同ロ島取部当津売年六 + 九 戸主鳥取部諸石ロ鳥取部諸売年六 + 九 同ロ建部少提年六十八 同ロ鳥取部丑牟自売年七 + 六 戸主島取部勝来ロ鳥取部広売年六 + 九 同ロ杣奴部飯津売年七十八 同ロ若倭部売豆売年六 + 五 戸主神奴部床麻呂ロ鳥取部米豆売年六 + 四 戸主神奴部歳尾ロ鳥取部女津女年六 + 六 同ロ神奴部多売年五十八 戸主海部馬依ロ神奴部飯売年六 + 九 戸主若倭部黒井口若倭部舌荒売年七 + 八 同ロ鳥取部故売年七 + 一 戸主津嶋部鳥麻呂ロ海部加佐売年五 + 一一 同ロ神奴部板部売年七 + 八 戸主神奴部麻呂ロ海部坂売年五 + 九 戸主若倭部馬代ロ若倭部売胡売年六 + 二
年 事 号一西暦 天武一〇年六八一一帝紀および上古の諸事を記し定めしむ。 持統五年六九一大三輪氏以下十八氏にその祖の記を上らしむ。 文武慶雲三年七 0 六出雲国造兼連 ( 二五世 ) 意宇郡を兼職。 元明和鋼元年七〇八出雲国造果安 ( 二六世 ) 就任。 ・ 1 ・カ 六年七一三諸国に・風土記を上らしむ。 七年七一四紀清人・三宅藤麻呂をして国史を撰ばしむ。 元正養老四年・七一、一 0 、舎ん王・太万侶など勅揖 0 ・印・本紀一一→十巷を上ち。 五年七二一出雲国造広嶋 ( 二七世 ) 就任。 聖武天平五年七三三出雲国風土記を撰上す。 十八年七四六出雲国造弟山三八世 ) 就任。 桓武延暦十七年詹七九八」曲雲国造人長 ( 三二世 ) の大領兼職を解カる。 者 建 国造が意宇郡から杵築〈転居したのは、二十六代の果安の時代である。この国造果安は和銅 社元年 ( 七〇八 ) に任じられ、養老五年 ( 七一一一 ) までその職にあ「たので、転居はこの十年余の間 築の出来事である。ところが、この間の和銅五年 ( 七一一 l) に・・『古事記』が、養老四年 ( 七二〇 ) に 『日本書紀』が編さんされていることは見のがしできないことである。というのは、この記紀 の成立によって、雲神話の内容が決定みたからである。 1 項 107
す恒伊のことが、元正天皇霊亀二年 ( 七一六 ) 一一月に始まり、『町な紆 7 ・・ 0 世に・聞を畆叫年 『も明謎〕 ' ・・ 0 霞叫・年・にあた 0 ていることであ , 」 - 第っ町本書紀 7 ・é成 - 立以前ご・、・・・、 0 ・の・賀羽加・ ( éに われたということは、注意しなければならないことである。 というのは、国造が死亡すると、新国造は国司に連れられて朝廷に赴き、国造としての認知 とともに位階を授かる。そして帰国し、潔斎して後、再び京に上り、出雲神話の国譲りを内容 とした神賀事を奏上することになっていた。この神賀事の奏上のことが、『続日本紀』の霊亀 二年二月の条に初めてみえるのである。 しかも、その後の各代の国造の神賀事が、国造相続の後三、四年後に行なわれているのにも かかわらず、この果安は和銅元年 ( 七〇八 ) に国造を相続し、それから八年も後の霊亀二年に神 賀事を奏上していることからみても、この国造果安のときに神賀事が始められたものであるこ 者とがわかるであろう。 ( 注 ) 参考までに初期の国造の相続年次と、神賀事奏上の年号を左に記してみよう。 の 社 国造名年 大 西暦一事項一天皇 杵 果安和銅元年七〇八国造相続元明 霊亀二年二月七一六神賀事奏上元正 広嶋養老五年七二一国造相続〃 号 ロ 3
神元年正月七二四神賀事奏上聖武 弟山天平十八年三月七四六国造相続 天平勝宝二年二月七五 0 神賀事奏上孝謙 益方天平宝字八年正月七六四国造相続淳仁 神護景雲元年二月七六七神賀事奏上称徳 国上宝亀四年九月七七三国造相続光仁 国成延暦元年七八二国造相続桓武 延暦四年二月七八五神賀事奏上 人長延暦九年四月七九〇国造相続 延暦十四年二月七九五神賀事奏上 ( 注 ) 国造の就任と神賀事の年次などについては「続日本紀』による。『類聚国史』や『続日本後紀』によって、その後 の天長十年 ( 八三三 ) 四月に国造豊持の神賀事の奏上まで記録にみえている。多分これ以後は廃止されたのであろう。 右の表からもわかるように、果安だけが国造相続の八年後に神賀事を奏上し、その後は一般 に相続の三、四年後に奏上している。こうした点からも、この神賀事の儀礼が果安のときに始 まったものであることがわかる。ところが、さらに注意すべきは、果安国造のときには中臣朝 臣を通して奏聞している事実である。『続日本紀』霊亀二年二月の条に、 おわ 出雲国々造外正七位上出雲臣果安、斎みし竟 0 て神賀事を奏す。神祇の大副中臣朝臣人足 い 4
