びと 神人大国主命の五世の孫、大田田根子命の後なり。 ( 摂肆国 神男・地祇 神直上に同じ。 崇神朝に全国の天社国社の祭祀に先んじて、天照大神とともにまつったというほどの大物主 神は、その神を斎きまつる三輪氏の豪族ぶりをしめすものである。記紀にはいくつかの三輪伝 ひめたたら 説をのせ、その伝説を負うその氏族の女、媛蹈鞴五十鈴媛命を神武天皇が后としたとしたとい うのも、やはりこの氏族の偉大さを証明するものである。それほど大和国の勢力ある古豪の三 輪氏が、記紀の本文には明記せす、ただ『書紀』一新だげみ・一グれ・を大国主神どの同神説をも って、氏族の系譜に祖神大物主神の名を用いないで、なせことさらに大国主神の子孫だど記す テにを・・つ・・だ・ 0 ・でおみ一プか。もちろんそうすることの方が、一族の利益になると考えてからの ことであろうが、それほど出雲族系とみられることに政治的利益があったのであろうか。 『古事記』の撰上の四年後の霊亀二年 ( 七一六 ) 二月に、出雲国造果安は朝廷に参向して神賀 事を奏上した。その後は国造就任ごとに、この神賀事を奉上することが恒例となり、平安時代 の中ごろまでつづいたようであるが、そのとき奏上する神賀事の儀礼化したものが『延喜式』 に載っている。そのなかに左の一文が見える。 すめみまのみこと 大穴持命の申し給わく、皇御孫命の静まりまさむ大倭国と申して、己命の和魂を八咫鏡に くしみかたま たた ま かみなび 取り託けて、倭大物主櫛玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅 みわ っ おおみわ すすひめ ー 98
考証で明らかにされたように、この天平年間にはまだ杵築は新開地で、部民だけが農耕に従事 していた土地柄であった。国造が杵築へ移ったのはそれから十余年ほど前となるので、さして 大きな違いはないとみてよい。そうした新開の一寒村へ、国造であり大領であるものが、なせ 移り住まねばならなかったのであろうか。もちろん杵築大社の神事を専掌するためであった が、それほどまでにして杵築大社へ奉仕しなければならない必要性が生じたのであろうか。 、これにはいくつかの解釈が考えられる。その一つは、杵築をふくむ簸川平野北部の新開地へ 各地の勢力ある氏族が開発のために部民を送りこんだが、国造出雲臣もそのなかに加わってい た。そして開発が進むにつれて、経済的地盤を確保するために国造家が移住して来て、杵築大 社による宗教的勢力をも把握しようとした。しかし、この解釈の致命的な点は、国司も朝廷も このような国造家個人の野心のために、意宇郡大領の重職を放置したまま転居するということ 者を、絶対に許すはすがないという点である。 これに対して第二の考えは、平野北部の開発が国の方針でなされた場合である。大化改新の の 社詔で、皇族や豪族の私有する土地人民は廃止されて班田収授が実施されたが、畿内から手につ 築けられたこの新制度も思うようにはいかなかったとみえて、天智天皇三年 ( 六六 = l) には氏上・ やかべ 杵かきべ 民部・家部などが定められた。しかし天武紀四年 ( 六七六 ) には、「詔していわく、甲子の年、 かきのたみ 諸氏に被給いし部曲は、自今以後みな除めよ」とみえているので、この後は私有地が廃止され 105
