出雲の大神たち とだ おおさこ ろがり、また熊義郡富田城を居城としていた守護の佐々木氏が、塩治郷の大迫城に進出して塩 冾氏と改姓した。こうして守護の塩冶氏も出雲西部に勢力を張ったことから、朝山氏は現在の 平田市を中心とする楯縫郡へ、よんどころなく進出しなければならなくなったのであろう。 その後の歴史については不明であるが、室町末には、朝山氏は佐太神社の神主として、出雲 十郡のうち楯縫郡・秋鹿郡・島根郡・意宇郡の西半分、すなわち三郡半の神主を支配する社頭 職に任じられている。杵築大社の神主である国造が総検校職に任じられていたので、三郡半を 支配している佐太神社と支配争いも行なわれたが、両社頭による分割支配の領分は現在に至る も変わらず、佐太神社には五人の幣頭があり、その支配を『八東郡誌』によって示すと左のご とくである。 。吉岡幣頭秋鹿郡の東部十八社家、および島根郡西部の六社家を支配。 。石川幣頭島根郡東部の十社家を支配。 。遠藤幣頭意宇郡西部の十一一社家を支配。 。河瀬幣頭楯縫郡西部の十八社家を支配。 。常松幣頭楯縫郡東部および秋鹿郡西部の十社家を支配。 このように五人の幣頭がそれぞれの地域の神主を支配し、祭のときには神楽をするために、 ( 注 ) これら幣頭が配下の神主を連れて神社へ参る。 145
( 注 ) 社部臣については他の文献で、天武天皇元年に近江軍についていた社戸臣大口という名がみえ、「姓氏録」に は左京皇別に許曽倍朝臣の名が記されていて、多分同族であろう。 すぐりべのおみ ぬかたべのおみ また意宇郡の西隣の大原郡の大領が勝部臣、少領が額田部臣で、これも表面上では国造との 関係をみとめがたいが、それを囲む飯石・仁多両郡の少領が出雲臣であることから、隣接の大 原郡とは深い関係が当然あったはずである。勝部というものの出自は不明であるが、韓からの 帰化族とみてよいようである。額田部は農耕の部であるが、『出雲国風土記』によると大領の 勝部臣虫麻呂も、少領の額田部臣押島もともに新造の寺院を建立しているところから、この郡 での権力者であったとみてよかろう。 以上のごとく各郡の郡領の調べからでは、大まかではあるが、国造の勢力が古くはその全域 にわたっていたものと判断してさしつかえない。しかもさらに知り得たことは、大領はその地 の国造あるいは小国造から選ばれているが、少領は別にその郡内居住者にかぎらず、広く人材 を求めたように受けとれることである。史料の上で明らかに当郡の勢力家から少領が選ばれて いるのは神門郡と大原郡ぐらいで、飯石郡のごときは意宇郡から移って任務についているし、 おおのおみ 出雲郡でも大臣という氏族を少なくとも『賑給歴帳名』では見出せないのである。秋鹿郡にし ても少領の蝮部臣は、本貫を仁多郡にもつものである。これは御名代であるだけに明らかであ る。したが 0 て、そこから秋鹿郡へ迎えたとも受け取れないことはない。楯縫郡の帰化族の高 0
やむや 族は隣の出雲郡河内郷から本郷日置郷・塩冶郷にかけて居住していたようである。刑部臣の一 族は古志郷を中心に住んでいたようで、欠文の高岸郷の方へも延びていて、実数はもっと増す ものとみてよかろう。そうした事情を勘案すると、少領が刑部臣から選ばれる可能性がもっと も高いわけである。もちろん、この郡にのみ名をみる吉備部臣の勢力も、西部の多伎郷に多い ので、ここからは主政が選ばれている。 ( 注 ) 『出雲国風土記』には新造の寺院名と建立者の名が記されているが、寺院はその氏族の本貫の郷に建立される。 神門臣は朝山郷、刑部臣は古志郷、日置部臣は出雲郡河内郷に建立した。中でも日置部臣は河内郷を本貫とし、また 戸数も群をぬいて多いが、神門郡日置郷かその地名から名くは本貫地であり、後に河内郷の方へのびたものであろう。 こうしてみると、大領・少領は大体において、その地の勢力ある氏族から選ばれたものとみ てよい。右の二郡のほかは調べようがないので、全体について決定的には述べられないが、そ の傾向は知りえたわけである。 ところで、意宇郡は神郡でもあるので、同姓の郡領を二名出すことができ、国造の出雲臣か ら大領と少領がともに選ばれている。この郡は国造家の本貫の地であるから当然のことであ る。そのためか擬主政と主帳まで出雲臣から採用されている。 にた ところが、出雲臣がその他の郡でも郡領に選ばれている。楯縫郡の大領、飯齎郡・仁多郡の 少領とである。楯縫郡の大領が出雲臣から出ている以上は、国造の一族がこの郡の権力を古く ひおき たてぬい
