三須佐之男命の出自 記紀の出雲神話では、須佐之男命は出雲の神々を代表する最高の祖神として記されている。 だが、これまで述べてきたことで明らかなように、須佐之男命は神門川中流の一地方的神とし て発生したものにすぎず、出雲国を代表する光栄ある祖神として、優遇される資格をもつもの ではなか 0 た。それなのに、どうしてかくも光栄ある地位を与えられ、さらには皇室の祖神で ある天照大神の弟神という関係で結ばれるまでにな 0 たのであろうか。 出雲国が神話の裏方として選ばれたことについては、すでにさきに述べたが、高天原に対し て根国、顕国に対して黄泉国、善霊に対して悪霊、こうした陰陽の二原の理は、神話構成の上 での茫本的思想であ「た。したが 0 て、陽神と陰神の和合によ「て国土が修固され、神々が生 まれるが、古い形としては最高神として日月二神が生まれ、日の神は高天原を、月の神は夜の 国を治めるという構成であったと思う。 その後、天皇を中心とする中央集権の確立を計るという線に沿「て編さんされた神話におい ては、天皇のもっ統治権の尊厳と神聖性をしめす必要から、政治的思想のもとに改修された。 164
創立した。そして、国造が大国主神の子孫であることを主張することによって、時の政治の時 流に乗り得たのであった。 そのために、国造が杵築へ転居して杵築大社に奉仕するようになってからは、大国主神を喧 伝することにつとめたものと思われる。『古事記』より二十一年後に編まれた『出雲国風土記』 に、大穴持命 ( 大国主神 ) の名が随所にあらわれているのも、そうした国造の宣伝によったもの とみてよい。ことに国造が『出雲国風土記』の最高監修者であっただけに、故意に大国主神の 名を記すことを強いた点もあったであろう。 出雲国造にとっては、保身の術から大国主神を承認し、またそれとの血縁関係を主張する必 要から神名の宣伝もした。しかし、国造にとっては無関係であったその他の神々に対しては、 好意をもっ必要はなかった。さきに考証した須佐之男命の出雲における冷遇も、そうした感情 からおこったものであった。今ここで取り上げている事代主命に対しても、同じことが言える わけである。記紀で大きく取り扱われた事代主命が、『出雲国風土記』にその名を示さないの も、当時は国造の好意がこの神にまで及んでいなかったからである。こうした事情からでも、 事代主命がもと出雲の神でなかったことがわかるであろう。 しかし『古事記』の編者が賀茂神戸を仲介として、味鈕高彦根命と事代主命を大国主神の子 とし、国譲りの説話で重要な役をもたせたことから、葛城の鴨氏と同じように、大和国でも
諸学者もこの解釈を採ってきている。 『令集解』巻七、『神祇令』第六に「謂。天神者。伊勢。山城鴨。住吉。出雲国造斎神等類是 他。地祇者。大神。大倭。葛木鴨。出雲大汝神等類是也」とあ「て、大国主神は地祇、熊野大 神は須佐之男命とみて天神であると定めている。こうした熊野神社の祭神についての誤りは、 還く出雲国造みずからが身の安泰を願うため、政策的手段としてとった作為に発するものであ った。しかし、そうした無理は衆人を納得さすだけの力を持たす、初期のころは朝廷でも熊野 神社を杵築大社より上位に置いて格づけをしていたが、しだいに杵築大社の下位に立つように なった。そして明治四年の社格制定のときには、地祇の大国主神を祭神とする杵築大社が官幣 大社になったのに反し、熊野神社は天神とされながら国幣中社とされ、大正五年になって国幣 大社に昇格したのである。、 須佐之男命はこのように熊野神社では祭神として浮き上がった存在なのである。これに対し 明らかに須佐之男命という名のもとに祭神となっているのは、この神の故地である東須佐村の 旧国幣小社須佐神社である。しかし、この神社もおくれて、明治三十二年にな「て国幣小社に 列格した。こうしたところにも、この神の不幸があったといえる。 2
阿用という地名説話ではあるが、この説話がもっているモチーフには、須佐之男命と奇稲田姫 8 との説話に通じるものを感じる。 一つ目の鬼は山の神である。山田をつくる若者が山の神に食われ、それを竹原に隠れ逃げた 父母が、こわさに動動とふるえて見守っている。これは山村に伝えられて来た説話である。だ が、この説話は近隣の村々にも伝えられていたはずであり、山村と農村とではモチーフは同じ であっても、表現は変わっていたであろう。そして、もしこの説話が稲田の多い里で話された としたら、どうなるであろうか。山の神は水田を守る水の神に変わるであろう。そして全国に 見る習俗と同じように、ここでも水の神は蛇体として示されるであろう。さらに若者が稲田を つくる娘に代えられたとしたら、記紀にみる奇稲田姫とその父母の足名椎・手足椎の説話に近 いものになる。しかも、奇稲田姫命を守護神とする熊谷郷、肥河が支流の三刀屋川と分岐する やまたおろち ところの平野の里で、この説話が語られなかったとはいえない。まず八俣の大蛇退治の説話の 大略を述べてみよう。 高天原から追放された須佐之男命は、妣の国である根の国に行くべく、出雲国の肥河の上流 とりかみ にある鳥髪 ( 鳥上 ) の里にたどりついた。折しも箸が河から流れてくるので、川上に人が住んで いるのであろうと思って、川をのばって行くと、老夫婦が娘をなかにして泣いていた。 そこで「おまえたちは誰か」とたずねられると、老人の答えるのは「わたしは国っ神で、大 あよあよ
