大原郡 ( 郷八里二 + 四 ) 大領 正六位上勲十二等 勝部臣 少領 外従八位上 額田部臣 主政 无位 日置臣 工位 主帳 勝部臣 大郡では大領・少領・主政が各一名と主帳二名であるが、上郡ではすべてが各一名、中郡と 下郡はともに大領・少領・主帳が各一名、小郡は領・主帳各一名である。出雲の意宇郡は大郡 になるが、右の表では主政二名となっている。これには事情があったと思うが、いずれ後に触 れたい この中でとくに大領と少領の郡司には、国造をもってあてるというのが、大化改新の詔によ 雲 たる方針であった。この国造とは大国造と、小国造すなわち県主をさすものとみてよいが、それ らだけに、大領と少領がどの氏族から選ばれているかが問題になる。 しかし、その問題にはいるまえに、『出雲国風土記』に記録されている郡領が、実際にその地 族の勢力者から選ばれていたことを証拠だてる史料として、天平十一年の『出雲国大税賑給歴名 かんど 帳』を示そう。これには出雲郡と神門郡の二郡しかないし、また里内の全部の氏ではなく、扶 四 養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏だけを列記している。だが、それによっても大
大領 外正八位下 外従八位下 主政 外大初位下 无位 主帳 神門郡 ( 郷八里二 + 二、余戸一、駅一「神戸一 ) 外従七位上勲十二等 大領 外大初位下勲十一一等 擬少領 主政 外従八位下勲十一一等 无位 主帳 飯石郡 ( 郷七里 + 九 ) 外正八位下勲十一一等 大領 外従八位上 主帳 无位 仁多郡 ( 郷四里 + 二 ) 大領 外従八位下 外従八位下 外大初位下 主帳 日置部臣 大臣 若倭部臣 神門臣 刑部臣 吉備部臣 刑部臣 大私造 出雲臣 日置首 蝮部臣 出雲臣 品治部
四氏族構成から見た出雲 擬主政 无位 主帳 无位 无位 嶋根郡 ( 郷八里二 + 四、余戸一、駅家一 ) 大領 外正六位下 外従六位上 主政 従六位下勲十ロ等 主帳 無位 秋鹿郡 ( 郷四里 + 二神戸一 ) 大領 外正八位下勲十ロ等 権任少領 従八位ド 主帳 外従八位下勲十ロ等 楯縫郡 ( 郷四里 + 二、余戸一、神戸一 ) 大領 外従七位下勲十ロ等 外正六位下勲十ロ等 主帳 无位 出雲郡 ( 郷八里二 + 三、神戸一里二 ) 出雲臣 海臣 出雲臣 社部臣 社部石臣 蝮朝臣 出雲臣 刑部臣 蝮部臣 日下部臣 出雲臣 高善史 物部臣
とみえているように、郡領としての大領・少領には、その地の国造から選ばれる方針がとられ た。しかし、ところによっては小国造、すなわち県主も用いられたはずである。 これを天平五年 ( 七三一一 l) に編さんされた『出雲国風土記』によって、意宇郡の項をしめすと 次のようになる。 意宇郡 ( 郷十一里三 + 三、餘戸一、駅家三、神戸三里六 ) 国造兼大領外正六位上勲十一一等出雲臣 少領従七位上勲十ロ等出雲臣 主政外小初位上勲十ロ等林臣 擬主政无位 出雲臣 海臣 主帳无位 无位 出雲臣 の他の各郡の郡司については、次節に一覧して表示するが、郡の大小によって郡司の数に差が しあった。意宇郡は右のように上郡のため六名であるが、嶋根・出雲・神門・大原の各郡は中郡 蛇で大領・少領・主政・主帳の四名、秋鹿・楯縫・飯石・仁多の各郡は下郡で大領・少領・主帳 郡 の三名である。 国司が治める国衛は意字郡におかれたが、この意宇郡の一帯は古くから出雲の文化の中心で