物っ もちろん右の神郡のことは、時代をくだった『延喜式』にみるものであるが、 の文武天皇四年 ( 七〇〇 ) 二月の条にも、 上総国司、安房郡の大少領を父子兄弟に連任せんことを請う。これを許す。 とあって、安房郡の大領・少領を父子兄弟で勤めることを国司を通じて請願し、それを許され ている記事がみえる。ところが、その前の二年三月の条にも、 ゆる 詔。筑前国宗形、出雲国意宇の二郡司、みな三等己上の親に連任することを聽す。 とあり、慶雲元年 ( 七〇四 ) には伊勢国の多気・度会二郡、さらに元正天皇の養老七年 ( 七一一三 ) には下総国香取郡、常陸国鹿嶋郡、紀伊国名草郡でもみとめられている。したがって、出雲国 意宇郡をはじめ、すべての神郡では父子兄弟でその郡の大領・少領をつとめることが許された ようである。 ただここで一言いっておきたいことは、出雲国の神郡としては、熊野神社のある意宇郡がみ とめられていて、杵築大社のある出雲郡は神郡でなかったということである。このことは本論 の焦点の一つとなる重要な問題で、注意していただきたいと思う。少なくともこの当時まで は、熊野神社が出雲国を代表する大社であったし、国造が奉仕したのもこの神社に対してであ った。後世に出雲国を代表するようになった杵築大社 ( 出雲大社 ) は、まだこのころは創立され 『続日本紀』
ところが、この意宇郡は神郡とされたた め、特別の計らいをうけた。それは一郡に 同姓の郡領は一名と定められていたが、神 郡のゆえにこの制限から除かれていた。さ きに示した表のごとく、意宇郡では大領・ 少領ともに出雲臣の一族で占めている。こ うした神郡は、『延喜式』巻十八の式部に、伊勢国の飯野・度会・多気、安房国の安房、下総 国の香取、常陸国の鹿鵤、紀伊国の名草、筑紫国の宗形とともに、合わせて九つの郡と定めら れている。 およそ郡司は、一郡に同姓を併用するを得ざれ。もし他姓のなかに人の用うべき者なくば、 ゆる こむ 雲 同姓といえども同門を除くほかは任ずるを聽せ。神郡、陸奥の辺に縁れる郡、大隅の馭謨 の ・熊毛の郡は、制の限にあらざれ。 くまのにます し意宇郡が神郡とされたのは、この郡を南北に流れる意宇川の上流に、熊野坐神社があるため 領である。安房国には安房坐神社、下総国では香取神宮、常陸国では鹿嶋神宮、紀伊国では日前 神社と国懸神社、筑紫国では宗像神社があった。そして、国造は大領の職務のかたわら、神主 としても奉仕する必要があったので、少領の職を同族の者で補任することをみとめたのであろ 拜志郷
善史も、少なくとも氏族数の上からでは考えられず、才能から選ばれたものとみてよいようで ある。そこで原則としては、少領はその地の県主やその他の勢力家から選ばれたであろうが、 必すしもそれに拘泥しないで、人材を選ぶことが許されていたように思われる。 さて、残る郡は神門郡と出雲郡とである。中でも神門郡の大領である神門臣は、出雲臣と同 族とされているので、これまでの調査からは、これらの地方も古くは国造の勢力下にあったと いってよい。それなのに、あえてこの二郡を切り離して論じようとする理由は、この神門・出 雲両郡が、記紀神話のなかの出雲神話の舞台とな「ていることと、この二郡の歴史をどう理解 するかが、出雲神話を解く鍵ともなるからである。 さきに示した『出雲国賑給歴名帳』も、神門・出雲の二郡だけが伝えられているが、問題の 雲地域であるだけに幸いである。その郷里における氏族の分布状態を参考としながら、この二郡 たの歴史をさぐってゆくことにしたい。 かんど ら出雲西部の文化は神門川 ( 神戸川 ) の流域で起こ「た。この神門川は、源を飯石郡の琴引山か ら発し、来島・波多・須佐の三郷を経て、神門郡の神戸・朝山・古志などの = 一郷を流れ、西に 族向いて水海に入る。この水海を「神門の水海」といし いまの神西湖がむかしの一部をのこす 遺跡である。これはちょうど出雲東部の文化が意宇川の流域に発して、この川が中海に入るの 四 とよく似ている。しかも、この神門川の上流の須佐の地が、須佐之男命の説話が発生した舞台
とみえているように、郡領としての大領・少領には、その地の国造から選ばれる方針がとられ た。しかし、ところによっては小国造、すなわち県主も用いられたはずである。 これを天平五年 ( 七三一一 l) に編さんされた『出雲国風土記』によって、意宇郡の項をしめすと 次のようになる。 意宇郡 ( 郷十一里三 + 三、餘戸一、駅家三、神戸三里六 ) 国造兼大領外正六位上勲十一一等出雲臣 少領従七位上勲十ロ等出雲臣 主政外小初位上勲十ロ等林臣 擬主政无位 出雲臣 海臣 主帳无位 无位 出雲臣 の他の各郡の郡司については、次節に一覧して表示するが、郡の大小によって郡司の数に差が しあった。意宇郡は右のように上郡のため六名であるが、嶋根・出雲・神門・大原の各郡は中郡 蛇で大領・少領・主政・主帳の四名、秋鹿・楯縫・飯石・仁多の各郡は下郡で大領・少領・主帳 郡 の三名である。 国司が治める国衛は意字郡におかれたが、この意宇郡の一帯は古くから出雲の文化の中心で
