は破格の賞賜であった。蘇我馬子の専横ぶりを示したものといえる。 元興寺に安置されたその仏像が、わが国で最初に鋳造されたもので、現在の飛鳥寺にある釈迦仏 だとされている。ところが「日本書紀」には、推古朝十四年に仏像が完成し、その日に元興寺に安 置したとあるが、現在の定説では推古朝十七年だとされている。それは奈良朝に書かれて伝写され た「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に、推古朝十七年にあたる己巳四月八日に元興寺に安置したと みえるからである。参考までに付記しておく。 このように法興寺は、国家的最高の寺院として、壮大な伽藍をもって建立された。しかし、もと もと法興寺は、蘇我馬子の請願によって建立されたもので、いわば蘇我氏の私寺であった。それに もかかわらず、官寺のごとく扱われたのである。 これらのことをもってしても、馬子が仏法興隆の中心人物であったことがわかるであろう。一般 には聖徳太子によって、仏法の興隆が行われたように思われているが、実際にはそうではない。聖 徳太子は馬子の庇護のもとに、みずからも篤く仏法に帰依はしたが、真実の推進力となっていたの は馬子であった。 我仏教美術史の分野では、飛鳥時代・白鳳時代・天平時代に時代区分する。いつまでが飛鳥時代で とあるかについては諸説があるが、一般には皇極朝が終わり孝徳朝に入る大化元 ( 六四五 ) 年をもって、 仏飛鳥・白鳳の時代を区分している。したが 0 て飛鳥時代とは、馬子・蝦夷・入鹿にいたる蘇我氏の 飛 政権をほしいままにした時期である。推古朝を中心として展開された飛鳥時代の文化は、蘇我氏の 179
猜疑心の強さから、気性の激しい后と二人だけで政権を固めようとしたとみるのは行きすぎであろ 復 のう。壬申の乱では思わぬ多くの支持をえて、将軍たちはよく戦ったのである。信頼に足る人物がい 皇なかったわけではない。 一つには、天智朝の男弟王として、実際の政務に熟練した経験があったからだと考えられる。二 章 新つには、旧来の豪族解体を政治目標としていた。もし左右大臣をおくとなれば、名門の者を選ばな ければならない事清にあった。その彼らが権威をもっことになると、政治改革の遂行を困難にする と考えたからだと思われる。 いずれにせよ、天武朝に男弟王を廃し、また左右大臣さえ置かなかったことは、この御代の大き な特徴であった。もちろん、左右大臣はつぎの持統朝以降からおかれ、また男弟王も後述するよう に、持統朝には太政大臣として、また文武朝以降では知太政官事という名で、皇族をもって当てる 形式で復活する。しかしそれは官吏機構の中に組みこまれた役職で、以前の男弟王とは質的に大き く異なるものであった。したがって男弟王の制度は、天智朝の大海人皇子を最後として、歴史の上 から消えたと断定してよいのである。 このため天武天皇は、祭事と政事の両権をともに兼ねることになった。そのうちの政務に関する ものは、前代の男弟王時代の実務の延長であったといえよう。まずその面から見てみよう。 即位四 ( 六七五 ) 年二月の「日本書紀」の条には、左のような記事がみえる。 うじ・つじたま かきのたみ 甲子の年、諸氏に被給いし部曲は、今より以後みな除めよ。また親王・諸王および諸臣并に諸 292
允恭天皇の即位の事情応神朝以降、後に天皇と称される大王が、絶対的権力者として君臨するよ うになった。しかし、その大王のっとめは神祭りが主体であって、その下に実際の政務全般を担当 する男弟王が存していた。 しかも前節で紹介した隅田八幡宮の鏡銘文や、後の推古朝八年の遣隋使の言葉は、大王と男弟王 おあさつまわくごのすくね の関係を明らかに示すものであった。そして史料の上では、反正天皇と弟の雄朝津間稚子宿祢皇子 ( 允恭 ) との組み合わせにまで遡って実証できるとともに、また推古朝までは少なくとも存続して いたことを示すものであった。 ところが、ここで注意すべきことは、この男弟王は太子ではなく、世継ぎとなる資格をもつもの 狂でなか「たということである。つぎの皇位継承者は、大王の皇子から選ばれたのである。もちろん 男 大王に兄弟がないときは、第一子を男弟王にあてることもあった。そのために男弟王となっていた 一一男弟王の系譜 115
