くなって流れた。ところが、尾を切られたときに、剣の刃がこばれた。怪しまれて、剣の先で 尾を切り開いてみると、中から立派な太刀が出て来た。手にとってよく見られると、珍しい神 剣なので、天照大神にこの話をされてさしあげられた。これが草薙剣である。 稲田に豊かな水を供給して、稲の順調な成育を見守るのが、水の神の役目である。そうした 稲田の守護神としての水の神が、右の説話では、奇稲田姫の名で示されている稲田を荒らす強 暴な大蛇として描かれている。そして強暴な大蛇の表現として、八つの頭と八つの尾があり、 体には桧や杉が生い茂るという形容とな 0 た。そこでこれまでの学者は、肥河の毎年の淇水が 稲田を害することを説話化したもので、大蛇の姿は暴威をふるう強暴な水の霊を形容したもの であると解してきた。 もちろん、これには一応の筋道がたっている。しかし、稲田の守護神である蛇が、稲田を害 するという話の筋は、本来からいうと、まともな話とはいえない。ではなぜそれが、年ごとに 大蛇が稲田を荒らし食うという説話になったのであろうか。 それは前掲の阿用郷の説話を想起されるとわかることだと思う。おそろしい一つ目の山の神 が、山田をつくる農夫を食うのを、その若者の父母が竹原に隠れてふるえている話が、モチー フを同じにして山村から農村に移ったとき、やはりおそろしい強暴な水の神としての大蛇が描 かれ、しかも熊谷郷のように奇稲田姫命を部族の主神としている里へ伝えられたとしたら、男
の農夫が食われるのに代わって、稲田を耕作する娘、すなわち稲田姫が食われるという話に変 わってゆかざるをえないであろう。もちろん、この説を固執するものではない。洪水を大蛇と み、荒らされる稲田を助ける須佐之男命が、話の原形であったかもしれない。 次に須佐之男命が奇稲田姫を救うという説話は、阿用郷の説話からわかるように、もとは別 の事柄であったはすである。さきに須佐之男命は飯石郡西部の神門川の流域で育ち、奇稲田姫 命は飯石郡東部の肥河の流域で育てられたものであることを述べた。大蛇に食われる奇稲田姫 を救う英雄として、もし飯石郡の人が考えるとしたら、ます誰を最初にあてるであろうか。当 然考えられることは、郡内の男神であり、西の須佐之男命と東の奇稲田姫とが結ばれることは もっとも自然な成り行きであったであろう。 流こうして飯石郡の人びとによって、須佐之男命と奇稲田姫とを中心としての大蛇退治の説話 のが構成されたものとみてよかろう。そしてこの二神の結びつきによって、本来は神門川流域に 説育った須佐之男命が、肥河を背景とする説話の中に、その座を占めることもできるようになっ 治たと思われる。 蛇 だが、この大蛇退治の説話が、飯石郡の人びとの間で語られていたころには、はたしてどの 大 程度の規模をもった内容であったかは不明である。いずれ記紀神話としてこの説話が中央で取 り上げられたときには、相当の粉飾と誇張が行なわれたものとみてよい。たとえば、大蛇の尾
稲田を見おろす丘の上に、前期の大形占墳が見 つかることは、ここにかなりの勢力をもっ部族号 が居住していたことを物語っている。 左頁の図版は、古墳の築かれた丘から斐伊川 と三刀屋川の合流点を遠望したものであるが、勢、受 \ 、 地」 丘の下の三刀屋川に沿ってひろがる稲田は、前の 記の須佐の谷間の山田とうって変わり、広々と地 した景である。須佐之男命をまつっていたのは刀 小部族であろうが、この三刀屋平野をひかえた この部族はかなり強大であり、その盆地の稲田 6 を守護する神として、奇稲田姫命を信仰してい たとみてよい ( 注 ) この古墳は飯石郡三刀屋町字給下、三屋神社の背山をのぼること一 00 メートルの丘上にあり、昭和三十七年 に発掘、松本一号墳と呼ばれ、車塚形式とされている。そして同じ丘上に未調査の方墳と円墳が並んでみとめられる。 須佐之男命は神門川、奇稲田姫命は肥河と互いに川筋を異にしているが、ともに飯石郡の西 と東に伝わる神であり、説話であることを注意しなければならない。すなわち、この神を夫妻 ム 299 」 △ 133.3 下熊谷 三刀屋町 木次町 巧 6
