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検索対象: 天皇の歴史 01巻
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1. 天皇の歴史 01巻

帝の位置づけを全面的に継承しているので、天皇が法を超越した絶対的な正当性の根拠のよう にみえる。しかしそれは日本の律令法が中国古代のそれを継受したためであり、それが律令制 下の天皇の実相であるかどうかは別であると指摘する。 一方の政治的首長としての側面は、中国皇帝のあり方を継承することはなく、畿内有力氏族 の代表者から構成される合議体である太政官こそが支配階級の利害を代表していて、それ以前 のあり方を継承して大きな権力を持ったと論じたのである。 早川氏は、天皇と太政官合議制との間に緊張関係を考え、太政官により古代天皇制の権力が 制約されているという視点から、天皇に迫ったのである。ただしこれは権力論であり、どちら カ弓いカ号いかという議論になりがちである。この点に対して吉田孝氏は、天皇と畿内豪族間 との関係を単に並列的な権力の強弱の問題に還元すべきでなく、「天皇は畿内豪族政権のなか で、特定の役割を果たすために共立された首長であり、決して畿内豪族と並立すべき立場にな かった」「七世紀の日本の天皇は、すでに特定の世襲カリスマを持った特殊な存在として、畿 内豪族層の承認を得ていた」「日本の天皇は畿内豪族に共立された司祭者的首長としての性格 を色濃く残している」として批判している ( 『律令国家と古代の社会』 ) 。 天皇の持っ権力と権威、もちろん実際には単純に二つに分けられないだろうが、後者の権威 の側面、天皇はどのような役割を担い、なぜ天皇であったのかが次に検討すべき課題になって いるだろう。官僚制についても、ただ太政官だけでなく律令制下の五位以上の官人、畿内豪族

2. 天皇の歴史 01巻

くなり、天皇と豪族・貴族との関係の分析という形で、天皇権力の実態に迫る第一歩が踏み出 されたことを評価しなくてはいけないだろう。 はやかわしようはち その後畿内勢力による全国支配という論点については、関氏の後継者である早川庄八氏が研 究を進め、一九七〇年代後半以降に肉づけをしていった。 早川氏は、律令国家の最大の祭祀とされる祈年祭をとり上げて、それが畿内の範囲の特定の つきなみ 神社を祭る年二回の月次祭と同じ形であり、それを全国を対象に拡大して創設されたもので、 旧来の畿内中心の地域的王権としての性格をほとんど変えていないことを論じた。また在地出 ぐんじ 身の有力者を地方官の郡司に任命するしかたをとり上げて、律令官僚制において試験は行なわ れないのに、畿外の郡司の際にだけ口頭試験と筆記試験が行なわれ厳重な手続きをとったこと を述べ、それは畿内政権が畿外の政治的諸集団を服属させる必要があり、郡司任命が畿内政権 を代表する天皇が畿外の豪族と対峙するいわば「外交」の場であるからだとし、畿内による畿 外の支配という大和朝廷以来の関係がつづいていたことを明らかにした。 中世天皇研究と網野善彦氏の研究 中世史については、戦前に奥野高広による皇室財政の研究があったのを除けば、戦後になっ ても天皇そのものに迫る研究は不毛だった。それはマルクス主義の影響のもと、荘園を対象と する社会経済史研究が圧倒的な中心であったためである。一九六〇年代に黒田俊雄氏が権門体 きねんさ

