かしきやひめ 君 ) の即位を企てたが、六月に馬子は敏達皇后の豊御食炊屋姫に詔を出させ、穴穂部皇子を襲 わせ、殺した。 七月には馬子は、諸皇子と群臣とによびかけ物部守屋討滅の軍を興すことを謀った。それに - つまやど こたえた皇子の名に、泊瀬部皇子 ( 欽明の皇子、母は小姉君 ) ・竹田皇子・厩戸 ( 聖徳 ) 皇子 ( 用 明の皇子 ) などがみえ、ついに彼らと諸氏族を率いて、物部守屋を滅ぼした。こうして八月 、豊御食炊屋姫は群臣とともに泊瀬部皇子を皇位につけ、崇峻天皇となった。皇位継承者だ おしさかのひこひと ったはずの押坂彦人大兄皇子は、守屋討伐軍に名がみえず、用明死後の緊迫した情勢の中で死 亡したものと推測される。 こうして朝廷からは排仏派が一掃され、政権は蘇我氏が権力を独占する。以後は仏教が蘇我 馬子と厩戸皇子を中心に興隆し、飛鳥文化が花開くことになる。 大后制の成立と太陽神祭祀 おきながのまて 立 敏達天皇は、息長真手王の娘、広姫を皇后となし、押坂彦人大兄皇子と二人の女子を生ん 廷の だ。さらに『日本書紀』は敏達四年 ( 五七五 ) 十一月に広姫が薨じたので、翌年に敏達の異母章朝号 三和皇 第大天 妹 ( 母は蘇我稲目の娘堅塩媛 ) の豊御食炊屋姫 ( 額田部皇女 ) を立てて皇后となし、竹田皇子・ っ ~ 尾張皇子の二男と五女を生んだと記している。 ひまつり 翌六年 ( 五七七 ) 二月に「詔して日祀部・私部を置く」とある。 はっせべ きさい ぬかたペ とよみけ
の大兄が皇位継承の候補になることは多かった。 たとえば敏達の死後の皇位継承を考えてみると、天皇の直系として、敏達とその大后広姫の 生んだ押坂彦人大兄皇子がもっとも有力である。一方兄弟相続の面では、欽明の皇子で蘇我稲 目の娘、堅塩媛の生んだ長子の大兄皇子 ( 異母弟 ) が最有力であった。現実には大兄皇子が即 位して用明天皇となった。 敏達は生前に大兄皇子を皇嗣に定め、そのあとを彦人大兄と決めていたのだろうとの推測も すいたい あるが、即位儀礼のあり方で述べたように群臣の推戴によって次の大王が決められたので、大 兄は候補者ではあっても、皇太子のような定まった次期大王予定者にはなりえなかったことに 留意すべきである。大兄皇子は母を蘇我氏とし、一方彦人大兄の母広姫は大后だったとしても 早く亡くなっていたので、蘇我氏の影響力からいっても、大兄皇子が即位するのはある意味で 当然だった。 まがりのおおえ 一方で、小林敏男氏は、大兄は、継体朝の勾大兄皇子 ( 安閑 ) に始まり、政治史的に位置 づけるべきで、大王が自己の輔政の地位に長子をすえたもので、それを大兄と称させたのでは ないかと述べている。大兄が皇位継承に関わってくるのはその結果生じたことだとするのであ る。 『書紀』は、推古天皇即位元年 ( 五九三 ) に、 234
いかずちのおか 前者は、持統天皇が飛鳥の雷岳に御遊したときの歌で、丘に仮廬を作ることを、天皇が雷 神を支配すると雄大に表現したもので、おそらく持統は雷岳で国見をしたのだろう。なお別伝 おさかべ では忍壁皇子に献ったとする。後者は、天武の皇子の長皇子が猟路の池 ( 宇陀市榛原区付近 ) にて狩猟のときの歌 ( 反歌 ) で、山中の池を皇子の力によってできた海だと皇子の霊威をたた えている。 他にも長皇子の同母弟の弓削皇子への挽歌にも用いられており、天武・持統朝に、天武・持 統両天皇および天武の皇子に対して「大王は神にしませば」と天皇の霊威を神として讃える表 現が行なわれた。人麻呂の高市皇子挽歌 ( 六九六年、巻 2 ・一九九 ) にも「瑞穂の国を神な がら太敷きまして」と、天武 ( あるいは持統 ) が神として統治するという表現がみられる。 あらひとがみ このような天皇自身が神であるという「現人神思想」は、壬申の乱を勝ちぬいた天武のカリ スマ性によって生まれたが、それは一般的な律令天皇制の性質といえるのだろうか あきつみかみあめのしたし おおみこと 養老公式令第一条の詔書式には ( 大宝令もほぼ同じ ) 、「明神と御宇らす日本の天皇が詔旨 らまと云々。咸くに聞きたまへ」 ( 他に「日本」がない書式、「日本」のかわりに「大八州」とす る書式がある ) と、宣命体の詔書の冒頭は「明神」あらみかみ、あきつみかみと、現人神であ るとし、書式上は現人神思想は律令制に組みこまれている。『日本書紀』大化元年 ( 六四五 ) 七月の百済の使・高句麗の使に対する詔には「明神御宇日本天皇の詔旨とのたまはく」とある かりお 終章 天皇の役割と 341 「日本」