しようとした。そうした歴史の動向に影響されて、河内王朝も唱えられたものであろう。しかし、 判 のそうした反動の時代も過ぎたことを知らなければならない。 要するに、応神朝以降の発展は、前時代にくらべて格段の差をもち、それは異質的であると思わ 諸 れるほどの観を呈した。そのことに疑問をもっことは、当然なことでもあった。しかし前章で既述 章 したように、それは新しい大王の誕生があったからである。 第 そのために大王の座は魅力的なものとなり、応神朝以降には皇子たちが血をもって皇位を争うよ うになる。それは前時代にはみられなかった特徴である。それほど大王権の内容が変わったのであ 少なくとも応神朝を境にして、そこには政治的・社会的に大きな変化が認められる。しかしそれ は何も、王統の更迭を意味するものではなかったのである。
足の子の藤原不比等が、娘の宮子を文武天皇の夫人として嫁がせたことに原因した。 まろ かまとのいらつめ しかし、ほかに二人の妃があ 0 た。妃の竃門娘は文武朝の大納言であ 0 た紀朝臣麻呂の娘とみ おおきものもうすっかさ られる。その麻呂の父は、天智朝に左右大臣につぐ御史大夫となり、天武朝に大納言に改称さ とねのいらつめ れた紀臣大人で、名門の血筋をひいている。もう一人の妃の刀子娘も、蘇我一門の出自をもち、 天智朝に大臣とな「た蘇我臣連子の孫娘とみられる。この系統は石川朝臣と改姓される。 このように二人の妃は名門の出自をも「ているが、藤原不比等の娘の宮子が夫人の地位におかれ たのは、やはり家柄として一段低か 0 たからである。持統朝の晩年に、藤原不比等は直広二の位階 に進んでいたのにすぎない。それを大宝令でいうと従四位下にあたる。 ところが後述するように、藤原不比等はこの文武朝で栄進して大納言となり、つぎの元明朝では 右大臣にまで出世する。その元明朝の和銅六年十一月の「続日本紀」の記事によると、「石川・紀 おと いうまでもなく、右大臣の藤 の二嬪の号を貶して、嬪と称することを得ざらしむ」とまでみえる。 原不比等の差し金である。 そうした不遇に追いこまれた二人の妃については記録を欠き、彼女たちが生んだ皇子も明らかで 氏 よい。ただ刀子娘は広世を生んだが、皇子でありながら母の姓を名乗 0 て石川朝臣広世と呼ばれた にことがわかるだけである。まことに不遇な皇子であ 0 た。この一事をも 0 ても、藤原不比等の権力 がいかに増長したかがわかるであろう。これに反して、「続日本紀」大宝元年の条には、「是歳、 令 おびと 律 夫人藤原氏、皇子を誕す」と記され、その首皇子が後の聖武天皇として即位するのである。 311
むろや 伴連室屋・物部連目を以て大連となしたもう」とみえることである。これは大臣・大連が設置され たことを記す初の記一である。もちろん、それ以前の成務朝に、「武内宿袮を以て大臣となす」 という記事がみえるが、このときの大臣は、武将としての勲功に対して授けた称号であったとみて もちろん成務朝につづく応神・仁徳両朝において、武内宿祢が国政に参与する中心人物であった ことは事実であろう。ところが、「日日履中朝の即位翌年の記事ま、すべきである。 こふつ そがのまち りのずく この時に当りて、、群木菟宿祢蘇賀満智宿祢物部伊菖弗大円大使、ともに国事を執 れり。 このように四人が平等な立場で国政に参与したことがわかる。ところが一般には、武内宿祢の孫 の葛城円大臣が、履中朝以降、後世の大臣と同じように、ひとり大臣であったように理解されてい る。それならば、彼の名を国政に参与する四人の冒頭に記すべきであろう。また右の文で円大使主 と表記され、大臣の字があてられていないことは別にしても、物部伊菖弗大連とともに、両家が後 世に大臣・大連となったことから、祖先にまで大臣・大連の称をあてたものとみるべきであろう。 少なくとも即位の記事に、大臣・大連の任命がみえるのは雄略朝以降からである。そして雄略天 皇即位のときの大臣・大連は、政務を担当する最高官として、初めて設置されたものである。 たに考案されたもの 王それは男弟王がおけない特殊な事情のために、それに代わるものとして 男とみるべきであろう。この大臣・大連は、これを契機に制度化されて後世にまでつづくが、その起 つぶらおおお 123
