熊野神社 - みる会図書館


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1. 出雲神話の成立

諸学者もこの解釈を採ってきている。 『令集解』巻七、『神祇令』第六に「謂。天神者。伊勢。山城鴨。住吉。出雲国造斎神等類是 他。地祇者。大神。大倭。葛木鴨。出雲大汝神等類是也」とあ「て、大国主神は地祇、熊野大 神は須佐之男命とみて天神であると定めている。こうした熊野神社の祭神についての誤りは、 還く出雲国造みずからが身の安泰を願うため、政策的手段としてとった作為に発するものであ った。しかし、そうした無理は衆人を納得さすだけの力を持たす、初期のころは朝廷でも熊野 神社を杵築大社より上位に置いて格づけをしていたが、しだいに杵築大社の下位に立つように なった。そして明治四年の社格制定のときには、地祇の大国主神を祭神とする杵築大社が官幣 大社になったのに反し、熊野神社は天神とされながら国幣中社とされ、大正五年になって国幣 大社に昇格したのである。、 須佐之男命はこのように熊野神社では祭神として浮き上がった存在なのである。これに対し 明らかに須佐之男命という名のもとに祭神となっているのは、この神の故地である東須佐村の 旧国幣小社須佐神社である。しかし、この神社もおくれて、明治三十二年にな「て国幣小社に 列格した。こうしたところにも、この神の不幸があったといえる。 2

2. 出雲神話の成立

・乃 宍道湖 朝的 上竹 6 茶臼 大 . △ー引 国造館 草六所神社 魂 神納・ 下忌部 東岩坂 ・・西岩坂 熊野大社 呂内 天狗山 ( 熊野山 ) 引 0.4 第 2 図意宇川流域の古墳分布図 ( ・古墳 ) ーー山本清氏の調査による に 50 000 1 m

3. 出雲神話の成立

物っ もちろん右の神郡のことは、時代をくだった『延喜式』にみるものであるが、 の文武天皇四年 ( 七〇〇 ) 二月の条にも、 上総国司、安房郡の大少領を父子兄弟に連任せんことを請う。これを許す。 とあって、安房郡の大領・少領を父子兄弟で勤めることを国司を通じて請願し、それを許され ている記事がみえる。ところが、その前の二年三月の条にも、 ゆる 詔。筑前国宗形、出雲国意宇の二郡司、みな三等己上の親に連任することを聽す。 とあり、慶雲元年 ( 七〇四 ) には伊勢国の多気・度会二郡、さらに元正天皇の養老七年 ( 七一一三 ) には下総国香取郡、常陸国鹿嶋郡、紀伊国名草郡でもみとめられている。したがって、出雲国 意宇郡をはじめ、すべての神郡では父子兄弟でその郡の大領・少領をつとめることが許された ようである。 ただここで一言いっておきたいことは、出雲国の神郡としては、熊野神社のある意宇郡がみ とめられていて、杵築大社のある出雲郡は神郡でなかったということである。このことは本論 の焦点の一つとなる重要な問題で、注意していただきたいと思う。少なくともこの当時まで は、熊野神社が出雲国を代表する大社であったし、国造が奉仕したのもこの神社に対してであ った。後世に出雲国を代表するようになった杵築大社 ( 出雲大社 ) は、まだこのころは創立され 『続日本紀』

4. 出雲神話の成立

あろう。 実際、こうした政策的作為があったことにより、記紀に載らない熊野大神の社が、杵築大社 とつねに同格の待遇を受けることができたのであった。 『文徳実録』の仁寿元年 ( 八五一 ) 九月 十六日の条に、「特に出雲国熊野、杵築両大神を擢んで、みなに従三位を加う。」とあり、『三 代実録』の貞九年 ( 八六七 ) 四月八日には、「出雲国従一一位勲七等熊野神、従二位勲八等杵築 神、みなに正二位を授く」とあり、延喜の制でもともに大社として扱われている。そして明治 になっては、熊野社が国幣大社に、杵築大社が官幣大社に列格された。 現在でも熊野神社では、『社記』に祭神を熊野大神櫛御気野命と記しながら、須佐之男命の 別名であると解いている。それほど長い歴史にわた「て二神を同神だとしてきながら一般の人 びとは少しも納得していない。信じきれないで、祭神には疑問を感じているのである。 自 こうした不審を抱かせるようにしたのも、態野神社の祭神が時代とともに変様したからであ のる。さきの神賀事で祭神を模糊たらしめたことは、その後も尾を引いて『旧事本紀』の陰陽本 男紀に「建速素戔鳴尊は出雲国熊野杵築神宮に坐す」となり、さらに中世以降には、享保一一年 佐 ( 一七一七 ) の『雲陽誌』によると、速玉命・事解男命・伊弉冉尊三神をまつる上の社と、天照 大神・素盞雄命などをまつり伊勢宮と呼ばれた下の社とに分かれたという。また本居宣長は、 櫛御気野命の名は須佐之男命を称えた御名であるといし 、その後『出雲風土記考証』をはじめ 171

