出雲族 - みる会図書館


検索対象: 出雲神話の成立
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1. 出雲神話の成立

やむや 族は隣の出雲郡河内郷から本郷日置郷・塩冶郷にかけて居住していたようである。刑部臣の一 族は古志郷を中心に住んでいたようで、欠文の高岸郷の方へも延びていて、実数はもっと増す ものとみてよかろう。そうした事情を勘案すると、少領が刑部臣から選ばれる可能性がもっと も高いわけである。もちろん、この郡にのみ名をみる吉備部臣の勢力も、西部の多伎郷に多い ので、ここからは主政が選ばれている。 ( 注 ) 『出雲国風土記』には新造の寺院名と建立者の名が記されているが、寺院はその氏族の本貫の郷に建立される。 神門臣は朝山郷、刑部臣は古志郷、日置部臣は出雲郡河内郷に建立した。中でも日置部臣は河内郷を本貫とし、また 戸数も群をぬいて多いが、神門郡日置郷かその地名から名くは本貫地であり、後に河内郷の方へのびたものであろう。 こうしてみると、大領・少領は大体において、その地の勢力ある氏族から選ばれたものとみ てよい。右の二郡のほかは調べようがないので、全体について決定的には述べられないが、そ の傾向は知りえたわけである。 ところで、意宇郡は神郡でもあるので、同姓の郡領を二名出すことができ、国造の出雲臣か ら大領と少領がともに選ばれている。この郡は国造家の本貫の地であるから当然のことであ る。そのためか擬主政と主帳まで出雲臣から採用されている。 にた ところが、出雲臣がその他の郡でも郡領に選ばれている。楯縫郡の大領、飯齎郡・仁多郡の 少領とである。楯縫郡の大領が出雲臣から出ている以上は、国造の一族がこの郡の権力を古く ひおき たてぬい

2. 出雲神話の成立

っとも有力な古豪の一つ三輪氏も、出雲族と血縁的関係をもたせた。『古事記』が三輪氏の斎 く御諸山の大物主神と大国主神とが協力して国作りするという説話を載せたのも、そうした両 者の関係が生じたためであった。 しかし豪族の三輪氏が出雲族の系統だと明らさまに述べることは、当時の情勢では困難であ ったのであろう。そのため、記紀ともに大国主神と大物主神との関係を同神で結んでいない。 ただ『書紀』一書だけが、二神の同神説を述べているのであるが、多分この史料は三輪氏から 出たものであろう。 、、他方、出雲国造にとっては、大和国の名門である三輪氏と血縁的関係をもっことは、何より も望ましいことであったはずである。出雲国造が神賀事のなかで、大物主神を大国主神の和魂 係であるという表現をもって述べているのも、そうした出雲国造の心理をあらわしたものといっ のてよかろう。しかし、反対に三輪氏にとっては、出雲族系であるということによって、誇りが 氏もてるものでもないし、その必要もなかったはすである。 つぎぶみ 賀持統朝の五年 ( 六九一 ) に、大三輪氏以下十八氏にその祖の纂記を上進せしめられたが、記紀 輪の世に出る前のこのときに、三輪氏が出雲族系であるということをしめす史料が伝わってお り、また三輪氏もそれを承認していたならば、この纂記の上進のときにそのことに触れてお り、それは記紀に必す記されたはずである。また誤って『古事記』がそれに触れることを忘れ

