石上神宮 - みる会図書館


検索対象: 天皇の歴史 01巻
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1. 天皇の歴史 01巻

に刀剣であろう。律令国家が形成される天武朝には、もはや服属を示す神宝は不要になり、神 さび 宝をもとの持ち主の豪族に錆を落として返還したのである。法と制度による支配が可能になっ たのである。しかしすべて返還できたわけではなく、平安時代になっても多くの神宝が残り、 それが主に刀剣など武器だったので、王権の武器庫ともみなされたのである。 石上神宮のホクラは、少なくとも五世紀末以降、一貫して右のような意味の神宝を保管する 場所だった。系譜としては三世紀の卑弥呼の刀と鏡につながることは、四世紀の七支刀が現在 にまで石上神宮に伝わることから推測できる。大和政権は、世襲制や王家が確立していないに しても、かなり古くから連続性をもっていることが読みとれる。 最後に、石上神宮が、伊勢神宮と同様に神宮とよばれることに注意したい。正式名称は「石 ふつのみたま 上坐布都御魂神社」 ( 「布留御魂」とする写本もあるが、和田萃説に従う ) であり、祭祀対象の神 やまた 体はフッノミタマという剣である。『日本書紀』神代第八段の第二の一書に、スサノヲが八岐 おろちあら のおろち 大蛇を退治したときに、尾の中から草薙剣が出現するとともに、大蛇を斬った剣は、「蛇の麁 まさ 正」といい今は石上にあると記し、『古事記』では神武東征に際してタケミカヅチ神自身に代 と王 わって降された横刀が、石上神宮に坐す「布都御魂」だとする。伝承は違うとはいえ、記紀神章呼五 一弥の 話の中に位置づけられている。石上神宮のフッノミタマも、王権の象徴である神宝の一つ、広第卑倭 くいえば三種の神器の一つであり、七支刀も同様だろう。したがって伊勢神宮、熱田神宮と同 じく、「神宮」と称されるのだろう。

2. 天皇の歴史 01巻

ワカタケル ⑤銘文部分「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下」 ( 獲加多支鹵大王の寺〔朝廷〕、シキの宮に在る時、吾、天下を左治 ) と読める。 ④③ 裏表 王権誕生の 石上神宮の七支刀 ( 表裏 ) 4 世紀後半、百済王族が倭 王のために作製した。国宝。 石上神宮蔵 石上神宮拝殿 ( 天理市 ) 3 4 稲荷山古墳出土鉄剣銘文 ワカタケル大王 ( 雄略天皇 ) に仕えた「ヲワケの臣」が 一族の大王への奉仕を表裏 に記録した。国宝。 文化庁蔵 / 埼玉県立さきたま史跡の 博物館保管 熊本県江田船山古墳出土 金銅製冠帽 「ワカタケル大王」の銀象嵌 銘大刀とともに出上した朝 鮮半島製の透彫り。国宝。 東京国立博物館蔵 lmage :TNM lmage A 「 chives カ 0

3. 天皇の歴史 01巻

おしさかのへき 「其の一千ロの大刀をば忍坂邑に蔵む。然して後に忍坂より移して石上神宮に蔵む」とあるこ おっさか ゅうりやく とから、古くは王権の武器庫は忍坂 ( 桜井市忍阪 ) にあり、石上に移されたのは雄略天皇没後 いそのかみひろたか ( 五世紀末 ) ではないかと推測している。五世紀末頃の仁賢天皇がこの地に石上広高宮を置い たと伝えられることと関係があるかもしれない 興味深いのは、大刀 ( 剣 ) 千口を作ったことで、それが石上神宮の神宝と結びつけられてい ることである。しかし千ロもの剣を作ってそれを神宝としたというのは不自然であり、鏡に代 わり地方豪族に神宝として配るために千ロ作ったのだろう。それと引きかえに進上された神宝 が、天日槍の神宝のように、ホクラに納められたのだろう。 七世紀後半の律令国家の形成過程で、天武三年 ( 六七四 ) 八月に、 おさかべ こ - っゅ みが 忍壁皇子を石上神宮に遣はして、膏油を以て神宝を瑩かしむ。即日、勅して日はく、「元来 より諸家の神府に貯める宝物、今皆其の子孫に還せ」とのたまふ。 と、忍壁皇子を派遣して石上神宮の神宝をみがかせた記事が『日本書紀』にある。これまで正 しく理解されていなかったが、この神宝とは、地方豪族が服属したときに献上させた剣などの 神宝がホクラに蓄積されていたものなのである。 膏というのは動物性の脂であるが、平安時代に猪膏で刀をみがいた例があるので、神宝は主 てんむ ちょこ、つ にんけん はじめ

