らなかったのである。 いすれ本論の進むにつれて理解されることと思うが、神代巻の三分の一以上を占める出雲神 話、そして大国主神 ( 大己貴命 ) が治める出雲国の平定によって、天孫降臨が行なわれるという はつくにしらすすめらみこと この神話は、御肇国天皇の御代に投影させて、出雲征伐の記事を載せる必要があったのであ る。北陸・東海・西道・丹波の四道に将軍を派遣したとは記しても、討伐した国の名は挙げず ただ「戎夷を平けた」とのみ述べているのに、出雲国だけはその名を挙げて平定したとしなけ ればならなかったのである。 これと同じ作為は、この崇神朝に初めて天照大神を笠縫邑にまつり、さらに大物主神・大国 魂神をはじめ、天社・国社をまつるという記事を載せたところにもみとめられる。これら神社 の場所は、三輪山から笠縫を経て天理へ至る山の辺の道筋にあり、このあたりは初期の皇居と なったところで、それだけに皇室と関係の深かった土地の大物主神 ( 三輪山の大神神社 ) と大国魂 疑神 ( 天理の大倭神社 ) のことも、天照大神の名とともに崇神朝にまつったといいたかったのであろ 譜う。この記事が起点となって、次の垂仁朝に天照大神は伊勢へ遷ることになる。 崇神紀にみる出雲征伐の記事も、右と一連の同じ心理に出たものである。ところが、『古事 やまとたける 記』はこのことに触れす、その代わりに景行天皇の条に、皇子の倭建命をして、まず九州の くまそたける 熊曽建を討たせ、つづいて出雲建を殺させる。熊曽建を討っことは『書紀』にもみえているが
である。 はつくにしろしめすすめらみこと こうした思想は、また人皇時代にも反映している。肇国天皇と呼ばれた崇神天皇の御 代には、その名にふさわしく国家統一の事件がなくてはならない。そこで東海・北陸・西道・ ひな 丹波〈四道将軍が派遣される。ところが、いすれも戎夷を征服したという報告記事にとどま 0 ているが、その後に出雲国征討の記事がくわしく載せてある。その記事の内容はすでに五九頁 に掲示しておいたが、出雲族の主権の表徴である神宝を朝廷に献上することによ「て、出雲国 の滅亡が決定するのである。 このように内容を検討してみると、出雲神話の神代巻の三分の一も占めているというただそ れだけではなくして、出雲の取り扱いの上に一定した法則というか、何か扱い方の決めがあ 0 たことがわかるであろう。神話創作者は出雲をつねに高天原に対する根国、顕国に対する黄泉 経国、天っ神に対する国っ神、征服者に対する被征服者という対蹠的立場において眺め、そうし 立た線に沿「て神話を構成している。したが「て当然、結果的には出雲に関する神話が神代巻の 話三分の一以上を越える分量となった。 雲しかも、大国主神がこの葦原中国を天孫に国譲りするという説話は、皇室の祖先がこの国に 渡来する以前にあ「ては、躡雲族が国土の主各・で・一・・ 0 ・・ ~ 」」 j い一 ~ ~ 鑷川たらす結果ともな「 た。これは一般の国民だけではない。専門に古代史を研究する学者間においても、誰ひとり疑
領としての出雲 ていなかったのである。 実際『日本書紀』をみると、斉明天皇五年 ( 六五九 ) に左のような記事がある。 おお いつくしのかみ えよほろと この歳、出雲国造に命せて、厳神之宮を修らしむ。狐、於宇郡の役丁の執れる葛の末を たたむき いうや 噛断りて去ぬ。また狗、死人の手臂を言屋社に噛い置けり。 いうや 文中の言屋社は、『延喜式』にみえる揖夜神社、『出雲国風土記』では伊布夜社とあるもので、 意宇川の川口のすぐ東の揖屋町にある神社である。したがって厳神之宮とは、神郡である意宇 郡の熊野神社をさすものであることが明ら かである。 殿ところが後世では、右の「厳神之宮を修 社らしむーという記事を、ことさらに杵築大 野社のこととし、さらにこれが正殿式を定め たものとして造宮にあたってきた。しか 真し、これは杵築大社のことではない。出雲 の神は熊野大神から、のちに大国主神の信 仰へと移って行ったのである。 その考証はのちにゆずるとして、この意 すえ
三出雲神話成立の経緯 『古事記』・『日本書紀』ともに出雲神話を多く取り入れているが、中でも『古事記』の神代 巻はその三分の一以上の紙面を出雲神話にさいて載せている。こうした神代巻の構成は、その 投影として、神武以後の人皇時代の記事にも及び、出雲国に関する記事が他に比して多い結果 をもたらしている。しかも、それは紙面からみる分量だけではない。神話の内容面からも同じ ことがいえるのである。 うっしくに ざなみ 伊邪那伎・伊邪那美命の説話においても、出雲国は顕国に対する黄泉国として取り扱われて いる。その子の天照大神は皇室の祖神として高天原を治め、須佐之男命はその弟神という血縁 関係で結ばれてはいるが、大蛇を切「たときに得た剣を天照大神に献上し、最後には出雲なる 根国に追放される。剣は主権を表徴するものであり、根国の須佐之男命が高天原の天照大神へ 服属することを示したものである。 ににぎ この投影が大国主神の国譲りの説話である。すなわち、降臨する天孫の邇々芸命に、大国主 とよあしはらなかっくに 神が豊葦原中国の国土を譲与するのである。これは天っ神と国っ神との対決を取り扱ったもの よみのくに
