の農夫が食われるのに代わって、稲田を耕作する娘、すなわち稲田姫が食われるという話に変 わってゆかざるをえないであろう。もちろん、この説を固執するものではない。洪水を大蛇と み、荒らされる稲田を助ける須佐之男命が、話の原形であったかもしれない。 次に須佐之男命が奇稲田姫を救うという説話は、阿用郷の説話からわかるように、もとは別 の事柄であったはすである。さきに須佐之男命は飯石郡西部の神門川の流域で育ち、奇稲田姫 命は飯石郡東部の肥河の流域で育てられたものであることを述べた。大蛇に食われる奇稲田姫 を救う英雄として、もし飯石郡の人が考えるとしたら、ます誰を最初にあてるであろうか。当 然考えられることは、郡内の男神であり、西の須佐之男命と東の奇稲田姫とが結ばれることは もっとも自然な成り行きであったであろう。 流こうして飯石郡の人びとによって、須佐之男命と奇稲田姫とを中心としての大蛇退治の説話 のが構成されたものとみてよかろう。そしてこの二神の結びつきによって、本来は神門川流域に 説育った須佐之男命が、肥河を背景とする説話の中に、その座を占めることもできるようになっ 治たと思われる。 蛇 だが、この大蛇退治の説話が、飯石郡の人びとの間で語られていたころには、はたしてどの 大 程度の規模をもった内容であったかは不明である。いずれ記紀神話としてこの説話が中央で取 り上げられたときには、相当の粉飾と誇張が行なわれたものとみてよい。たとえば、大蛇の尾
あめのいわ ときに、機屋の屋根に穴を開け、生き馬の皮を剥いで投げ込む。ここでついに天照大神は天石 屋戸に籠られ、高天原はもとより、地上の葦原中国まで真暗になる。そのため多くの悪神がは びこり、あらゆるわざわいが生じる。 あめのやすのかわら 第四段は、このため多くの神々が天安之河原に集まって、日の神である天照大神を再び石屋 から引き出す対策を立てる。その策略が成功して、天照大神が石屋戸から出られ、もとの明る さが取り戻される。 第五段は、こうした須佐之男命の悪事に対し、多くの神々の協議の結果、須佐之男命に罪を つぐなうための多くの品物を出させ、また鬚や手足の爪を切り抜き、高天原から追放する。 第六段は、高天原での悪態の末に追放された須佐之男命は、根国へ向けて降りて行く。すな わち出雲国の肥河の上流である。ここで、前節にのべた大蛇退治が行なわれ、大蛇の尾から出 た神剣を降服のしるしとして、高天原の天照大神のもとへ献上するのである。高天原に対する 根国の降服である。 ところがこの第六段で、はじめて須佐之男命は奇稲田姫を救うという人間的情愛をしめすこ とになる。しかし、これまでのべた須佐之男命の一連の悪態的な活動からわかるように、奇稲 田姫を救うことがこの説話の主体ではなくて、第一には、おそろしい大蛇を退治することがで きるほどの強暴な性格の持主であることを示すことにあった。第二は、神剣の献上によって、 いわや
二大蛇退治の説話の源流 記紀にのる出雲神話には二つの要素がみとめられる。一つは須佐之男命の大蛇退治の説話で あり、他は大国主神の国譲りの説話であって、この二つの説話を中心として、出雲神話が構成 されている。ところがこの出雲神話は、『出雲国風土記』がしめす説話のなかには、その素材 をみとめることができず、両者に大きな相違のあることがこれまで指摘されてきた。だが、は たしてそうであろうか。ます須佐之男命の問題からはいっていこう。 『出雲国風土記』に記されている神々の多くが、地名をもって呼ばれていることから、須佐 かんど 之男命という神も地名と関係したものとみてよかろう。神門川は飯石郡の琴引山 ( 一〇一四メー きしまはた すさ トル ) から北へ流れ、来島・波多・須佐の三郷を経て、それから神門郡の中にはいり、神戸里 ・朝山郷・古志郷を経て神門水海にはいる。その中流に飯石郡須佐郷があり、小さい盆地をつ くっていて、その東須佐の地には小形の後期古墳が数個みられる。その須佐郷を『出雲国風土 - 言』でみると、 かみすさのお 須佐郷。郡家の正西一十九里なり。神須佐能袁命の詔りたまわく、この国は小さき国なれ 巧 2
一一杵築大社の創建者 : ・ 一一一出雲神話成立の経緯 : 第三部出雲神話の分忻 一出雲の大神たち ニ大蛇退治の説話の源流 一一一須佐之男命の出自 : ・ 四大国主神の説話の分析 五三輪・賀茂氏との関係・ : 六黄泉国の説話 : 一六四 : 一九四 一実
