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検索対象: 出雲神話の成立
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1. 出雲神話の成立

出雲臣。天穂日命の子、天日名島命の後なり翁国 ) 。 出雲臣。天穂日命の五世の孫、久志和都命の後なり (F) 。 O 出雲臣。天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟命の後なりし。 出雲臣。天穂日命の十二世の孫、宇賀都久野命の後なり龕吶国 ) 。 4 不ー日ー 臣。天穂日命の十二世の孫、鵜濡」 ' ' 、馮命の後なり ( 右 土 連。天穂日命の十二世の孫、飯入根命の後なり龕肆国 ) 。 大和国 0 土師宿禰。天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根命の後なり翁。 土師宿禰。秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十二世の孫、可美乾飯根命の後なり 菅原朝臣。土師朝臣と同じき祖、乾飯根命の七世の孫、大保度連の後なりし。 秋篠朝臣。上に同じ。 大枝朝臣。上に同じ。 凡河内忌寸。天穂日命の十三世の孫、可美乾飯根命の後なり龕雛国 ) 。 譜土師宿禰。天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり龕国 ) 。 造 土師宿禰。秋篠朝臣と同じき祖、天穂日命の十四世の孫、野見宿瀰の後なり翁線国 ) 土師連。上に同じ。 五 石津連。天穂日命の十四世の孫、野見宿禰の後なり翁飆国 ) 。

2. 出雲神話の成立

八世 ー櫛田命 九世 ー知理命 十世 ー世毛呂須命 阿多命亦名 = 出雲振根一、事詳見一一日本書紀崇神天皇紀一 崇神紀作一一飯入根一、姓氏録作ニ可美乾飯根命一 ー伊幣根命 ウマシカラヒサ 点ー甘美韓日狭 の 十二世 オ 系 ー氏祖命 国 系譜或作ニ櫛知理命一 系譜或作二毛呂須命一 氏祖命鷓濡渟命別称、出雲臣・土師連・菅原朝臣・秋篠朝臣・大枝朝臣・神門臣・凡河内 忌寸等氏祖、 姓氏録日、天穂日命十一一世孫宇賀都久野命、 旧事紀国造本紀、出雲国造、瑞籬朝、以二天穂日命十一世孫宇迦都久怒命一、 9 -0

3. 出雲神話の成立

一一世 武夷鳥命 三世 ー伊佐我命 四世 ー津狭命 亦五 ー櫛甌前命 六世 櫛月命 七世 ー櫛甌鳥海命 ミカサキ世名ニ久志和都命一、出ニ于新撰姓氏録及菅家系譜一 一名建比良鳥命古事記、一名武日照命、 亦云一一天夷鳥一崇神紀井註、天日名鳥命姓氏録、古事記註 出雲国造、旡邪志国造、上菟上国造、下菟上国造、伊自牟国造、津島県直、 遠江国造等之祖也 系譜或作ニ櫛瓊命一、管原系譜作ニ五十坂三磯命一 系譜或作櫛甌嶋海命

4. 出雲神話の成立

していることは明らかであ「て、兄弟として並記している伊幣根命・廿美韓日狭・野見宿禰の またのな 名は除去しなければならないし、また亦名として注記しているもの、すなわち阿多命の亦名出 うかずくぬ 雲振根や、氏祖命の亦名鷓濡渟命の名も無関係なものとして排除しなければならない。 しかし、それら異分子を除去した後の系譜を、国造家の正しい系譜としてそのまま認めると あめのほひ いうのではない。出雲国造家の祖神である天穂日命を、記紀は天っ神として皇統の天忍穂耳尊 と兄弟としているが、これなどは出雲神話と結合するためにとられた処置である。本来の出雲 たけひてる 神話では天穂日命を始祖とし、その命令で武日照命が神宝を奉持して降臨するという構成にな っていたものとみてよい。実際、のちの第二部二節に掲載している出雲国造の神賀事の祝詞文 には、「出雲臣等が遠祖天穂比命」という表現を用いて、この神が彼ら部族の始祖であったこ とを明らかにしている。 そして、また崇神紀六十年の条に、「武日照命〔一は云わく、武夷鳥。又云わく、天夷鳥。〕の天よ り将来たれる神宝は、出雲大神宮に蔵む。これ見ま欲しと」と記されているが、これは彼らも たけひてる 譜他の部族と同じように、日の神の命令によって武日照命が神宝をいだいて天から出雲の地に降 造臨したという伝承、すなわち天っ神としての伝承を誇りとしてもっていたことを示すものであ あめのひなどり る。そして、天から降臨する武日照命を、雄々しい鳥として形容したことから、天夷鳥命とか 五たけひなどり 武夷鳥命ともいったのであろう。天からの降臨を、空翔る雄々しい鳥のごとくにと形容した出