4. 天皇の歴史 01巻

五十瓊敷命 ( 垂仁長男 ) 、茅渟の菟砥川上宮に居しまして、剣一千口を作る ( 中略 ) 。石上 つかさど 神宮に蔵む。是の後に、五十瓊敷命に命せて、石上神宮の神宝を主らしむ。 いろもおおなかつひめかた 五十瓊敷命、妹大中姫に謂りて曰はく、「我は老いたり。神宝を掌ること能はず、今より 以後は必ず汝主れ」といふ。大中姫命辞びて日さく「我は手弱女人なり。何ぞ能く天の 神庫に登らむ」とまうす。五十瓊敷命の日はく「神庫高しと雖も、我能く神庫の為に梯を はー ) 」て亠まに士 6 造らむ。あに庫に登るに煩はむや」といふ。故、諺に曰はく「天の神庫も樹梯の随に」と もののべのとおちねのおおむらじ ことの・もと いふは、此其の縁なり。然して遂に大中姫命、物部十千根大連に授けて治めしむ。 一、一とのもと 故、物部連等、今に至るまでに、石上の神宝を治むるは、是其の縁なり。 というホクラの起源説話がある。最初は長男の五十瓊敷に命じてつかさどらせたが、それが妹 の大中姫にかわり、物部氏の祖に授けられ、今日まで物部氏が管掌しているという話である。 と王 章呼五 石上神宮は、物部氏の氏社であるとともに、大和朝廷の武器庫として有名である。平安時代 一弥の になって延暦二十四年 ( 八〇五 ) には、石上神宮に蔵する兵仗を一日一平安京に運び、再び返納第卑倭 している。右の説話では、はしごをかけて登る高床倉庫であったのでアメノホクラといわれた こと、ある段階で物部氏に管理が委ねられたことなどがわかる。和田萃氏は、省略した分注で かれ にしきのみこと おさ かれ へいじよ・つ たおやめ

5. 天皇の歴史 01巻

て関東から中国地方まで広く配布されたことがわかる。 先述したように大陸でまったく発見されないことから、三角縁神獣鏡を日本で作られたと考 、える説もあるが、あるいは魏王朝が倭王の要望に応えるために特別にあつらえた特鋳の鏡なの かもしれない 刀については、天理市東大寺山古墳出上の鉄刀には「中平」という後漢霊帝の年号 ( 一八四 しちしと、つ ぞうがん いそのかみ —一八九 ) が象嵌されており、また石上神宮に伝わる七支刀には、「泰和四年五月十六日丙午」 と東晋の年号 ( 三六九 ) を記し、東晋の意志をうけて百済王世子の奇生 ( 貴須 ) が倭王旨のた めにこの刀を作ったとの銘文がある ( 川口勝康説による ) 。倭王はこのような中国・朝鮮からの えたふなやま 下賜刀を保有し、後述する江田船山古墳鉄刀などのように刀剣の分与によっても倭国内の秩序 を形成した。 剣も鏡もともに中国や朝鮮からの下賜をその権威の源とし、支配を行なったと考えられる。 ドレん、 - っ ちくまのながひこ 『日本書紀』神功皇后五十一一年に、百済の使者久氏らが千熊長彦に従って日本国王に「七枝刀 ななこのかがみ 一口・七子鏡一面、及び種々の重宝」を献上し、日本に長く朝貢しようと誓ったことを記す。 しよ、つこ きす このときの百済王は肖古王、王子は貴須 ( のちの近仇首王 ) とある。その意図が『書紀』の記 すとおりかは別として、これは石上神宮に伝わる七支刀をさしていると考えられ ( 干支二運Ⅱ 一二〇年引き下げると二七二ーにあたる ) 、このときも鏡も献上されていることは注目できる。 天叢雲剣は、草薙剣ともいう。『日本書紀』 ( 景行紀 ) の伝えるところでは、東征を命じられ

6. 天皇の歴史 01巻

「京都より奈良が好きだ」という人は、どれくらいいるだろう。私や周辺の古代史研究に関わ っている人は、京都も奈良もしばしば訪れるのだが、奈良に愛着を持つ人が多い。古代史の中 心は奈良時代であるからだろう。 奈良といっても、東大寺や興福寺など古代大寺院の残る平城京、あるいは飛鳥が人気なのだ ろうが、私は学生と一緒に旅行するときなど、時間があれば山の辺の道を歩くことが多い天 おおみわ 理市の石上神宮から桜井市の大神神社へ至るハイキングコースには、途中大きな古寺もなく、 そうめんやおだんごを除けばおしゃれな食事の店もないが、言いようのない魅力がある かんごう あまり開発が迫っていないので自然が残っていて、環濠集落などの民家と畑の間をぬけなが たしらか あんどんやま ら、北から順に西殿塚古墳 ( 手白香皇女陵 ) 、崇神天皇陵 ( 行燈山 ) 、景行天皇陵 ( 渋谷向山 ) と いう二〇〇メートル以上の前方後円墳とたくさんの散在する古墳を巡っていくが、これほど古 墳か神々しく美しく見えるところも少ない あおかき 「大和は国のまほろばたたなづく青垣」と歌われた、奈良盆地東側の美しい青垣山を左 側に見て、ため池の堤など少し高い所に登れば、眼下に大和国原を見渡すことができる。二上 はじ、のに 一、 : つご : っ いそのかみ ふたかみ 1 はじめに