かきのたみ のもっ田荘と部曲が、広大な地域にわたって存していた。そこで、まずこれを天皇の主権のも郵 とに統一把握することが計画されたのであろう。この畿内における成功によって、地方に散在 する皇族や豪族の部曲と田荘をも、たやすく統制することができるからである。 こうした天皇を中心とする国家体制の整備のために、各地へ派遣されたのが国司であった。 もちろん、各地に根強くのこる豪族の私有部民の組織を、このときの国司の派遣によって、一 拠に破壊しえたものではない。それは天武天皇四年 ( 六七六 ) に、改めて廃止の詔が発せられた ことによってもわかる。だが少なくとも、中央官僚である国司を国の長として派遣し、それま での統治者であった国造・県主・稲置の上に位置づけたことは、地方豪族のもっ権力を大きく 削減せしめるものであった。 さかん かみすけだいじよう 国は大・上・中・下の四等とされ、官吏としては守・介・大掾・小掾・大目・小目がおかれ た。『大宝令』によると、出雲国は上国とされ、守・介・掾・目の各一名と史生三名であった。 おおみやっこすけのみやっ【まつり ( とひとふみひと この下の郡は、郷の多少で大・上・中・下・小の五等に分け、大領・少領・主政・主帳 の四階級が設けられた。このうちの大領・少領は終身官であった。大化二年の改新の詔のなか こ、も、 いさぎよ その郡司には、みな国造の性識清廉くして、時務に堪えたる者を取りて大領・少領となせ。 てか、 0 かすしるたくみ 強幹しく聰敏くて、書雫にエなる者を、主政・主帳となせ。 いさお
四氏族構成から見た出雲 国造が出雲の地をどの程度、勢力下におさめていたかということは、考えなければならない ことである。それを知る手がかりとしては、時代がさがるが『出雲国風土記』の各郡の末尾に みえる郡司の連名が役立つ。そこには、その郡の風土記を筆録した郡司の職名、大領・少領・ 主政・主帳の名が連記されているので、これが編さんされた天平五年 ( 七三 = l) のころの出雲の 支配状況をうかがうことができるのである。しかも大領・少領には、その地の国造ないしは県 主があてられることにな 0 ていたので、特に大領・少領がどの氏族から選ばれているかを知る ことによ「て、それ以前におけるその地の豪族をさぐることもできる。まずそれを示すと左の ごとくである。 意宇郡 ( 郷十一里 = 下三、余戸一、駅家三、神戸三里六 ) 国造兼大領 外正六位上勲十一一等 従七位上勲十ロ等 主政 外小初位上勲十ロ等 林出出 雲雲 臣臣臣
臣が同じく四戸の部民を杵築の地の開拓のために入植させているのがわかる。一般に権勢ある 氏族ほど開発に力を入れたと思うが、この二氏族はともに神門郡内での権力者である。 海部は三戸みえるが、宍道湖に面した漆沼郷に海部首がみえ、また意宇郡司の主帳の名にみ える海臣も同じ系統かと思われるが、彼らは海岸で漁撈にたずさわり、この農業的開発とは関 係がなかったものとみてよい。鳥取部は一一戸であるが、神門郡に鳥取部臣、出雲郡健部郷に鳥 取部首がみえるので、その勢力のはいったものであろう。同じ二戸みえる額田部は二郡ではこ こだけに名をみるものであるが、大原郡の少領が額田部臣であるので、多分他郡からここに入 植したのであろう。同じ傾向のものとして津島部が一戸あるが、中臣氏の系統と思われる津島 直の勢力がどこからはいったのか不明である。品治部も二郡内では部民しかみられないが、仁 多郡司の主帳の名にみとめられるので、学問のある者があるいは仁多郡に住んでいたかもしれ 工丁、よ、 0 担 ( 注 ) 海部について『出雲国風土記』の出雲郡の産物の条に、「鮑は出雲郡尤も優れり。捕らうる者はいわゆる御埼 の 話 の海子これなり」と記されていることでわかるごとく、杵築郷の海部が鮑採りに従事していたことがわる。 神 以上は『賑給歴名帳』に記されている七つの部にだけついて戸籍調べをしてみたのであるが この北部山麓地域にかぎらず、簸川平野全体の開発には、各地から部民を入植させては土地の 私有をはかっていたものと思われる。この簸川平野を占める美談郷・伊努郷の氏族構成をうか あわび 9