阿用という地名説話ではあるが、この説話がもっているモチーフには、須佐之男命と奇稲田姫 8 との説話に通じるものを感じる。 一つ目の鬼は山の神である。山田をつくる若者が山の神に食われ、それを竹原に隠れ逃げた 父母が、こわさに動動とふるえて見守っている。これは山村に伝えられて来た説話である。だ が、この説話は近隣の村々にも伝えられていたはずであり、山村と農村とではモチーフは同じ であっても、表現は変わっていたであろう。そして、もしこの説話が稲田の多い里で話された としたら、どうなるであろうか。山の神は水田を守る水の神に変わるであろう。そして全国に 見る習俗と同じように、ここでも水の神は蛇体として示されるであろう。さらに若者が稲田を つくる娘に代えられたとしたら、記紀にみる奇稲田姫とその父母の足名椎・手足椎の説話に近 いものになる。しかも、奇稲田姫命を守護神とする熊谷郷、肥河が支流の三刀屋川と分岐する やまたおろち ところの平野の里で、この説話が語られなかったとはいえない。まず八俣の大蛇退治の説話の 大略を述べてみよう。 高天原から追放された須佐之男命は、妣の国である根の国に行くべく、出雲国の肥河の上流 とりかみ にある鳥髪 ( 鳥上 ) の里にたどりついた。折しも箸が河から流れてくるので、川上に人が住んで いるのであろうと思って、川をのばって行くと、老夫婦が娘をなかにして泣いていた。 そこで「おまえたちは誰か」とたずねられると、老人の答えるのは「わたしは国っ神で、大 あよあよ
もつ小さな里である。 ( 注 ) 川郡佐田村東須佐の塚松山という山丘には、尾根筋 のやや平坦な個所に六つの箱式棺が群集し、山腹には横穴群 ( 五穴開口 ) 、さらに麓には横穴式石室をもっ径約一 0 メート ルの円墳一基がある ( 池田満雄氏『出雲地方における古代文化 の展開』日本考古学の諸問題所収 ) 。次頁の図版に示した横穴 里 は、山道を拡げるときに発見された。大きなもので奥行三・ 山 一五メートル、幅二・一メートルである。 の ところが、この須佐郷が飯石郡ではあるが、神門 佐 川の中流に存することから、須佐之男命の説話が神 、 ~ 須日ー 卩月の下流域を占める神門郡の人びとの説話として 成長したとみる必要はない。むしろ、記紀の出雲神 写話で須佐之男命の妻となる奇稲田姫命の伝承が、同 じ飯石郡の東部の盆地に伝わっていることに注目す べきであろう。 くまたに 熊谷郷。郡家の東北一一十六里なり。古老の伝え くしいなだみとよまぬらひめのみこと にいえらく、久志伊奈太美等与麻奴良比売命、 巧 4
ころにあったとみてよかろう。そこは今では田の中だが、その跡は消えたのであろう。 やっかみずおみづぬ おみつぬ 国引きの主人公である八東水臣津野命は、『出雲国風土記』の他のところで意美豆努命と記 きれているのでわかるように、「八東水」は美称で、豊かなる水の意、オミヅヌはオミズヌシ であるが、八東水との対比からみて、御水主ではなくオホミヅヌシ、すなわち「大水主 , とみ るべきであろう。したがって国引きの主人公である「八東水大水主命」とは、明らかに水の神 である。 しかも、この水の神が一望に見渡す意宇平野の水田のほば中央にある小さな丘に鎮座したと いうことは、田を守護する神として、この水の神が鎮まったことを意味する。すなわち稲田の 守護者を、豊かに水を供給してくれる水の神とみていた古い出雲の信仰を、この説話のなかに 見出すことができる。しかも、その稲田の守護者をもって、国土生成の国引きの主人公とした とよあしはらみずほ ことは、豊葦原の水穂国を理想郷と夢みていた出雲族の心を、うかがい知ることができるもの であろう。 古くは、春の田植ごとに、人びとはこの小さな丘のところに集まって、今年も豊かに水を供 給して、秋の収穫をもたらして下さいと祈ってから、各自の田植をしたのであろう。そのころ は、稲田の神なる水の神の信仰は、人びとの心に生きていたのである。 ところが、注意すべきことがある。それというのは、この意宇社には昔から社殿が建てられ 0
任身みまして産まむとしたまいし時、生みまさむ処を求ぎた まいき。その時、此処に到来まして、詔りたまわく、甚くま くましき谷なりとのりたまいき。故れ熊谷という。 、をの女神がお産をなさろうとして、よい土地を探された。そして、 , 「第、ゞ佐ここに来られて「奥ま「た静かな谷間だ」といわれたというので くしなだひめ ある。この女神の名「久志伊」は、ら古事記』の櫛名田比売、 くしいなだひめ ( 注 ) = 気 ~ 【 . 」『書紀』の奇稲田姫であることが明らかである。 ( 注 ) 「久志伊奈太」につづく「美等与麻奴良ーの解釈は明らかでない。後藤 蔵四郎氏の「出雲風土記考証』では「御床を与えて共に寝ること」、加蔵義成 氏の『出雲国風土記参究』では「奇しく神秘な御霊をもって、稲田を守る豊か に美しい玉のような神」の意としている。参考までに記しておく。 みとや この熊谷郷は、斐伊川が支流の三刀屋川と分岐するところの下熊谷・上熊谷を含む地域で、 治上熊谷には後期の小形古墳がある。ところが支流の三刀屋川の合流点の近く、奇稲田姫をまっ 蠏る神社の背山には、注目すべき前期の古墳がある。前方後円墳で長さ五〇メートル、後方部か らは出雲では珍しい二個の粘土槨があり、碧玉製管玉・短剣・漢式六獣鏡・ガラス製小玉・刀 ( 注 ) 子・鉄針などが副葬されていた。出雲の古墳密集地帯から離れたこの斐伊川中流の盆地、広い はら 巧 5
