と考えられる。 さて、ここまで見てきたように、わが国では、中国におけるしとぎ、餅麹による醴、カ ビ酒製造法をうまく習熟した朝鮮 ( 高句麗、百済 ) からの渡来人により、紀元二—四世紀 頃、酒づくり法を習ったのであろう。しかし、その日本人がなぜ、餅麹による酒づくりを 導入したのにもかかわらす習熟せず、米バラ麹による酒づくりに入ったのであろうか。 その原因を追求するために、第 5 章では、芽米を用いて実際に酒をつくり、芽米によっ 麹て酒づくりが可能であることを示し、かっ芽米による醴酒づくりからカビ汚染芽米、つい る にでカビ汚染蒸米、すなわち、米。 ( ラ麹を用いた酒づくりへと変化していった可能性を示し 餅た。 章 米餅麹による酒づくりを行なった。また、前述のイ ここでは、米餅麹を実際につくり、 第 ンドネシアのくものす力ビと黄麹菌での醸造結果の比較からわかるように、米餅麹の場合 には、くものす力ビを使えば、品質のよいカビ酒ができることがわかる。しかしながら、 わが国には米餅麹づくりに適した微生物が少ない。そのため、良質の米餅麹づくりがむず かしく、むしろ、米バラ麹づくりに適した麹菌が日本には多い。このような理由から、米 ハラ麹によるカビ酒が日本に定着したのであろう。 141
とぎをつくるが、直会の時、参会者は蒸したしとぎを食べるが、しとぎを焼いて食べると、 その家が火事に遭うという。しとぎが火事を防ぐという意味からか、しとぎを家を新築す る場合の上棟式の撒餅にするようになった。今では上棟式に使用する普通の撒餅をしとぎ とかしとぎ餅とか呼ぶように変わってきた。柳田国男氏は「餅と臼と擂鉢」の中で、熊本 県北部の上棟式で撒餅をしとぎという、と紹介しているが、ほとんど九州全域で撒餅をし とぎとかしとぎ餅とか呼ぶようで、たとえば、長崎県では、しとぎ餅、ひとぎ餅、熊本県 とでは、しとぎ餅、鹿児島県では、ひとんぎよ餅、大分県では、しとぎとか、しとぎ餅とか いわれている。 章 以上のように、東南アジアから中国、朝鮮、日本にかけて、しとぎが広く分布していて、 第 日本でも神祭りにおいて重要な役割を占めていることがわかる。渡部忠世氏のいわれるア ジアの稲作の起源がアッサム・雲南であるとする学説にしたがうと、おそらく、稲作は雲 南から江南を通り、栽培化されて、海上を経て日本に来たことになる。このとき、江南地 方から「しとぎ」「ロ噛み酒」の風習をもっ越人らが日本に渡来したものであろう。 日本における神社での神饌としてのしとぎの調査結果から、縄文人の文化の痕跡が色濃 く残るとされる東北地方や九州地方に生シトギが密に分布しているのは、しとぎからっく
また、北宗 ( 九六〇—一一二七 ) の『集韻』の中にも粢という文字が出ていて、これは 米の餅を意味する。一方、朝鮮の辞書をみても、粢は祭飯とか祭需となっていて、その発 音も stak であり、日本語の sitöki に似ている。韓国の張智鉉教授は、朝鮮半島に新羅、 高句麗、百済の三国が形成される以前 ( 一四〇〇—一五〇〇年前 ) の甑 (siru) が出土して おり、この甑で穀粉を蒸してつくった餅 (sirutak) が餅のはじまりであり、しとぎ ()i ・ töki) はそれから派生したものだろうと述べている。それゆえ、粢の名称は中国から朝鮮 酒 とを経て日本へと受け継がれたものと考えられ、アイヌの人たちが神に捧げる餅を昔は「し とぎ」、今は「しと」と呼んでいるのは、そのなごりであろう。 し 章 また、張教授は、しとぎでつくる米餅麹について、朝鮮古来の濁酒「梨花酒」の製造に 第 用いられる米餅麹の製法が高麗時代 (一〇四世紀末 ) の文献に出ているのを紹介して いる。それによると、まず白米をよく洗い、水に浸漬した後、水を切り、細粉にして、篩 にかけたものを、鶏卵大に固める。これが、すなわち、しとぎである。松葉を積み重ねた 層の間にこのしとぎを入れ、カビ ( おそらく黄麹菌 ) をつけて米餅麹にする。また、一七 世紀に成立した『山林経済』『飲食知味方』にも、この米餅麹のつくり方が記載されてい る。