7. 天皇の歴史 01巻

索引 330 , 332 , 364 , 365 212 , 279 , 292 , 293 , 352 , 353 , 231 , 233 , 236 , 238 あ行 相嘗祭 336 , 337 , 343 , 368 朝倉橘広庭宮 312 粛慎 304 , 305 , 307 , 308 葦原の中つ国 100 , 101 , 107 飛鳥板蓋宮 264 , 265 , 276 , 299 飛鳥岡本宮 ( 岡本宮 ) 177 , 264 , 265 , 300 , 305 飛鳥浄御原宮 264 , 300 飛鳥浄御原令 61 , 254 , 255 , 321 , 325 , 333 飛鳥河辺行宮 299 , 314 東国の調 228 , 237 , 292 阿知使主 161 , 163 , 164 阿倍比羅夫 306 , 307 , 314 『海部系図』 149 アマテラス 70 , 71 , 93 , 98 , 100 ー 105 , 171-175 , 181 , 218 , 240 , 255 , 342 , 344-346 , 348 , 355 , 364 , 368 天照大御神 58 , 344 天照大神 59 , 171 , 172 , 174 , 345 , 346 アメノウズメ 106 , 350 アメノコャネ 58 , 70 , 71 , 106 , 107 , 122 磐余甕栗宮 166 , 1 % , 206 岩戸山古墳 220 , 222 斎宮 ( いわいのみや ) 50 221 , 222 磐井の ( 反 ) 乱 200 , 207 , 218 , 219 , イリ王朝 15 , 134 イマキ 166 , 167 イハナガヒメ 103 犬上御田鍬 267 , 269 稲荷山古墳鉄剣銘 38 , 89 , 92 , 94 , 稲荷山古墳 ( 出土 ) 鉄剣 72 , 89 , 139 『因幡国伊福部臣古志』 72 五の伴緒 58 , 101 , 106 , 107 , 111 , 112 乙巳の変 276 , 277 石上広高宮 76 , 1 % 石上神宮 1 , 66 , 73 -77 , 101 , 128 石上穴穂宮 195 346 173 , 174 , 181 , 232 , 239 , 343 , 344 , 伊勢神宮 51 , 66 , 69 , 77 , 105 , 171 , 出雲大社 73 , 74 , 101 , 302 出雲国造 73 , 141 , 146 , 302 氏上 ウヂ 采女 362 319 126 , 127 , 136 , 139 ヨ 42 144-146 , 148 , 149 , 152 , 154 , 163 , 164 , 203 , 205 , 206 , 209 , 213 , 215 , 216 , 224 , 242 , 320 , 326 , 327 , 329 , 111 , 112 天叢雲剣 57 , 64 , 66 現人神思想 341 有間皇子 302 粟田真人 354 , 357 安東大将軍 82 ー 86 , 88 , 89 飯豊 ( 女王 , 皇女 ) 157 , 186 , 188 189 , 238 「伊吉連博徳書」 308 , 310 イクタマヨリヒメ 179 石神遺跡 304-307 , 309 , 328 イシコリドメ 70-71 , 106 厩戸皇子 恵慈 247 , 248 江田船山古墳 恵日 267-269 , 304-309 蝦夷 210-213 , 275-277 , 284 , 286 , 311 66 , 92 , 155 390 小姉君 200 , 230 , 231 334-336 『延喜式』 27 , 62 , 105 , 138 , 173 ,