3. 出雲神話の成立

であろう。『古事記』も『書紀』もともに伝説の後にこの歌を載せているのでもわかるように、 その素材とな「た中心はこの歌であり、それに『出雲国風土記』の健部郷の地名説話がからん で、内容のゆたかな事件となったのである。 右の歌意は説明する必要もないと思うが、「出雲建が腰に佩いている太刀はをたくさん鞘 に巻いて立派そうであるが、中身がなくて哀しいことよ、という意である。しかしこの歌の原 形は、どう考えてもこんなに物悲しい格調をも 0 ているものではない。「八雲立つ出雲建が佩 と歌い出すこの格調の美は、雄々しい出雲の勇士を讃える言葉でなくて何であ ける太刀 : ろう。「葛多巻き」という表現も、太く強大な太刀をしめしたものであり、末尾の「あはれ」 も、あ「ばれ見事だと讃えた言葉である。出雲の勇士を讃美した歌が、替え歌として、彼ら勇 士の没落をうたう哀歌となったのであろう。 なお一言付記しておきたいことは、さきの『出雲国風土記』の神門臣古禰は、神門臣の族長 ではないということである。朝廷から神門臣の族長に対して、御名代としての健部を設けるこ とが命せられたとき、その一族の中の古禰を健部臣とし、土地人民をつけて献上した。そして 神門臣から分かれて健部臣を名の 0 た古禰は、その後代々、健部郷に住んだということを記し ているものである。これは御名代部の設けられるときの一般的方法である。したが「て古禰は 神門臣の族長でも、出雲臣の族長でもなかった。 4 6

4. 出雲神話の成立

すさのおのみこと 肥河を舞台として素戔鳴尊や大国主神 ( 大己貴命 ) が活躍する出雲国の西部は、文化的・政治 的には後進の地であった。古墳ひとつを例にとってみても、この地域から数少ない後期古墳を みるだけであるが、これに反して東部の地域には、前期・中期・後期の数多い古墳を見出すこ とができる。 出雲国を支配した出雲国造の祖先たちが、代々居住していたのも東部の意宇郡であった。そ して、その意宇平野を流れる意宇川の上流には、出雲族が主神として斎きまつった熊野大神の 社もある。ところが記紀神話は、古く出雲国の最高の大神であった熊野大神については、なせ か一言もふれすに抹殺しているのである。 しかし、記紀神話の作者がどのような意図で出雲神話をつくったにせよ、出雲国の神話と歴 史をのべるにあたっては、古代出雲の文化と政治の中心であった出雲の東部を、ます紹介する ことか , りはじめよけ - ↓まよ , りよ、 0 地 祥出雲びとの手によって書かれた『出雲国風土記』の記事が、ます意宇郡からはじまっている ののも、この地が出雲国の発祥の地であったからである。その巻頭には、まことに詩情ゆたかな 雲国づくりの説話が記されている。 なづ やっかみずおみづぬ 意宇と号くるゆえは、国引きませる八東水臣津野命の詔りたまわく、八雲立つ出雲国は、 さぬのわかくに はつくに 狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。

5. 出雲神話の成立

主役の大国主神をまつる杵築大社は、天照大神をまつる伊勢神宮に対立する神社として発展し、 また古くは出雲族が日本の国土を治めていたのだという考えが、いっしか錯覚として人びとの 脳裡を占めるようにもなっていった。そしてもとは神話創作者が、神話の構成の上で裏方とし て出雲を便宜上選んだのにすぎなかったのだということは、もちろん忘れられていったのであ る。 他方、出雲国造は彼らの古来から信奉してきた神話とは内容を異にした記紀を見せられたわ けであるが、朝廷との関連をもって一族の安泰を計ることが第一義であり、そのためさきに述 べたように、記紀が取り上げなかった熊野大神を捨てて、大国主神をまつる杵築大社の創建と その神主として神事を専掌することをみすから買って出たのである。そしてその後は杵築大社 の経営に専念し、大社を発展させることによって、国造家は皇室神話の一を担う者として、 国家的保護を受けてきたのである。 なお一言ここで述べておきたいことは、戦後、国造制の研究と関連して述べられた井上光貞 博士の出雲についての見解である。今のところもっとも新しく、権威のあるものとされてい る。それは大和朝廷が出雲を征服したとき、もとの支配者である杵築勢力を滅し、意宇の出雲 氏をそれにかえて国造としたということと、その征服は武力を伴うとともに祭祀権の収奪であ ったという見方である。しかし意宇平野に発祥した出雲国造よりも古く、また出雲一帯を支配 ( 注 )