美称であり、語尾の「野」は「ぬし」〔主〕の略である。たとえば豊雲主神を豊雲野神というの と同じである。また語幹の「御気 , は「御食」である。そこで、正しくは「奇御食主命」とい うのが神名で、それは生産の神であることをしめすものである。農耕部族として意宇川の下流 平野に居住した出雲族が、最高の神として斎きまっ 0 た神の名こそ、彼ら部族の祈願を反映し たものであった。 すなわち、意宇平野に豊かに水が供給されることを願 0 て、意宇川の川上、その源となる熊 野山に、生産の神としてまつ「たのである。したが「て、その神は季節ごとに水の配分をつか さどり、とくに春の田植のときには、人びとの待っ里へ降りて来て、収穫まで稲の生長を見守 る必要があった。 春には山から里〈降り、収穫をすませた秋になると、里から山へ還るという田の神の信仰は 古くから日本民族のいだいていたものであ 0 た。八東水大水主命こそ、春には熊野山から降り 祥てくる田の神であ 0 たのである。すなわち、出雲族の祖神と仰ぐ熊野大神、名は奇御食主命と 発 のいう神の、春ごとに意宇平野の稲田のなかに来臨する神であ「た。その神を招き迎えるところ 雲が意宇社であ 0 たが、そこには春の田植から秋の収穫までの間だけ鎮ま「て、稲田を守護する ものと考えられていたので、社殿を建てる必要がなか「たのである。 大和地方でも野神さんとい「て、村が一望に見渡せる田の中の小高くしてある空地〈、蛇の
来る八俣の大蛇の構想は、こうした伝承に負うているものと考えられる。 さらにこの説話のことで述べておきたいことは、山奥の飯石郡における説話が、中央で取り 上げられるに至った径路のことである。肥河が三刀屋川と分岐する熊谷郷のところには、現在 の木次町がある。その地名からでも明らかなように、ここは木材の集積地であった。ここを基 点として木材はさらに肥河をくだり、出雲郡へ流し出される。『出雲国風土記』の出雲郡出雲 大川の条に、 むつき かぞ のばりくだ 孟春より起めて季春に至るまで、材木を校うる船、河の中を沿泝る。 とあるが、陰暦正月から三月までの期間、材木を検閲する船が川を上下していた。そして、雪 解けによる川の増水を待って、材木を下流へ流していたのであろう。こうした検閲に来る役人 流のほか、木流しの人夫たちも下流の人たちに故里の説話伝説を語ることが多かったであろう。 おおのおみ の こうして大蛇退治が肥河に因む説話として、日置部臣や大臣を通じて、中央の人びとの耳に 話 説はいっていったものとみてよい。しかし、そのころ語られたこの説話は、現在記紀に見るほど 治の充実した内容と構成をもつものではなく、まことに素朴なものであったであろう。それは須 蛇佐之男命にしろ、奇稲田姫命にしろ、大神ではなく地方的な神であったことからでも推察でき ることである。 くれき
あめのいわ ときに、機屋の屋根に穴を開け、生き馬の皮を剥いで投げ込む。ここでついに天照大神は天石 屋戸に籠られ、高天原はもとより、地上の葦原中国まで真暗になる。そのため多くの悪神がは びこり、あらゆるわざわいが生じる。 あめのやすのかわら 第四段は、このため多くの神々が天安之河原に集まって、日の神である天照大神を再び石屋 から引き出す対策を立てる。その策略が成功して、天照大神が石屋戸から出られ、もとの明る さが取り戻される。 第五段は、こうした須佐之男命の悪事に対し、多くの神々の協議の結果、須佐之男命に罪を つぐなうための多くの品物を出させ、また鬚や手足の爪を切り抜き、高天原から追放する。 第六段は、高天原での悪態の末に追放された須佐之男命は、根国へ向けて降りて行く。すな わち出雲国の肥河の上流である。ここで、前節にのべた大蛇退治が行なわれ、大蛇の尾から出 た神剣を降服のしるしとして、高天原の天照大神のもとへ献上するのである。高天原に対する 根国の降服である。 ところがこの第六段で、はじめて須佐之男命は奇稲田姫を救うという人間的情愛をしめすこ とになる。しかし、これまでのべた須佐之男命の一連の悪態的な活動からわかるように、奇稲 田姫を救うことがこの説話の主体ではなくて、第一には、おそろしい大蛇を退治することがで きるほどの強暴な性格の持主であることを示すことにあった。第二は、神剣の献上によって、 いわや