伊邪那美命 - みる会図書館


検索対象: 出雲神話の成立
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1. 出雲神話の成立

六黄泉国の説話 と伯伎国の堺にある比婆山に葬るという説話となった。この『古事記』のしるす埋葬地の比婆 山をめぐって、、 しくつかの候補地が名のりをあげて争った。出雲の中では八東郡 ( 意宇郡 ) 岩坂 村の神納山、能義郡 ( 意宇郡 ) 日波村の峯山、同郡比田村の御墓山、仁多郡灰火山、同郡比布山、 さらに佐太神社や熊野神社まで御陵の所在地であると主張した。その他では鳥取県西伯郡賀野 村、広島県比婆郡美古登山、同恵宗郡比和村比布山などの名もあげられた。 これらの中で意宇郡岩坂村日吉の神納山は、江戸初期の承応二年 ( 一六五三 ) に雲州黒沢三右 衛門の撰になる『懐橘談』に比婆山としてみえるのが初めで、明治にはい 0 て宮内省から伊邪 那美命の御陵としての指定までうけた。しかし、高千穂峰が九州のどこの山でもよいように、 比婆山も黄泉国とされた出雲の国境近い所であれば、どこでもさしつかえがないのである。 なお、伊邪那美命を葬 0 たところの地名を明示しているものに、もう一つ『書紀』一書があ る。それには紀伊国の有馬村となっている。 かむさ 一書にいわく、伊弉冉尊、火の神を生みたもう時に、灼かれて神退去りましき。故れ紀伊 国の熊野の有馬村に葬しまつる「土俗、この神の魂を祭るに、花時にはまた花をもって祭 り、また、鼓・吹・幡旗をもて歌い舞いて祭る。 はなのいわや 現在の三重県熊野市有馬町に、海辺に近く俗に花窟という大きな岩壁が屹立し、その高さ 約五〇メートル、岩の下の正面に壇をつくり、玉垣をめぐらしている。伊邪那美命の御陵とし ざなみ

2. 出雲神話の成立

迎えられた。そのとき伊邪那伎命は女神に、「いとしいわが妻よ、いっしょにつく 0 た国はま だ作り終えていないので帰ってほしい」と相談される。すると女神は、「ほんとに惜しいこと です、早くいらっしやらなかったので。わたしはすでに黄泉国の竈で煮た物を食べたので、も う帰れなくなりました。でも背の君がわざわざおいで下さったのですから、黄泉国の神と帰 0 てよいかどうか話し合ってみます。しかしその間は決してわたしを見てはいけません、と答え られて、御殿の中に引っこんで行かれたが、時間が長くかかり過ぎたので男神は待ち切れなく なった。そこで櫛に火をつけて御殿の中にはいって見られると、女神の身体には蛆がうようよ しており、頭をはじめ胸や腹や手足に八つの雷がいた。 男神はそれを見ておそれをなして逃げ帰られるときに、妻の伊邪那美命は「わたしに恥をか かせになりました」とい 0 て、黄泉国の醜い女を遣わして夫のあとを追わせる。そこで、男神 は鬘や櫛を投げながら逃げられる。さらに八つの雷に千五百の黄泉国の軍勢をそえて追わせに 話なったので、男神は腰の剣を抜いて後手で振りながら逃げて来られ、ついに黄泉国の堺にある の泉比良坂の麓にある桃の実を三つ取 0 て投げつけられると、みんな逃げ返「てしま「た。 泉最後に、妻の伊邪那美命が自分であとを追って来られた。そこで男神は大きな岩を引いてき て黄泉比良坂を塞いだ。そして岩を中にはさんで向かい合 0 て、絶縁の誓いを立てられた。そ 六 のとき女神は、「いとしいわが背の君よ、あなたがわたしにそのようなことをなさるならば、 7