出雲御埼山。郡家の西北一一十七里ロ百六十歩なり。高さ三百六十丈、周り九十六里一百六 十五歩あり。西のふもとに、いわゆる天の下造らしし大神の社ます。 とみえており、この出雲御埼山は宇賀郷の旅伏山から日御碕までをふくむ山塊とされているの で、「宇迦の山」もそのなかに含まれている。そこで当時は宇迦の山というのが、『風土記』 このように、たとえ譲歩して考えてみても、 のいう出雲御埼山と同義であったかもしれない。 もしこの時代にすでに杵築の地に大国主神の神殿が建っていたならば、『古事記』は漠然とし た宇迦の山の麓という表現ではなくて、杵築の地名を指示したものと考えられる。 実は記紀ともに、杵築の地名や杵築大社という名を載せていないのである。この事実は注意 すべきことであろう。少なくとも『古事記』の撰修されたときには、まだ杵築の地に大国主神 は祀られておらず、その後に宇迦の山麓に宮柱を立てるという『古事記』の記事と、伊那佐 ( 稲佐 ) の小浜で建御雷神と大国主神が国譲りの談判をするという記事によって、出雲国造が宇 迦の山に近い杵築の地に大国主神をまつる神社を創立したものと思われる。これらのことから みても、杵築大社の創立は『古事記』の撰上されて後であることは明らかである。 ぬなかわひめ 説話の第六は、ここで八千矛神という名とかわり、高志国の沼河比売に求婚しようとして行 くものである。長文の恋愛歌が記されているが、この挿話はこの恋愛歌をのせたいためのもの であったと思われる。しかし、この恋愛歌が国主神のものであったと考える必要はない。と
ら凡河内国に降臨したとき十種の神宝が奉持されたが、その内訳は鏡二・剣一・玉四・比礼三 6 で、しかも蛇比礼・蜂比礼・品物比礼と記されている。したがって、呪具としての比礼の思想 は大和地方にもみとめられ、あるいは、広範囲に信じられていたとみてもよいもので、信仰圏 を地域的に限定することはできない。とはいうものの、比礼についての説話は、やはり神宝と して比礼を奉持している部族なり土地に生じやすいとみてよいであろう。 そうなれば、天日槍が住んだ但馬国で発生した説話とも考えられる。だが、その『但馬国風 さきに掲げた『播磨国風 土記』は伝わっていないので、その当否を判断することができない。 土記』の四番目の記事でも、天日槍は但馬国出石に住んだと伝えているが、近隣の国だけに天 日槍のことが播磨国の説話ともなったのであろう。またその記事で、葦原色許乎命を播磨国の 神としている点は注意すべきであろう。少なくとも葦原色許男命という名からいっても、また 比礼の信仰からいっても、もと出雲国とは関係のなかった説話であったことだけは断定してよ 説話の第五は、大穴牟遅神は寝ている須佐之男命の髪を、室の垂木に結びつけ、大岩で人口 いくゆみや あめのぬこと いくたち を塞ぎ、妻の須勢理毘売を背負い、須佐之男命の生大刀・生弓矢・天沼琴を持って逃げ出す。 ところが、天沼琴が樹にふれて大地が鳴動した。この音で須佐之男命は目覚め、大穴牟遅神の よもつひらさか あとを追って黄泉比良坂まで行き、はるか遠くに逃げて行く大穴牟遅神に大きく声をかけ、「お
うやつべのかみ 前段は、古くは宇夜都弁神をまつっていたので、字夜里と呼ばれていたというものである。 ふるね ところが後段で改名の理由をのべ、景行天皇の御代、神門臣の古禰をもって倭建命の御名代部 とし、その子孫が健部臣として現在まで居住しているからだという。 一般に説話伝説というものは、簡略なものほどその原型である。さきの『古事記』の記事、 すなわち倭建命が出雲建を殺すという話は、この『出雲国風土記』の地名説話から発展したも のであろう。『書紀』の方は、『古事記』の人物を変えて、倭建命と出雲健との仕組みを、兄の 振根と弟の飯入根との兄弟争いに組み変えたものと考えられる。 ふるね だが、ここで興味深いことは、さきの崇神紀六十年の記事のなかに「出雲振根」の名が見え、 ふるね 气出雲国風土記』には「神門臣古禰ーとあって、共に同人を指していることである。前者の名の 出雲振根では、意宇郡にいた国造出雲臣をさすのかその点不明であるが、『風土記』によって 出雲臣と同族ではあるが、出雲西部を統べる神門臣の一族に属す者の名であったことがわか やむやのふち 『書紀』は止屋淵と 疑る。地名からみても、『古事記』の方は肥河 ( 斐伊川 ) で水浴するといし 譜記しているが、これは神門郡塩冶郷を流れる斐伊川の淵で、いまの出雲市大津町のところにあ 造たる。そして、そこに住んでいたであろう人びとによって伝誦されていた歌、「やぐもたっ、 いづもたけるが、はけるたち、つづらさはまき、さみなしに、あはれ . 〔八雲立つ、出雲健が、佩 ける太刀、葛多巻き、さ身無しに、あはれ〕という歌を基にして出雲の滅亡を説話化して伝えたの
