点から天皇の日本史の中での役割が明らかになり、今日の日本の成り立ちを考える材料となれ 、はと田っ 3 天皇と「日本」の成立 天皇制の持続と本質 ) リ ) こ、どのような方向から答えるべきか、どのような学問 天皇制はなぜっづいたかとしうⅢし。 ーバーは、支配の正当性につい 的アプローチをすべきかは難しい間題である。マックス・ウェ て三つの理念型を挙げている。①合法的支配、②伝統的支配、③カリスマ的支配である ( 『支 配の社会学』 ) 。これは理念型であり、現実にはそれが組み合わさっていると考えられるのだ が、天皇の場合、まさに伝統的支配として維持されてきたのだろう。 の まるやままさお ーの三類型のうち、①合法的支配は形式的 史 なお丸山真男は権力の正統化について、ウェー 歴 法的次元の問題だから実質的な正統性を間題にする支配の正当性の類型に位置づけるのは不適章の め 当だとし、②伝統的支配のほか、自然法に根拠づけられる支配、神あるいは天による授権を基序「た 礎とする支配、統治のエキスパート・エリートによる支配 ( ③はこれに含まれる ) 、人民による 授権にもとづく支配という類型も挙げている。律令法の成立以降、天皇の支配は形式的に合法
へんこ こうでん わる一般的校田と領域内の男丁を調査する意味での編戸であったとする。大化改新は、人民を 領域的に編成する公民制への転換、領域的支配Ⅱ国家を成立させた画期であるとし、名代・子 しろ とものみやっこ 代など伴造的秩序、すなわちタテ割りの人民支配方式をやめて、国造制的秩序を基礎構造と して選択したと論じている。つまり全国に評を設置するのが最大の政治課題だったのである。 評制の特質は、評官人への依存という点にあり、評官人と天皇との結びつきが基礎にある。 ぐんじ 律令制では、これが郡ー郡司になるが、郡司として組織される在地首長層と人民との支配関係 が古代国家の基礎となる第一次の生産関係であるというのが、石母田氏の在地首長制論であ る。その始まりが評制の施行であるが、国造支配を制度化した側面もあり、以上述べたところ は、国造制の具体的なあり方を明らかにしたという意味もあるだろう。 改新詔第二条冒頭ので畿内 ( ウチックニ ) の範囲を東西南北の四至で定めている ( 律令制 の大倭・河内・摂津・山背の四国で定めるのではない古いあり方である ) 。このことに窺えるよう これを畿内政 に、改革のまず第一の重点は、畿内に本拠を持っ豪族が天皇のもとに集結し 権とよぶが、ふつうには大和朝廷とよぶーー・その権力がその外側の畿外に割拠して独自に上 地・人民を支配している地方豪族に対する支配を、いかにして強化し、制度化するかというこ とに置かれたと考えられる。 なしろこ 第四章 律令国家の 295 形成と天皇制
国上防衛と唐との外交交渉に追われた天智の朝廷は、国家体制の確立をめざし、大化改新で はほとんど手つかずだった中央の政治機構と氏族制の改革に着手する。 かっし おおあ 白村江の敗戦の翌年、甲子年 ( 六六四 ) 二月に三項目の改革を天智の命令として皇太弟大海 せん 人皇子が宣布した。干支をとって「甲子の宣」と呼ばれる。①大化五年の冠位十九階を一一十六 とものみやっこ うじのかみ 階の新制に改めたこと、②大氏・小氏・伴造等の氏上を定めて、大刀・小刀・干楯弓矢を授 けたこと、③「其の民部・家部」を定めたことである。 ②は、一つは氏族が決めていた族長の地位を、朝廷が定めて「氏上」としたことであり、も う一つは大氏・小氏・伴造の三段階にランクづけし、氏族相互間の秩序を正したことである。 「国造」がないことから中央氏族を対象としたものであり、やがて天武十三年 ( 六八四 ) の八 くさかばね 色の姓による再編へ発展してい 重要なのは③「民部・家部」である。天武四年 ( 六七五 ) 二月詔の「甲子の年に諸氏に給へ りし部曲は、今より以後、皆除めよ」に対応している。