本条は養老令文であるが、七〇一年の大宝令文も同じだったと考えられる。持統天皇の即位 を伝える『日本書紀』持統四年 ( 六九〇 ) 正月戊寅朔条では、 いんべのすく なかとみのおおしまのあそみ もののべのまろのあそみおおたてた 物部麻呂朝臣、大盾を樹て、神祇伯中臣大嶋朝臣、天神の寿詞を読む。畢りて、忌部宿 たてまっ ねしこふち 禰色夫知、神璽の剣鏡を皇后 ( 持統のこと ) に奉上る。皇后天皇位に即く。公卿百寮、羅 列し、匝ねく拝みて手を拍つ。 とあり、拝礼・拍手とともに天神寿詞奏上と神璽鏡剣奉上が中臣氏 ( 藤原大嶋 ) と忌部氏によ あすかきよみはらりよ - っ り神祇令規定と同じように行なわれているからである。前年に施行された飛鳥浄御原令にすで に同内容の条文があった可能性がある。 古代の天皇代替わり儀礼としては、即位式と大嘗祭がある。前者は平安時代になって詳しく わかる儀礼がきわめて中国的なものであるため、従来即位式は新しく導人された儀式だと考え られてきた。しかし実際には平安時代になると、天神寿詞の奏上は大嘗祭のときに行なわれる ようになる。また鏡剣の奉上は、譲位の直後に天皇から皇太子へ宝物を渡す践祚儀として、後 日に行なわれる即位式とは別の儀礼が成立する。 けんじとぎよ 、三種の神器のうちの剣と璽 ( 玉 ) および大刀契 ( 節刀や 践祚儀は、剣璽渡御の儀ともいし 関契 ) が皇位継承者に渡され、譲位と同時に空白なく皇位が継承されたことを示し、平安時代 かんけい あま と ゾしう おわ 第一章 卑弥呼と 61 倭の五王
しく。もちろん五世紀の倭の五王の 安閑・宣化・欽明朝には、大王の喪葬儀礼も整備されてゝ 時代には巨大な前方後円墳が作られていたのだから、巨大な儀礼が行なわれたに違いないが、 ほとんど知られない。かわって六世紀に人ると、死者の遺体を埋葬するまで安置する殯宮で皇 位継承にかかわる儀礼が行なわれ、諡号が献呈されるようになる。 殯宮は、和田萃氏が分析して明らかになったが、その場所は崩御のあった宮の近くに設けら あそびペ れることが多く、上師氏と遊部が殯宮を司り、皇后や妃など女性は天皇の殯宮に籠った。殯宮 ほふくれい での儀礼としては、亡き大王への拝礼として匍匐礼 ( はらばいでの拝礼 ) が行なわれ、先述の ひつぎ 誄が男性により奉られ、最後に皇統譜というべき日嗣が読み上げられ、和風諡号が献上さ れた みわのきみ 誄は、敏達天皇十四年 ( 五八五 ) の殯に際して、蘇我馬子大臣・物部弓削守屋大連・三輪君 さか - っ 逆が誄したのが初見であり、血縁者 ( 皇子 ) のほか、大臣・大連など執政者が誄を奉上したの である。和風諡号は、第二章でも触れたように、安閑のヒロクニオシタケカナヒ、宣化のタケ ヲヒロクニオシタテ以下麗々たる和風諡号が成立する。 このことから大王を対象にする殯宮儀礼が成立し、和風諡号が献呈された最初は安閑天皇の 殯宮であろうと和田氏は推定している。継体が新王朝で血縁が断絶していた事実を、和風諡号 と日嗣の奉上によって応神以前の系譜につながっていると主張したと考えているが、もし血縁 がつながっていたとしても、かなり遠い関係となったことが、儀礼が整備される必要を生んだ しのびごと 第三章 大和朝廷と 217 天皇号の成立
には鏡剣の奉上は即位式では行なわれなくなった。 ′、、らはやししし小、つじ 儀礼の視点からは倉林正次氏による正月儀礼の分析があったが、近年になり井上光貞・岡 田精司・和田萃氏らにより古代史の中心課題として即位式や践祚儀がとり上げられた。昭和か ら平成への代替わりによる関心の高まりにも並行して、研究が深められた。 えんぎしき ちょうがのぎ これらの研究成果によれば、即位式は、『延喜式』などでは毎年元日に行なわれる朝賀儀と だいごくでんたかみくら まったく同じ儀式次第であるとされ、ともに大極殿の高御座に出御した天皇を群臣が拝礼する もので、朝賀は毎年年頭における即位式の再現、関係の確認であると考えられる。