っていたと思われる。 ( 注 ) 出雲郡では日置部臣と、この健部臣とが戸数において断然他を制しているので、大領の日置部臣に対し、少領 は健部臣から選ばれてよいはずである。それができなかった理由は、戸数は多くても勢力がなかったのであろう。こ の郷には不思議と中期古墳だけが数個あ 0 て、後期の古墳がない。たぶんしだいに勢力を減退してい 0 たのであろう。 これに対し日置部臣のものと思われる後期の巨大古墳二つがある。 その後、郡が分かれて神門郡・出雲郡となったとき、神門郡の大領として神門臣が選ばれた が、出雲郡の大領には日置部臣があてられた。神門郡には日置郷があり、『出雲国風土記』に 、も、 とものみやっこ 日置郷。郡家の正東四里なり。志紀嶋の宮御宇天皇 ( 欽明天皇 ) の御世に、日置伴造等、遣 とどま わされ来て宿停りて政せし所なり。故れ日置郷という。 とあって、日置郷の由来を述べている。実際『賑給歴名帳』を調べてみても、日置部臣四戸、 日置部二戸がみえるが、大きな郡で居住していたのは、かえって出雲郡河内郷で、ここには日 置部臣一一十三戸、日置部首四戸、日置部一戸の合計一族二十八戸もあった。そして、日置部臣 が建てた新造の寺院もこの河内郷にあって、この記事はさきに掲げたごとくである。また出雲 郷に五戸みられ、結局この日置部臣の一族は、もとは神門郡日置郷に住み、その後は斐伊川の 流域へむけて伸び、郡制が布かれると、斐伊川を挾む河内郷と出雲郷に一番多く居住していた 4
一一杵築大社の創建者 『出雲国造世系譜』の第二十六世、国造果安臣のところには、「伝にいう、始祖天穂日命、 大庭に開斎し、ここに至って始めて杵築之地に移る云々」と傍記されている。この果安は和銅 元年 ( 七〇八 ) に国造となり、養老五年 ( 七二一 ) まで十四年間その位にあった。昔から住みつい おおば てきた意宇郡大庭の地から、彼の在職中に出雲郡杵築の大社のある土地へ転居したのである。 意宇郡は神郡であり、神主でもある国造は熊野神社に奉仕する役目を負うていたのに、何のた めに新しい杵築大社を祀りにわざわざ転居までしなければならなかったのであろうか。 者しかも、さらに見落としのできない重要な事柄がある。それは意宇郡の大領の重職を国造が 建 兼務していたことである。国造がこの大領の地位から退いて杵築へ移ったのではない。意宇郡 社の最高の地位にある大領の職にとどまりながら、杵築大社に仕えるために住居まで移したので 築ある。国造が意宇郡大領を兼務することを解かれたのは、約八十年も後の延暦十七年 ( 七九八 ) のことであった。そんなにも長期間にわたって、国造は意宇郡大領でありながら意宇郡には住 ます、杵築大社へ奉仕するために、杵築の地に住みつづけていたのである。こうしたことが果 ー 03
臣が同じく四戸の部民を杵築の地の開拓のために入植させているのがわかる。一般に権勢ある 氏族ほど開発に力を入れたと思うが、この二氏族はともに神門郡内での権力者である。 海部は三戸みえるが、宍道湖に面した漆沼郷に海部首がみえ、また意宇郡司の主帳の名にみ える海臣も同じ系統かと思われるが、彼らは海岸で漁撈にたずさわり、この農業的開発とは関 係がなかったものとみてよい。鳥取部は一一戸であるが、神門郡に鳥取部臣、出雲郡健部郷に鳥 取部首がみえるので、その勢力のはいったものであろう。同じ二戸みえる額田部は二郡ではこ こだけに名をみるものであるが、大原郡の少領が額田部臣であるので、多分他郡からここに入 植したのであろう。同じ傾向のものとして津島部が一戸あるが、中臣氏の系統と思われる津島 直の勢力がどこからはいったのか不明である。品治部も二郡内では部民しかみられないが、仁 多郡司の主帳の名にみとめられるので、学問のある者があるいは仁多郡に住んでいたかもしれ 工丁、よ、 0 担 ( 注 ) 海部について『出雲国風土記』の出雲郡の産物の条に、「鮑は出雲郡尤も優れり。捕らうる者はいわゆる御埼 の 話 の海子これなり」と記されていることでわかるごとく、杵築郷の海部が鮑採りに従事していたことがわる。 神 以上は『賑給歴名帳』に記されている七つの部にだけついて戸籍調べをしてみたのであるが この北部山麓地域にかぎらず、簸川平野全体の開発には、各地から部民を入植させては土地の 私有をはかっていたものと思われる。この簸川平野を占める美談郷・伊努郷の氏族構成をうか あわび 9