3. 出雲神話の成立

ゲンザガ島の西にあって猪目洞窟と呼ばれ、輝緑凝灰岩の断崖に怏まった集塊岩層が、海触を R 受けてできた洞穴である。昭和十五年のころは崖崩れの土砂で、穴ロは高さ一メートル、幅一一 メートルばかりの櫛形をなし、穴口から石を転がして入れると、共鳴しながら落ちる。昭和ニ 十三年に漁港修築のとき、この穴ロの土を採取したところ、縄文期から弥生時代・古墳時代に およぶ考古資料とともに、人骨十数体、副葬品多数が発掘された。この穴口から三三メートル の扇状斜面が、いわゆる黄泉の坂にあたるところだという。 ここはさきの四節で述べたように、須佐之男命が大国主神を追って行ったという黄泉比良坂 にあたっている。この宇賀郷の黄泉の坂・黄泉の穴の伝説は、古くから出雲に伝わっていたも のと思われる。というのは、『古事記』に影響されて語られたものであるならば、必ず伊邪那 美命の名をこの伝説のなかに織りこむはずである。また、さきに述べた意宇郡の揖屋の地に、 この伝説を記しただろうと思われるからである。 、こうした出雲国に古くから伝わる伝説が、出雲国を黄泉国に比定するのに好都合であったで あろう。しかし『古事記』は何も出雲国の黄泉の伝説をそのまま恥ゅ入れたのではない。こだ ヒ、ントを得たのにすぎないのであって、『古事記』の黄泉の説話は他の地方に伝わる葬送習俗 や世界観の伝説をもって構成したのである。 しかし、『古事記』が黄泉国を出雲国としたことから、亡くなられた伊邪那美命を、出雲国

4. 出雲神話の成立

三出雲神話成立の経緯 『古事記』・『日本書紀』ともに出雲神話を多く取り入れているが、中でも『古事記』の神代 巻はその三分の一以上の紙面を出雲神話にさいて載せている。こうした神代巻の構成は、その 投影として、神武以後の人皇時代の記事にも及び、出雲国に関する記事が他に比して多い結果 をもたらしている。しかも、それは紙面からみる分量だけではない。神話の内容面からも同じ ことがいえるのである。 うっしくに ざなみ 伊邪那伎・伊邪那美命の説話においても、出雲国は顕国に対する黄泉国として取り扱われて いる。その子の天照大神は皇室の祖神として高天原を治め、須佐之男命はその弟神という血縁 関係で結ばれてはいるが、大蛇を切「たときに得た剣を天照大神に献上し、最後には出雲なる 根国に追放される。剣は主権を表徴するものであり、根国の須佐之男命が高天原の天照大神へ 服属することを示したものである。 ににぎ この投影が大国主神の国譲りの説話である。すなわち、降臨する天孫の邇々芸命に、大国主 とよあしはらなかっくに 神が豊葦原中国の国土を譲与するのである。これは天っ神と国っ神との対決を取り扱ったもの よみのくに

5. 出雲神話の成立

六黄泉国の説話 よみのくに 出雲国は神話の裏方として根の国・黄泉国とされたが、黄泉国として選ばれる素因が出雲国 にあった。その一つは、出雲郡宇賀郷に黄泉の坂・黄泉の穴と伝える伝説をもっていたことで あり、その二は、すでに第二部三節で述べたごとく、出雲国出自の土師連の一族が葬儀をつか きどる職をもつようになったことからの連想であろう。 黄泉国の説話は『古事記』が大きく取り上げ、しかもそのなかで出雲の地名まで用いている。 これに対して『書紀』は、本文では黄泉国の説話を取り扱わず、『書紀』一書のなかで述べてい るが、すでにここでは出雲との関係もなくなっている。したがって、この黄泉国説話の発想は 『古事記』の編者によるものとみてよいようである。ここにも『古事記』の編者と出雲国との 密接な関係の存したことがうかがわれる。 ざなみ 『古事記』の黄泉国の段をみると、火の神を生んだことが原因で伊邪那美命は亡くなられ ははき ざなぎ る。そこで出雲国と伯伎国の堺にある比婆の山に葬った。そこで伊邪那伎命はその妻に会おう と思われて、女神のあとを追って黄泉国に行かれる。女神は堅くしまづた御殿の戸をあけて出 6

