アジアの納豆菌とその不思議な分布 こうして集められた、東南アジアを中心とする世界各地の食品から私たちは納豆菌の分 離を試みた。その結果、日本で集めた試料の一八菌株をはじめとする数十種の納豆菌を、 これらの糸引き納豆様発酵食品から分離することができた。そこで、これら納豆菌のプラ ス、、、ト の分子量を比較してみることにした。プラスミドは細胞内で染色体とは独立した状 態で存在するさまざまな遺伝因子の総称であり、その分子量が細菌によって異なることが 大豆をチメチジャ ( 山羊が食べる葉、の意味 ) の葉にくるみ、糸引き納豆様の発酵食品を つくっていた。そこで、私たちはこれらの糸引き納豆様発酵食品やチメチジャの葉を収集 することにし、そこから多数の納豆菌を分離した。さらに、ネ , 。、ールにも糸引き納豆様の 発酵食品 kinema があって、、イ / 、。、ールの教え子から kinema の試料を送ってもらうこと ができた。そのほか、ハ ワイ、台湾、ブラジルなどの糸引き納豆の試料も集めることがで きたのであった。
糸引き納豆と日本古代の酒づくり・ 留学生と糸引き納豆 アジアの納豆菌とその不思議な分布 6 日本の稲と大豆の由来 縄文人とロ噛み酒と糸引き納豆 日本酒の起源と神酒 日本酒の起源目次
留学生と糸引き納豆 私が、日本における古代の酒づくりの起源に関心を持っこととなったそもそものきっか けは、酒づくりとはまったく関係のない糸引き納豆の研究途上にあった。酒づくりと糸引 き納豆づくり、この二つの食文化のあいだには、一見なんの関係もないように思われるか もしれない。しかし、どちらも稲と稲作の起源およびその伝播に大きくかかわっているの であり、まず、その取りかかりとなったいきさつからお話しようと思う。 それは、今から約二〇年ほど前のことである。当時、私たちの研究室 ( 九州大学農学部 糸引き納豆と日本古代の酒づくり
培技術とロ噛み酒の風習とが、沖縄、九州、本州、さらに北海道に伝播した可能性が考え られる。 また、ロ噛み酒の風習が、南は沖縄、九州の大隅地方に、北は北海道のアイヌの人々の 間にあったという記録もある。しかし、北方では沿海州からサハリン ( 樺太 ) を通り、 海道にロ噛み酒の風習が伝播された可能性も否定できない。たた、北海道で稲作が始めら れたのは明治時代になってから後のことであり、おそらく、ほかの穀類でロ噛み酒がつく られたのであろう。 先に述べたように、私たちの糸引き納豆の研究では、野生の納豆菌が太古より日本にい たことが考えられ、しかも糸引き納豆の消費が、北は東北地方から関東地方に、南は熊本 地方に局在するのも、糸引き納豆の起源を口噛み酒と同じように縄文人の食物に由来する と考えると、その分布のかたよりが納得されるのである。
ついで、弥生時代初期 ( 紀元前三〇〇—二〇〇年頃 ) に、海上を経て中国大陸から直接、 または南朝鮮を経由して、水稲文化、青銅器文化、鉄器文化をともなった渡来人 ( 縄文人 より背が高く、骨相学的に現代日本人に近い ) が西日本に上陸し、日本に弥生文化が開花し た。彼らは先住民の縄文人を北は東北地方に、南は九州の南部へと押しやったのであると されており、これらの説にしたがうと、糸引き納豆づくりのできる縄文人が押しやられて づ残った地域とされる東北地方や九州南部にかたよって、糸引き納豆づくりが近年まで伝統 の 的な食習慣として残されていたこともうなずかれるのである。ただ、南九州では大豆栽培 代 本の南限である熊本にだけ納豆づくりが残ったもののようである。そして、本書のテーマで ある古代日本の酒づくりを考えるとき、縄文人のもう一つの風習であるロ噛み酒づくりも に縄文人の押しやられた東北地方と南九州に残ったのではないかということが推察される。 こうして、私は糸引き納豆の研究途上で出会った納豆菌とそのプラスミドの不思議な分 布様式をながめているうちに、日本における古代の酒づくりの形を考えるようになってい た。遠い縄文時代のロ噛み酒づくりも糸引き納豆と同様に、民族の移動にともなって稲作 とともに日本列島にやって来た。そして、縄文人の消長とともにロ噛み酒づくりも日本列 島の片隅に押しやられてしまったのではないかと考えるようになったのである。
糸引き納豆と日本古代の酒づくり 縄文人とロ噛み酒と糸引き納豆 日本人の成立について見てみると、まず、約一万八〇〇〇年前の人骨と推定される化石 力、沖縄の那覇の近くにある港川で発見され、港川人と呼ばれている。この人たちは縄文 人の直接の祖先と考えられ、その起源は、東南アジアの海岸沿いに住む非漢民族であり、 陸稲や大豆など雑穀類の焼畑農業や漁業で生計をたて、入れ墨、ロ噛み酒の風習をもって いた。彼らは海流に乗り、沖縄や九州に上陸して、わが国の先住民を形成したものと考え られている。 の安田岡遺跡 ) に大豆栽培のあとが見出されており、このことから、縄文時代後期には、 すでに焼畑栽培で大豆が全国的に作られていたことが想像される。さらに、稲わらなどが 食物の携帯用に使用されていた形跡があることから、当時、煮豆を稲わらに包んで腰に下 げ、携帯食として持ち運んでいるうちに、たまたま発酵して糸引き納豆ができたのではな いかと考えられる。