雲国風土記』にもみえるように、意宇郡だけは大領・少領とも出雲臣から出ている。そして国 造が大領を兼職しているのであるが、これは本来、国造が熊野神社の神事をもっかさどる必要 から、補佐役として一族の者から少領を出すことが許されていたのである。 しかし、国造が意宇郡に居住していて、熊野神社に奉仕するとともに、杵築大社へも出向い にさして不便はなかったであろうが、出雲神話の主役を勝ちとっ て神祭を行なうのならば、」 た大国主神に奉仕することが第一義となって、居住地まで杵築へ移した以上、意宇郡の行政の 面では支障があった。そこで、大郡には大領・少領・主政が各一名、主帳二名という規則にも かかわらす、意宇郡では主政林臣、擬主政出雲臣とあって、主政が二名に増員されている。こ の郡司定員の例外は、大領の不在を補う処置としてとられたものと考えられる。 だが、こうした不合理も案外おがく許されていて、国造の大領兼職が鬣カれるに至ったの 者は、ずっと後の延暦十七年 ( 七九八 ) のことであった。その事情を『類聚三代格』に載る太政官 符によってみよう。 の 社 太政官符 大 応レ任二出雲国意宇郡大領一事 右被二大納言従三位神王宣一稱。奉レ勅。昔者国造郡領職品有 / 別。各守ニ其任一不一敢違越一。慶雲三年以来 令三国造兼一一郡領一。寄二一一「ロ神事一動廃二公務一。雖三則有二闕怠一。而不レ加ニ刑罸一。乃有ニ私門日益一不い利二公
写真 17 つ く れ た 国 主 神 と 子 関 で ん で 201 五 的茂 史神 料戸 斤十 で地 りれ城方 し葛 鴨逆 う進 大た し出史み鹿す て四事十天神 る関 い拾 かの 。を のか の関 記地でで ・が出き の神 っ族 の者 そ葛をを神一 に具 れ城 三棆・賣茂氏との関係 大和葛城の高鴨神社 け り て い こ と か り 古 係事神 記 の だ編て あ新国 く 考 あ る に 易 社 の 神 領 が の 尸 し 出 癶 住 のがが子で ん り れ 。て い る で あ る 0 し カゝ し ( ま ん移神も社 の と し て る こ と 出 ら 大 の主た鴨大 の あ る と いすた そ オ↓ 紀 ' 社 、和神領 そ 。係そ らは故地解 か鴨ま出 へ国けがが 和 、方ま に し ら住見 の斎は た 設社派 こ の 般 の の で事同交月 日 え皮る 張 進 上 る 事 と い っ 記 が る と 、て城 は 。四平社 ハ 年 進を出を 日 賀 茂 に 上当雲 、帳時 税会当 神計す る国め 系糸 壱 と の と の 1 係 し の
やむや 族は隣の出雲郡河内郷から本郷日置郷・塩冶郷にかけて居住していたようである。刑部臣の一 族は古志郷を中心に住んでいたようで、欠文の高岸郷の方へも延びていて、実数はもっと増す ものとみてよかろう。そうした事情を勘案すると、少領が刑部臣から選ばれる可能性がもっと も高いわけである。もちろん、この郡にのみ名をみる吉備部臣の勢力も、西部の多伎郷に多い ので、ここからは主政が選ばれている。 ( 注 ) 『出雲国風土記』には新造の寺院名と建立者の名が記されているが、寺院はその氏族の本貫の郷に建立される。 神門臣は朝山郷、刑部臣は古志郷、日置部臣は出雲郡河内郷に建立した。中でも日置部臣は河内郷を本貫とし、また 戸数も群をぬいて多いが、神門郡日置郷かその地名から名くは本貫地であり、後に河内郷の方へのびたものであろう。 こうしてみると、大領・少領は大体において、その地の勢力ある氏族から選ばれたものとみ てよい。右の二郡のほかは調べようがないので、全体について決定的には述べられないが、そ の傾向は知りえたわけである。 ところで、意宇郡は神郡でもあるので、同姓の郡領を二名出すことができ、国造の出雲臣か ら大領と少領がともに選ばれている。この郡は国造家の本貫の地であるから当然のことであ る。そのためか擬主政と主帳まで出雲臣から採用されている。 にた ところが、出雲臣がその他の郡でも郡領に選ばれている。楯縫郡の大領、飯齎郡・仁多郡の 少領とである。楯縫郡の大領が出雲臣から出ている以上は、国造の一族がこの郡の権力を古く ひおき たてぬい