第 5 章蘖と餅麹 あまざけ 期には、百済の高度の酒造技術が中国に認められていた。また、穀酒文化と醴酒文化が存 在していて、酒用麹を利用した酒醸造技術と酒用麹または穀芽を利用した醴酒醸造技術が 定着していた。また、高句麗の醸造技術は中国にまで影響を及・ほして、曲阿酒は中国で再 現され、また、新羅酒も唐代の風流人に愛用さ れた、と張教授はその報告の中で述べている。 ヌ それゆえ、わが国に渡来した活日は大神神社 麹雄 で、中国の二種類の方法をまねて、穀芽 ( 蘖 ) 餅道 一方では、酒 のを用いて祭祀用の醴酒をつくり、 酒 去。 用麹 ( 餅麹 ? ) を用いて麹酒をつくったものと る れ れ 考えられる。しかも、醴酒づくりに使用する糖 ら ら 化剤の蘖 ( 穀芽 ) に芽米 ( 籾を発芽させたもの ) っ っ で かを使用したのではないだろうか。というのも、 当時、米は貴重品であり、朝廷では祭祀用の神 酒の製造に白米が使用されていたと考えられる のであゑしかし、芽米のでん粉分解酵素であ
第 3 章琉球弧と神酒 たのは事実であるが、奄美大島のそれとは若干、趣を異にするようである。琉球諸島各地 の神酒を詳しく調査した平敷令治博士の著書『沖縄の祭祀と信仰』 ( 一九九〇 ) によると、 現在の琉球諸島の神酒は次の九種類に分類される。 —生米汁を原料とするもの 地域によりその製法に若干の相違はあるが、大要は、水に浸け柔らかくなった生米を すり鉢か、ミキサーでつぶしてできた米汁そのもの、または、それに少量の砂糖を加 えたものを神酒として使用する。沖縄本島南部地区、北部の国領村、中部の名護市、 竹富島など。 Ⅱ米粥を原料とするもの 米粥をそのまま、または、それに少し砂糖を加えたものを神酒として使用する。沖縄 本島南部地区。 Ⅲ米飯を料とするも 0 米飯に米粉、または小麦粉、大麦粉などを混ぜ合わせることで、穀類に含まれるー アミラーゼを米飯の糖化に利用する。それに若干の砂糖を加えることもある。また大 麦粉のかわりに、大麦の麦芽粉を使用する場合がある。この場合は大麦粉に比べ、
第 5 章蘖と餅麹 白米枌水道水芽米枌 IM 乳酸芽米粉圧搾 パン酵母 3g 緩衝液 3g 90m1 24g pH4.2 10mI 愉却 蒸煮 120 ℃ 10 分 根した籾を一—二日おいて乾燥させ、これを粉ひき 器で粉砕し、籾殻や根を取り除くと芽米の粉ができ る。 発 こうして調製した芽米を用いて醴酒 ( 芽米酒 ) を ーア手つくった。その醸造工程は図 5 ー 2 に示したとおり 造 醸である。ここでは、芽米はでん粉を糖分にかえるア 酒 ミラーゼ剤として使用する。でん粉原料としては、 糖℃て。米、もち米、市販米粉、うるち米を用いた。 住、米は、生でん粉、すなわち、、でん粉をもっ 芽生米を蒸してーでん粉にし、無水アルコールに入 れて急速脱水により乾燥させたものである。 図 実験ではまず、これら四種類のでん粉質原料をそ れそれ圧力釜で煮たのち、芽米粉を加えて糖化し、 パンづくりに使用する酵母を使って、一五℃の温度 におき、アルコール発酵させた。
芽米と麦芽の比較 性 そこで、実際に、芽米とビール会社が調製 可 している乾燥麦芽を使い、それらのアミラー る 時 よ ゼ活性を比較してみたのが、図 5 ー 5 である。 に この実験から明らかなように、やはり、麦芽 アミラーゼの方が芽米アミラーゼより活性が 芽加 数倍大きく、『箋注倭名類聚鈔』に「飴をつ とあ くるのに麦芽を用い、芽米を用いないー るのは理解できる。 ついで、でん粉原料に糊化したうるち米を用い、芽米と麦芽をそれそれのアミラーゼ源 に、糖分をアルコールにする酵母には乾燥圧搾パン酵母を用いてアルコール発酵を試みた。 温度は一五℃である。その結果、図 5 ー 6 に示すように、麦芽アミラーゼ剤を用いた場合 の方が、より速やかに発酵が進むことがわかる。吟醸酵母の「協会 7 号」を使用した場合 も、図 5 ー 7 に示すように、麦芽をアミラーゼ剤にした方がアルコール発酵がスムーズに 進行した。 米 芽 ー 0 0