8. 天皇の歴史 01巻

が、多くは一定の信憑性のある雄略、あるいは応神よりも古い部分、崇神・垂仁・景行天皇の 時代のこととされていて、信頼性もほとんどなく、またいつのことなのか、確定的なことを論 ずるのは困難である。 ここでは、天皇家の祖先神である伊勢神宮と、大和盆地にそびえる三輪山の神、現在の大神 神社をとり上げよう。 レ小 - つよい 伊勢神宮については、七世紀後半の壬申の乱のときに、天武が遥拝し勝利に貢献し、天武以 降、律令国家において格段の地位の向上がみられる。そこから伊勢神宮が天皇家の皇祖神とし て成立するのは天武朝になってからで、ごく新しいとする説まで存在する。実のところ、天皇 制と密接に関係する伊勢神宮の祭祀については、いっ成立したのか、謎だらけである。 もちろん『日本書紀』にはその起源は説明されている。まず崇神天皇六年に、それまで天皇 あまてらすおおみかみやまとのおおくにたま みあらか の大殿の内に天照大神と倭大国魂の二つの神を並び祭っていたのだが、神の勢いを畏れ共に かさぬいむら とよすきいりひめ 住まわせるのは良くないとし、天照大神は豊鍬入姫 ( 崇神皇女 ) につけて、倭の笠縫邑に祭ら ひもろき しかたき せ、磯堅城の神籬を立てたという。 ぬなきのいりひめ なお倭大国魂神は、渟名城人姫につけて祭らせたが、やせて髪落ちて祭ることができなかっ おおたたねこ いちしのながおち た。これはのちに市磯長尾市によって祭られて、後述の大田田根子による三輪山祭祀とともに やまとのあたい おおやまと 成功する。大和神社の祭祀の起源譚であり、倭国造倭直氏が祭る大和国の農業神である。現 在は天理市に鎮座するが、古くは城上郡の纒向遺跡に接する地に祭られていたとされる。 しきのかみ じんしん おおみわ 第二章 171 伝える天皇 『日本書紀』『古事記』の

9. 天皇の歴史 01巻

統性を得ていたのである。シラス・シロシメスの原義は神意を知ることであろう。 そのことは、壬申の乱に勝利を収め、権威を高めて「神にしませば」と称された天武自身が あいなめ たった つきなみ ひろせ とりくんだのが神々の祭祀であったことが示している。相嘗祭、広瀬・龍田祭、月次祭を整 きねん しく。このうちの月次祭は班 備、創始していった。さらに祈年祭や即位時の班幣も行なわれてゝ 幣祭祀のほかに天皇自身のいくつかの祭祀儀礼が複合されている。 六月および十二月の十一日 ( 平安時代の実例 ) 昼間に月次祭が行なわれ、神祇官で畿内の官 ネに班幣がなされる。この儀式には天皇自身は参加しないが、天皇自身はその月の一日から みあがもの いんびのごぜん 「忌火御膳」という、特別な清浄な火を用いる食事をする。また「御贖物」という、天皇が食 事のときかわらけの中に息を吹き入れる儀式もあり、神事に臨む天皇の心身を浄化する。一日 おおみまのみうら みやじ から九日間、神祇官にこもって中臣とト部・宮主とで「御体御ト」という亀の甲羅による占い が行なわれる。そして十日の早朝に占いの結果を書いた文書を机にのせて参内し天皇に奏上す この占いでは、六月なら、来る七月から十二月に至るまで御体は平安であるかを問い、甲羅 どこ - っすいじん のヒビ割れで占う。そこでは、上公、水神などさまざまな祟りがあるかを間い探っていくま だいじんぐう た、「神の祟りあるべしや」という間いに対しては、さらに「伊勢国に坐す太神宮の祟り給ふ とゆけのみや や」「豊受宮の祟り給ふや」以下、宮中に坐す神、京中に坐す神、五畿内に坐す神、七道に坐 す神と、伊勢神宮及び外宮からはじまり五畿七道と全国へ拡大し、どの神が祟るかが問われる - つらペ はんべい ぎよたい 終章 天皇の役割と 343 「日本」

10. 天皇の歴史 01巻

ることで一二〇年遡らせたのである。 第一章で、神功五十二年条の百済からの七支刀献上の記事をとり上げた。これも『書紀』紀 年では、西暦二五二年の壬申になるのだが、二運繰り下げて三七二年の記事として理解し、こ れを石上神宮に所蔵される七支刀と関連させるのは、こうした考え方によるのである。 天皇の名前・おくり名 = 諡号論 し 1 」 - っ ここで諡号論というのは、「記紀」にみえる天皇の名前・おくり名のうち和風のものーーこ れを和風諡号といし 一方で神武・崇神など測字・「一・字いものを漢風諡号というーー・を検討し て、その中に含まれる特殊な称号を手がかりに、天皇の実在性や諡号の作られた時期を推定し ようという研究で、一九六〇—七〇年代にさかんに行なわれた。 天皇の名前は、「帝紀」の重要な要素であり、「記紀」に伝えられた「帝紀」の中で信用性が いみな 高く、「帝紀」の研究ともいえる。諡号の中には天皇の実名風な名や諱が残っていると考えら れ、また後世つけられたと考えられる諡号は、その時代の天皇名を反映していることからその 諡号が奉られた時期が推定できる。 したがって単にその天皇の実在性の有無だけでなく、皇統譜の変化、改変を推定することも 可能になり、系譜の断絶、すなわち王朝交替論を提起する大きな根拠となったものである。 一三〇頁の別表 ( 井上光貞『日本国家の起源』付表Ⅱを修正した ) をみれば、時代ごとにまと 128