っとも有力な古豪の一つ三輪氏も、出雲族と血縁的関係をもたせた。『古事記』が三輪氏の斎 く御諸山の大物主神と大国主神とが協力して国作りするという説話を載せたのも、そうした両 者の関係が生じたためであった。 しかし豪族の三輪氏が出雲族の系統だと明らさまに述べることは、当時の情勢では困難であ ったのであろう。そのため、記紀ともに大国主神と大物主神との関係を同神で結んでいない。 ただ『書紀』一書だけが、二神の同神説を述べているのであるが、多分この史料は三輪氏から 出たものであろう。 、、他方、出雲国造にとっては、大和国の名門である三輪氏と血縁的関係をもっことは、何より も望ましいことであったはずである。出雲国造が神賀事のなかで、大物主神を大国主神の和魂 係であるという表現をもって述べているのも、そうした出雲国造の心理をあらわしたものといっ のてよかろう。しかし、反対に三輪氏にとっては、出雲族系であるということによって、誇りが 氏もてるものでもないし、その必要もなかったはすである。 つぎぶみ 賀持統朝の五年 ( 六九一 ) に、大三輪氏以下十八氏にその祖の纂記を上進せしめられたが、記紀 輪の世に出る前のこのときに、三輪氏が出雲族系であるということをしめす史料が伝わってお り、また三輪氏もそれを承認していたならば、この纂記の上進のときにそのことに触れてお り、それは記紀に必す記されたはずである。また誤って『古事記』がそれに触れることを忘れ
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五国造系譜の疑点 崇神天皇六十年には、出雲国が大和朝廷に征伐されたことが『日本書紀』に記されている。 もちき かむたから たけひてるのみこと みことのり 群臣に詔してのたまわく、武日照命の天より将来たれる神宝は、出雲大神宮に蔵む。 たてまっ たけもろすみ これ見ま欲しと。すなわち矢田部造の遠祖武諸隅を遣わして献らしむ。 つかさど ふるね この時に当たりて、出雲臣の遠祖出雲振根、神宝を主れり。ここに筑紫国に往きて遇わ うまし・からひさ うかすくぬ うけたまわ いりね ず。その弟入根、すなわち皇命を被りて、神宝を以て弟甘美韓日狭と子鷓濡渟とに付 たてまっ けて貢り上ぐ。 すでにして出雲振根、筑紫より還り来て、神宝を朝廷に献りつと聞きて、その弟飯入根を 責めていわく、数日待たなむ。何を恐みてか、たやすく神宝を許ししと。 主権の表象である神宝は、神から授かったものとして、どの部族もそれを奉持していた。右 の記事は、出雲国の主権を表象する神宝を朝廷へ差し出すよう命じたものであるが、出雲大神 ふるね 宮に納めている神宝の管理者である兄の振根は、折悪しく筑紫へ旅していて留守であった。と ししいりね ころが、弟の飯入根が朝廷の威におそれて、一戦もまじえないで渡したのに対し、なせ帰国す かしこ おさ 8
の国造などの豪族に課してつくらせ、その長にあてるので、国造家の出雲臣から選ばれ、その ためここでは蝮部臣という臣姓がついているのだと思われる。 こうしたことから仁多郡の大領が蝮部臣であり、少領が出雲臣であることは、この郡へ国造 家の勢力があったものとみてよかろう。 この復部臣が少領となっているのに秋鹿郡がある。大領は刑部臣であるが、これも允恭天皇 おしさかおおなかつひめ の皇后忍坂大中姫の御名代部で、允恭紀二年の条に、「忍坂大中姫侖を立てて皇后としたもう。 おさかべ この日、皇后のために刑部を定む」とあり、『古事記』には大后の御名代として刑部を定めた まい」とみえている。したがってこの刑部臣も、前と同様に国造に課せられた御名代の刑部を、 秋鹿郡から土地人民を献上し、国造一族からその長についたものであろう。しかも秋鹿郡から 雲さらに西部の楯縫郡の大領を、出雲臣が占めているのでもわかるように、秋鹿郡は国造の勢力 範囲にあったものとみられる。 こそべのおみ 見 、り この半島の楯縫・秋鹿につづく嶋根郡は、大領が社部臣、少領が社部石臣となっている。社 ( 注 ) 部 ( 渠曽部 ) は祭記関係の部であるというほか出自不明である。この半島の先端に美保神社があ 族るが、この神社の社家でもあったのであろうか。美保の関は山陰では名高い海の関所であるが、 氏 中海の出入口にあたっている大切なこの関所の支配権を、出雲国造が握っていなかったとは考 四 えられないことである。 9 4