6. 出雲神話の成立

しい神が出雲神話の主人公とな「ているににれをる』そも、神話創作者が出雲国の神話伝承の 優秀さをみとめたからだとはいえない。割第関者は皇 3 一い・主権を確立ず・をど・・当引 -- → ) ・」てね / の意図をもプて、それに適する素材だけを出雲から取り上げたのである。何も出雲国の神話 伝承を記紀神話の中に包摂して、後世のために伝え保存しようなどとは考えていなか「たので ある。 そうした考えのもとに記紀の出雲神話が構成されたので、出雲族の信仰の中心であ「た熊野 大祕や、それに因む意宇川の神話伝・承は取り上げ・引ん・てい・ないの・で・あ・る。記 出雲神話は、 朝廷側の神話創作者が自分の意に合いよい素材だけを拾い上げ、みずカ , たものであった。 この朝廷側の神話創作者、これには語部が考えられるであろうが、『古事記』を編んだ太安 経万侶はも「とも有力な人物として浮かび上がる。彼はのちに舎人親王のもとで、『日本書紀』 立の編さんにも参画したといわれる。ところが、この太安万侶の一族である大臣が、出雲郡の少 話領の地位にあ「たことを想起されるならば、神話創作者の太安万侶が大臣の上京の都度、出雲 雲の話を多く聞き知「たであろうことが考えられるのである。また大舎人を出す御名代であ「た 日置部臣が、出雲郡の大領であ「たことも、それについで考えられるルートの一つであろう。 しかも、出雲郡の大領・少領の地位にあ「た二人が、ともに肥河の流域に居住するものであ い 7

7. 出雲神話の成立

朝臣を賜う。臣ら同じく一祖の後にして、独り均養の仁に漏れたり。伏して望みらく、彼 の宿禰の族とともに、同じく姓を改むるの例に預からんと。ここにおいて姓を宿禰と賜う。 天武朝の改姓では、宿禰の三位に対して、臣は六位にまで下げられている。そこで中央の公 かんど 職にあ「た彼としては、同祖の土師氏を証として、改姓を願い出たわけである。 このように同族が同じ姓で分かれてゆく例は、同じ出雲の地だけでみても、出雲臣から神門 たけるべ 臣が分かれ、さらにそれから御名代として健部臣が生じたのでもわかる。それは『出雲国風土 おさかべ たじひべ 記』の出雲郡健部郷にみえているが、そのほか出雲の蝮部臣・刑部臣などの御名代も、同じく 出雲臣からの分かれとみられるものである。 このように出雲臣は、地方の国造でありながら、一般の国造がもっ直の姓ではなく、臣姓を 名の「てきた。しかし、国造と出雲臣の称を授か「たのは、さきに紹介した『出雲国造世系譜』 が伝えるように、反正天皇の御代からであ「たとみてよかろう。 『日本 しかし、この反正天皇の御代に、はじめて出雲国が大和朝廷に服属したのではない。 雲書紀』をみると、その先々代の仁徳天皇一年の条に、天皇の直轄領の田である倭の屯田および 造屯倉の屯田司として、淤宇宿禰の名が記されている。この淤宇宿禰は、国造家の系譜では第十 六代の意宇足奴命のことである。これでみると、出雲の主長が仁徳朝にはすでに朝廷に出仕し ていたことがわかる。そしてつぎの第十七代から、系譜も「国造宮内臣」と記し、このときか あたい

8. 出雲神話の成立

早 ~ 前 ( 繊維土器 ) 大社町菱根 の跡 後 同原山 ( 砂丘 ) 平、 後 ~ 晩 ( 御領式 ) 文 同杵築大社神域 簸縄 中でも杵築大社の神域からは、先年大社の拝殿が焼け、その跡から多数の縄文式土器の破片 が発掘された。そこで大社から東へ原山・菱根と縄文遺跡をみとめるのであるが、しかもこの 原山からは立屋敷式土器も発掘されて、弥生遺跡の存在も確認された。ところが、さらに杵築 どうか 大社の命主神社境内の大石の下から、銅戈が硬玉製勾玉とともに伴出していることは注意すべ きで、祭祀遺跡であった形跡がうかがえる。弥生遺跡は矢野にもみられ、ことにその員塚はヤ 手マトシジミを主とするが、その中からは鹿骨やフグの魚骨、また石斧・石錘・骨牙器などもみ とうす みや 掫とめられた。さらに南に下がった知井宮多聞院遺跡からは、鉄器の鹿角装刀子や、砥石も出土 話している。 神 しかし出雲神話は、それより後の古墳時代に育成されていったものとみてよいであろう。出 雲 雲の西部では簸川平野の西南地域の山麓に、後期古墳が集中的に見出される。その中でも二つ の大きな古墳がみとめられる。一つは出雲市の出雲高校の北側にあたる大念寺古墳で、前方後 9 8