いる。川天智、弟大海人皇子に後事を託す。大海人皇子は出家、 吉野へ入る。Ⅱ唐郭務怺ら来日。大友皇子、左右大臣らと天智の 意をつぐことを誓う。粍天智、没する。 六七一一天武元 6 大海人皇子、美濃で兵士を徴発して不破に本営を置く ( 壬申の 乱 ) 。 7 近江朝廷滅亡する。 一一 2 大海人皇子、即位する ( 天武天皇 ) 。 四 2 部曲の廃止。 4 広瀬龍田祭をはじめる。 六七五 十 2 律令の制定を命ずる。 3 天武、「帝紀」と上古諸事を記定。 に国境画定事業 ( —天武十四年 ) 。 川八色の姓を定める。 六八四十三 六八五十四—諸臣四十八階制定。 六八六朱鳥元 7 朱鳥に改元。 9 天武、没する。 新羅、唐軍を半島から追い出す。 377 年表
実させていき、また先んじて仏教を受容したことなど、開明的かっ積極的に時代をリードした ことを評価すべきであろう。 あずまみつきたてまっ なお暗殺事件のとき、馬子は「今日、東国の調を進る」と群臣を偽ったという。東国の調 は、東国の国造が服属の証しとして進上するミッキであり、領内に設定された屯倉の分も人っ ているかもしれない。国造は大王に対して服属するので、重要な国家的行事であり、大王の出 ぎよ 御が不可欠だったのだろう。 みつぎのくらい とはいえ、大王の暗殺は異様な事態である。『日本書紀』には「嗣位既に空し」と記す が、これは皇位継承者がまったくいなくなったという意味である。つまり崇峻で、欽明の皇子 の世代の兄弟継承が終わるのである ( だから馬子とそりがあわなくても即位したのだろう ) 。 その次、欽明の孫の世代では、最有力なのは敏達の長子押坂彦人大兄皇子であり、最年長で あった。しかし彼については不明なことが多く、崇峻朝以降まったくみえず、用明末年の抗争 の中で暗殺されたか、病死したのだろう ( 用明の急逝は天然痘だったらしく流行したらしい ) 。推 古朝にも生存していたとの説もあるが、『日本書紀』の書き方に合わないと思う。 廷の 次には、敏達の皇子で、大后炊屋姫が生んだ竹田皇子がいる。彦人大兄とあわせて物部守屋章朝号 三和皇 じゅそ らに呪詛されたくらいで、血筋も抜群である。しかし彼も守屋討伐軍に参加したのを最後に姿第大天 が見えず、やはり病没した可能性がある。推古が愛した皇子だったらしく、推古は遺詔で自ら の陵を作らず竹田皇子の陵に合葬するように命じている。おそらく推古即位の時点ではすでに しゆっ
土 6 つり・・ことと うまやどのとよとみみ 厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録さに摂政らしむ。万機を以て悉に委ぬ。 と、聖徳太子が「皇太子」について、摂政となったと明記する。皇太子制は聖徳太子に始まる というのは通説であるが、さまざまな問題もある。「皇太子」が正式に定められるのは、律令 により制度化されてからだろうが、壬生部が定められたことからも太子とか「ひつぎのみこ」 とか称される一定の実態があ 中大兄皇子 広姫 ったように思われる。 石姫 ずいしょわこくでん 大海人皇子 敏達 『隋書』倭国伝には、「太子 かみた を名づけて、利 ( 和 ) 歌弥多 推古 ふり 弗利と為す」とあり、唐代の 用明 かんえん 類書『翰苑』に「王の長子を 穴穂部 和哥弥多弗利と号す。華言の 間人皇女 立 太子なり」とあり、厩戸がワ 図 小姉君崇峻 廷の 章朝号 のカミタフリと呼ばれていたこ 三和皇 皇とがわかり、それが太子に相第大天 と っ一 当するので一定の政治的地位 氏 蘇であったといえる。 皇白 - ー継 女香体 蘇我 稲目馬子 境部 摩理勢 堅塩媛一 皇極 押坂彦人大兄 皇子 竹田皇子舒明 ( 田村皇子 ) 古人大兄皇子 厩戸皇子 刀自古郎女 蝦夷 倉麻呂 法提郎媛 入鹿 山背大兄王 わ ゆだ
