佐太神社の社家である朝山氏の歴史を中心としてみよう。 藤岡大拙氏の『封建社会の形成』 ( 山陰の歴史所収 ) によると、検非違使の下官であった大伴 政持が、承和三年 ( 八三六 ) に下向し、神門郡朝山郷に土着して、朝山氏を名のったという。そ の後、国衙役人でありつつ、律令制の崩壊期を利して在地性を強め、地方豪族として武士化し ていった。源平合戦のときには、出雲で平家方に加担したものとして、朝山記次の名を見るま でになっている。平家滅亡後は朝山八幡の神主職に補任されたが、建久五年 ( 一一九四 ) に塩冶 。司 ( 出雲在庁館人 ) に、さらに在国司に返り咲いた。建長元年 ( 一二四九 ) 六月、出雲大社御遷宮 ゃぶさめ について、在国司ほか六人の旧記のなかに、流鏑馬十五番の一番として「在国司朝山右衛門尉 勝部昌綱ーの名がみえる。このころは朝山郷を本貫としていたとみえて、当時の所領を見ると 次のようである。 朝山郷八十三町五反歩 楯縫東郷四十五町九反三百歩 同西郷三十五町三百歩 同三津庄三町 朝山郷の所領は朝山氏の本貫地であるから当然であるが、そのほかは楯縫郡へ飛んでいる。 この間の事情については藤岡氏も指摘しているように、斐伊川下流の両岸には出雲大社領がひ
3 なのである。 この神門川の下流の郷に、古くから神門臣の一族が 一住んでいた。出自は出雲臣と同族といわれ、『姓氏録』 右京神別の天孫の条に、 うかずくぬのみこと 出雲臣。天穂日命の十二世の孫、鵜濡渟命の後な ~ 久 神門臣。上に同じ。 とみえている。この神門臣一族の本貫は朝山郷であっ よ、一 ~ ( 戸たと思われる。というのは、『出雲国風土記』で寺院 0 』】神の建立はその本貫の地に見られるからである。神門郡 の新造院の条に、 新造の院一所。朝山郷の中にあり。郡家の正東二 里六十歩なり。厳堂を建立つ。神門臣等が造りし 〉明なり % ともあるのでもわかる。欠けている『賑給歴名帳』で すべてを論することはできないが、この木貫の朝山郷 かんどのおみ
( 注 ) 出雲の各神社は、杵築大社と佐太神社に分割支配されているが、その中でも「一社一例の社」といって、両社 6 4 頭の支配に属さない神社がいくつかある。関のあった美保神社、日御碕神社、十二世紀の初頭に出雲に進出した石清 水八幡宮の最初にできた別宮の平浜八幡宮、京都聖護院の領地の内神社で、これらは国庁の直支配に属していた。 このような勢力を佐太神社がもつようになったことから推すと、在国司の地位にあるときに、 手縫郡からさらに秋鹿・島根両郡へと朝山氏は所領を増し、その所領を確立する必要から、所 領内の最高の神社である佐太神社に域内神社の支配権を委ねて、杵築大社の勢力と対立させた ものと思われる。『出雲国風土記』の秋鹿郡に神戸里があり、これは出雲神戸、すなわち熊野 神社と杵築大社の二社の神戸であると記されている。ところが『出雲風土記抄』には、この神 ( 注 ) 戸里を「佐田社領七百貫の地なりーといっているが、中世以降になって佐太神社の神領に転換 されている事実を認めるのである。朝山氏は後に支配関係から退いて、佐太神社の社家となる が、朝山氏が政治的権力を掌握していた時代に、佐太神社を杵築大社の支配から切り離し、出 雲二ノ宮としての勢力を確立することにつとめたものとみてよかろう。 ( 注 ) 「出雲風土記抄』に「則ち佐田の宮内なり。按ずるに庄村、常相寺村、古志村、古曽志、西浜佐田、及び島根郡 の中、名分、上佐田、下佐田等にいたるまで、蓋し佐田社領七百貫の地なり」と記している。大体むかし神戸里と同 じ区域とみてよかろう。 次に『古事記』や『書紀』で、杵築大社の神が大神と呼ばれている例がある。しかしその例
出雲の大神たち とだ おおさこ ろがり、また熊義郡富田城を居城としていた守護の佐々木氏が、塩治郷の大迫城に進出して塩 冾氏と改姓した。こうして守護の塩冶氏も出雲西部に勢力を張ったことから、朝山氏は現在の 平田市を中心とする楯縫郡へ、よんどころなく進出しなければならなくなったのであろう。 その後の歴史については不明であるが、室町末には、朝山氏は佐太神社の神主として、出雲 十郡のうち楯縫郡・秋鹿郡・島根郡・意宇郡の西半分、すなわち三郡半の神主を支配する社頭 職に任じられている。杵築大社の神主である国造が総検校職に任じられていたので、三郡半を 支配している佐太神社と支配争いも行なわれたが、両社頭による分割支配の領分は現在に至る も変わらず、佐太神社には五人の幣頭があり、その支配を『八東郡誌』によって示すと左のご とくである。 。吉岡幣頭秋鹿郡の東部十八社家、および島根郡西部の六社家を支配。 。石川幣頭島根郡東部の十社家を支配。 。遠藤幣頭意宇郡西部の十一一社家を支配。 。河瀬幣頭楯縫郡西部の十八社家を支配。 。常松幣頭楯縫郡東部および秋鹿郡西部の十社家を支配。 このように五人の幣頭がそれぞれの地域の神主を支配し、祭のときには神楽をするために、 ( 注 ) これら幣頭が配下の神主を連れて神社へ参る。 145