3. 天皇の歴史 01巻

統性を得ていたのである。シラス・シロシメスの原義は神意を知ることであろう。 そのことは、壬申の乱に勝利を収め、権威を高めて「神にしませば」と称された天武自身が あいなめ たった つきなみ ひろせ とりくんだのが神々の祭祀であったことが示している。相嘗祭、広瀬・龍田祭、月次祭を整 きねん しく。このうちの月次祭は班 備、創始していった。さらに祈年祭や即位時の班幣も行なわれてゝ 幣祭祀のほかに天皇自身のいくつかの祭祀儀礼が複合されている。 六月および十二月の十一日 ( 平安時代の実例 ) 昼間に月次祭が行なわれ、神祇官で畿内の官 ネに班幣がなされる。この儀式には天皇自身は参加しないが、天皇自身はその月の一日から みあがもの いんびのごぜん 「忌火御膳」という、特別な清浄な火を用いる食事をする。また「御贖物」という、天皇が食 事のときかわらけの中に息を吹き入れる儀式もあり、神事に臨む天皇の心身を浄化する。一日 おおみまのみうら みやじ から九日間、神祇官にこもって中臣とト部・宮主とで「御体御ト」という亀の甲羅による占い が行なわれる。そして十日の早朝に占いの結果を書いた文書を机にのせて参内し天皇に奏上す この占いでは、六月なら、来る七月から十二月に至るまで御体は平安であるかを問い、甲羅 どこ - っすいじん のヒビ割れで占う。そこでは、上公、水神などさまざまな祟りがあるかを間い探っていくま だいじんぐう た、「神の祟りあるべしや」という間いに対しては、さらに「伊勢国に坐す太神宮の祟り給ふ とゆけのみや や」「豊受宮の祟り給ふや」以下、宮中に坐す神、京中に坐す神、五畿内に坐す神、七道に坐 す神と、伊勢神宮及び外宮からはじまり五畿七道と全国へ拡大し、どの神が祟るかが問われる - つらペ はんべい ぎよたい 終章 天皇の役割と 343 「日本」

4. 天皇の歴史 01巻

天皇は専制君主か そうした風潮の中で、一九五〇年代に関晃氏によって唱えられた畿内政権論は、天皇制のあ り方を具体的に検討しようとする議論であった点で、重要な意味がある。 関氏は、古代国家あるいは律令国家は、畿内プロックが全国を支配しているととらえ、大化 改新はその実現であると考えた。また日本古代において社会の未発達の中で比較的短期間に統 一国家が成立したのは、社会の内的成熟だけでなく海外情勢の影響があるとの見通しの中で、 大化改新も、従来いわれるような天皇権力の回復強化をめざしたのでなく、海外からの脅威に 対抗して中央勢力全体が国力を集中したと考えた。 さらに畿内勢力の内部においては、天皇権力はそれほど強力ではなく、それと対抗関係にあ る畿内豪族が伝統的に大きな権力を持ち、日本の古代国家は、君主制的形態をとる貴族制支配 であるとした。律令国家の権力には、常に専制君主化をめざす皇権と、結束して全国を抑えよ だいじようかん うとする貴族・太政官との二つの極があり、両者の合作によって国家権力の発揚をめざしたと 論じている。 章 今日、関氏が律令国家を貴族制と表現したことについては批判もあるが、これは暗黙の前提序 とされていた天皇専制に対する批判としていわれた言葉である。これにより戦前の、あるいは その裏返しとしてのマルクス主義的な「天皇即国家」的な単純な天皇専制君主論は成立しがた かいし ~ ル せきあきら たいかの 「天皇の歴史」の 17 ために

5. 天皇の歴史 01巻

へんこ こうでん わる一般的校田と領域内の男丁を調査する意味での編戸であったとする。大化改新は、人民を 領域的に編成する公民制への転換、領域的支配Ⅱ国家を成立させた画期であるとし、名代・子 しろ とものみやっこ 代など伴造的秩序、すなわちタテ割りの人民支配方式をやめて、国造制的秩序を基礎構造と して選択したと論じている。つまり全国に評を設置するのが最大の政治課題だったのである。 評制の特質は、評官人への依存という点にあり、評官人と天皇との結びつきが基礎にある。 ぐんじ 律令制では、これが郡ー郡司になるが、郡司として組織される在地首長層と人民との支配関係 が古代国家の基礎となる第一次の生産関係であるというのが、石母田氏の在地首長制論であ る。その始まりが評制の施行であるが、国造支配を制度化した側面もあり、以上述べたところ は、国造制の具体的なあり方を明らかにしたという意味もあるだろう。 改新詔第二条冒頭ので畿内 ( ウチックニ ) の範囲を東西南北の四至で定めている ( 律令制 の大倭・河内・摂津・山背の四国で定めるのではない古いあり方である ) 。このことに窺えるよう これを畿内政 に、改革のまず第一の重点は、畿内に本拠を持っ豪族が天皇のもとに集結し 権とよぶが、ふつうには大和朝廷とよぶーー・その権力がその外側の畿外に割拠して独自に上 地・人民を支配している地方豪族に対する支配を、いかにして強化し、制度化するかというこ とに置かれたと考えられる。 なしろこ 第四章 律令国家の 295 形成と天皇制