芽米を用いて醴酒をつくる 芽米の調製と醴酒の製造 まず、籾を使って芽米をつくゑその方法は、 時 図 5 ー 1 に示すように、一晩、水に浸した籾を 摂氏二五度 ( ℃ ) の温度に保った暗い部屋に置 漬菌工芽 浸殺 % 発 き、籾が乾かないようにしておくと、七—八日 み夜秒。所 5 0 「′日っム も で根を出す。そのとき胚芽は籾の中で伸びてい る。それから、室温を三七℃に保ったままで発籾 るアミラーゼは活性が弱く 、芽米では醴酒をつくり得なかったのではないかとも考えられ る。また、アミラーゼ活性の強いことで知られる麦芽が醴酒づ くりになぜ使用されなかっ たかという疑問もわいてくるのである。そこで次のような実験を行ない 、芽米による醴酒 つくりの可能性を探ることとした。 砕 米 芽 図 5 ー 1 芽米の調整法
まず、第一の群は、酵母により直接エタノールに変換される発酵性の糖、たとえば、グ ルコース、フラクト ース、ショ糖などを含む果実などを発酵させてつくる醸造酒であり、 ブドウ酒、リンゴ酒などがこれに当たる。めずらしいものとして、中央アジアにある、馬 乳や山羊乳などからっくられる乳酒が知られている。特に、ブドウ酒は古代ギリシアや ローマでは、神々に捧げる神聖な酒として尊ばれていた酒であり、人類がつくり出した酒 のなかでも古い起源をもつものである。 第二の群は、イモ類や穀類などのでん粉質を原料としてつくられる醸造酒であり、この 場合には、まずアミラーゼの力をかりて、でん粉質を発酵性の糖にかえることが必要であ る。そのため、この第二の群はアミラーゼ源の種類によって次のような三つのグループに 分けられる。 ます、第一のグループとして、現在では南アメリカを除く地域ではあまり用いられてい ない方法であるが、人の唾液に含まれるアミラーゼによってでん粉を糖化し、生成した糖 を酵母で発酵させた酒、すなわち、ロ噛み酒がある。 南アメリカでは、現在でも、トウモロコシやキャッサ。ハいもを使って、ロ噛み酒がつく られている。また、中国の江南地方、台湾、日本では、ロ噛み酒は古代によく使用された イ 4
か。あるいは、近代まで存在していたのだろうか。それを知りたくなる。そこで、日本に おける餅麹の存在の可能性について調べてみた。 滋賀県滋賀郡志賀町に菓子の神様を祀る小野神社があゑここでは、その大祭に際し、 今でも、もち米の白米を一晩の間水に浸した後、木臼に入れ、杵で一時間も搗いて、少し 長めに丸めた小さなしとぎをたくさんつくり、もち米の稲わらにくるんで、神前に供えら れる。数日後、信者の人たちはわらづつみのしとぎを火にかけ、わらを焼き払い、しとぎ を直会にていただく。伊藤うめの氏は、稲わらづつみのしとぎをしばらく置いておくと、 わらのカビがしとぎに生えて餅麹ができ、それを糖化剤にして、蒸米を使って、古代の酒 がつくられたであろうし、しとぎが餅麹の源だろうと指摘している。なるほど、カビの生 えたしとぎにお湯を加えると、カビのアミラーゼでしとぎは甘酒となる。 / 野神社の神様 が菓子の祖で、甘酒は菓子の甘味料となり、さらに、甘酒に酵母が入れば酒ができること が考えられ、これが日本酒づくりの原点だろうと伊藤うめの氏は述べている。 確かに、酒づくりに使用される黄麹菌は学名がアスペルギルス・オリーゼ阯 e ミ 00 き e ) で、これは稲の学名のオリザ・サティバ ( 00 き s ミ ~ き ) に由来していることから も、黄麹菌が稲によくついていることは考えられる。 ー 24