ほ - つへ ところが翌年大野丘での法会の後に馬子が病になり、占うと仏の祟りと出た。再び疫病がは もののべのもりゃなかとみのかつみ やり、物部守屋と中臣勝海が奏上して、敏達の同意のもと、塔を切り倒し仏像は難波堀江に捨 てられるなど、二度目の破仏となった。しかし『元興寺縁起』では止由良佐岐での大法会の時 に、「他田天皇、仏法を破らんと欲し」塔の柱を伐り、仏像と殿を破り焼いたとあり、敏達天 皇自身が破仏の主体であったことを伝えている。こちらが真実であろう。 いしひめ こうした崇仏・破仏は、大王を含めた政治対立である。敏達は、欽明の皇后石姫の第二子で やたのたまかっ ある。兄の箭田珠勝大兄皇子が亡くなったあと皇太子となり、即位した。大王となった欽明の 子のうちで唯一母が蘇我氏でないことと関係があるだろう。 もがりのみや 敏達はその年 ( 五八五 ) 八月に亡くなる。殯宮を広瀬 ( 北葛城郡広陵町 ) に建て、殯宮儀礼 が行なわれる。蘇我馬子大臣と物部守屋大連とが誄を奉ったが、その様子をお互いに「矢のさ さった雀のようだ」「 ( ふるえていて ) 鈴をかけたらよい」と侮辱しあった。 きたしひめ おおえ 九月に欽明の第四子大兄皇子が即位し、用明天皇となる。用明の母は稲目の娘堅塩媛であ り、蘇我氏の支持があった。用明二年 ( 五八七 ) 四月には、天皇が病におそわれ、先述のよう に仏教への帰依を表明し、マヘッキミに合議させた。そこで崇仏派と排仏派の対立が再燃する ひろひめ ことになり、物部守屋と中臣勝海は一党を集め、太子彦人大兄皇子 ( 敏達の皇子、母は広姫 ) と異母弟竹田皇子の人形を作って呪った。 あなほべ 用明は病を得てわずか七日で没した。翌月に物部守屋は穴穂部皇子 ( 欽明の皇子、母は小姉 おさだ とゆらさき おあね 230
せいねい 聞くと ( 以下清寧即位前紀 ) 、稚媛は星川皇子に向かって「天下の位に登らむには、先づ大蔵の 官を取れ」とそそのかし、皇子はこれに従い、大蔵の官を取り、外門を錬し閉めた。これに対 やまとのあやのつか して大伴室屋は、東漢掬と軍を興して大蔵を囲み、火をつけて稚媛と星川皇子、その兄の磐 城皇子を焼き殺した。吉備上道臣は、星川皇子を救おうと四〇艘の軍船を用意したが、敗れた と知り引き返したとする 一連の吉備氏関係の伝承は、『古事記』には見えないので、「帝紀」「旧辞」に由来するので はなく、大伴氏の手柄話になっていることから、大伴氏の家伝、氏族伝承が『日本書紀』にと り人れられたと考えられる。したがって、どこまで史実を忠実に伝えているかは疑問も残る が、雄略朝前後に、吉備氏が大和朝廷の軍事力 ( 大伴氏や物部氏による ) によって制圧されて、 力を弱めたことは認めてよいのだろう。 つくりやま 古代の吉備国は、五世紀中心に巨大な古墳が築かれた地域で、造山古墳 ( 岡山市、全長三六 つくりやま 〇メートル ) 、作山古墳 ( 総社市、二八六メートル ) の巨大な前方後円墳は有名で、造山古墳は、 河内の三大天皇陵につぐ全国第四位の規模である。ちなみに、巨大古墳というと皇室の陵墓・ 陵墓参考地とされ宮内庁が管理しているものがほとんどだが、これは吉備の地方豪族の墳墓で あることが明らかなので、史跡指定であるだけで自由に登ることができるので史跡散歩にはお すすめである。 ところが五世紀後半になると巨大な前方後円墳はみられなくなり、五世紀中頃には大王や大 つかさ 0 さ 第二章 153 伝える天皇 『日本書紀』『古事記』の
死後には蘇我馬子は彼女のミコトノリを奉じて穴穂部皇子を討ったり、炊屋姫が群臣とともに 泊瀬部皇子 ( 崇峻 ) を天皇位に推挙している。ここから小林敏男氏は、大王とともに共治もし くは輔政という立場に立てるようになったことが大后制の成立の本質だと述べている。 大王のキサキは、おそらくヒメ・ヒコ制以来の聖俗の分担の伝統を引いているが、そこから 政治的に発展して大后の地位が確立したのだろう。同時に成立した日奉部も、ヒメの太陽神祭 祀への奉仕が、大后から分離して確立していったことを示すのかもしれない 大王の輔政としての大兄 推古が即位すると、大后だけでなく皇太子のための名代・子代も同様に改められた。推古十 みふべ 五年 ( 六〇七 ) 二月に「壬生部を定む」とある。 壬生部は、乳部ともあり、皇太子 ( 厩戸皇子 ) という地位にあてられる財政基盤として、国 ろくりよう 家秩序に組みこまれた。大化改新によって従来の名代・子代は廃止されるが、養老禄令には、 立 中宮湯沐一一〇〇〇戸と東宮雑用料が規定されている。私部と壬生部は八世紀の律令制の中へ継 と成 廷の 章朝号 承されていくのである。 三和皇 六、七世紀には、押坂彦人大兄皇子や中大兄皇子など、大兄の名がつく皇子が多い。井上光第大天 貞氏によれば、大兄は一種の制度で嫡長子をさし、皇位継承の最上の資格者である。しかし皇 位継承の慣習には、長子相続とならんで兄弟相続の原則も重んじられ、複雑であり、二人以上