大化改新否定論の論拠ともなった史料 であるが、この詔より「部曲」は甲子の宣によって諸氏に支給されたことがわかり、「部曲」 も「民部」も訓はカキべで、同じものをさそう。カキべとは、諸氏に所属する部 ( 王権によっ て認められた ) である。改新詔では諸氏所有の「部曲」をやめ、食封を支給すると宣言したも のの、実際には進んでいなかったが、天智朝はようやくこの点に着手したのである。 大山誠一氏は、甲子の宣は畿内豪族およびその支配下の民を対象としたものとし、畿内の人 ま かきペ かき・ヘ やかべ じきふ 第四章 律令国家の 319 形成と天皇制
生や権威のあり方を分析する概念である。 そこで重要な分析方法となるのが即位式などの儀礼である。十九世紀のバリ島の政治を分析 したクリフォード・ギアツの「劇場国家」論 ( 『ヌガラ』 ) に代表されるように、国家の本質 を、従来の階級支配でなく、儀礼・劇場に求める考えまである。前にふれた水林氏の「王権の 詩学」論はこの延長に述べられているわけだが、たとえば江戸幕府については、法学系の政治 思想史研究者である渡辺浩氏は、儀礼が将軍の御威光をいかに支えたかを論じ、近世において 儀礼から王権に迫っている。 中世の国家論としては、石母田正氏が、一九七一一年に広く中世武家法を概観した中で、戦国 家法の特徴として「礼」に関する規定に注目した。自己の支配領域において「礼」の秩序を確 立しようとした戦国大名は、同時にまた将軍家または天皇を頂点とした「礼」の秩序に編成さ れ、両者は尊卑の原理によって統一されているとして、中世天皇制の間題を論じている。この 論点は、石母田氏自身の病気によりその後深められることはなかったのが残念だが、『日本の 古代国家』とならんで、自ら新たな理論を構築しようとする試みであった。 石母田氏は律令と礼の問題にもふれ、古代・中世を通じて礼や儀礼と密接に天皇の存在があ ることを指摘したのだろう。また石母田氏が提唱した首長制論は、 いうまでもなく、文化人類 学で唱えられている階級や国家の未熟な未開社会での支配関係であり、そこでは神話や宗教祭 祀が大きな役割を占める。神話や宗教の視点から儀礼を分析して古代王権に迫ることが重要に
が、おそらくその後半世紀にわたって魏や中国東北部から輸人がつづけられたのだろう。舶載 鏡も前に触れたように四段階に分けられるのである。 さらに中国製を模造して倭国内で製作されたのが仂製鏡である。その製作の契機は、小林行 雄氏の「大和政権が地方の小支配者にたいして中国鏡を分配していった段階において、ついに 中国鏡のストックが底をつく時期が到来した ( 中略 ) 。そこで応急策として、仂製鏡をもって 中国鏡にかえるという方法が立案され」たという理解が妥当だろう。侑製三角縁神獣鏡も様式 などから五期に区分でき、四世紀の第一四半期から第四四半期までに対応すると述べられてい る。 おそらくその後は、刀剣の分与が主流になったのではないだろうか。八世紀末の製作にもと ふきべ づく、因幡国の神官伊福部氏に伝わる古系図、『因幡国伊福部臣古志』には、第一六代イキワ せいむ シヒコ宿禰が、成務天皇の代に「彼の国の大政小政を捻持て申し上ぐる国造」に定められ、 「楯・槍・大刀」を賜ったと記している。その五本の剣 ( 大刀 ) は、「伊波比の社」として今 ( 奈良時代 ) 神として祭っていると記している。成務天皇とする年代は信頼できないにしても、 地方豪族の国造任命に際して剣や大刀が与えられ、その剣は神宝として祭られたのだろう。 刀剣には権力の分与とか地位の公認という意味があったことは、次の稲荷山古墳鉄剣でも触 れよう。垂仁紀二十七年には、祠官に命じて、兵器を神への幣物としようと占わせたところ吉 となったので、弓矢と横刀を諸神の社に納めて祭らせた。兵器をもって神祇を祭るのはこの時