出雲神話の担い手 が、いまでは大社町遙堪に一社となって残っているだけである。ほとんどはそこの阿式神社と 杵築大社に合祀された。こうした事情から考えてみても、これらの地域の開発が新しいものだ といえる。中でも大社町の地域に、この種の神社の多いことは注意すべきことである。 みだみ 『賑給歴名帳』には、問題の美談郷と伊努郷とが欠けているが、幸いに杵築郷は記されてい るので、部落を構成していた氏族の名を調べてみよう。 杵築郷高年巳下不能自存巳上惣伍拾玖人、賑給穀弐拾玖斛壱斗八 + 歳四人、鰥四人、寡卅九人、 + 人、 合五十七人〃別五斗、不能自存二人″別三斗 鰥因佐里戸主品治部奈理年六 + 戸主額田部堅石ロ額田部忍尾年六 + 七 戸主海部刀良ロ若倭部富曽年七 + 六 戸主若倭部木足年七 + 三 寡戸主海部鳥麻呂ロ若倭部奈枳売年六 + 六 戸主若倭部麻呂ロ若倭部馬売年五 + 六 戸主神奴部広ロ神奴部加佐売年一Ⅱ 同ロ神奴部麻丑良売年五 + 三 同ロ神奴部悪多売年六十七 あじき 9
かし、これはどうも信じがたいようである。というのは、いずれ後にくわしく考証するが、第 十代の崇神天皇六十年に、出雲の主長が大和朝廷に伐たれる記事があるので、この征討によっ て、朝廷の任命した国造がおかれたと考えたのであろう。だが、この崇神朝における出雲征討 の事件そのものが史実としては疑問なのである。 それよりも『出雲国造世系譜』によると、第十七世の国造宮向臣に注記があり、「反正天皇四 年、国造となり、始めて出雲姓を賜う」とみえる。応神・仁徳の両朝のあと、履仲・反正とっ づくこのころに、国造の称を授かったとみるのは、案外当をえたものかと思う。 おお その後では、『日本書紀』の斉明天皇五年 ( 六五九 ) の条に、「この歳、出雲国造に命せ つく いつくしのかみ て、厳神之宮を修らしむ」とあって、出雲国造と用いているのがみえる。もちろん、このこ ろは国造であったとみてよい さらに『続日本紀』の霊亀二年 ( 七一六 ) 一一月の条に、「出雲国造外正七位上出雲臣果安」と いうのがみえる。この出雲臣果安は第二十四代にあたり、元明天皇の和銅元年 ( 七〇八 ) に国造 雲となり、十四年のあいだ在職した。つぎに同じく神亀元年 ( 七一一四 ) 正月の条に、「出雲国造外従 造七位下出雲臣広嶋の名がみえるが、第二十五代の広嶋は元正夫皇の養老五年 ( 七二一 ) に相 国 続し、天平五年 ( 七三一一 l) に編さんされた『出雲国風土記』の監修責任者であった。 ところが、つぎに問題になることは、右の『、、 ~ 田紆にもみえる「出雲臣、という氏姓が
惇戸主島取部勝来ロ建部玉依売年 + 一一 戸主神奴部歳尾ロ大伴部牛麻呂年七 同ロ大伴部床売年 + 四 戸主海部馬依ロ海部真虫売年 + 五 戸主額田部依馬ロ額田部手嶋売年 + 六 右のように杵築郷では、八十歳以上の高年者が四人、やもお ( 鰥 ) 四人、やもめ ( 寡 ) 三十九 人、独り者十人、そのほか不能自存者二人となって、合計五十九人が賑給の対象として列挙さ れている。ところが、右の表では点線の個所が欠文となって、実際には鰊四人・寡一一十一一人・ 襷五人しか記されていないので、点線のところで差引二十八人の名が脱落しているわけである。 そして里の名も因佐里 ( 稲佐 ) だけがみえるが、点線のところで一里か二里が落ちているもの 手とみてよい 掫さて、右の記録では戸主名も列挙されているので、これを戸主別に分類すると、左のように 話七氏族・十七家族となる。下段は戸主の名前である。 雲 因佐里 出 品治部奈理 額田部堅石 9