から得たという草薙剣の一件は、これこそ中央の神話創作者の手になることが明らかなもので ある。剣はその部族の主権の表徴である。根の国を支配する神、出雲国の祖神である須佐之男 命が、高天原の支配者である天照大神に神剣を献上するということは、降服を意味したもので ある。次いでそれは高天原から葦原中国へ天孫の降臨が行なわれるとき、大国主命の国譲りと なってあらわれる。この神代巻における降服は、さらに歴史時代の事件として投影し、崇神紀 六十年に出雲国の主権を表徴した神宝が朝廷へ献上され、それによって出雲国が滅亡する記事 となってあらわれている。 こうした一連の関連を知るとき、須佐之男命が大蛇からえた神剣を天照大神に献上するとい う一項は、中央の神話創作者の考えによるもので、飯石郡での伝承にはなかったことがわかる。 しかも、この大蛇退治の説話そのものが、この神剣の由緒を語るものとして利用され、取り上 げられたものであることもわかるであろう。そのために、神剣の霊威を高める必要から、こと ( 注 ) さらに八つ頭と八つ尾をもつ大蛇とされ、また桧や杉が体に生えている形容もされるにいたっ たものと考えられる。それは草薙剣の神聖性・神秘性を語る必要があったからである。したが って、飯石郡での説話の原形は、もっと素朴なものであったとみてよいのである。 ( 注 ) 八俣の大蛇のことは『古事記』には「高志の八俣遠呂智」と記されて、越の国からこの大蛇か年ごとに来るこ とになっている。『出雲国風土記』の意宇郡母理郷・拝志郷には「越の八ロ」という表現がみられるが、越の国から ー 62
来る八俣の大蛇の構想は、こうした伝承に負うているものと考えられる。 さらにこの説話のことで述べておきたいことは、山奥の飯石郡における説話が、中央で取り 上げられるに至った径路のことである。肥河が三刀屋川と分岐する熊谷郷のところには、現在 の木次町がある。その地名からでも明らかなように、ここは木材の集積地であった。ここを基 点として木材はさらに肥河をくだり、出雲郡へ流し出される。『出雲国風土記』の出雲郡出雲 大川の条に、 むつき かぞ のばりくだ 孟春より起めて季春に至るまで、材木を校うる船、河の中を沿泝る。 とあるが、陰暦正月から三月までの期間、材木を検閲する船が川を上下していた。そして、雪 解けによる川の増水を待って、材木を下流へ流していたのであろう。こうした検閲に来る役人 流のほか、木流しの人夫たちも下流の人たちに故里の説話伝説を語ることが多かったであろう。 おおのおみ の こうして大蛇退治が肥河に因む説話として、日置部臣や大臣を通じて、中央の人びとの耳に 話 説はいっていったものとみてよい。しかし、そのころ語られたこの説話は、現在記紀に見るほど 治の充実した内容と構成をもつものではなく、まことに素朴なものであったであろう。それは須 蛇佐之男命にしろ、奇稲田姫命にしろ、大神ではなく地方的な神であったことからでも推察でき ることである。 くれき
根国の高天原への降服と服従をしめすことにあったが、草薙剣の尊厳さを語るために、超自然 的力をもつ大蛇から得られたとしたのである。第三は、根国である出雲国の祖神として奇稲田 姫を娶り、次の神話のバトンを受ける大国主神の父として位置づけることにあった。 したがって、根国すなわち出雲国の祖神には、実のところ、誰を選んであててもよかったの であるが、大蛇退治の説話を好個の資料として神話創作者が取り上げたことから、そこに名を つらねる須佐之男命に、出雲の神々を代表する祖神の地位を与えることになったのである。須 佐之男命が本来、出雲の神々のなかで祖神的地位をもつ大神であったからではなかった。しか も、須佐之男命を祖神として用いることによって、肥河の下流域にあたる簸川平野を発生的地 盤とするつぎの立役者、大国主神へノ ヾトンを渡すためにも好都合であった。 このように、飯石郡の一地方的神にすぎなかった須佐之男命が、天皇のもっ統治権の神聖性 自を保障するために、記紀神話のなかで作為的に大きく取り扱われた。そのため、出雲の神々の の最高的地位にある祖神として、また皇室の祖神である天照大神の弟神としての、光栄ある地位 男を授かった。しかし須佐之男命はどこまでも悪神として、悪気を身にまといながら、根国へ落 佐ちのびて行く者として描かれているのである。したがって、この一連の神話のなかで、須佐之 男命は実は主役ではなく、道化的役割を負わされているものであった。さらにもっと明瞭にい うと、これらはただ高天原に対する根国の存在を説明するための前駆的神話として語られたも めと ー 69