二大蛇退治の説話の源流 記紀にのる出雲神話には二つの要素がみとめられる。一つは須佐之男命の大蛇退治の説話で あり、他は大国主神の国譲りの説話であって、この二つの説話を中心として、出雲神話が構成 されている。ところがこの出雲神話は、『出雲国風土記』がしめす説話のなかには、その素材 をみとめることができず、両者に大きな相違のあることがこれまで指摘されてきた。だが、は たしてそうであろうか。ます須佐之男命の問題からはいっていこう。 『出雲国風土記』に記されている神々の多くが、地名をもって呼ばれていることから、須佐 かんど 之男命という神も地名と関係したものとみてよかろう。神門川は飯石郡の琴引山 ( 一〇一四メー きしまはた すさ トル ) から北へ流れ、来島・波多・須佐の三郷を経て、それから神門郡の中にはいり、神戸里 ・朝山郷・古志郷を経て神門水海にはいる。その中流に飯石郡須佐郷があり、小さい盆地をつ くっていて、その東須佐の地には小形の後期古墳が数個みられる。その須佐郷を『出雲国風土 - 言』でみると、 かみすさのお 須佐郷。郡家の正西一十九里なり。神須佐能袁命の詔りたまわく、この国は小さき国なれ 巧 2
善史も、少なくとも氏族数の上からでは考えられず、才能から選ばれたものとみてよいようで ある。そこで原則としては、少領はその地の県主やその他の勢力家から選ばれたであろうが、 必すしもそれに拘泥しないで、人材を選ぶことが許されていたように思われる。 さて、残る郡は神門郡と出雲郡とである。中でも神門郡の大領である神門臣は、出雲臣と同 族とされているので、これまでの調査からは、これらの地方も古くは国造の勢力下にあったと いってよい。それなのに、あえてこの二郡を切り離して論じようとする理由は、この神門・出 雲両郡が、記紀神話のなかの出雲神話の舞台とな「ていることと、この二郡の歴史をどう理解 するかが、出雲神話を解く鍵ともなるからである。 さきに示した『出雲国賑給歴名帳』も、神門・出雲の二郡だけが伝えられているが、問題の 雲地域であるだけに幸いである。その郷里における氏族の分布状態を参考としながら、この二郡 たの歴史をさぐってゆくことにしたい。 かんど ら出雲西部の文化は神門川 ( 神戸川 ) の流域で起こ「た。この神門川は、源を飯石郡の琴引山か ら発し、来島・波多・須佐の三郷を経て、神門郡の神戸・朝山・古志などの = 一郷を流れ、西に 族向いて水海に入る。この水海を「神門の水海」といし いまの神西湖がむかしの一部をのこす 遺跡である。これはちょうど出雲東部の文化が意宇川の流域に発して、この川が中海に入るの 四 とよく似ている。しかも、この神門川の上流の須佐の地が、須佐之男命の説話が発生した舞台
神奴部四戸 神戸 ( 神戸里で、十六名全員記載 ) 神奴部二戸 日置部 出雲積 これをわかりやすくするために、郡単位で臣姓のものを計上すると、順位は左のごとくなる。 ひおきべ 出雲郡では大領を出している日置部臣の一統は 出雲郡 神 断然他を引き離して多数である。しかし、少領の 日置部臣二十八戸神門臣十五戸 おおのおみ 建部臣十六戸刑部臣八戸大臣は上の表には現われていない。 この郡内の住 雲丈部臣九戸吉備部臣六戸人なのか、他からの移入者なのか不明である。 出出雲臣 四戸若倭部臣四戸 これに対して、神門郡の方は、その点において 日置部臣四戸 見 、り 勝部臣三戸明らかである。この地方のもっとも古い氏族とみ かんどのおみ 成 られ、朝山郷を本貫とする神門臣の一統が絶対多 おさかべのおみきびべのおみわかやまとべのおみひおきべの 族数を占めて、ここから大領が選ばれている。そのつぎは刑部臣・吉備部臣・若倭部臣・日置部 氏おみ 臣がやや同じ勢力でみとめられる。 四 吉備部臣の一族は郡の西部の多伎郷を中心として居住していたようであるが、日置部臣の一 4