家一。民之父母還為ニ巨蠧一。自今以後。冝下改ニ旧例一国造郡領分 / 職任上 / 之。 延暦十七年三月廿九日 これでみると、国造が意宇郡大領を兼職したのは文武天皇慶雲三年 ( 七〇六 ) が始まりであり、 約九十年間兼職がみとめられていて、桓武天皇延暦十七年 ( 七九八 ) に兼職が解かれたことがわ かる。しかもその理由としては、神事にことよせて、ややもすると公務を廃てることが挙げら れている。意宇郡大庭の国造旧屋敷には、明治の御代まで別館が設けられていて、 ( 野社の 神祭のときや、郡の重要な会哉などには、相か , グ ? て別館にり、その・役はを果・たし・で、 たのであろうが、杵築大社の隆盛になるにつれて、とかく公務がおろそかになり、大社経営に 専念するようになったのであろう。 ところが、さらにここで考えてみる問題がある。それは杵築大社の創ならびに国造の杵築 〈の転居は、二十六代の・造果安いするが、それを促したのは『古事記』の編さん成立 であったか、『日本書紀』であったかということである。『日本書紀』は養老四年五月に奏上さ れたので、果安はその後半年か一年は生存していた。そこで、その間に転居して杵築大社の創 建にかかることも可能である。『日本書紀』が勅撰書であるだけに、書紀の成立を契機として、 杵築大社の創建が行なわれたものとみるのが、も「とも綏母陸物のように思われる。 ところが、もう一つの有力な線も考えられる。それは出雲国造が朝廷に出向いて神賀義を奏 1 12
考証で明らかにされたように、この天平年間にはまだ杵築は新開地で、部民だけが農耕に従事 していた土地柄であった。国造が杵築へ移ったのはそれから十余年ほど前となるので、さして 大きな違いはないとみてよい。そうした新開の一寒村へ、国造であり大領であるものが、なせ 移り住まねばならなかったのであろうか。もちろん杵築大社の神事を専掌するためであった が、それほどまでにして杵築大社へ奉仕しなければならない必要性が生じたのであろうか。 、これにはいくつかの解釈が考えられる。その一つは、杵築をふくむ簸川平野北部の新開地へ 各地の勢力ある氏族が開発のために部民を送りこんだが、国造出雲臣もそのなかに加わってい た。そして開発が進むにつれて、経済的地盤を確保するために国造家が移住して来て、杵築大 社による宗教的勢力をも把握しようとした。しかし、この解釈の致命的な点は、国司も朝廷も このような国造家個人の野心のために、意宇郡大領の重職を放置したまま転居するということ 者を、絶対に許すはすがないという点である。 これに対して第二の考えは、平野北部の開発が国の方針でなされた場合である。大化改新の の 社詔で、皇族や豪族の私有する土地人民は廃止されて班田収授が実施されたが、畿内から手につ 築けられたこの新制度も思うようにはいかなかったとみえて、天智天皇三年 ( 六六 = l) には氏上・ やかべ 杵かきべ 民部・家部などが定められた。しかし天武紀四年 ( 六七六 ) には、「詔していわく、甲子の年、 かきのたみ 諸氏に被給いし部曲は、自今以後みな除めよ」とみえているので、この後は私有地が廃止され 105
いつごろから、またどうした由緒で用いられるようになったかということである。というのは 8 おみかばれ 臣の姓は一般に第七代の孝元天皇より以前の皇統の裔に授けたもので、地方の豪族であった出 雲国造が臣姓を名のることには問題があるためである。 出雲国造家は久安五年 ( 一一四九 ) に焼けたとき古記録をすべて失い、いまでは平安末の長寛 年間からの文書しかのこっていない。したがって、出雲姓の起源についての伝えとしては、さ きに示した『出雲国造世系譜』の国造宮向臣の注記に、反正天皇四年に国造となり、出雲姓を 賜わったという記事である。 このほかでは、弘安四年 ( 一ニ八一 ) 二月、出雲大社の造営に関して、出雲目代左衛門尉に差 おうのそこぬ 出した書状に、右と同じことが記されている。「国造職は天照大神より意宇足奴命に至る神々 相続ぎて十八代なり。第十九代宮向宿禰の時、出雲姓を賜いてより以来、義孝に至る子々相承 けて廿八代なり」とある。この宮向宿肩とは、さきの『世系譜』では第十七代の国造宮向臣の ことであるが、天照大神から数えたので世代数に誤差が生じている。 第十八代の反正天皇の御代に、国造となるとともに、出雲臣の氏姓を賜わったという伝えは かなり信用してよいのではないかと思う。 つぎの第十九代の允恭天皇四年には、氏姓の乱れが政治の乱れの墓となっていることから、 くかだち それを正しくするために盟神探湯が行なわれた。すなわち熱湯の釜に手を入れさせて、偽る者