大原郡 ( 郷八里二 + 四 ) 大領 正六位上勲十二等 勝部臣 少領 外従八位上 額田部臣 主政 无位 日置臣 工位 主帳 勝部臣 大郡では大領・少領・主政が各一名と主帳二名であるが、上郡ではすべてが各一名、中郡と 下郡はともに大領・少領・主帳が各一名、小郡は領・主帳各一名である。出雲の意宇郡は大郡 になるが、右の表では主政二名となっている。これには事情があったと思うが、いずれ後に触 れたい この中でとくに大領と少領の郡司には、国造をもってあてるというのが、大化改新の詔によ 雲 たる方針であった。この国造とは大国造と、小国造すなわち県主をさすものとみてよいが、それ らだけに、大領と少領がどの氏族から選ばれているかが問題になる。 しかし、その問題にはいるまえに、『出雲国風土記』に記録されている郡領が、実際にその地 族の勢力者から選ばれていたことを証拠だてる史料として、天平十一年の『出雲国大税賑給歴名 かんど 帳』を示そう。これには出雲郡と神門郡の二郡しかないし、また里内の全部の氏ではなく、扶 四 養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏だけを列記している。だが、それによっても大
とみえているように、郡領としての大領・少領には、その地の国造から選ばれる方針がとられ た。しかし、ところによっては小国造、すなわち県主も用いられたはずである。 これを天平五年 ( 七三一一 l) に編さんされた『出雲国風土記』によって、意宇郡の項をしめすと 次のようになる。 意宇郡 ( 郷十一里三 + 三、餘戸一、駅家三、神戸三里六 ) 国造兼大領外正六位上勲十一一等出雲臣 少領従七位上勲十ロ等出雲臣 主政外小初位上勲十ロ等林臣 擬主政无位 出雲臣 海臣 主帳无位 无位 出雲臣 の他の各郡の郡司については、次節に一覧して表示するが、郡の大小によって郡司の数に差が しあった。意宇郡は右のように上郡のため六名であるが、嶋根・出雲・神門・大原の各郡は中郡 蛇で大領・少領・主政・主帳の四名、秋鹿・楯縫・飯石・仁多の各郡は下郡で大領・少領・主帳 郡 の三名である。 国司が治める国衛は意字郡におかれたが、この意宇郡の一帯は古くから出雲の文化の中心で
必要があろう。これは同一人物で、したが 0 て神門臣に属す者とみてよいであろう。ところが 崇神紀六十年の悲劇の主人公、出雲振根の伝説は、さきにも考証したように、出雲国の崩壊を 後に脚色したもので史実ではないが、勅撰書としての『書紀』に記録されていることから、大 きな影響を与えた。それはまず『姓氏録』に載る出雲臣・神門臣の系譜にあらわれ、さらに国 造家に伝わる『出雲国造世系譜』の上に変化をもたらす結果となった。 まず『姓氏録』をみると、すでに掲示したごとく、出雲臣・神門臣ともに「天穂日命の十二 うかずくぬ すえ 世の孫、鵜濡渟命の後なりーとみえているが、この鵜濡渟は、振根の弟にあたる飯入根の子で ある。兄の振根が弟の飯入根を殺して朝廷に謀反するさまが見えたので、殺された飯入根の子 が朝廷へ赴いてその事情を報告し、朝廷からは吉備津彦などの征討軍が派遣されて、この振根 はついに誅される。そこで賊名をおびた振根の跡目は、朝廷側につくした弟の飯入根の子に継 がれることになる。 この崇神紀の伝説が出雲国の主権者の名を表わした最初のものであり、また出雲平定と新し い出雲の再建とが語られていることから、朝廷側について出雲の再建を計った鵜濡渟を、出雲 国造の祖としたのである。しかしこの伝説と、そこに名をつらねる人物は、ともに出雲西部を 舞台とした神門臣のことである。そこで神門臣がこの「鵜濡渟の後なりーとのべるのはわかる が、国造の出雲臣の系譜にこの名を出すのは変である。ところが、それをあえて祖先の名とし