6. 天皇の歴史 01巻

民を、ウヂの所有権を認めつつも、国家が地域編成によって登録することを意味すると論じ た。畿内が対象の中心にあったことは認めてよいだろう。登録された「民部」は、天武四年に いたり諸氏の所有権が否定され、正式に公民化され、食封が設定されることになる。 諸ウヂのヤケには、代々にわたって隷属していたヤッコもいた。これを甲子の宣で「家部」 とすることで国家が把握し、改めて諸氏の所有を認めたと考えられる。これは天武四年にも廃 止されず、大宝令制下には氏賤となり、氏の財産とされる。 大化改新においては、地方支配における評制施行が優先され、中央のウヂの改革は、支配者 自身の間題であり、遅れた。特にウヂの経済基盤については、手つかずであり、危機の中でよ うやく改革が始められたのである。 近江令は体系的な法典だったのか おうみおおつのみや 天智六年 ( 六六七 ) 三月、畿内豪族の本拠である畿内を出て、近江大津宮に遷都した。唐の 高句麗征討が進む中、敵襲をさけて奥地の交通の要衝である近江へ移った。このときに額田 王が詠んだ三輪山の歌に触れたが、天下の百姓は都を遷すことを願わなかったといい、丿 とうほんしゅんそ 事態だったのだろう。前々年に百済の亡命貴族、答春初に関門海峡を扼する長門国に城を築 きのき おおののき おくらいふくる しひふくぶ かせ、同じく憶礼福留・四比福夫を筑紫に派遣し、大野城と椽城 ( 基肄城 ) という大宰府の北 たかやすのき やしまのき かなたのき と南の山城を作らせた。六年十一月には対馬の金田城、讃岐の屋嶋城、さらに倭国に高安城を おおきみ うじのせん かきべ ぬかたの 320

7. 天皇の歴史 01巻

全官社への班幣祭祀 天武・持統朝については、本シリーズ第二巻でも触れられるし、紙数も残り少ないので、詳 しく述べることはしない。飛鳥浄御原令が、律令制、あるいは律令天皇制というべきか、の起 点であることは述べてきた。ここでの関心で、天武朝について触れておくべき重要な論点は、 天武朝の宗教政策、特に神祇祭祀の間題である。 きこ′、こ、つ きねん 早川庄八氏がとり上げたように、律令制での毎年二月の祈年祭は、唐の「祈穀郊」祭祀をふ はんべい まえて新設された祭祀であり、神祇官に全国の官社の祝を集めて幣をくばるという班幣祭祀と じんぎりよう およ いう形式で、全国の神社を祭った。また神祗令川即位条には、天皇即位にかかわって、「凡そ すべてんじんちぎ さんさい 天皇即位せば、惣て天神地祇を祭れ。散斎一月、致斎三日」とあり、全官社の祭祀を天皇即位 に不可欠のものと規定するが、これも全官社への班幣だったと理解できる。 全国 ( 畿内七道 ) を対象とする班幣の初見は、八世紀に人って大宝二年 ( 七〇一 l) 三月の「惣 て幣帛を畿内及び七道の諸社会に頒つ」とある記事 ( 『続日本紀』 ) である。文武の即位からは 数年たったが、 神祇令の規定を念頭に、大宝律令施行にともなう、いわば代始めとして班幣が 行なわれたのだろう。 その前の持統天皇のときには、『書紀』持統四年 ( 六九〇 ) 正月庚子に「幣を畿内の天神地 わか 祇に班ち、及び神戸・田地を増す」とある。この二〇日ほど前の正月一日に、前に触れた中臣 わか ちさい はふり こ、つし 第四章 律令国家の 333 形成と天皇制