たけぬなかわわけ やまと 彦と武渟河別とを遣わして、出雲振根を誅わしむ。 ところが、これと同じ話が時代がくだ「て『古事記』の景行天皇の条にみられる。それは倭 いすもたける うるわしみ 延命が九州の熊曽建を誅して、その足で出雲国にはいり、出雲建を殺す段である。 おもは すなわち出雲国に入りまして、その出雲建を殺らむと欲して、到りましてすなわち結友し たまいき ひのかわかわあみ 故れひそかに赤檮もて刀を作りなして御保かして、共に肥河に沐したまいき。ここに倭 たち 建命、河より先す上がりまして、出雲建が解き置ける横刀を取り佩かして、刀易えせむ、 と詔りたもう。故れ後に出雲建、河より上がりて倭建命の詐刀を佩きき。ここに倭建命、 いざ刀合わせむと誂えたもう。かれ各その刀を抜く時に、出雲建、詐刀を得抜かず。すな わち倭建命、その刀を抜かして、出雲建を打ち殺したまいき。 かれ御歌よみしたまわく、「やつめさす、いづもたけるが、はけるたち、つづらさはまき、 さみなしにあはれ。」 以上の一一つの記事は、ともに出雲国の主長が朝廷によ 0 て伐たれたことを伝えるものである はっ が、その伝承をどう伝説化するかによ 0 て記事の内容が変わ「てくる。 たた 前者は崇神朝における四道将軍の派遣と、その結果「天下大に平なり。故れ称えまつりて御 肇国天皇ともうす」といわれた崇神天皇の御代に、出雲国平定の事件は必す記さなければな つみな
まえが持「ている生大刀。生弓矢で、腹違いの兄弟どもを山の坂に追い伏せ、河の瀬に追い払 うっしくにたま 「て、おまえは大国主神となり、また宇都志国玉神となって、わたしの娘の須勢理毘売を正妻 とし、宇迦能山の麓に壮大な宮殿を造っておれよ、こ奴め」という 9 そして、その大刀と弓矢 で兄弟神を追い払って、国を作りはじめられたという話である。 右は須佐之男命から大穴牟遅神へ統治権が移譲されたことを告げるものである。したがって 長く遍歴してきた大穴牟遅神の終着点として、この神をまつる場所が指示されている。黄泉比 良坂の「ひら」は、傾斜地を意味する方言として全国にひろく分布しているが、この黄泉比良 坂のことが『出雲国風土記』の出雲郡宇賀郷の条にみえる。宇賀郷の日本海側の西端、煢目の 部落の近くに黄泉の坂・黄泉の穴と呼ばれるところがある。この『風土記』の記事や考証につ 析いては、のちの六節の項を参照されたい。 この黄泉の坂まで追ってきた須佐之男命が、娘婿の大穴牟遅神に向かって、宇迦の山の麓に 宮殿を立てて住むようにと呼びかける。この宇迦の山は、もちろん字賀郷の山をさすものであ 神ろう。ところが、この宇賀郷はロ宇賀・奥宇賀を本郷とし、西は猪目・唐川・別所の部落をも 国って限りとするので、宇迦の山とはその郷内の山をさすものと解される。そうなると、現在、 大国主神をまつる杵築大社は、字賀郷の西に接する杵築郷内なので、この記事とは合致しない 場所だといえる。のちの『出雲国風土記』によると、 やっ 187
五三輪・賀茂氏との関係 大国主神の事績は、国譲りの説話に至るまでにもう一つある。それは大和国のもっとも古く 有力であった三輪氏一族との関係をのべたものである。短い文であるが、しかしこの記事がも たらした影響は、ただ神話の上にとどまらないで、政治の上に大きな変化を生ぜしめる結果と 、よっこ 0 その問題の内容は、少名毘古那神去られた大国主神は、自分一人では国を作ることができ ないが、どの神と協力して国をつくったらよかろうかといわれる。そのとき海を照らして寄っ て来る神があった。そして「わたしをよく祭るならば、あなたと協力して国作りを完成させよ う。もしそうでなければ国は作れないであろう」という。そこで、どうして祭ったらよいかを たずねられると、その神は「わたしをば倭の青垣山の東の山上にまつれ」と答えられた。これ みもろ が御諸山にいる神であるという。 おお、も 大和国の御諸山にまつる神は、大和の地に古くから土着する豪族三輪氏の斎物主・あ る。大物主の「もの」は、神の古称である。この神は崇神紀の三輪伝説がしめすように大蛇で・