には神門臣がわずかに二戸、滑狭郷には七戸、古志郷に一二戸、日置郷が二戸、そのほか特に塩 冾郷をはじめとして北の諸郷が不明であるが、朝山郷から郡の中心部である平野へ向けて進出 したようである。 『風土記』の出雲郡健部郷の条に、 たけるべ なづ 健部郷。 : : : 健部と号くるゆえは、纒向檜代宮御宇天皇 ( 景行天皇 ) の、朕が御子、倭健命の たけるべ ふるね 御名を忘れじと勅りたまいて、健部を定め給いき。その時、神門臣古禰を健部と定め給い たけるべのおみ き。すなわち健部臣等、古より今に至るまで、なお此処に居めり。故れ健部という。 この健部は景行紀四十年の条に、「功名を録えむと欲して、すなわち武部を定めたもう」と あるもので、日本武尊の御名代部である。右の記事は、健部を出雲に置くについてこれを神門 雲臣に課し、神門臣が土地人民を献上して、その長に神門臣の占禰があたって健部臣と称したと いうことである。この健部郷を『賑給歴名帳』でみると、一郷五十戸のうち、これには三十戸 らがのせてあるが、その中で建部臣十三戸、建部首一、建部四戸、計十八戸の多くがこの一族で ある。しかも、他郷ではわすかなので、健部の一族はこの健部郷を本貫としていたことが確か 簇であり、御名代部とされていたこともみとめてよかろう。この健部郷は宍道湖の西南にあたり 意宇郡と接するところで、神門臣はここの住民を健部として献上したというのであるから、こ こはむかし神門臣の勢力下にあったとみられる。そして、その勢力は神門・出雲の両郡にわた った たけべ
の伝承をもっていた神であろう。 こうした事情を知った上でさきの説話をみると、大穴牟遅神が木攻めにあったことから、木 の神の助けを求めるために、紀伊国の大屋毘古神のもとへ行くという話になったのであろう。 ねのかたすくに 説話の第四は、大屋毘古神にすすめられて須佐之男命のいる根堅洲国へおもむく。そして須 すせりびめ 佐之男命の娘、須勢理毘売と門の外で会い、結婚して家に引き返し、姫が「大変奇麗な神が来 あしはらしこお られました」と父につげる。父神が出て見られ、「これは葦原色許男という神だ」といわれ、 むろむかで すぐ呼び入れられる。そして大穴牟遅神は蛇の室、呉公や蜂の室に寝さされて試練を受けるが ひれ その都度、妻の須勢理毘売が、その難からのがれることのできる呪具の比礼を与えて救うとい う話などである。 『古事記』ではこの須勢理毘売が大穴牟遅神の正妻とされているが、この女神の名は『古事 なめさ 記』のほか、『出雲国風土記』の神門郡滑狭郷の条に「和加須世理比売命」としてみえるの で、この滑狭郷の守護神としてまつられていた神であったと思われる。 しかも、もっと興味深いことは、加藤義成氏が『出雲国風土記参究』のなかで、大同医心方 に神門郡大領の神門臣が家伝として、和加須世利比売の須世利薬を伝えていることを指摘して いることである。神門臣の住居の本貫はもとは朝山郷であるが、天平十一年の『賑給歴名帳』 では、かえって滑狭郷にもっとも多く住んでいて七戸を数える。そこで大領として選ばれた神 182
高麗の帰化人とみている。加藤義成氏の『出雲国風土記参究』をはじめその他各書も同じ見解である。しかし、これ 6 は欽明天皇の倉皇子の御名代部である。 ( 注 2 ) 意宇郡舎人郷に日置臣志毘の伝説が伝えられているが、このほか国造の住地と同じ山代郷に日置君目烈が新 造院を建立し、しかも彼は出雲神戸の日置君猪麻呂が祖であると記している。さらに山国郷にも日置部根緒が新造院 を建てているので、日置部臣の一族は意宇郡だけでも舎人・山代・山国の各郷と出雲神戸へもひろく分布していたし 寺院を建立しうる権力を持っていたことがわかる。これに対し、西部の神門・出雲両郡でも多くの戸数と強い権勢を 持っていた。 以上のように、この出雲西部の二郡、すなわち神門郡も出雲郡もともに、出雲国造の血統を 日臣・日置部臣によって治められることになったのである。 うけた神 おさかべの このほか、この地方で勢力のあった各氏族を参考までに挙げると、神門郡の少領をした刑部 おみ 臣の一族が、古志郷から北に分布していたようである。『賑給歴名帳』には刑部臣八戸、刑部 四戸がみえるが、北部地方の郷名がみえないので実数はもっと増すであろう。これはさきにも わかやまとべ 述べたように、允恭皇后の御名代部である。また神門郡の若倭部は開化天皇の御名代で、若倭 部臣四戸、若倭部臣族一戸、若倭部連一一戸、若倭部十一戸がみられ、朝山郷に多くみられる。 これに対して、他国の豪族も多く入りこんでいるが、主なものとしては神門郡で吉備部臣が みられる。これは吉備臣の部曲であるが、吉備部臣六戸、吉備部君三戸、吉備部六戸があり、 西部の多伎の地の開拓にはいったようである。また安部臣の一族の丈部が、斐伊川を挾んで両 ( 注 )