光りかがやいて生まれた神であるということを述べんとしたものである。 くけど この加賀神埼は、秋鹿郡の佐太神社から十キロ以上も東の島根郡島根村字加賀の潜戸崎のこ とである。本来は右の説話の後段にあるこの潜戸の岩窟が、神霊の住む神秘な場所で、舟行人 の注意しなければならないことを述べたものであったと思われる。それが後に佐太大神の生誕 きさかひめ と結ばれいそこから岩窟にまつられている支佐加比売命が、佐太大神の母神ということにされ たのであろう。この支佐加比売社は、『風土記』では加賀社、『延喜式』では加賀神社とみえる もので、旧郷社であった。岩窟の神は一般に女神とみられるが、この女神は漁夫たちの岬の神 として信仰されていたものであろう。岬の女神で名高いのは、この島根半島の先端にある旧国 中社、美保神社の美穂津姫命がある。この女神は『書紀』で取り上げられたので、光栄の道 を歩んだ。 だが、ここで考えられることは、第一はこの佐太大神が佐太川流域の守護神として発生しな がら、のちには島根半島全域からも信仰される大神となっていたということである。第二はも っと大切なことで、佐太大神と支佐加比売命とが母子の関係で結ばれたことである。 それぞれの地域の神は、その地域では最高の守護神であって、他の地域と血縁的関係をもっ ものではない。部落の守護神は本来は排他的である。右の説話は発生的事情を異にし、もと何 らの関係もなかった神が、血縁的に結ばれて行くしだいを示したものとして、学問的に興味が ー 42
ゲンザガ島の西にあって猪目洞窟と呼ばれ、輝緑凝灰岩の断崖に怏まった集塊岩層が、海触を R 受けてできた洞穴である。昭和十五年のころは崖崩れの土砂で、穴ロは高さ一メートル、幅一一 メートルばかりの櫛形をなし、穴口から石を転がして入れると、共鳴しながら落ちる。昭和ニ 十三年に漁港修築のとき、この穴ロの土を採取したところ、縄文期から弥生時代・古墳時代に およぶ考古資料とともに、人骨十数体、副葬品多数が発掘された。この穴口から三三メートル の扇状斜面が、いわゆる黄泉の坂にあたるところだという。 ここはさきの四節で述べたように、須佐之男命が大国主神を追って行ったという黄泉比良坂 にあたっている。この宇賀郷の黄泉の坂・黄泉の穴の伝説は、古くから出雲に伝わっていたも のと思われる。というのは、『古事記』に影響されて語られたものであるならば、必ず伊邪那 美命の名をこの伝説のなかに織りこむはずである。また、さきに述べた意宇郡の揖屋の地に、 この伝説を記しただろうと思われるからである。 、こうした出雲国に古くから伝わる伝説が、出雲国を黄泉国に比定するのに好都合であったで あろう。しかし『古事記』は何も出雲国の黄泉の伝説をそのまま恥ゅ入れたのではない。こだ ヒ、ントを得たのにすぎないのであって、『古事記』の黄泉の説話は他の地方に伝わる葬送習俗 や世界観の伝説をもって構成したのである。 しかし、『古事記』が黄泉国を出雲国としたことから、亡くなられた伊邪那美命を、出雲国
このはなのさくやびめ ひこほほでみ ほでり の浜に降りて、その吾附隼人の娘、木花之佐久夜毘売を娶って、日子穂々手見命や火照命 ( 隼 人等の祖 ) を生んだという記事によって、天孫とされた。また出雲国造の出雲臣はもっと複雑で あめのほひ ある。これこそ地祇となるべきものであるが、祖神の天穂日命が国譲り説話では征討者の側に 仕組まれた。それならば天神とされるかと思うと、そうではなくて一等さがって天孫の部類に 属している。 こうした事情を知っこ上で、『姓氏録』で地祇に属すもを調べてみると、大別して四つに 分類できる。すなわ大神 ( 賀茂、宗形の大国主神系統安亠い・・緲経神系統実毛慥 の・認〔 ( J である。純粋な国っ神系統はわずかこれだけにな っている。如何に各氏族が・白室や高天原の神々の血筋をひく者として、系譜を改作しようとし 係たかがわかるであろう。 関 の この中で吉野の国栖は文化的に低くみられていたので別とし、東征の神武天皇を案内し、後 と 氏 には功によって大倭国造に任せられたという記紀の記録をもっ楓津彦 0 系纒が、地祇に属し 鈊ているのは不思議である。多分彼らは記紀の伝承を誇りとして、あえて天神の血をひく系譜に 輪改作しようとしなかったのであろう。あるいは祖先の名誉によって、このように数少ない地祇 の中に組み入れられることはないものと考えていたのかもしれない。 これに対して、安曇氏と宗像氏が地祇に属したことは皮せある。北九州の古豪であったこ 213