大蛇退治の説話の源流 として結んだ説話は、飯石郡の人びとに負うていたのかも しれない。もちろん、それがどのような内容をもっ説話と して、二神が結ばれていたかについては不明である。とこ ろが、非常に興味ある説話が、飯石郡の東隣の大原郡阿用 望郷に伝えられている。『出雲国風土記』をみよう。 を 野 阿用郷。郡家の東南一十三里八十歩なり。古老の伝え つく 平 屋 に云えらく、昔、或る人、この処の山田を佃りて守り 刀 き。その時、目一つの鬼来て、佃人の男を食いけり。 、り その時、男の父母、竹原の中に隠りておりき。時に竹 そよ あよあよ 本 の葉動げり。その時、食わえし男、動動と云いき。故 れ阿欲という。 盟むかし、この地で山田を耕作していた男がいた。そのと き一つ目の鬼が来て、その農夫に食いついた。そのときそ の父母は竹原の中に隠れていたが、竹の葉が揺れ動いて音 をたてた。父母が鬼に見つかってはと心配した男は、自分 あよあよ で竹の葉の音に似せて「動動」といったというのである。 たっくるひと 巧 7
阿用という地名説話ではあるが、この説話がもっているモチーフには、須佐之男命と奇稲田姫 8 との説話に通じるものを感じる。 一つ目の鬼は山の神である。山田をつくる若者が山の神に食われ、それを竹原に隠れ逃げた 父母が、こわさに動動とふるえて見守っている。これは山村に伝えられて来た説話である。だ が、この説話は近隣の村々にも伝えられていたはずであり、山村と農村とではモチーフは同じ であっても、表現は変わっていたであろう。そして、もしこの説話が稲田の多い里で話された としたら、どうなるであろうか。山の神は水田を守る水の神に変わるであろう。そして全国に 見る習俗と同じように、ここでも水の神は蛇体として示されるであろう。さらに若者が稲田を つくる娘に代えられたとしたら、記紀にみる奇稲田姫とその父母の足名椎・手足椎の説話に近 いものになる。しかも、奇稲田姫命を守護神とする熊谷郷、肥河が支流の三刀屋川と分岐する やまたおろち ところの平野の里で、この説話が語られなかったとはいえない。まず八俣の大蛇退治の説話の 大略を述べてみよう。 高天原から追放された須佐之男命は、妣の国である根の国に行くべく、出雲国の肥河の上流 とりかみ にある鳥髪 ( 鳥上 ) の里にたどりついた。折しも箸が河から流れてくるので、川上に人が住んで いるのであろうと思って、川をのばって行くと、老夫婦が娘をなかにして泣いていた。 そこで「おまえたちは誰か」とたずねられると、老人の答えるのは「わたしは国っ神で、大 あよあよ
しかもそ出一一一申 〔〔〔〔〔い昏・お前述もしたごとく、出雲の東・西の豪族、意宇川流域に居住した 国造出雲臣や、神門川流域に住む神門臣とに県ぐ、肥河を背景とし、下流の簸町平野い大 国主神を中心とするものであった。また祖神も意宇川の上流に祀られていた熊野大神ではな く、後に考証するが神門川の・上流 0 褪られていた須佐之男命を、あえて巴河い上市に天を椰 として取り上げているものであった。しかも、その神話の素材を朝廷の神話作成者に提供した 者は、国造でもなく、古い豪族の神門臣でもなく、出雲郡の大領とな 0 た日置部臣か、少領の 大臣の一族であったと思われる。彼らは肥河の流域に住むものであった。 したが「て、『古事記』や『日本書紀』に出雲神話として載せられた内容は、出雲国造にとっ ては予想もしなかった驚きであ「たと思われる。往古から出雲族の大神であった熊野大神の名 も見えないし、本貫である意宇川流域に因んだ説話も記されていない。それに代わって簸川平 おおなもち 野の新開地の開発の神として祀られた大穴持命 ( 大地主命 ) が、『古事記』では翻訳されて大国 主神と呼ばれ、国譲り説話の主人公とな「ていたのである。これに対し、須佐之男命は神門川 の上流、須佐の地の説話にみる神ではあ「たが、大蛇退治のこの説話は舞台を肥河に変えられ ていた。この二つの説話が記紀にみる出雲神話の二大中心をなすものであるが、ともに出雲国 造と関連をもつものではなかった。 どういうわけで出雲国造や、それに関係する古い叫調が収グ上げ・られないで、彼ら