9. 出雲神話の成立

しかもそ出一一一申 〔〔〔〔〔い昏・お前述もしたごとく、出雲の東・西の豪族、意宇川流域に居住した 国造出雲臣や、神門川流域に住む神門臣とに県ぐ、肥河を背景とし、下流の簸町平野い大 国主神を中心とするものであった。また祖神も意宇川の上流に祀られていた熊野大神ではな く、後に考証するが神門川の・上流 0 褪られていた須佐之男命を、あえて巴河い上市に天を椰 として取り上げているものであった。しかも、その神話の素材を朝廷の神話作成者に提供した 者は、国造でもなく、古い豪族の神門臣でもなく、出雲郡の大領とな 0 た日置部臣か、少領の 大臣の一族であったと思われる。彼らは肥河の流域に住むものであった。 したが「て、『古事記』や『日本書紀』に出雲神話として載せられた内容は、出雲国造にとっ ては予想もしなかった驚きであ「たと思われる。往古から出雲族の大神であった熊野大神の名 も見えないし、本貫である意宇川流域に因んだ説話も記されていない。それに代わって簸川平 おおなもち 野の新開地の開発の神として祀られた大穴持命 ( 大地主命 ) が、『古事記』では翻訳されて大国 主神と呼ばれ、国譲り説話の主人公とな「ていたのである。これに対し、須佐之男命は神門川 の上流、須佐の地の説話にみる神ではあ「たが、大蛇退治のこの説話は舞台を肥河に変えられ ていた。この二つの説話が記紀にみる出雲神話の二大中心をなすものであるが、ともに出雲国 造と関連をもつものではなかった。 どういうわけで出雲国造や、それに関係する古い叫調が収グ上げ・られないで、彼ら

10. 出雲神話の成立

り、記紀の出雲神話が意宇川や神門川と関係しないで、肥河を舞台として用いていることも、 8 が彼らによって持たれていたことを証明するものだともいえよう。 神話創作者へのルート そうした関係で、出雲族の最高神であ「た熊野大神が、記紀の出雲神話には取り上げられす、 出雲郡が大半を占める簸川平野の開発の神、大穴持命 ( 大地主命 ) が、それに代わ「て大きく取 り扱われる結果ともなったのであろう。しかも大切なことは、『古事記』の作者が、この神を 大国主神という名に翻訳して取り上げていることである。この大国主神という表現をもっ神に 翻訳できたことが、国譲り説話の構想を作者に思いっかせた動機であったと思うのである。 実際、大国主神という名は、葦原中国の統治者としてまことにふさわしく、この国っ神を神 話の裏方とし、皇室の祖神である天っ神が征服するという神話構想は、スケールを大きくする のに役立 0 たはずである。『古事記』が大国主神の説話をいろいろと長文に取り扱っているの も、この神の神格を大きくし、活躍をはなやかにするほど、それを征服した皇神の偉大さを示 おおなむち すことになるためであったからであろう。これに反して、『日本書紀』は大己貴神という名を 用いたので、先住の統治者の名としてはふさわしくなく、そのためであろうか、この神の説話 はごく短く、ただ主眼点である国譲りの一件だけが記されているにすぎない。 さらにもう一つ、出雲が選ばれる理由とな 0 たと思われるものがある。と「 ~ 杓・ はいレ とし。て想定されるようになったにとみられるものである。それは出雲か、土師連が出ている