6. 出雲神話の成立

わたしはあなたの国の人を、一日に千人ずつ絞殺するでしよう」といわれる 9 そこで男神は《 「いとしいわが妻よ、あなたがそうするならば、わたしは一一日に千五百人ずつ生ませましよう」 ふや とおっしやった。さて、いわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂という坂である。 みそぎはら この黄泉国から帰られた伊邪那伎命は、身体についた穢れを禊祓うべく、筑紫の日向の橘の . お ' ど ( あはぎはら 門の阿波岐原に行かれ 1... そ効川瀬で禊抜われるときに、たくさんの神々が化生するが、最 後に左の目を洗うとき 0 夫照大神、つぎに右の目を洗うときに月読命、つぎに鼻を洗われると きに化生するのが佐之男命である。 - 出雲国である黄泉国の穢れを祓うために男神が日向国へ赴くという構成は、黄泉国と顕国、 出雲国と日向国、それは神話の裏方と表方とを示したものであった。したがってこの説話のな かには当時の葬送習俗や世界観が織りこまれているが 1 地理的には神話の表方としての日向 と、裏方としての出雲との対立において述べられているものである。 ところが黄泉比良坂を、出雲国の伊賦夜坂に当てている 9 比良坂・の「ひら」は全国方言にみ られる傾斜地の意である。この伊賦夜坂は出雲の東部、意宇平野にはいるかかり、いまの八東 郡東・出・雲 - 町ゑ揖倒いおだである。ここには「延喪』にのる ' 伊布夜社がぢり、伊邪那美命な とを祀っている。・しかし、このあたりに黄泉宀」 " - っ - い・て・の・伝ば、何 ' 一ー・つ伝わら・でい 、よい 0 これ は黄泉国とされた出雲国の入口、当時は意宇川の下流域が政治的・文化的中心となっていたの 2 ー 8

7. 出雲神話の成立

国っ神を征服した天っ神による国土経営の正当性を、天皇が現実に統治する国土の上において しめそうとしたのである。そこに征服される現実の国として、出雲国が選ばれたのであった。 そのために根国・黄泉国としての性格も、また出雲国は負わされたのである。 ところが、高天原に対する根国の統治者としては、陰陽の理からは月の神があてられるべき であろうが、日月ともに天にあることから、根国の統治者として出雲の神があてられたのであ る。そこまでの作為はよかったといえるが、この根国の統治者を、宇宙の創造神である伊邪那 ぎ ざなみ 伎命・伊邪那美命の出生の子から除外することはできない。そのため日の神・月の神・須佐之 男命という三貴子を生むことになった。 これは陰陽の理からはすれていたが、さらに、女神・男神・男神という組み合わせ、また自 然神・自然神・人格神という不合理な三神対立の結果をまねくことにもなった。この不合理は 自神話研究者を悩ませ、ついには須佐之男命の強暴な性格から、嵐神であると解しようとさえし ( 注 ) のた。しかし、それによって矛盾が解消されたわけでもない。 男 之 ( 注 ) 須佐之男命を嵐神と解した最初は高山樗牛 ( 『古事記神代巻の神話及び歴史』 ) で、高木敏夫 ( 「日本神話伝説 佐 須 の研究』 ) 、倉野憲司 ( 「日本神話しなど同じく日月嵐という自然神格でとらえて、不均整を救おうとした。また女男 男という配列から救うため、月の神と須佐之男命と同神であるとした意見には、本居宣長 ( 「古事記伝』 ) 、平田篤胤 ( 『古史徴』 ) 、姉崎正治 ( 『素戔鳴尊の神話伝説しなどがある。