の第二層に相当する。 弥生人は圧倒的に高い人口増加率で在来の縄文人を同化、吸収しつつ日本列島に拡散し て、本土の日本人の祖先集団になった。しかし、渡来の中心である西日本から遠く隔たっ た北海道と沖縄を含む南西諸島には弥生人の遺伝的影響がそれほど強く及ばなかったと考 えられ、そのためこれらの地域の住民に今もって縄文人の体質が色濃く残されている。す でに少し触れたが、縄文人の体型の特徴は顔が四角形、長頭 ( 頭を上から見てラグビーの ポール状 ) かっ低身である。一方、弥生人は面長で、短頭 ( 頭を上から見てサッカーのポー ル状 ) かっ長身である。 もちろん、非漢民族 ( 南方モンゴロイド ) による江南からの水稲、水稲栽培技術の日本 への移入は、波状攻撃的であったと考えられ、たとえば、中国の春秋戦国時代末に当たる 紀元前四七二年、呉が江南の越により滅亡させられた時には、航海術に秀でていた呉の移 民が海路で北九州に活路を求めた。また、紀元前三世紀頃、斉の徐福は秦の始皇帝の命令 で数千名の部下とともに不老長寿の薬を求めて日本に来たと伝えられ、その時、水稲、水 稲栽培技術とともに米麹利用の酒づくりの技術を日本に伝えたのではないかとも考えられ る ( 関俊彦、一九八九、羽田武栄、一九九一一 l) 。最近、和佐野喜久生氏は、徐福渡来の伝説
ついで、弥生時代初期 ( 紀元前三〇〇—二〇〇年頃 ) に、海上を経て中国大陸から直接、 または南朝鮮を経由して、水稲文化、青銅器文化、鉄器文化をともなった渡来人 ( 縄文人 より背が高く、骨相学的に現代日本人に近い ) が西日本に上陸し、日本に弥生文化が開花し た。彼らは先住民の縄文人を北は東北地方に、南は九州の南部へと押しやったのであると されており、これらの説にしたがうと、糸引き納豆づくりのできる縄文人が押しやられて づ残った地域とされる東北地方や九州南部にかたよって、糸引き納豆づくりが近年まで伝統 の 的な食習慣として残されていたこともうなずかれるのである。ただ、南九州では大豆栽培 代 本の南限である熊本にだけ納豆づくりが残ったもののようである。そして、本書のテーマで ある古代日本の酒づくりを考えるとき、縄文人のもう一つの風習であるロ噛み酒づくりも に縄文人の押しやられた東北地方と南九州に残ったのではないかということが推察される。 こうして、私は糸引き納豆の研究途上で出会った納豆菌とそのプラスミドの不思議な分 布様式をながめているうちに、日本における古代の酒づくりの形を考えるようになってい た。遠い縄文時代のロ噛み酒づくりも糸引き納豆と同様に、民族の移動にともなって稲作 とともに日本列島にやって来た。そして、縄文人の消長とともにロ噛み酒づくりも日本列 島の片隅に押しやられてしまったのではないかと考えるようになったのである。
その研究を行なうことになった。このアンドレアさんと原君による共同研究によって、糸 引き粘質物、つまり、アーポリグルタミン酸を生成する酵素の遺伝子が納豆菌のプラスミ ドに組み込まれていることが見出されたのである。プラスミドは、核様染色体 Z とは 異なり、細胞質に存在し、遺伝を司る小さな分子量のデオキシリポ核酸であり、 それまでの研究によって、納豆菌がプラスミドを持っていることは知られていたが、その づ生理的意義はまったく不明であったので、この発見は学会の注目を集め、アンドレアさん の も自信に満ちた研究結果を持って帰国することができたのであった。 代 古 本 さて、その当時、私たちの研究室には東南アジアからの留学生も何人かいて、彼らは自 分たちの国にも糸引き納豆と同じような発酵食品があることを教えてくれた。 豆 納 き たとえば、中国には黄麹菌型納豆 ( 北京豆政などで、日本の塩辛納豆に相当する ) 、毛カビ 型納豆 ( 四川豆政など ) 、細菌型納豆 ( 山東水納豆などで、日本の糸引き納豆に相当する ) の 各種納豆がある。また、タイ北部のチェンマイ付近では蒸煮大豆をバナナやヤマアサの葉 でくるんで室内に置くことによって、糸引き納豆をつくり、それに食塩、香辛料を加え、 タイ南部でよく 平たくせんべい状にのばし、セイロで蒸したものを thua nao といい 用いる魚醤のかわりにこれを調味料にしているという。タイ北部の山岳民族アカ族は蒸煮
第 6 章餅麹による麹酒づく 藤原時平・他編『延喜式』巻第四十「造酒司釋奠析」、日本古典全集刊行会、一九二九年 花井四郎『黄土に生まれた酒』東方書店、一九九二年 伊藤うめの「日本古代のタガネ飴とタガネ米麹とカムタチ麹と日本酒 . 『風俗』一八巻一号三九—六三 頁、一九七九年 秋山裕一『日本酒』岩波新書、一九九四年 考羽野徹也・河野孝一・大場理一郎・上田誠之助『農化大会講演要旨集』三一三頁、札幌 ( 一九九五年 ) 羽野徹也〕平成七年度熊本工業大学修士論文『古代酒の試醸とその特性』 「紹興酒文化 第 7 章世界各地のカビ酒とその起源 中尾佐助「麹酒の系譜」『朝日百科世界の食文化』一四巻、朝日新聞社、一九八八年 包啓安「中国の製麹技術」『日本醸造協会雑誌』八五号三四—三七頁、一九九〇年 〕 9 『紹興市政協文史試料』委員会編、一九九〇年 上田誠之助「糸引き納豆の起源」 Museum Kyushu, 九巻一号五六—六〇頁、一九八九年