倭国の六御県という大和朝廷の内廷に結びついたいわば直轄領と「東方八道」という東国に 使者が派遣されたのである。クニノミコトモチとよばれ「国司」とも表記されたのである。こ のときの東国の範囲については諸説あるが、東海道は三河以東、東山道は信濃以東と考える井 上光貞説に従っておきたい。 さかん 使者は八グループになって、それぞれ長官・次官・主典の三等官で構成される。第三詔に挙 がる各長官の姓をみると、穂積臣・巨勢臣・紀臣・平群臣などで、第二詔にいうように「良家 の大夫」であり、議政官組織に代表 ( 大夫 ) を出せる当時の錚々たる氏の人々が派遣されてい ることがわかる 国造の力を媒介とする支配 東国国司の任務としては、第一詔同にいわれる、戸籍の作製と校田が第一である。しかし全 こうごねんじゃく 国規模で統一的に戸籍が作製されたのは六七〇年の庚午年籍が最初であり、ここでは大まかな 戸口、人口調査ぐらいであろう。約一カ月後の大化元年九月甲申条に「使者を諸国に遣はし の皇 おおかず 家天 章国と て、民の元数を録す」とあり、これは東国以外に対するものだが、このような人口調査が実態 四令成 であろう。第一詔に「国家所有公民、大小所領人衆」と、大和王権支配下の公民と大小の豪族第律形 の領する民衆を併記するように、地方豪族の支配権を認めていて、豪族の力を借りた旧来の支 配関係を変更しない戸口調査だったと想像できる。したがって校田についても、地方豪族が自 そ - っそう こ・つしん
らの支配下の田地を自己申告する程度に考えてよいだろう。 次にみえる任務として、①兵庫をたて、国郡の武器を集める武器の収公がある。大化元年九 月丙寅条にも「使者を諸国に遣はして、兵を治む。或本に云はく、六月より九月に至るまで、使者を四方の国に遣 はして種々の兵器を集めしむ」とあり、他の諸国に対しても一月遅れで武器収公が命ぜられている。 武器収公といっても、武器を没収するのではなく、武器の管理権を国家が掌握する意味であ り、実際には収公後に国造に伝えられた場合が多かった。武器管理権の掌握が東国、ついで全 国に行なわれ、大化一一年正月にも「郡国に詔して兵庫を修営せしむ。蝦夷親附す」とあること は、対蝦夷を含めて軍事が重要課題であったことを示す。改新詔第四条では、令制にみられな い官馬の供出や兵器の徴発が一種の税として規定されている。 では、国司が国において「罪を判る」ことを禁止し、第三詔でも「国司等任所において自 ら民の所訴を断ずるなかれ」と述べられている。裁判権を有する国造の支配権への干渉を戒 め、在地首長層の持っ裁判権を保護したものであるが、しかし国造など在地首長相互の争いが 訴えられたときは、中央へ上申し中央政府の判断で解決することを定めたのだろう。東国国司 は、国造の伝統的権力の根幹である裁判・刑罰権には手をつけない、 つまり在地首長層の上地 や人民への支配権を肯定し、それを前提として任務を行なったのである。 第一詔にはさらに、囘「名を求むるの人」があって、国造や伴造や県稲置 ( 屯倉を核とする 官人か ) でもないのに、祖先の時代からこの領地を預かり治めていると詐り訴えてきたら、そ ことわ 286
れ、そこに石人などにより衙頭 ( 磐井による裁判・政治の場面 ) が再現されていた。墳丘や別区 から石人・石盾・石靫・石馬などが出上していることから、この古墳が風上記の作られた奈良 時代には磐井の墓と考えられていたことは疑いない 在地首長としての権力を持つ国造 国造とは、国のミャッコ ( 御奴 ) であり、伴造と並んで、国をもって大王に奉仕する しもべという意味である。在地の有力豪族が世襲的にその職についた地方官である。国造制は 大化前代の国制の基礎であるが、その本質は、王権への服属と奉仕にあり、ミッキ・エダチと いう貢納・労役を行ない、一定の領域を支配した。 