5. 出雲神話の成立

領としての出雲 ていなかったのである。 実際『日本書紀』をみると、斉明天皇五年 ( 六五九 ) に左のような記事がある。 おお いつくしのかみ えよほろと この歳、出雲国造に命せて、厳神之宮を修らしむ。狐、於宇郡の役丁の執れる葛の末を たたむき いうや 噛断りて去ぬ。また狗、死人の手臂を言屋社に噛い置けり。 いうや 文中の言屋社は、『延喜式』にみえる揖夜神社、『出雲国風土記』では伊布夜社とあるもので、 意宇川の川口のすぐ東の揖屋町にある神社である。したがって厳神之宮とは、神郡である意宇 郡の熊野神社をさすものであることが明ら かである。 殿ところが後世では、右の「厳神之宮を修 社らしむーという記事を、ことさらに杵築大 野社のこととし、さらにこれが正殿式を定め たものとして造宮にあたってきた。しか 真し、これは杵築大社のことではない。出雲 の神は熊野大神から、のちに大国主神の信 仰へと移って行ったのである。 その考証はのちにゆずるとして、この意 すえ

6. 出雲神話の成立

から、現在の杵築の地へ転居した。しかし、大庭の旧屋敷地には別館があって、明治維新まで 毎年十一月の新嘗祭のときと、国造世替りの神火相続の儀式のときには、この別館に赴き、神 かもす 事は別館の上手の丘にまつる神魂神社で行なわれた。 この神魂神社の本殿は火災のため天平十一年に再建されたものであるが、典型的な大社造り を伝えていることから、国宝建造物に指定されている。しかし、どうしたことか、この神社は 『延喜式』の神名帳のなかに記載されていない。国造家としてはもっとも重要な儀礼を行なう ( 注 ) 神社が『延喜式』に洩れていることからみて、少なくとも創建はそれ以後とみてよい。そこで 古くは、国造家の邸内で神火相続が行なわれていたものと考えられる。元来、火の神は家の神 であり、その神火を相続する儀礼は、当然その家の内で行なわれるべき性質のものである。 ( 注 ) もと神魂神社は神話の比婆山に比定された岩坂村の神納山の麓にあり、伊弉冊命を祭っていた。そのため古く は比婆社とか伊弉冊社とも呼ばれていたが、後に神納山と山つづきの現在地に遷された。当社が「延喜式』にみえな いのは、後世に比婆山の設定にからんで創建されたためであるが、鎌倉初期の承久・建長などの文書が残っている。 国造みずからが奉祭する神社は熊野大社・黄泉の坂の揖屋社・茶日山麓の伊諾社と当社の四社で、これは神話の影 の 一口 響を受けたものである。こうした事情から後世この社で神火儀礼を行なうように変わったものであろう。 も国造家が杵築の地へ転居した後も、この神火の儀礼のみは旧地の大庭で行なわれてきたこと 国 は注意してよい。この神火相続の儀礼については、幸いに当社の宮司、秋上家に承応三年 ( 一 五 六五四 ) など数通の火継之覚書が残っているので、その次第の大略を述べておきたい。 9

7. 出雲神話の成立

( 注 ) 出雲の各神社は、杵築大社と佐太神社に分割支配されているが、その中でも「一社一例の社」といって、両社 6 4 頭の支配に属さない神社がいくつかある。関のあった美保神社、日御碕神社、十二世紀の初頭に出雲に進出した石清 水八幡宮の最初にできた別宮の平浜八幡宮、京都聖護院の領地の内神社で、これらは国庁の直支配に属していた。 このような勢力を佐太神社がもつようになったことから推すと、在国司の地位にあるときに、 手縫郡からさらに秋鹿・島根両郡へと朝山氏は所領を増し、その所領を確立する必要から、所 領内の最高の神社である佐太神社に域内神社の支配権を委ねて、杵築大社の勢力と対立させた ものと思われる。『出雲国風土記』の秋鹿郡に神戸里があり、これは出雲神戸、すなわち熊野 神社と杵築大社の二社の神戸であると記されている。ところが『出雲風土記抄』には、この神 ( 注 ) 戸里を「佐田社領七百貫の地なりーといっているが、中世以降になって佐太神社の神領に転換 されている事実を認めるのである。朝山氏は後に支配関係から退いて、佐太神社の社家となる が、朝山氏が政治的権力を掌握していた時代に、佐太神社を杵築大社の支配から切り離し、出 雲二ノ宮としての勢力を確立することにつとめたものとみてよかろう。 ( 注 ) 「出雲風土記抄』に「則ち佐田の宮内なり。按ずるに庄村、常相寺村、古志村、古曽志、西浜佐田、及び島根郡 の中、名分、上佐田、下佐田等にいたるまで、蓋し佐田社領七百貫の地なり」と記している。大体むかし神戸里と同 じ区域とみてよかろう。 次に『古事記』や『書紀』で、杵築大社の神が大神と呼ばれている例がある。しかしその例