5. 出雲神話の成立

に代わって、国譲りを言上する立役者である。 『延喜式』の神名帳をみると、大和国葛上郡 ( 南葛城郡 ) のところに社名が見える。 かもつみはやえことしろぬしのみこと 鴨都味波八重事代主命神社一一座 たかかものあじすきたかひこねのみこと 高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座 あじしき したてるひめ 前者の祭神一一座は八重事代主命・下照姫命、後者の四座は味鈕高彦根命・下照比売命・多紀 りびめ あめわかひこ 理毘売命・天稚彦命で、ともに名神大社である。神話では味鈕高彦根命の母が多紀理毘売命、 妹が下照姫命で刄稲彦侖・の妻である。国譲りの談判のために高天原から派遣された天稚彦は、 下照姫を娶って八年になっても復命せす、高天原から射られた矢にあたって死ぬ。その喪を弔 いに味鈕高彦根命が来る。これらはみな国譲り説話に登場する神々である。 『姓氏録』にみえる加茂朝臣である。とこ この鴨の二社は、鴨氏が斎きまつる神であった。 ろが、この神社の神戸が古くから出雲国に置かれていた。『出雲国風土記』の意宇郡のところ 加茂神戸。郡家の東南三十四里なり。天の下造らしし大神命の御子、阿遅須枳高日子命、 葛城の賀茂の社にませり。この神の神戸なり。故れ鴨という。 この加茂の神戸は、現在の安来市大塚の東部付近にあった。右の『風土記』によると、葛城 あじしきたかひこね にある二社のうち、味鈕高彦根命をまつる高鴨神社の方の神領であったことがわかる。この賀 たき

6. 出雲神話の成立

ふと しもついわね あきつみかみ しろしめすめらみことたなが き明御神と大八嶋知食す天皇命の手長の大御世とうとして、出雲国の青垣山の内に下津石根に宮柱太 6 くしみけぬ ひまなごかぶろぎ たかし いざなぎ 敷き立て、高天原に千木高知り坐す伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし いつみてぐらお だすき それがし すめがみ 大穴持命、一一柱の神を始めて、百八十社に坐す皇神達を、某甲が弱肩に太襷取り挂けて、伊都幣の緒結び、 みかわ あらくさい ずまや ずむしろ あめのみかひかがふ 天乃美賀秘冠りて、伊豆の真屋に麁草を伊豆の席と刈り敷きて、伊都閉黒益し、天乃和に斎みこもり まお かえりごとかむほぎのよごと まっ とよさかのばり しずみや て、志都宮にみ静め仕え奉りて、朝日の豊栄登に、伊波の返事の神賀吉詞、奏し賜わくと奏す。 あめのほひのみこと ことさ すめみまのみこと かみのみおやたかみむすび 高天の神王、高御魂命の、皇御孫命に天下大八嶋国を事避け奉りし時、出雲臣等が遠祖天穂比命を、 かえりごと あまか ・、にか 4 ~ 国体見せに遣わしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔けりて、天下を見廻りて、返事申し給わく、 いわねきねたちみなわ かがや さばたな 豊葦原の水穂国は、昼は五月蠅如す水沸き、夜は火瓷如す光く神在り。石根木立青水沫も事問いて荒ぶ あめのひなどりの しろま やすくにたいら る国なり。然れども鎮め平けて、皇御孫命に安国と平けく知し坐さしめむと申して、己命の児天夷鳥 はやむ みことふつぬしのみことそ 命に布都怒志命を副えて、天降し遣わして、荒ぶる神等を撓い平け、国作らしし大神をも媚い鎮めて、 すめみまのみこと ことさ 大八嶋国の現事顕事、事避らしめき。乃ち大穴持命の申し給わく、皇御孫命の静まり坐さむ大倭国と申 おおみわ たた にぎみたまやた して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ、己 うなで あじすきたかひこね 命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈提に坐せ、賀夜奈 やほに たてまっ るみ 流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇御孫命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築宮に静まり坐し き。 まっ かきは すめらみことたなが すめむつかむろぎかむろみ 是に皇親神魯伎神魯美命の宣りたまわく、汝天穂比命は、天皇命の手長の大御世、堅磐に伊波比奉り、 いやじり まっ まにま いわいごと さきはえ 伊賀志の御世に佐伎波閉奉れと仰せ賜いし次の随に、供斎仕え奉りて、朝日の豊栄登に、神の礼自利、 くしみかたま かやな

7. 出雲神話の成立

多禰郷。郡家に属けり。天の下造らしし大神大穴持命、須久奈比古命と、天の下を、」行り おと たまいし時、稲種を此処に堕したまいき。故れ種という。 とみえている。なお、同系のものとして『播磨国風土記』の揖保郡の稲積山の条に、 はにのさと いなつみやま 稲積山。大汝命・少日子根命、二柱の神、神前郡望里生野之岑にまして、この山を望み見 てのりたまわく、彼の山は稲種を置くべしとのりたまいき。すなわち稲種をこの山に積ま かなづ しむ。山の形も稲を積めるに似たり。故れ号けて稲積山という。 とある。農耕神としての伝承がもたれていたことがみとめられる。さらに『伊予国風土記逸文』 や『伊豆国風土記逸文』には温泉での治療のことがみえているが、これなどは大穴牟遅神が白 兎を治療した故事から、医薬の神として後にこじつけたものとみてよいものであろう。 いずれにしても、この少名毘古那神の出自については、発生的地域を明らかにすることがで がきない。中でも『播磨国風土記』には三個所にその名がみとめられるので、出雲に近い地方で の説話であったことは事実であろう。 神「古事記』は少名毘古那神、『書紀』一書は少彦名命、そのほか各風土記では少日子命・少日 国子根命・小比古尼命・須久奈比古命・宿奈眦古那命などと表記している。この語義としては、 大名主 ( 大地主 ) に対する少名彦名 ( 小地主 ) で、常に一一神が一組として活動する点から、和魂・ 荒魂という関係があるのかもしれない。しかし、孝元天皇の子の大毘古命の弟を、少名日子建 たね 巛め