おおあがたおあがたあがたぬし せいむ 『古事記』成務段に「大国・小国の国造を定め賜ひ、また国々の堺、及び大県・小県の県主を 、「記紀」は成務朝に国造制が成立したとするが、それは編者の構 定め賜ひき」とあるように にいのなおよし 想である。かっては新野直吉氏など四世紀末から五世紀初めに国造制が成立したとするのが通 よしだあきら いしもだしよ、つ 説だったが、石母田正氏は五世紀末から六世紀代とし、吉田晶氏は磐井の乱後、六世紀中葉以 廷の 章朝号 降に成立したとする。かって筑紫・豊・火の広汎な地域を支配した筑紫君を、乱後も筑紫君一 三和皇 族の筑紫での首長的地位を否定することなく、豊・火にも国造を置き、国造制を施行し、屯倉第大天 制も施行し、畿内勢力の全国支配を進めていったと述べている。 国造は、服属と一定の奉仕と引きかえに地方の統治を委ねられるので、在地における首長と くにのみやっこ とものみやっこ
朝廷は二つに分かれ、欽明が即位した。しかし二年後他の一派が安閑の即位を実現し、六年後 の宣化の死まで「両朝併立」が続いた、と。 はやしやたっさぶろう さらに林屋辰三郎氏は、朝鮮半島支配の動揺と磐井の反乱が中央豪族に反映して皇位争奪と いう政治事件になったと考えた。安閑・宣化には大伴氏が、欽明には蘇我氏が支持者となって いて「継体・欽明朝の内乱」が起き、継体朝の朝鮮政策や内乱の責任者である大伴金村を政界 から追放することにより、欽明の統一政権が樹立されるとした。魅力的な仮説といえるだろ 「内乱」といえるほどの対立があったにしては、『日本書紀』にその痕跡をうかがうことかで きない しかし林屋氏がいうような皇位の争いとそれにともなう派閥争い、大伴・蘇我両氏の 対立があったことは認めてよいだろう。没時に安閑は七〇歳、宣化は七三歳と『書紀』は伝え るので、即位時にすでに六〇歳代後半であり、母は地方豪族の尾張連であり、その即位を認め ない中央豪族も多かったのだろう。とはいえ対立と妥協の中で安閑・宣化は即位したようで、 まがりのとねりべ まがりのゆきべまがりのかなはし ひのくまのとねりペ ひのくまのいおりの それぞれの宮名による勾舎人部・勾靫部 ( 勾金橋宮 ) 、檜隈舎人部 ( 檜隈廬人野宮 ) も置かれ 仁賢の女の手白香皇女を母とする欽明が五三九年に即位して朝廷が統一されるが、それとと もに政治を主導する大臣に、蘇我稲目、蘇我氏が登場してくる。『書紀』によれば宣化の即位 きたしひめお に際して、稲目が突如として大臣に任じられ、欽明朝の大臣を務める。また稲目は堅塩媛と小 0 0 おおおみ 200
太王は自ら兵を率いて倭軍を迎え撃ち、潰滅的打 撃を与えたことを記しているのである。 したがって、倭が百済や新羅を「臣民」とした のは、やや誇張した表現であるだろう。同様に百 碑済と新羅がもともと高句麗の「属民」だったとす 王 太 るのも、事実に反した表現で、高句麗の支配を遡 好 らせて正当化しようとするものである。 先述した七支刀が三六九年に作られ、百済から三七二年に倭王に贈られたらしいこととあわ せ考えるならば、四世紀後半から五世紀初めまで、倭と百済とは密接な関係にあり、倭は半島 に派兵したのだろう。 『日本書紀』には、神功皇后紀に、「百済記」など百済側史料を引いて、三韓を征討したとい ういわゆる「三韓征伐」を記している。これは八世紀初めに朝鮮半島 ( 新羅 ) は日本に従属・ ばんこく 1 ) 朝貢する「蕃国」であるという律令国家の理念によって潤色されたもので、事実ではない かし四世紀後半に倭が半島に派兵したという神功皇后紀の記述は史実を反映しているのだろ う。倭の半島出兵は、半島南部の加耶諸国 ( のちに任那といわれる ) を支配するためとするの が従来の定説だが、熊谷氏は、高句麗の南下圧迫を受けた百済や加耶諸国が倭に派兵を要請し たのではないかと推測している。 かや