高麗の帰化人とみている。加藤義成氏の『出雲国風土記参究』をはじめその他各書も同じ見解である。しかし、これ 6 は欽明天皇の倉皇子の御名代部である。 ( 注 2 ) 意宇郡舎人郷に日置臣志毘の伝説が伝えられているが、このほか国造の住地と同じ山代郷に日置君目烈が新 造院を建立し、しかも彼は出雲神戸の日置君猪麻呂が祖であると記している。さらに山国郷にも日置部根緒が新造院 を建てているので、日置部臣の一族は意宇郡だけでも舎人・山代・山国の各郷と出雲神戸へもひろく分布していたし 寺院を建立しうる権力を持っていたことがわかる。これに対し、西部の神門・出雲両郡でも多くの戸数と強い権勢を 持っていた。 以上のように、この出雲西部の二郡、すなわち神門郡も出雲郡もともに、出雲国造の血統を 日臣・日置部臣によって治められることになったのである。 うけた神 おさかべの このほか、この地方で勢力のあった各氏族を参考までに挙げると、神門郡の少領をした刑部 おみ 臣の一族が、古志郷から北に分布していたようである。『賑給歴名帳』には刑部臣八戸、刑部 四戸がみえるが、北部地方の郷名がみえないので実数はもっと増すであろう。これはさきにも わかやまとべ 述べたように、允恭皇后の御名代部である。また神門郡の若倭部は開化天皇の御名代で、若倭 部臣四戸、若倭部臣族一戸、若倭部連一一戸、若倭部十一戸がみられ、朝山郷に多くみられる。 これに対して、他国の豪族も多く入りこんでいるが、主なものとしては神門郡で吉備部臣が みられる。これは吉備臣の部曲であるが、吉備部臣六戸、吉備部君三戸、吉備部六戸があり、 西部の多伎の地の開拓にはいったようである。また安部臣の一族の丈部が、斐伊川を挾んで両 ( 注 )
四氏族構成から見た出雲 国造が出雲の地をどの程度、勢力下におさめていたかということは、考えなければならない ことである。それを知る手がかりとしては、時代がさがるが『出雲国風土記』の各郡の末尾に みえる郡司の連名が役立つ。そこには、その郡の風土記を筆録した郡司の職名、大領・少領・ 主政・主帳の名が連記されているので、これが編さんされた天平五年 ( 七三 = l) のころの出雲の 支配状況をうかがうことができるのである。しかも大領・少領には、その地の国造ないしは県 主があてられることにな 0 ていたので、特に大領・少領がどの氏族から選ばれているかを知る ことによ「て、それ以前におけるその地の豪族をさぐることもできる。まずそれを示すと左の ごとくである。 意宇郡 ( 郷十一里 = 下三、余戸一、駅家三、神戸三里六 ) 国造兼大領 外正六位上勲十一一等 従七位上勲十ロ等 主政 外小初位上勲十ロ等 林出出 雲雲 臣臣臣
たようである。しかし荒蕪地に対しては、朝廷の許可を得て開拓して私有することができた。 また国家的に開発されることもあった。この場合は一般にある豪族に対して開発を委ねた。 杵築の地がこうした方針によって開発されたものであったとしたならば、しかもそれを国造出 雲臣に委ねたとしたならば、その地に開発の守護神である大地主神をまつり、開発の成果をま って杵築へ転居したものと考えられる。しかしこの場合でも、転居しなければならないほどの 理由は薄弱である。またそうした統制のもとで開発が行なわれたものであるならば、杵築大社 の一社があればよいわけで、五十余も散在する小社の群生はおこらなかったはずである。さら に『賑給歴名帳』の氏族別をみても、出雲臣の部民は見えす、各氏族の部民がはいりこんでい ることである。もちろん、この記録外に出雲臣の部民もいたかもしれないが、その数において 他を圧するほどの絶対数ではなかったと考えられる。 神門郡に比して出雲郡の開発はおくれていたので、大領の日置部臣が平野北部の開発を企図 したとも考えられる。だがその場合でも、不都合な条件は前と同じである。さらにその上に、 なせ杵築大社をまつるためとはいえ、国造家を迎え入れなければならなかったかという疑問に ついては、解釈しかねるものである。 そこで方向をかえて考えてみたいと思う。まず国史編さん事業の始められた天武朝から以後 の歴史を、左に略記してみよう。 105
