡舎人郷に日置臣志毘の伝説が伝えられているが、このほか国造の住地と同じ山代郷に日置君目烈が新 造院を建立し、しかも彼は出雲神戸の日置君猪麻呂が祖であると記している。さらに山国郷にも日置部根緒が新造院 を建てているので、日置部臣の一族は意宇郡だけでも舎人・山代・山国の各郷と出雲神戸へもひろく分布していたし 寺院を建立しうる権力を持っていたことがわかる。これに対し、西部の神門・出雲両郡でも多くの戸数と強い権勢を 持っていた。 以上のように、この出雲西部の二郡、すなわち神門郡も出雲郡もともに、出雲国造の血統を 日臣・日置部臣によって治められることになったのである。 うけた神 おさかべの このほか、この地方で勢力のあった各氏族を参考までに挙げると、神門郡の少領をした刑部 おみ 臣の一族が、古志郷から北に分布していたようである。『賑給歴名帳』には刑部臣八戸、刑部 四戸がみえるが、北部地方の郷名がみえないので実数はもっと増すであろう。これはさきにも わかやまとべ 述べたように、允恭皇后の御名代部である。また神門郡の若倭部は開化天皇の御名代で、若倭 部臣四戸、若倭部臣族一戸、若倭部連一一戸、若倭部十一戸がみられ、朝山郷に多くみられる。 これに対して、他国の豪族も多く入りこんでいるが、主なものとしては神門郡で吉備部臣が みられる。これは吉備臣の部曲であるが、吉備部臣六戸、吉備部君三戸、吉備部六戸があり、 西部の多伎の地の開拓にはいったようである。また安部臣の一族の丈部が、斐伊川を挾んで両 ( 注 )
たかよしのふびと ( 注 ) からもっていたものとみてよい。しかも、少領には帰化族の高善史があたっているが、この : こごこ同姓の者を禁ず 氏族が勢力があるほどの戸数をもっていたとは考えられないのてナナ君令ー るために、学問と文筆に秀でた帰化族を補佐役として選んだのであろう。そうした点で、楯縫 郡は全面的に出雲臣の勢力下にあったとみられるのである。 ( 注 ) 楯縫郡沼田郷の新造の寺院は、大領の出雲臣大田が建立したということが、『出雲国風土記』にみえる。したが って出雲臣大田は沼田郷を本貫として勢力をもっ氏族であったと思われ、国造出雲臣の一族であったとみてよかろう。 おおきさいのみやっこ これに対して、出雲臣が少領をしている飯石郡では、大領が大私造となっている。実は 『出雲国風土記』の諸本は、「大弘造 . とっくっているが、栗田寛氏が『標註出雲国風土記』で大 私造の誤りであろうとして訂正した。この大私造は『続日本紀』の元明天皇和銅二年 ( 七〇九 ) 正月の条に、「正六位上大私造虎に並に従五位下」とみえるものと同じ姓である。出雲国では 天平六年 ( 七三四 ) の『出雲国計会帳』に「熊谷軍団の百長、大私部首足国ーの名がみえるが、 熊谷軍団は飯石郡におかれていた。そこで『出雲国風土記』と時期の同じころに、飯石郡の軍 団長に大私部首がなっていたわけで、そのためこの一統は門閥もあり、またこの郡にかなり多 く分布もしていたとみてよい。この大私部については、『姓氏録』右京皇別に「開化天皇の皇 ひこいます 子、彦坐命の後なり」と記されている。 それよりも注意すべきは、この郡の少領である出雲臣である。『出雲国風土記』の意宇郡に
加賀﨑 . 島根部 美保浜 黄泉 / 穴・ 耿鹿郡 楯縫 国庁 出雲郡 冰神、 大原郡 飯石 . ・△上 「 / / 売】石見国 備後国 第 1 図 古代出雲国全図