とも、アルコール濃度がうすいためか、明代 ( 紀元一四—一七世紀 ) には消失してしまい カビを生やした餅麹を用いた酒づくりだけが残されて現在にいたっている。 なお、餅麹でつくられた酒 ( 黄酒 ) については花井氏の著書『黄土に生まれた酒』 ( 東 方書店、一九九一 l) に詳しく紹介されている。それによると、餅麹の発生は黄河流域であ ると推定され、その地域におけるおもな栽培作物である小麦を原料にして餅麹がつくられ 起 そた。そこで見られる餅麹は、粗く砕いた小麦を用いた麦餅麹で、直径が一メートル近くも ある円盤状のものや煉瓦状のものなどがあり、大きいことから「大麹ーと呼ばれている。 の山東省から華北にかけては、小粒のキビを主原料にして、麹には麦餅麹を用い、北方型の ホワンチュー 各 黄酒がつくられている。 界 世 先に述べたように蘖による醴づくりと餅麹によるカビ酒づくりは、朝鮮半島経由で日本 章 に紀元三—四世紀頃、酒造技術者によって移入されたものと考えられる。 第 一方、中国南部、江南地方では、非漢民族 ( 南方モンゴロイド ) により口噛み酒がつく られていた。紀元前四〇〇—三〇〇年頃、彼らは漢民族 ( 北方モンゴロイド ) の南下にと もなって、難民として、日本に波状的に渡来して先住民と合流し、縄文人として、陸稲、 ついで水稲、水稲耕作技術を日本に導入した。そのとき、彼らの酒「ロ噛み酒」も沖縄経
大切で、大麦の場合、三〇℃の温度で発芽させた麦芽は、一三℃で発芽させたものよりア ミラーゼ活性が二倍くらい強くなるといわれている。このような発芽に適した条件、すな わち、高温多湿にすると、当然ながら、麹菌による汚染の可能性も大きくなる。特に、中 国におけるように、保温、保湿の目的で稲わらによって湿った籾をおおうようなことがあ れば、麹菌による汚染の頻度はさらに大きくなると思われる。そのためもあってか、『天 工開物』 ( 一六三七 ) をみると「古来麹造酒、蘖造醴、后世厭醴味薄、遂至失傳、則蘖法 亦亡 - とあり、中国においても、蘖を用いての醴づくりは、明の時代にはすたれてしまっ たことがわかる。 小泉武夫氏は、稲によく発生する稲麹には、黄麹菌とイネ麹病菌の二種のカビがいて、 古代には、これらのカビを用いた米。ハラ麹が日本酒づくりに関与したものと推理している。 特に、麹菌の方が蒸米に、しかも高温 ( 三三℃ ) のもとでよく生育するということである。 以上のことより、紀元四世紀から一〇世紀にかけて、蘗は麹菌の汚染をうけた ( 芽 米 ) に、さらに、麹菌の繁殖した蒸米、すなわち、米バラ麹へと変遷したものと思われる。 それゆえ、紀元九、一〇世紀以降の記録に出ている醴は米バラ麹を用いた、いわゆる あまざけ 「甘酒ーを意味する。山崎百治氏が蘖は米バラ麹のことだという説を出しておられるが、
すなわち、紀元前三世紀頃までの醴酒 ( 一夜酒 ) は縄文人、弥生人によるロ噛み酒で あ 0 て、紀元三、四世紀、百済などからの渡来人の来日が盛んな時代にな 0 てから、醴酒 ( 一夜酒 ) は蘖 ( 芽米 ) を糖化剤にしたものにかわっていったと思われる。 ところが、紀元八五九年ないし八七七年頃に書かれた、日本の酒づくりの古典ともいえ る『令集解』の「造酒司ーの項には、 正一人。掌醸酒。醴。謂醴甜酒。 : ・古記云。醴甘酒。多麹少米作。一宿熟也。 とあって、この場合の麹は明らかに米バラ麹である。なぜなら、すでに述べたように、 の麹が餅麹なら、その中に繁殖している酵母やカビがアル「ール発酵するので、麹の量が 多くなればなるほど、甘みの少ない、アル「ール濃度の高い、辛い酒になるはずである。 ところが、ここには「麹が多いと甘くなる」とあるので、この麹は中国系や朝鮮系の米餅 麹ではなく、米バラ麹である。 それゆえ、紀元三、四世紀頃、朝鮮からの渡来人によって、蘖による醴や餅麹によるカ ビ酒 ( 麹酒 ) の技術が導入されたと仮定すると、紀元九世紀までの間に、蘖の意味が芽米 から米バラ麹へかわった可能性が考えられる。 ただし、和同六年 ( 紀元七一三年 ) に編集された『播磨国風土記』の中に、神代にさか