王権論 20-22 , 25 , 29 , 362 王朝交替論 15 , 129 , 134 , 181 , 189 近江大津宮 320 , 330 近江令 320 , 321 , 323 , 331 , 332 大海人皇子 104 , 319 , 330 , 332 , 346 大忌祭 335 大臣・大連制 205 大后制 231-233 大田田根子 57 , 172 , 177 , 180 , 182 , 346 男大迹王 187 , 190 大伴金村 63 , 186 , 187 , 190 , 192 , 197 , 200 , 206 , 207 , 215 , 219 , 236 大友皇子 321 , 330 ョ 32 大伴 ( 大連 ) 室屋 142 , 153 , 164 , 167 , 186 , 206 大伴家持 137 , 140-142 , 340 , 365 大贄 350 太安万侶 113 , 117 御体御ト 181 , 335 , 343 , 344 , 368 忍坂大中姫 155 , 191-195 他田宮 232 , 305 忍壁皇子 76 , 115 , 341 オケ 186-188 オキナガタラシヒメ 119 , 121 , 132 大和神社 51 , 172 , 339 大物主神 56 , 57 , 180 , 182 , 346 大神神社 1 , 171 , 178 , 337 オホクニヌシ 101 , 175-177 小墾田宮 241 , 242 小野妹子 243 , 249 , 252 食国 350 , 351 , 353 233 , 234 , 236 、 237 押坂彦人大兄皇子 193 , 230 , 231 オホヒコ 90 , 91 , 139 , 145-150 意富々杼王 193 意富々等王 191 オホナムチ 101 , 141 , 176 , 177 オホモノヌシ オホヤマッミ 177 , 180 , 182 , 346 102 , 103 か行 改新 ( の ) 詔 278 , 280-283 , 286 , 288 , 29 ト 293 , 295 , 302 , 319 , 329 『懐風藻』 331 , 357 部曲 275 , 278 , 319 , 329 革命勘文 123 , 124 賢所 69 春日山田皇女 232 , 238 葛城ソッヒコ ( 襲津彦 ) 152 , 155-160 , 162 , 164 , 189 , 203 風神祭 334 甲子の宣 318-320 , 323 , 329 カノヾネ 84 , 139 , 140 , 148 , 205 , 216 , 226 , 227 , 242 , 245 , 326 , 327 姓 81 , 83 , 84 , 114 , 132 , 148 , 152 , 163 -165 , 224 , 232 , 248 , 249 , 276 , 285 , 327 カムヤマトイハレヒコ 38 , 45 , 98 , 102 , 129 亀石 303 亀形石槽 306 軽皇子 277 河内王朝 15 , 52 , 134 , 151 , 181 冠位十二階 125 , 208 , 241 , 246 , 296 , 323 冠位二十六階 323 , 324 官位令 323 , 326 , 368 『翰苑』 41 , 208 , 235 『元興寺縁起』 229 , 230 , 240 『漢書』 64 神夏磯媛 49 , 70 官品令 326 , 368 漢風諡号 91 , 128 神賀詞 73 , 141 , 146 義慈王 274 , 310 , 311 魏志倭人伝 39 , 42 , 54 , 64 , 122 堅塩媛 200 , 204 , 230 , 231 , 234 畿内政権 ( 論 ) 17 , 18 , 28 , 216 , 223 , 389 索 引