米 ) を使って醴酒をつくることは容易であることは明らかである。 しかしながら、芽米アミラーゼより麦芽アミラーゼの方がアミラーゼ活性は大きい。そ れなのに、なぜ、醴酒の糖化剤に芽米が使用されたのであろう。その理由を探ってみた。 稲の起源は「アッサム・雲南説」が有力で、それが長江流域の江南で稲作として花開き、 江南から縄文後期 ( 約三〇〇〇年前 ) に北九州・南朝鮮に渡来し、またたく間に日本のほ ぼ全土に植えつけられたと考えられる ( 第 1 章参照 ) 。一方、小麦・大麦の栽培の歴史を 餅たどると、小麦は南西アジアの「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる地域で、紀元前七〇〇〇 年頃に栽培化され、紀元前二〇〇〇年頃に中国へ伝播し、日本列島でも縄文時代晩期、あ 章 るいは遅くとも弥生時代には渡来し、栽培されていた。大麦も同じ頃に「肥沃な三日月地 第 帯」で栽培化されたが、日本列島に伝播したのは小麦より少し遅れて、紀元五世紀頃には 日本に存在していたらしい。九三四年に成立した源順著『倭名類聚鈔』の中に、「蘖は芽 米で、飴をつくるーとある。これは中国の百科辞典ともいえる『説文』から引用であるが、 その後の版では「飴は麦蘖でつくり、米蘖ではつくらない」としている。これは、麦芽ア ミラーゼが芽米アミラーゼより強力であることが明らかになったからであろう。
現在では、蒸米でおにぎりをつくり、 砕いて、日向に干して、転にする。この乾飯を 御食といって、神前に供えた後、少しずつ参拝者に渡し、直会にて食べてもらうと、河野 宮司は説明してくださった。 その翌日は、長崎県北松浦郡福島町にある今山神社に参詣した。福島町は、伊万里湾に 浮かぶ離島であるが、現在は対岸の伊万里市と橋で結ばれて、離島の趣はすっかりなく 酒なっている。今山神社はその島の海岸線の切り立ったがけの縁に建っている。 神 ここでうかがった大河内正則宮司のお話によると、大正末期まで行なわれていた神酒づ し くりの方法は、しとぎ団子を稲わらに包み、そのまま長く置いておくとカビが生えて神酒 章のもとができたのだという。それを木の桶に入れて蒸米と米麹を添え、木の蓋をして油紙 第 でおおい、しめ縄をしておく。この桶は、一〇月二三日に封を明け、新嘗祭に神酒として 使ったとのことである。しかし、大河内氏は、しとぎ団子に麹菌がっきにくいので、四〇 —五〇年ほど前から市販の米麹を使用して、お神酒 ( ドプロク ) をつくるようになったと 語られた。また、ここの本殿の内宮には二斗容量の壺があって、寛永年間 ( 一六二四—四 四年 ) の古文書に麹の文字があり、その前節のところに「しとぎ」と「いなわら」の記載 があったとのことであるが、今この古文書は紛失しているという。
表から明らかなように、エタノールの生成量はグリコアミラーゼ製剤を用いた場合がい ちばん多かったが、きき酒の結果は、Ⅱの籾に黄麹菌を接種してつくったカビ汚染の芽米 粉を糖化剤にした場合がもっとも酒らしい酒質を示し、それにつぐのが—の芽米粉であり、 蒸米に黄麹菌を接種してつくった米。 ( ラ麹を使用した酒が、三者のうちでは若干、苦みが あり、味、香りともに劣っていたのは意外であった。これは、少容量実験の影響が大きく 響いたためではなかろうか。しかし、糖化剤としては、芽米よりは米バラ麹の方が大量生 産に適しているのは明らかで、そのことも芽米から米バラ麹への変遷をうながす一因と なったものと思われる。 以上のように、中国には四〇〇〇—三〇〇〇年前の商の時代から蘖 ( 穀芽 ) を使用した 醴と、餅麹を使用した麹酒があって、漢や呉による朝鮮半島への侵入、植民地政策により、 これらの酒づくりが朝鮮に入り、高句麗、新羅、百済では、中国に勝るとも劣らぬ酒、醴 がつくられるようになったのであろう。ついで、崇神天皇ー応神天皇の御代、朝鮮から、 活日らの渡来人により蘖による醴、餅麹による穀酒づくりが日本に渡来したものと私は推 理している。 ロ 8