食糧化学工学科 ) に、オーストリアのインスプルック大学から女子留学生のアンドレアさ んが文部省の国費留学生 ( 大学院修士課程 ) としてやって来た。彼女は、インスプルック 大学の教授の示唆で、日本の伝統食品である糸引き納豆の粘質物の研究がやりたいと申し 出てきた。 糸引き納豆の研究では、その頃までに次の二つのことがすでにわかっていた。まず第一 に、稲わらには野生の納豆菌がついていて、稲わらづとに煮立ての大豆を入れると、大豆 の熱で稲わらについている雑菌はほとんどのものが死減するが、納豆菌は熱に強い胞子を 持っているために、納豆菌の胞子だけが生き残る。そして、その熱が納豆菌の胞子発芽の 刺激剤となり、稲わらづとの保温作用が有利にはたらいて納豆菌の胞子が発芽し、稲わら に包まれた大豆の中で納豆菌だけが繁殖して糸引き粘質物をつくり、糸引き納豆ができる、 ということである。そして、もう一つは糸引き粘質物が、アミノ酸の一種で、動植物のタ ン。 ( ク質中に見出されるグルタミン酸の重合物 ( ア。ポリグルタミン酸 ) であることが明 らかにされていた。 そこで、私たちは彼女にその粘質物の生成に関する遺伝生化学的研究をしてみたらどう かとすすめ、彼女は、当時研究室の助手であった原敏夫君 ( 現在、助教授 ) といっしょに
こと、および餅麹の酒より古い酒と考えられると述べている。なお、吉田集而氏は稲芽酒 と報告しているがここでは芽米酒とした。 一方、渡部忠世氏はアッサム・雲南地方を揚子江河口と並んで稲の発祥の地と考えてい て、これにしたがえば、芽米酒もアッサム地方で生まれ、ついでタイの方に広がったと考 えるのが自然のように思われる。 私たちは糸引き納豆の研究の途上で、納豆菌の粘質物の生成を支配する細胞質因子 ( プ ラス、、、ト 。 ) の大きさが、雲南付近のものを最大として、周辺に広がるにつれて同心円的に 小さくなり、日本、台湾で最小になることを見出している ( 「留学生と糸引き納豆」の項を 参照 ) 。このことから、糸引き納豆の納豆菌は雲南に起源をもっことが推測され、そして さらに、そのことから、この場合も、中国江南地方の米餅麹 ( 小麹 ) も雲南に源を発し、 中尾佐助氏が提唱した照葉樹林帯のトライアングルに沿って、東南アジアに広がったとも 考えられる。 しかし、永ノ尾信悟氏の「古代インドの酒スラー によると、インド南部の芽米酒につ いて、紀元前一〇〇〇年後半のインドの古い記録があり、ガンジス河流域で紀元前三〇〇 〇—前二〇〇〇年頃に芽米酒が誕生したことが推測され、それからすると、芽米酒はガン
その研究を行なうことになった。このアンドレアさんと原君による共同研究によって、糸 引き粘質物、つまり、アーポリグルタミン酸を生成する酵素の遺伝子が納豆菌のプラスミ ドに組み込まれていることが見出されたのである。プラスミドは、核様染色体 Z とは 異なり、細胞質に存在し、遺伝を司る小さな分子量のデオキシリポ核酸であり、 それまでの研究によって、納豆菌がプラスミドを持っていることは知られていたが、その づ生理的意義はまったく不明であったので、この発見は学会の注目を集め、アンドレアさん の も自信に満ちた研究結果を持って帰国することができたのであった。 代 古 本 さて、その当時、私たちの研究室には東南アジアからの留学生も何人かいて、彼らは自 分たちの国にも糸引き納豆と同じような発酵食品があることを教えてくれた。 豆 納 き たとえば、中国には黄麹菌型納豆 ( 北京豆政などで、日本の塩辛納豆に相当する ) 、毛カビ 型納豆 ( 四川豆政など ) 、細菌型納豆 ( 山東水納豆などで、日本の糸引き納豆に相当する ) の 各種納豆がある。また、タイ北部のチェンマイ付近では蒸煮大豆をバナナやヤマアサの葉 でくるんで室内に置くことによって、糸引き納豆をつくり、それに食塩、香辛料を加え、 タイ南部でよく 平たくせんべい状にのばし、セイロで蒸したものを thua nao といい 用いる魚醤のかわりにこれを調味料にしているという。タイ北部の山岳民族アカ族は蒸煮
近年、考古学・民族学の分野を中心に、日本民族形成の流れがしだいに明らかにされつ つある。そこから導き出されつつある日本民族の二重構造を、私の専門分野である応用微 生物学の立場からながめたとき、わが国の民族固有のカビ酒ーー日本酒づくりがたどって きた変遷について、一つの示唆が与えられているようにも思えるのである。 この研究のそもそもの糸口は、糸引き納豆を食する文化と、プラスミドの大きさの比較 から得られた納豆菌の不思議な分布様式にあった。納豆づくりの起源は、稲の栽培と切っ ても切れない関係にある。したがって、納豆をともなう食文化の伝播は、当然ながら稲作 の伝播とともに行なわれたと考えられるのであるが、糸引き納豆を利用する食文化が日本 列島の北と南にかたよって存在することは、一つの傍証を与えているようにも思える。っ おわりにーー日本古代の酒づくりに思いを馳せて ー 66