をみても、出雲東部の前期古墳として最大な前方後円墳、しかも出雲国造とゆかりのあるもの おおば とみられる大庭二子塚は、長さ九〇メートルである。これに対して西川宏氏の「吉備の古墳の 研究」 ( 『吉備政権の性格」日本考古学の諸問題所収 ) によって、吉備国の文化的・政治的中心であ った備中地域をみると、同じく前期に属す前方後円墳の造山古墳は長さ三五〇メートル、次ぐ 作山古墳は二七〇メートルである。これらとほば同時代の仁徳陵は四七五メートル、応神陵は 四一八メートルで、吉備の古墳よりは大きい。しかし、これら大和・河内・和泉にわたる巨大 古墳と比べても、造山古墳は第五位にはいり、作山古墳は第十二位である。しかもこの吉備国 では出雲の大庭二子塚よりも大きい古墳、すなわち長さ一〇〇メートル以上のものが十八もあ る。そこで強いていえば、出雲国は吉備国の主権に従属していたと思われる美作地方の程度の 部族にすぎなかったといえる。この美作には二子塚と同じ前方後円墳で九〇メートルの長さを 経もっ胴塚がある。こうしてみると、大和朝廷に対立する国としては出雲ではなくて、かえって 立吉備の方こそ似つかわしいのである。 話それなのに、出雲国の弱小国がどういう理由で神代巻の三分の一も占めるとともに、それに 雲基づいておこった錯覚によって、千年もの長い間、大和朝廷に対立する強大な出雲国を、われ われに想像させてきたのであろうか。まず読者のすべての方に申したいが、これまでの出雲観 のすべてを完全に拭い去って、白紙の立場で新しく出雲を見直す心がまえを持っていただきた 123
神門臣 勝部臣 日置部五戸 吉備部二戸 日置郷 ( 五十七名中四十名記載され、十七名欠 ) 日置部ニ戸 日置部臣四戸 神門臣 勝部二戸 勝部臣 吉備部三戸 吉備部臣 有臣 凡治部君二戸 若桜部臣族二戸 林臣族二戸 若倭部二戸 生部 古志郷 ( 全員数不明、四十三名記載 ) 神門臣族一一戸
高麗の帰化人とみている。加藤義成氏の『出雲国風土記参究』をはじめその他各書も同じ見解である。しかし、これ 6 は欽明天皇の倉皇子の御名代部である。 ( 注 2 ) 意宇郡舎人郷に日置臣志毘の伝説が伝えられているが、このほか国造の住地と同じ山代郷に日置君目烈が新 造院を建立し、しかも彼は出雲神戸の日置君猪麻呂が祖であると記している。さらに山国郷にも日置部根緒が新造院 を建てているので、日置部臣の一族は意宇郡だけでも舎人・山代・山国の各郷と出雲神戸へもひろく分布していたし 寺院を建立しうる権力を持っていたことがわかる。これに対し、西部の神門・出雲両郡でも多くの戸数と強い権勢を 持っていた。 以上のように、この出雲西部の二郡、すなわち神門郡も出雲郡もともに、出雲国造の血統を 日臣・日置部臣によって治められることになったのである。 うけた神 おさかべの このほか、この地方で勢力のあった各氏族を参考までに挙げると、神門郡の少領をした刑部 おみ 臣の一族が、古志郷から北に分布していたようである。『賑給歴名帳』には刑部臣八戸、刑部 四戸がみえるが、北部地方の郷名がみえないので実数はもっと増すであろう。これはさきにも わかやまとべ 述べたように、允恭皇后の御名代部である。また神門郡の若倭部は開化天皇の御名代で、若倭 部臣四戸、若倭部臣族一戸、若倭部連一一戸、若倭部十一戸がみられ、朝山郷に多くみられる。 これに対して、他国の豪族も多く入りこんでいるが、主なものとしては神門郡で吉備部臣が みられる。これは吉備臣の部曲であるが、吉備部臣六戸、吉備部君三戸、吉備部六戸があり、 西部の多伎の地の開拓にはいったようである。また安部臣の一族の丈部が、斐伊川を挾んで両 ( 注 )
神奴部四戸 神戸 ( 神戸里で、十六名全員記載 ) 神奴部二戸 日置部 出雲積 これをわかりやすくするために、郡単位で臣姓のものを計上すると、順位は左のごとくなる。 ひおきべ 出雲郡では大領を出している日置部臣の一統は 出雲郡 神 断然他を引き離して多数である。しかし、少領の 日置部臣二十八戸神門臣十五戸 おおのおみ 建部臣十六戸刑部臣八戸大臣は上の表には現われていない。 この郡内の住 雲丈部臣九戸吉備部臣六戸人なのか、他からの移入者なのか不明である。 出出雲臣 四戸若倭部臣四戸 これに対して、神門郡の方は、その点において 日置部臣四戸 見 、り 勝部臣三戸明らかである。この地方のもっとも古い氏族とみ かんどのおみ 成 られ、朝山郷を本貫とする神門臣の一統が絶対多 おさかべのおみきびべのおみわかやまとべのおみひおきべの 族数を占めて、ここから大領が選ばれている。そのつぎは刑部臣・吉備部臣・若倭部臣・日置部 氏おみ 臣がやや同じ勢力でみとめられる。 四 吉備部臣の一族は郡の西部の多伎郷を中心として居住していたようであるが、日置部臣の一 4