8. 天皇の歴史 01巻

国から貢納された調庸などの初荷を奉献し、その使者を荷前の使いといったことが有名であ る。しかしそれより前に神々に奉るのである。 おおやまとうなたり 相嘗祭は、十一月の上の卯日に行なわれ、天平十年 ( 七三八 ) ころには、大和・宇奈太利・ むらや おおみわあなし まきむく いけおお かずらきのかも すみよし おんち 村屋・大神・穴師・巻向・池・意富・葛木鴨 ( 以上大和国 ) 、住吉 ( 摂津国 ) 、恩智 ( 河内国 ) 、 ひのくま いたきそ ・ . 、にかか亠 9 なるかみ 日前・国懸・伊太祁曾・鳴神 ( 紀伊国 ) の一五神を対象としていた。幣帛の内容は絹・糸・調 きたい 布、鰒・堅魚・謄・海藻などで調庸の品目に合致している。 天武五年 ( 六七六 ) 十月丁酉条に「幣帛を相新嘗の諸神祇に祭る」とあるのが、令の規定よ り一カ月早いが相嘗祭の初見記事である。しかし大和・大神神社をはじめ大和国の古い神社中 心に畿内と紀伊の神々にミッキノノサキを奉献するのは、天武朝より遡る大和王権による古く からの祭祀のあり方であると考えられる 神祗政策の進展 天武朝に人り、広瀬・龍田祭という新たな国家祭祀が始められ、奈良盆地を対象とする班幣 の皇 家天 祭祀の原形が作られ、それをうけて六月と十二月の畿内対象の班幣祭祀として月次祭も整備さ 章国と 四令成 れるのだろう。班幣祭祀の初見は、天武十年 ( 六八一 ) 正月壬申条の「幣帛を諸の神祗に頒第律形 きちゅう つ」であるが、この月の己丑には畿内だけでなく全国の神社の修理を行なっており、神祇政策 の進展が認められる。さらに持統即位にあたっては、神祇令にもとづく即位式と天神地祇への はつお わか

9. 天皇の歴史 01巻

明らかだから、中心が畿内にあることは動かないだろう 小林氏は、古墳に三角縁神獣鏡が埋納されることについて、古墳時代の開始は四世紀初頭で あるので、卑弥呼が各地の首長に配布したあと、五〇年以上大切に宝物として保管し、その後 古墳に埋葬されたと考えた。 しかしこれに対して九州説では、邪馬台国あるいはそれを滅ぼした某国が、三角縁神獣鏡な ど邪馬台国の財宝をもって東遷して畿内に人り、大和政権を樹立し、古墳に鏡を埋めたと考え るのである。 ひむか 王朝交替説も同様であるが、「記紀」が伝える日向の高千穂の峰に降臨したニニギの孫であ るカムヤマトイハレヒコが東遷して大和に人って即位して神武天皇になったという「神武東 征」が何らかの歴史の記憶の反映だとするのである。 繰り上がる弥生時代 考古学という学問は、層位や形式によって時間の前後を決めていくので、相対年代である。 それが何年、何世紀のものであるかを言うのは、年代の書いてある遺物でも出土しない限り難章呼五 一弥の 第卑倭 しいという特色がある。弥生時代は紀元前四—前三世紀にはじまり、前二世紀までが前期、前 4 一世紀から紀元後一世紀の二〇〇年を中期、紀元後二—三世紀の二〇〇年を後期とするのがだ いたいの通説だった。

10. 天皇の歴史 01巻

よごと いんべ が天神の寿詞を読み、忌部が神璽の剣鏡を奉るという、神祇令に規定される形の即位式が初め て持統により行なわれた。したがってこれも律令の規定をふまえて、即位にあたり全官社に班 幣したと考えられる。 同年七月戊寅にも「幣を天神地祇に班つ」とあり、理念としては全国の天神地祇を対象にし たのだろうが、実際には正月条に明記されているように大宝令以前には畿内の官社を対象とし ていたのである。 天武・持統朝に始まる律令制祭祀 えんぎしき のりと つきなみ 『延喜式』に収める祈年祭祝詞は、一部を除いて六月と十二月に行なわれる月次祭の祝詞と同 たたえごと みとしがみ 一である。早川庄八氏の指摘のように、月次祭祝詞に御年神への称辞をつけ加えたものが祈年 祭祝詞である。祈年祭は律令国家の成立、畿外への班幣ということからいえば大宝令の成立に よって新たに設けられた祭祀であると考えられる。 とすれば、天武・持統朝には畿内の官社を対象にする月次祭が六月と十二月に行なわれた。 じんごんじき その夜には神今食という天皇が神と食事をする神事が行なわれ、さらにその月の一日から十日 おおみまのみうら までは、御体御トという、天皇の身体に祟りがあるかを占う行事も行なわれる。 たった ひろせ おおいみかぜのかみ 天武朝に創始されたことがわかる律令制祭祀が、四月と七月の広瀬・龍田祭 ( 大忌・風神 祭 ) である。 334