8. 出雲神話の成立

れた。それは何も宮崎県の日向を意識したものでもない。神話創作者の頭の中では、皇室の発 祥地という点で、明るい表方の意味をもつ日向の地名がつけられたのにすぎないのである。亡 ざなみ いざなぎ くなった伊邪那美命を黄泉国に訪れた伊邪那伎命が、黄泉国の穢れを祓うために日向の小戸の あはぎはら 檍原の川でみそぎしたという説話も、裏方の黄泉国に対して、その反対の表方の地名として日 向が用いられたものであった。 ににぎ うがやふきあえず そして、日向三代の自室の神々、邇々芸命・日子穂々手見命・鵜葺草葺不合命にまつわる説 の両族が伝えていたものであろうが、九州に降臨して大和へ東遷す るという神話の仕組みのため、これら国っ神の伝承する神話を、日向三代の神々のものとして まとめたのであった。そのため日向神話は皇室の祖神について語るものとなり、宗像・安曇の 名は消されてしまった。 経しかもさらに注意すべきことは、高千穂峰に天降った天孫が、九州の南の果て、鹿児島県薩 あた かささ ことかっくにかつながさ 立摩半島の先端にある吾田の笠沙の御崎に降り立ち、そこの国っ神である事勝国勝長狭を征服 このはなのさくやびめ 話し、娘の木花之佐久夜毘売を娶り、日子穂々手見命が生まれるという説話になっている。この地 は吾田隼人族の根拠地であるが、異民族視されていた隼人族の居住地へ降りて、その娘と結婚 して日向第二代の祖神を生むとしたのも、朝廷の主権がおよぶ最果ての南の地から、漸次東遷 して中原に至るという広大な神話の構成を企図してのためであった。本来ならば日向の高手 ひこはほでみ 5

9. 出雲神話の成立

るものは水であ「た。意宇川流域の田畑をうるおす水の源に、水の支配者である生産の神を鎮 めまつったのである。 その天狗山の山腹には、かなり広大な平地があ 0 て、そこを旧社地と伝えているが、社記で はこれを天宮平地とい 0 ている。それに接して、中世ここに寺院が建立されたが、現在は能義 郡を流れて安来市にはいる飯梨川中流の広瀬町山佐に遷 0 ている。これに対し、熊野神社は火 災にあ 0 て山麓の市場部落に遷し、さらに少し下流の現在の宮内部落に鎮座することにな「た。 こうした水源の山にまつる熊野大神は、俗に水分神的性格をもつもので、下流の田畑の生物 を見守る神であ「た。そのため、神名にも生産の意がふくまれている。 『出雲国風土記』では、「伊弉枳乃麻子にます熊野加武呂乃命」とみえ、また・『延喜式』 かぶろぎ にのる出雲国造神賀詞では、「伊邪伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と呼ばれ ている。「伊邪那伎命」の子とするのは、後世において皇祖とむすぶための修辞である。また 「加武呂」は「神ろ、で、「ろ、は美称の接尾語であるが、実際には「祖神」という意で用い られている。神賀詞では「加夫呂伎」とな 0 て、男性をしめす「伎」を語尾につけているが これも後世に男神とみるようになったからであろう。 くしみけぬ したが 0 て、「伊邪赧伎命の愛し子である祖神の熊野大神、櫛御気野命」ということになる が、形容をのぞくと、櫛御気野命となる。そして、この「櫛 , は「奇」、すなわち霊妙の意の

10. 出雲神話の成立

のにすぎない。高天原と根国との真の対決は、次の大国主神による国譲りの神話で行なわれた のである。 まことに須佐之男命は悲劇的な神であったといえる。この悲劇は、その後も引きつづいてお 『古事記』が世に出た四年後、出雲国造は朝廷へ参向して神賀事を奏上したが、その おおなもち くしみけぬ ひまなご かぶろぎ ざなぎ ネ詞のなかで「伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命、 二柱の神を始めて、百八十六社に坐す皇神等」とのべたことである。この熊野大神は本来、意 宇平野に発祥した出雲族の最高神であって、須佐之男命と同神ではない。それをあえて「伊射 那伎命の日愛子」という美称を冠して、須佐之男命と同神であるがごとく見せたのには、実は 出雲国造の苦衷の策があったのである。 国造が代々斎きまつってきた熊野大神は、記紀には取り上げられなかった。それに反して須 佐之男命と大国主神とが、出雲の最高神として記されていた。そこでこの皇室神話にみずから を添わすよりほかに、出雲国造の生きる道はなかった。その方法として、前節までに述べたよ うに、大国主神をまつる杵築大社の創建のために、国造は杵築の地へ移転した。他方、『古事 記』に須佐之男命が出雲の神々の祖神として記されているので、それは彼らの祖神熊野大神を さすものだとし、この二神を同神とすることによって、熊野大神の社の存続と発展とを策した のである。こうした作為のもとに、「伊射那伎の日真名子」という表現がつくり出されたので