山津見神の子であり、名は足名椎といし 妻の名は手名椎、娘は奇稲田姫とい、 しますーと答え た。「ではどうして泣いているのだ」とお問いになると、「わたしにはもと八人の娘がいまし やまたおろち たが、八俣の大蛇が毎年きては娘を食います。今が来る時期になっていますので泣いているの です」と答えた。そこでさらに「大蛇はどんな姿をしてるのか , とたずねられると、「目は諟 ずき 醤のように赤く、一つの休に頭が八つ、尾が八つついており、体にはこけや桧や杉が生え、長 さは八つの谷におよび、腹を見るといつもただれて血がにじんでいます」と答えた。 そこで須佐之男命は、その老人に「おまえの娘であるならば、わたしの妻としてくれない か」といわれた。ところが、老人は「失礼ですが、あなたのお名前を存じませぬ」といったの で、「自分は天照大神の弟で、いま天から来たところだ」と答えられた。そこで、足名椎はよ 流ろこんで娘をさし上げた。 の須佐之男命は娘を櫛に変え、自分の髪の中に刺しこんで隠して、足名椎・手名椎に命ぜられ た。「おまえたちは強い酒をつくり、家のまわりに垣をめぐらし、その垣には八つの門をつく 治り、 門ごとに台をすえて酒船をのせ、それに酒を盛って大蛇を待てよーと。やがて八俣の大蛇 が来て、言われたとおりに酒船ごとに頭を一つすっ入れて酒を飲んだ。そして酔いつぶれて寝 大 てしまった。 とっかのつるぎ そこで須佐之男命は腰の十拳剣を抜いて、大蛇をずたずたに切られたところ、肥河が血で赤 巧 9
おおなむち おおなむち は少ない。一般に『古事記』は大国主神、「書紀』は大己貴神と用い、そのほか時に大穴牟遅 神 ( 記 ) ・大己貴命 ( 紀 ) と呼んでいる。これに対して、大神の称を用いているのは三例にしかす ぎす、大己貴大神 ( 神武紀 ) と出雲大神 ( 崇神紀・垂仁記 ) とである。したがって記紀ともに、少よ くとも神代巻においては大神の称では呼んでいないのである。 おおなもちのみこと この神が出雲ではどう呼ばれていたかというと、『出雲国風土記』では大穴持命といし あめのしたっくらしし のほか所造天下大神・所造天下大神大穴持命と用いられている。しかし「所造天下大神」と いう表現は、後につけた美称であることが明らかであって、この神の木来の名は「大穴持命」 である。 こうみてくると、記紀でわすか三例だけ大神の称でこの神が呼ばれ、また『出雲国風土記』 で美称として大神の称を冠せられていても、それは後の形容であって、本来この神は大神の称 では呼ばれていなかったことがわかるであろう。ことに「出雲国風土記』が「所造天下大神」 たと形容したのは、記紀によって性格づけられた国譲りの神に対してなされたものである。 大しかも、さきの各節で考証したことによって明らかなように、地主神としてのこの神の発生 雲は新しくもある。また熊野大神・野城大神・佐太大神のごとく、地名を冠して大神と呼ばれて いる神々とも、発生的・時代的に異なっている。したがって、出雲において古くから大神の称 で呼ばれ、かなり広範な地域を信仰的・宗教的地盤としていた神は、熊野大神・野城大神・佐
しかもそ出一一一申 〔〔〔〔〔い昏・お前述もしたごとく、出雲の東・西の豪族、意宇川流域に居住した 国造出雲臣や、神門川流域に住む神門臣とに県ぐ、肥河を背景とし、下流の簸町平野い大 国主神を中心とするものであった。また祖神も意宇川の上流に祀られていた熊野大神ではな く、後に考証するが神門川の・上流 0 褪られていた須佐之男命を、あえて巴河い上市に天を椰 として取り上げているものであった。しかも、その神話の素材を朝廷の神話作成者に提供した 者は、国造でもなく、古い豪族の神門臣でもなく、出雲郡の大領とな 0 た日置部臣か、少領の 大臣の一族であったと思われる。彼らは肥河の流域に住むものであった。 したが「て、『古事記』や『日本書紀』に出雲神話として載せられた内容は、出雲国造にとっ ては予想もしなかった驚きであ「たと思われる。往古から出雲族の大神であった熊野大神の名 も見えないし、本貫である意宇川流域に因んだ説話も記されていない。それに代わって簸川平 おおなもち 野の新開地の開発の神として祀られた大穴持命 ( 大地主命 ) が、『古事記』では翻訳されて大国 主神と呼ばれ、国譲り説話の主人公とな「ていたのである。これに対し、須佐之男命は神門川 の上流、須佐の地の説話にみる神ではあ「たが、大蛇退治のこの説話は舞台を肥河に変えられ ていた。この二つの説話が記紀にみる出雲神話の二大中心をなすものであるが、ともに出雲国 造と関連をもつものではなかった。 どういうわけで出雲国造や、それに関係する古い叫調が収グ上げ・られないで、彼ら