郡にはいってきている。そのほか、さきの表で見られるように、多くの氏族がはいりこんでき とおちね ているが、記紀の垂仁天皇の条に物部十千根大連が神宝の検校のために出雲に派遣されたとみ えておりながら、この系統の物部がほんのわすかしかはいっていないことは注目されることで ある。しかし、この物部は神門郡の西隣の石見国の大田へ移植し、物部神社 ( 旧国幣小社 ) まで つくった。 ( 注 ) これまで出雲西部の神門臣の勢力に対抗するものとして、強力な吉備勢力が考えられてきた。たとえば藤間生 大氏 ( 「吉備と出雲』私たちの考古学四ノ一 l) や原島礼一一氏 ( 「古代出雲服属に関する一考察』歴史学研究一一四九 ) な どの意見があるが、彼らの居住地は政治の中心から離れた西方の多伎郷が主体であったことを知らなければならない し、他の各氏族を圧制するほどの戸数でもない。 大化改新の詔が、実際いっから出雲では実施され、実を結ぶようになったかは不明であるが、 出国司・郡司の設置を見、御名代の屯田はもちろん、各氏族の私有していた部曲・田荘も禁じら 見れて、班田収授の制のもとで、一般公民としての地位に変わった。したがって、その後は『賑 か給歴名帳』にみえる氏族名称も、ただ彼らの古い出自をしめすものにしかすぎなくなったわけ 構である。 ' 四
伊福部一戸 多伎郷 ( 全員数不明、四十名記載 ) 吉備部臣五戸 倭文部臣族二戸 伊福部十戸 神奴八戸 日下部 伊秩郷 ( 余戸里にあたり、十五名全員記載 ) 語部六戸 舎人一言 舎人部 印色部 狭結駅 ( 郡家と同所にあり、十九名全員記載 ) 刑部臣 神門臣族 物部一戸 多伎駅 ( 八名全員記載 ) 神門臣一戸 倭文部 4
四氏族構成から見た出雲 丈若語凡倭若神狭語鳥日建吉若勝神刑 備倭 倭治部門 取置 部門部 臣部 部部 部部部部族臣臣十部部部部君連臣臣臣 名 中 七 戸戸戸戸戸戸戸十戸戸戸戸戸戸戸・戸戸 名 記 さ れ 十 五 名 欠 刑部一戸 勝部一戸 若倭部臣族一戸 吉備部一戸 若倭部三戸 41
う者もなく、大和朝廷に対立するほどの強力な出雲国が存在 したものと信じ切っているのである。そして強大な出雲国を 納得するために、あえて韓国との交通交易があったとみた り、中国山脈の砂鉄による優秀な文化が栄えていたものだと 述べて来た。しかしそれは、とんでもない錯覚による幻影を 子 二名追うていたものであった。 出雲の考古学的調査結果からみても、また出雲国の一部を しめす史料ではあるが、『大税賑給歴名帳』にみる氏族構成 = 、、最子などから判じても、中央の大和の文化とは比較にもならない ほど、小さな一地方的部族集団を形成していたものにすぎな 。現在でも県庁の所在地である松江市の人口がわずか十一 佐万で、貧乏県として国庫補助を多く受けなければならないと ころである。平野にも乏しく、見るべきほどの産物もない。 中国山脈を隔てた反対側の吉備国の豊かさと比較してみるだ けでも、両者の差異は大きい たとえば、それを具体的にしめすものとして古墳の大きさ ー 22
大領 外正八位下 外従八位下 主政 外大初位下 无位 主帳 神門郡 ( 郷八里二 + 二、余戸一、駅一「神戸一 ) 外従七位上勲十二等 大領 外大初位下勲十一一等 擬少領 主政 外従八位下勲十一一等 无位 主帳 飯石郡 ( 郷七里 + 九 ) 外正八位下勲十一一等 大領 外従八位上 主帳 无位 仁多郡 ( 郷四里 + 二 ) 大領 外従八位下 外従八位下 外大初位下 主帳 日置部臣 大臣 若倭部臣 神門臣 刑部臣 吉備部臣 刑部臣 大私造 出雲臣 日置首 蝮部臣 出雲臣 品治部
やむや 族は隣の出雲郡河内郷から本郷日置郷・塩冶郷にかけて居住していたようである。刑部臣の一 族は古志郷を中心に住んでいたようで、欠文の高岸郷の方へも延びていて、実数はもっと増す ものとみてよかろう。そうした事情を勘案すると、少領が刑部臣から選ばれる可能性がもっと も高いわけである。もちろん、この郡にのみ名をみる吉備部臣の勢力も、西部の多伎郷に多い ので、ここからは主政が選ばれている。 ( 注 ) 『出雲国風土記』には新造の寺院名と建立者の名が記されているが、寺院はその氏族の本貫の郷に建立される。 神門臣は朝山郷、刑部臣は古志郷、日置部臣は出雲郡河内郷に建立した。中でも日置部臣は河内郷を本貫とし、また 戸数も群をぬいて多いが、神門郡日置郷かその地名から名くは本貫地であり、後に河内郷の方へのびたものであろう。 こうしてみると、大領・少領は大体において、その地の勢力ある氏族から選ばれたものとみ てよい。右の二郡のほかは調べようがないので、全体について決定的には述べられないが、そ の傾向は知りえたわけである。 ところで、意宇郡は神郡でもあるので、同姓の郡領を二名出すことができ、国造の出雲臣か ら大領と少領がともに選ばれている。この郡は国造家の本貫の地であるから当然のことであ る。そのためか擬主政と主帳まで出雲臣から採用されている。 にた ところが、出雲臣がその他の郡でも郡領に選ばれている。楯縫郡の大領、飯齎郡・仁多郡の 少領とである。楯縫郡の大領が出雲臣から出ている以上は、国造の一族がこの郡の権力を古く ひおき たてぬい