しかもその ひざまず 拝礼は、本来は四拝といって跪いて両手を地面について拝み拍手をする、日本固有の宗教的 意味もあるミカドオガミであった。したがって即位式は、中国的儀礼として成立したのではな 古くからの正月に壇を設けてそこに登って即位する伝統を継承していることがわかってき た。大嘗祭よりも即位式の方が王位継承儀礼の中心であるとの意見もある。 たむら 推古三十六年 ( 六二八 ) 、推古天皇の死後、遺言が不明瞭だったこともあり、田村皇子と山 しろのおおえ そがのえみし 背大兄王のどちらが王位を継承するかで群臣が争い、大臣蘇我蝦夷の主導のもと、田村が即位 じよめい して舒明天皇となる。『日本書紀』によれば ( 舒明元年正月丙午条 ) 、 おおおみ まえっきみ 大臣及び群卿、共に天皇の璽印を以て、田村皇子に献る。則ち辞びて曰はく、 「宗廟は重 おさな も、つ 事なり。寡人不賢し。何ぞ敢へて当らむ」とのたまふ。群臣、伏して固く請して日さく、 みしるし やま っ ~
なるだろう 古代史の儀礼研究 古代史の儀礼研究についていえば、実際には文化人類 学の影響などとは無関係に、すでに実証的に進められて 跡 いた。そのきっかけは、考古学による政治の中心である 城供 へいじようきゅ - っ 平提 鮫会都城、平城宮や飛鳥の発掘であり、その分析のために 叫、、 c 協 跚業文献史学の側でも研究が進んだ。それを推進したのは京 念 都大学の岸俊男氏であり、一九七〇年代に平城京の中心 今 5 一三ロ ちょ・つど - ついん き口一 0 】 にある朝堂院における政治のあり方を、平安時代の儀式 を えんぎしき : 書や延喜式等を用いて復原し、政治構造や政治のあり方 3 遷 に迫った。 平 、一職殿 さらに一九八〇年代には若手研究者によって儀礼研究 平極 だいごくでん 殿次が進められ、平城京から平安京に到る大極殿・朝堂院・ 大第内裏、あるいは太政官など政治の場の変化を分析手法と れにして、平安時代〈いたる政治の質や天皇と官僚機構のあ 原原 復復り方の変化が見通せるようになったのである。もちろん 序章 「天皇の歴史」の 27 ために
食国とは、岡田精司氏によって検討されたように、文字通りその上地でとれた食物を天皇に 供して食べてもらうことであり、そのことによって、天皇と四方の国々との支配・服属関係を だいじよう 確認する。天皇が畿外を「食国」として服属させる関係を象徴する儀式が即位儀礼である大嘗 祭である。 すき 大嘗祭は、畿外の国郡が、悠紀国・主基国にト定されて新穀を天皇に献上し、天皇は神と共 食する儀式である。ただし大嘗祭の訓はオホニへノマツリであり、悠紀・主基は、新穀だけで なく贄も献上する。また十一月の祭りに先立ち、九月上旬には紀伊・淡路・阿波の国々は贄 ゆかもの ( 由加物 ) といって海産物や織物を貢上し、贄が重要な服属儀礼であることとともに、その起 源の古さも示している。 大嘗祭の制度が整えられたのは天武朝であるが、それ以前から四方国の多くの国造が参加し て新穀や贄を献上する原大嘗祭というべき儀式はあったと考えられる。皇極元年 ( 六四一 l) 十 ていぼう 一月丁卯条に「新嘗」がみえる。国造がマッロフことにより、天皇位が保証されるのである。 国造から服属の証しに大和政権の祭祀料として献上させたのがミッキだろう。やがて班幣と して全国の神々に捧げる制度が整えられると、民衆は神への供え物として調庸を納人すること になり、徴税の、天皇への調の貢納の正当性を保証することになっていく かつお 調、ミッキは、日本では絹・布などの繊維製品だけでなく、堅魚・鰒・海藻・塩などの海産 物が含まれる。各地の特産物を貢納するという意味のほかに、神への捧げ物として宗教的意味 おすくに 終章 天皇の役割と 351 「日本」