8. 出雲神話の成立

十三世 ー製髄命 十四世 キヒタスミ或作一一来日狭維命一、家伝系譜作一一来日田維穂命一、或作一来日維穂命一、古事記垂仁条 ー来日田維命 下、出雲国造之祖名岐比佐都美 ー野見宿彌姓氏録日、天穂日命十四世孫野見宿禰 書紀垂仁紀仕二土部職一、因改ニ本姓一謂一王部臣一、是土師連之始祖也 姓氏録光仁天皇天応元年改一王師一、賜一一菅原氏・大枝姓一 十五世ノ。ヌ ー三島足奴命 十六世 オウノソコヌ或作ニ意宰足奴命一、書紀仁徳紀、倭屯田司出雲臣之祖游宇宿禰 ー意宇足奴命 十七世 家乗一本云、反正天皇四年為一】国造一、始賜ニ出雲姓一、居 / 官八十八年 ー国造宮向臣 定ニ賜国造一、姓氏録亦作二鵜濡渟命一、崇神紀作ニ鵜濡渟一 0

9. 出雲神話の成立

ししいりね うましからひさ うかずくぬ 六十年の条の出雲振根、その弟の飯入根と甘美韓日狭、飯入根の子の鵜濡渟とである。ところ が前述したように、振根によって弟の飯入根は殺され、その振根も朝廷の手で誅され、出雲国 うかずくぬ は服属した。その後につづく再建の担い手として鵜濡渟が脚光を浴びたわけであるが、彼は神 きひたすみ 門臣の血統に属しているので、国造家の系譜にはその名前がない。そこで十四世の来日田維命 おおし の前で彼に該当すると考えられる十二世の氏祖命が、鵜濡渟の別名であるとされたのであろう。 「姓氏録』には記紀などに載る神名を祖とすることが得策なため、「出雲臣。天穂日命の十二世 うか の孫、鵜濡渟命の後なりーとして届けられたのだと思う。そして、そういうことになると、鵜 すくぬ 濡渟の父にあたる飯入根と、その兄弟とは十一世としなければならないので、系譜に見られる うましからひさ もしいりね ように「 + 一世阿多命亦名出雲振根」ということになり、ひいては弟二人の伊幣根命と甘美韓日狭も 並記される結果となったのであろう。 きひさ きひたすみ また野見宿禰が十四世として、来日田維命の弟となって記載されているのは、前述の岐比佐 都美が『古事記』垂仁天皇の条にあり、野見宿禰が同じく『書紀』の垂仁紀七年の条にみえる ことから、同時代のものと考えられ、しかも兄弟であろうということでここに並記されたので あろう。そこで『姓氏録』でも野見宿禰は、天穂日命の十四世の孫となって記録されるように なった。左にこの一族が『姓氏録』にどのように記載されているかを見よう。 出雲宿禰。天穂日命の子、天夷鳥命の後なり」し。 ふるね

10. 出雲神話の成立

太大神の三者だけとなるのである。 ところが、出雲の国人が大神の称を奉ったこれら熊野大神・野城大神・佐太大神は、どうし たことなのであろうか、記紀ともに取り上げていないのである。それに代わって、大神とは呼 ばない須佐之男命や、新しい発生になる大穴持命が、出雲神話の主役として登場し、活躍して いる。この点だけからいっても、記紀の出雲神話が、出雲の人びとの伝えてきた神話とは、本 質的に異なっているものであることがわかるであろう。 須佐之男命の名をここに挙げたが、出雲のすべての神々の祖神として、皇室の祖神である天 照大神の弟神とされたこの神が、大神と呼ばれていなかったこともまことに不思議なことであ る。こうしたところに、中央の神話創作者の頭脳に秘められたからくりがあった。そこで、裏 面のからくりをさぐるために、節を改めて、須佐之男命・大穴持命の出自を調べることにしょ だがその前に、熊野大神について一言いっておきたいことがある。後に考証する須佐之男命 もそうであるが、野城大神や佐太大神にしても、地名をもって呼んでいる。これは神名の形式 かむはぎの としてはもっとも古い呼び方である。ところが熊野大神を、『延喜式』にのる出雲国造の神賀 かぶろぎ くしみけぬ かぶろぎ ことば 詞の中では、「加夫呂伎熊野大神櫛御気野命」と呼んでいる。加夫呂伎は『風土記』に熊野加 むろの 武呂乃命と用いているのと同じで、「神ろ」に男性の「伎」をつけたものである。「ろ」は語調