8. 出雲神話の成立

あるのである。しかも、女神をまつる岩窟の神秘性・尊厳性をさらに加えるために、佐太大神 と結ばれたものであるから、この女神が佐太大神の母となって、母神の名は明らかにされたが、 父神の名は明示されていないのである。佐太大神の血縁的関係、すなわち、この神をめぐる神 統図というものは、もともとなかったからである。 三名の大神の血縁的関係については、何一つ伝承されていない。さきの熊野大神や野城大神 も、この神との血縁的関係者は一名もいない。そこで佐太大神にも本来血縁者のなかったこと がわかるであろう。部落の守護神として発生した神々は、もともと排他的であり、神々相互の は、そ , っ 血縁的関係、すなわち神統図というものはなかったのである。佐太大神の生誕の説話 ( した意味で、神統図ができる初歩的形相をしめしたものとして注意すべきものである。 佐太大神は『出雲国風土記』のほかには記されていない神である。したがって普通であれば さきの野城大神と同じく、『風土記』かぎりの大神という運命で、歴史の舞台からおりるもの ち である。ところが後世、杵築大社に対立する出雲二ノ宮としての尊信を受ける勢力をもった。 大そして出雲十郡のうち、杵築大社は六郡半を、佐太神社は三郡半の各神社を支配した。杵築大 雲社・佐太神社の両社頭職によって、出雲の各社は分割支配されるに至ったのである。これは足 利時代末の支配関係をしめすものであるが、そうした歴史があったので、旧国幣小社にも列格 された。記紀にも載らない神が、どうしてこのような破格な発展をもたらしたのであろうか。 143

9. 出雲神話の成立

ならない。しかし記紀神話に取り上げられなかったので、かっては語られていたであろうこの 神にまつわる説話は、何一つ伝えられていない。記紀に載らない神のゆえに、この大神の説話 が他の神の説話としてすり替えられているのかもしれない。だが、出雲族の最高の神であった かむよごと だけに、出雲国造の関係するところのもの、『出雲国風土記』や神賀事の祝詞には、必すこの おおなもち 熊野大神の名が挙げられ、しかも大穴持命よりも先にその名があげられている。たとえば神賀 ざなぎ ま ひまなごかぶろぎ くしみけぬ 事では「伊射那伎の日真名子、加夫呂伎熊野大神櫛御気野命、国作り坐しし大穴持命一一柱の 神ーという表現である。 しかし、この二神の神名の並称には、国造の非凡なからくりが潜んでいた。それは「伊射那 伎の日真名子ーという表現でわかるように、朝廷へは熊野大神である櫛御気野命を、実は須佐 之男命の異称であるとして示したことである。出雲族の最高の神として尊信してきた熊野大神 が、記紀に記載されておらず、地方的な神として今後消されて行くことをおそれての処置であ たったと思われる。そこで、熊野大神は須佐之男命をさすものだと暗にしめすことによって、記 大紀ー こ載らないこの大神の名が残るようになり、まつる神社も延喜の制に大社となることができ 雲た。この間の経緯については、後の第三節でくわしく述べたい。 次の野城大神は、『出雲国風土記』では意宇郡の条に、 めきのうまや 野城駅。郡家の正東一一十里八十歩なり。野城大神の坐すにより、故れ野城という。 ー 37

10. 出雲神話の成立

目 地図目次 第一図古代出雲国全図・ 第二図意宇川流域の古墳分布図 第三図意宇郡の図 第四図出雲・神門郡の図 第五図須佐地方の地勢図 第六図三刀屋地方の地勢図・ 写真目次 写真一佐比売山 ( 三瓶山 ) 写真二意宇川の下流域・ 写真三熊野神社本殿・ : 立久恵峡 写真四神戸川 写真五神魂神社の本殿 : ・ 写真六火鑽ーーー火日と杵 : ・ 写真七防風林に囲まれた月ャ野の民家・ 写真八杵築大社・ : 写真九出雲最大の大庭二塚 : ・ ・一 03