こうした背景には、貴族の日記 ( 記録という ) をもとにした摂関期の貴族政治についての実証 的研究の進展があったことはいうまでもない もうひとっ儀礼として、政務儀礼だけでなく、宗教儀礼、とくに天皇とのかかわりでは神祇 祭祀がもっとも重要なものとして存在する。ただこの分野は、戦前以来の神道史へのアレルギ ーもあって、特殊な分野だとして歴史学から切り離されて別に扱われてきたというのが、実情 だった。そうした中で先に挙げた早川氏が畿内政権を分析する方法として祈年祭をとり上げた ことは画期的であり、近年では神祇祭祀を律令国家の一部として位置づける試みもなされてい る。 王権儀礼の中核である皇位継承儀礼についても研究は少なかった。なんとなくそれは日本固 だいじようさい 有の習俗である大嘗祭であるという思いこみがあって、神道史の扱う特殊分野であるという感 じで、敬遠されていた。そうした状況に対して、一九八〇年代に東京大学の井上光貞氏が律令 せんそぎ 制研究の一環として即位式を分析し、践祚儀 ( 譲位・崩御の即日に新帝に帝位のシンポルである 剣璽を渡す儀礼 ) が九世紀初めに開始されたことを述べ、その意義を解明した。また岡田精司 氏は大王就任儀礼の原形に迫り、それまでは中国からとり人れられた新しい儀礼と考えられて いた即位式の方が、大嘗祭よりも古い伝統を持っことを明らかにした。これらが画期となり、 即位式などの研究が進んでいった。 そうした中で、一九八八年秋の昭和天皇発病から翌年以降っづいた平成への代替わり儀礼を じんぎ
生や権威のあり方を分析する概念である。 そこで重要な分析方法となるのが即位式などの儀礼である。十九世紀のバリ島の政治を分析 したクリフォード・ギアツの「劇場国家」論 ( 『ヌガラ』 ) に代表されるように、国家の本質 を、従来の階級支配でなく、儀礼・劇場に求める考えまである。前にふれた水林氏の「王権の 詩学」論はこの延長に述べられているわけだが、たとえば江戸幕府については、法学系の政治 思想史研究者である渡辺浩氏は、儀礼が将軍の御威光をいかに支えたかを論じ、近世において 儀礼から王権に迫っている。 中世の国家論としては、石母田正氏が、一九七一一年に広く中世武家法を概観した中で、戦国 家法の特徴として「礼」に関する規定に注目した。自己の支配領域において「礼」の秩序を確 立しようとした戦国大名は、同時にまた将軍家または天皇を頂点とした「礼」の秩序に編成さ れ、両者は尊卑の原理によって統一されているとして、中世天皇制の間題を論じている。この 論点は、石母田氏自身の病気によりその後深められることはなかったのが残念だが、『日本の 古代国家』とならんで、自ら新たな理論を構築しようとする試みであった。 石母田氏は律令と礼の問題にもふれ、古代・中世を通じて礼や儀礼と密接に天皇の存在があ ることを指摘したのだろう。また石母田氏が提唱した首長制論は、 いうまでもなく、文化人類 学で唱えられている階級や国家の未熟な未開社会での支配関係であり、そこでは神話や宗教祭 祀が大きな役割を占める。神話や宗教の視点から儀礼を分析して古代王権に迫ることが重要に
飾りと為す」とあり、金銀の薄板に花の文を作り、冠の上につけたのだろう。 従来、ウヂに対する臣・連・造などのカバネの秩序があっただけだったが、ここで個人を対 象に、また昇進も可能な冠位ができたことは、豪族が分掌する氏姓制度の中に個人単位の官人 が生まれてきたことを示す。その起源は中国でなく朝鮮三国にある。高句麗には十二等の官 位、新羅に十七等の官位があり、いずれも冠があり、身分の差を色で表わすなど類似してい る だちそちおんそち もっとも影響をうけたと考えられるのは百済である、十六品あり、左平以下、達率・恩率・ とくそちかんそちなそち 徳率・杆率・奈率の第六等以上は冠に銀花をもって飾り、第七等将徳以下施徳・固徳・季徳・ くろ 対徳とつづき、それぞれ紫・皂・赤・青・黄・白と帯の色で位を示したのである。 