このように野見宿禰は、土部臣という臣姓を賜わったが、彼は出雲国造の一族であった。そ R して、この時代には一族は同じ姓を名のって分家するのがならわしであった。そうしたことか ら考えると、天皇から野見宿禰が臣姓を賜わったことを理由として、出雲国造も国造の称を授 かったときに、出雲臣という臣姓を名のるようになったものとみてよいと思う。 これに似たことが、後のことではあるが『続日本紀』にもみられる。 天武天皇十三年 ( 六八五 ) に、皇室中心に各氏族を組織するために、それまでの姓を八色に改 まひとあそみすくね いみきみちしおみむらじいなき め、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の順位とし、かっての高い位にあった臣・ 連の姓が低くされた。 そして、土師臣はのちに土師連となったが、この天武朝の改姓では宿禰の姓を賜わった。さ らに桓武天皇の延暦九年 ( 七九〇 ) には、その一族の女が天皇の外祖母にあたることから、その 系統のものは皇室の外戚として、朝臣の姓まで賜わった。そのため土師氏の一族は、位の高い 朝臣と宿禰の二系統ができた。 そこで翌延暦十年に、近衛府に勤めていた出雲臣祖人という者が、土師の氏人らが朝臣や宿 禰の姓を賜わっているので、同祖の者である自分も同じ姓に改めてほしいと願い出た。 しようげ . ん 近衛将監正六位下出雲臣祖人もうす。臣らが本系は、天穂日命より出ず。その天穂日命の 十四世の孫を野見宿禰という。野見宿禰の後、土師氏の人ら、或いは宿禰となり、或いは やくさ
やむや 族は隣の出雲郡河内郷から本郷日置郷・塩冶郷にかけて居住していたようである。刑部臣の一 族は古志郷を中心に住んでいたようで、欠文の高岸郷の方へも延びていて、実数はもっと増す ものとみてよかろう。そうした事情を勘案すると、少領が刑部臣から選ばれる可能性がもっと も高いわけである。もちろん、この郡にのみ名をみる吉備部臣の勢力も、西部の多伎郷に多い ので、ここからは主政が選ばれている。 ( 注 ) 『出雲国風土記』には新造の寺院名と建立者の名が記されているが、寺院はその氏族の本貫の郷に建立される。 神門臣は朝山郷、刑部臣は古志郷、日置部臣は出雲郡河内郷に建立した。中でも日置部臣は河内郷を本貫とし、また 戸数も群をぬいて多いが、神門郡日置郷かその地名から名くは本貫地であり、後に河内郷の方へのびたものであろう。 こうしてみると、大領・少領は大体において、その地の勢力ある氏族から選ばれたものとみ てよい。右の二郡のほかは調べようがないので、全体について決定的には述べられないが、そ の傾向は知りえたわけである。 ところで、意宇郡は神郡でもあるので、同姓の郡領を二名出すことができ、国造の出雲臣か ら大領と少領がともに選ばれている。この郡は国造家の本貫の地であるから当然のことであ る。そのためか擬主政と主帳まで出雲臣から採用されている。 にた ところが、出雲臣がその他の郡でも郡領に選ばれている。楯縫郡の大領、飯齎郡・仁多郡の 少領とである。楯縫郡の大領が出雲臣から出ている以上は、国造の一族がこの郡の権力を古く ひおき たてぬい
たかよしのふびと ( 注 ) からもっていたものとみてよい。しかも、少領には帰化族の高善史があたっているが、この : こごこ同姓の者を禁ず 氏族が勢力があるほどの戸数をもっていたとは考えられないのてナナ君令ー るために、学問と文筆に秀でた帰化族を補佐役として選んだのであろう。そうした点で、楯縫 郡は全面的に出雲臣の勢力下にあったとみられるのである。 ( 注 ) 楯縫郡沼田郷の新造の寺院は、大領の出雲臣大田が建立したということが、『出雲国風土記』にみえる。したが って出雲臣大田は沼田郷を本貫として勢力をもっ氏族であったと思われ、国造出雲臣の一族であったとみてよかろう。 おおきさいのみやっこ これに対して、出雲臣が少領をしている飯石郡では、大領が大私造となっている。