朝臣を賜う。臣ら同じく一祖の後にして、独り均養の仁に漏れたり。伏して望みらく、彼 の宿禰の族とともに、同じく姓を改むるの例に預からんと。ここにおいて姓を宿禰と賜う。 天武朝の改姓では、宿禰の三位に対して、臣は六位にまで下げられている。そこで中央の公 かんど 職にあ「た彼としては、同祖の土師氏を証として、改姓を願い出たわけである。 このように同族が同じ姓で分かれてゆく例は、同じ出雲の地だけでみても、出雲臣から神門 たけるべ 臣が分かれ、さらにそれから御名代として健部臣が生じたのでもわかる。それは『出雲国風土 おさかべ たじひべ 記』の出雲郡健部郷にみえているが、そのほか出雲の蝮部臣・刑部臣などの御名代も、同じく 出雲臣からの分かれとみられるものである。 このように出雲臣は、地方の国造でありながら、一般の国造がもっ直の姓ではなく、臣姓を 名の「てきた。しかし、国造と出雲臣の称を授か「たのは、さきに紹介した『出雲国造世系譜』 が伝えるように、反正天皇の御代からであ「たとみてよかろう。 『日本 しかし、この反正天皇の御代に、はじめて出雲国が大和朝廷に服属したのではない。 雲書紀』をみると、その先々代の仁徳天皇一年の条に、天皇の直轄領の田である倭の屯田および 造屯倉の屯田司として、淤宇宿禰の名が記されている。この淤宇宿禰は、国造家の系譜では第十 六代の意宇足奴命のことである。これでみると、出雲の主長が仁徳朝にはすでに朝廷に出仕し ていたことがわかる。そしてつぎの第十七代から、系譜も「国造宮内臣」と記し、このときか あたい
は傷つくのをもってためしたのである。そして、太田亮博士も指摘しているように、この允恭 むらじ 朝における氏姓の是正から後は、臣姓は孝元天皇以前の皇統の裔に授け、また連姓は天神の裔 あたい で、しかも中央の勢力家にかぎられることになった。さらに国造のほとんどは直姓であった。 そこで、出雲国造が允恭朝からのちに氏姓を賜わったとすると、地方の豪族にすぎない国造 として、当然に直姓でなければならないはずである。それにもかかわらず位の高い臣姓を名の っていることからみても、允恭朝以前にその姓の起こりがあったものとみられる。実際それ以 前にあっては、姓の別にはっきりした制約があったとはみえないからでもある。 允恭朝以前は姓の選定に規制がなかったとはいっても、出雲国造が身分にしては高い臣姓を 名のったのには、やはりそれ相応の事由があったためとみてよい はじのおみ そのことで考えられるものに、出雲関係で古く臣姓を賜わった土師臣がある。『日本書紀』 くえはや の垂仁天皇七年の条に、相撲の祖といわれる力士の蹶速のことが記されている。この蹶速に対 のみのすくね 抗できる力士として、出雲から野見宿禰が呼び出され、勝負して蹶速を殺し、野見宿はその ひはすひめ 雲ままとどまって朝廷に仕えた。ところが、皇后の日葉酢媛の薨去にあたり、殉死のかわりに埴 造輪を立てることを天皇に進言し、出雲から土部百人をよびよせ、人馬や種々の埴輪を御陵に立 かたしところ はじのつかさま てた。そこで「天皇、厚く野見宿禰の功を賞めたもう。また鍜地を賜う。すなわち土部職に任 はじのおみ けたもう。よりて本の姓を改めて、土部臣という」とみえている。 はじべ
のにすぎない。高天原と根国との真の対決は、次の大国主神による国譲りの神話で行なわれた のである。 まことに須佐之男命は悲劇的な神であったといえる。この悲劇は、その後も引きつづいてお 『古事記』が世に出た四年後、出雲国造は朝廷へ参向して神賀事を奏上したが、その おおなもち くしみけぬ ひまなご かぶろぎ ざなぎ ネ詞のなかで「伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、 二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等」とのべたことである。この熊野大神は本来、意 宇平野に発祥した出雲族の最高神であって、須佐之男命と同神ではない。それをあえて「伊射 那伎命の日愛子」という美称を冠して、須佐之男命と同神であるがごとく見せたのには、実は 出雲国造の苦衷の策があったのである。 国造が代々斎きまつってきた熊野大神は、記紀には取り上げられなかった。それに反して須 佐之男命と大国主神とが、出雲の最高神として記されていた。そこでこの皇室神話にみずから を添わすよりほかに、出雲国造の生きる道はなかった。その方法として、前節までに述べたよ うに、大国主神をまつる杵築大社の創建のために、国造は杵築の地へ移転した。他方、『古事 記』に須佐之男命が出雲の神々の祖神として記されているので、それは彼らの祖神熊野大神を さすものだとし、この二神を同神とすることによって、熊野大神の社の存続と発展とを策した のである。こうした作為のもとに、「伊射那伎の日真名子」という表現がつくり出されたので