冠が機能するのは、やはり儀礼の場である。元日には髻花をさすとあるので、元日の大王を 拝する朝拝・朝賀の儀礼が重要だったことがわかる。即位儀礼と元日儀礼は内容が同じだった らしく、大王と群臣が互いの地位を確認しあうもっとも重要な儀礼であった。そのことは、翌 推古十二年正月の元日に冠位を初めて諸臣に賜ったことからわかる。 また岸俊男氏によれば、この年造営された小墾田宮は、のちの朝堂院の原形になるような、 北から大殿ー大門ー朝廷 ( 左右に庁がある ) ー南門という左右対象の平面構造を持ち、大王が 大殿に出御して南面し、官人が朝廷に立ち並ぶので、天皇の都城と宮の歴史の中で画期的なも のであった。位階の本質は天皇との距離であるから、儀礼の場で朝廷に列立するときに、冠位 242
目のあたりにし、それを受けて即位儀礼や喪葬儀礼など天皇制関連儀礼の研究がきわめて活発 になったのである。当時は中世史や近世史では学界としての研究蓄積が少なく、一般国民の関 心にもかかわらずそれにうまく対応できず、反省すべき点があったことは認めるべきだろう。 天皇と宗教・学芸との関係研究へ こうした状況をふまえて、即位儀礼を手がかりに律令の比較研究を研究手法として、天皇は ちょ - つよう どうして統治できるかを考えてみたのが、拙著『古代の天皇制』である。調庸制や饗宴なども とり上げ、その宗教的意味や神話的秩序を考えてみたものである。律令制の分析を中心にすえ てその平安時代への展開が叙述の中心であり、本書とは少し時代が異なり直接関係しない部分 もあるが、本書の基礎になっている。 おりくちしのぶ なお拙著についてある国文学研究者から折ロ信夫を古代歴史学に適応したものだとの批評を いただいたことがある。まったく意外なほめ言葉であり、実は折口を引用した部分はほとんど ないのだが、もっと折ロの古代学・民俗学に留意し活用せよという意味なのだろう。民俗学だ い′、ら麻皿章 けでなく、文化人類学的な視点、宗教や神話、儀礼などに注意して分析しなければ、 序 史学であるとはいっても王権論にはならないということだろう 天皇に関する議論に、歴史家の発言があまり顧みられず、哲学者や思想家・文化人類学者が 活発に発言するようになって久しい、と今谷明氏が述べたのは二〇年ほど前のことである。も 「天皇の歴史」の 29 ために
心をもちて護る物そ」と、その忠誠がうたわれている。 日本古代の反乱の特色は、必ず東国へ脱出して東国の勢力を味方につけようとすることであ てんむ る。壬申の乱で天武天皇が東国に人って勝利したことは有名だが、皇極二年 ( 六四一一 l) に蘇我 しるカ 人鹿に滅ぼされようとした山背大兄王は東国への脱出を勧められたし、平安時代初期の薬子の 変では平城上皇は東国に向かおうとしたなど、例を挙げればきりがない 東国の国造は、大和朝廷に対して強力な服属ー奉仕関係を保ち、それは国造が一種の後進性 ゆえに一元的な領域権力として自立性が強かったためだろう。東国は全体として「アヅマ」と あめあずまひな 呼ばれ、伝承上は、天ー東ー夷 ( 雄略記の天語り歌、記一〇〇番 ) のような一種の世界観の一要 素であり、東国統治が天皇位と対になって想定されている伝承もある。 おそらく東国に対しては服属儀礼がくり返し要求されたので、「東国の調」というミッキ貢 納の儀式も六世紀末にはみられる。 あずまうた 『万葉集』巻一四には、二三〇首の「東歌」が収録されている。単純な民謡を収録したもので はなく、中央集権的国家秩序を示すという議論があるが、律令国家にとって、東歌は王権への このえふ 奉仕として不可欠な意味があったのだろう。平安時代には宴会や儀式において、近衛府によっ あずまあそび て「東国の歌」や歌舞である「東遊」が奏され、神社に奉納される。この近衛府は、奈良時 代の中衛府が発展したもので、東国国造の舎人の系譜を引いている。 228