実は 『出雲国風土記』の諸本は、「大弘造 . とっくっているが、栗田寛氏が『標註出雲国風土記』で大 私造の誤りであろうとして訂正した。この大私造は『続日本紀』の元明天皇和銅二年 ( 七〇九 ) 正月の条に、「正六位上大私造虎に並に従五位下」とみえるものと同じ姓である。出雲国では 天平六年 ( 七三四 ) の『出雲国計会帳』に「熊谷軍団の百長、大私部首足国ーの名がみえるが、 熊谷軍団は飯石郡におかれていた。そこで『出雲国風土記』と時期の同じころに、飯石郡の軍 団長に大私部首がなっていたわけで、そのためこの一統は門閥もあり、またこの郡にかなり多 く分布もしていたとみてよい。この大私部については、『姓氏録』右京皇別に「開化天皇の皇 ひこいます 子、彦坐命の後なり」と記されている。 それよりも注意すべきは、この郡の少領である出雲臣である。『出雲国風土記』の意宇郡に
地からはあまりにも離れている。 出雲神話が国造出雲臣とも関係なく、また神門臣とも関連性が薄いということになると、一 体誰が神話の担い手であったのであろうか。こうした問題から、出雲神話の解明の糸口を手繰 っていくことにしょ , つ。 肥河を出雲神話の背景として取り上げた者は、当然に肥河の近くに住む者でなくてはならな ひおきべのおみ 。さきに神門郡日置郷を本貫とし、後に東へ伸びて肥河の流域に移り住んだ日置部臣の一族 のことについて述べた。そして彼ら一族は、肥河が郷の真中を貫流する出雲郡河内郷にもっと も多く群居するようになり、『賑給歴名帳』でも日置部臣二十三戸、日置部首四戸、日置部一 戸、合計二十八戸がみられるほどである。そして、この河内郷に彼らの手で寺院まで建立した。 やむや しかも、この一族は肥河に沿って、さらに塩冶郷・出雲郷へと伸びて行ったようである。 手 郡制が布かれて神門郡・出雲郡に分かれたときには、出雲郡では日置部臣は他の氏族を大き 掫く離した戸数の優勢さを示し、郡の大領の地位をも獲得した。これに反して、神門郡はかっての 話文化の中心であっただけに、神門臣・刑部臣・吉備部臣・日置部臣・若倭部臣などが共に優勢 雲な戸数をもって権力を競った。その点、出雲郡は文化の中心から離れていたので権力のある氏 族が見当たらず、ただ戸数においては健部臣が次ぐ程度であった。そして郡領としての大領・ 少領の二名をともに同姓で占めることが禁じられていたために、日置部臣は大領となって、少
郡にはいってきている。そのほか、さきの表で見られるように、多くの氏族がはいりこんでき とおちね ているが、記紀の垂仁天皇の条に物部十千根大連が神宝の検校のために出雲に派遣されたとみ えておりながら、この系統の物部がほんのわすかしかはいっていないことは注目されることで ある。しかし、この物部は神門郡の西隣の石見国の大田へ移植し、物部神社 ( 旧国幣小社 ) まで つくった。 ( 注 ) これまで出雲西部の神門臣の勢力に対抗するものとして、強力な吉備勢力が考えられてきた。たとえば藤間生 大氏 ( 「吉備と出雲』私たちの考古学四ノ一 l) や原島礼一一氏 ( 「古代出雲服属に関する一考察』歴史学研究一一四九 ) な どの意見があるが、彼らの居住地は政治の中心から離れた西方の多伎郷が主体であったことを知らなければならない し、他の各氏族を圧制するほどの戸数でもない。 大化改新の詔が、実際いっから出雲では実施され、実を結ぶようになったかは不明であるが、 出国司・郡司の設置を見、御名代の屯田はもちろん、各氏族の私有していた部曲・田荘も禁じら 見れて、班田収授の制のもとで、一般公民としての地位に変わった。したがって、その後は『賑 か給歴名帳』にみえる氏族名称も、ただ彼らの古い出自をしめすものにしかすぎなくなったわけ 構である。 ' 四