王ところが、ここで注意しなければならない大切なことは、わが国でそのころ用いられていた暦日 男と、「宋書」の年次とが、全く同じとみてよいかどうかという問題である。 と 王 大 暦日からみた男弟王の允恭わが国の文献では、「日本書紀」持統天皇の条に、「四年十一月甲申、 章 ぎほう げんか おはりだ 第勅を奉りて、始めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う」とみえる。ところが「政事要略」によると、小治田 朝 ( 推古 ) 十一一年甲子の歳の正月朔に、忸め・て騰印・杓い引れ・たご、どが訂・されている。実際、推古朝 三十六年に初めて日食のことが見えることからも、暦が用いられたことは事実であろう。『隋書』 百済伝に、宋の何承天が編んだ元嘉暦を用いていたとあるので、わが国でもそれを入れたものであ ろう。持統朝からは、さらに唐の李淳風の儀鳳暦を共用したとみてよい しかし実際には、民間ではなお後世まで、それらとは異なる暦が用いられていた。そのことを拙 著「古事記は偽書か」の中で考証しておいたが、「日本書紀」と金石文などの年次に差のあるのも そのためである。「印禾書紆」は安朝のど、ろに、当時の暦日で・一・区 & 記事にも手が入れ られ、そこでもとの「日本紀」という書名を、「日本書紀』と改めたものと考えている。 したがって允恭朝のころに用いていた暦日と、「宋書」の年次とには、少なくとも一、二年の誤 差があったことを考えなければならないのである。そこで「宋書」の元嘉二十年と、隅田八幡宮の 鏡銘文に見る癸未年は、同じ暦ではともに四四三年であるが、もし暦が異なっていたとしたら、癸 未年に允恭天皇が在位していたとみることに支障がおこることになる。 110
されていないことである。さきにも述べたように、天智朝九年の条に法隆寺の焼失の記事があるだ けで、その再建のことも記載されていない。そうした事情から考えると、少なくとも法隆寺の創建 も再建も、天皇の命令ないし国家的事業としては行われなか「たのではないかと思われる。 少なくとも天皇の命による勅願寺の創建は、正史である「日本書紀」には見えている。まず推古 朝元年に四天王寺、同四年に法興寺が建立された。この法興寺はもと蘇我氏の私寺としての性格を も 0 たが、後には国家的寺院として取り扱われた。このほか舒明朝十一 ( 六三九 ) 年には九重の塔を もっ百済大寺が創建された。これは焼失したが、皇極朝元 ( 六四一 l) 年に再建が企図され、天武朝一一 ( 六七三 ) 年には移建されて高市大寺となり、後に大官大寺と改称されて国家最高の寺院となった。 また同九年には薬師寺も建立された。創立の明らかでないのは川原寺だけであるが、孝徳朝以降の 記事にはかなり散見する官寺である。 みつのてら そして天武朝以降の「日本書紀」や「続日本紀』には、国家的法会を行う大寺として、三寺・四 みつのてら 寺という名がみえ、その三大寺とは大官大寺・飛鳥寺 ( 法興寺 ) ・川原寺をさし、四大寺はこのほか に薬師寺が加えられる。四天王寺は都から遠く難波の地にあ「たので除かれたのであろうが、同じ 太大和にある古寺の法隆寺は含まれなか「たのである。 聖このことからみても、法隆寺が勅願寺として創建されたものでないことだけは確かであろう。太 寺子の病気平癒の祈願に発した釈迦三尊像も、その甲斐なく太子は亡くな「た。そして薨去の翌年に、 法それまでに見なか「た最高の芸術作品として、奥深く神秘的な美しさをもっ仏像が造顕された。そ 197
敏達天皇の崩御のあと、蘇我馬子は皇室の外戚としてさらに権力を掌握するために、馬子の妹の きたし 堅塩媛の生んだ橘豊日皇子を即位させた。后の額田部皇女も、兄の橘豊日皇子を立てることに助カ したであろう。それが用明天皇である。 その後は同じく蘇我氏の血をうけた崇峻天皇、さらに推古女帝へとつづく。そして蘇我氏の専横 時代を迎えることになるが、多くのことを述べなければならないので、章を改めて記述することに ただ付言しておきたいことは、男弟王の制度が推古朝以降にもつづいてみられることである。後 述することで明らかなように、天智朝まで置かれていたことは確かである。孝徳・斉明における中 大兄皇子がそれであり、また天智朝には弟の大海人皇子が、太皇弟という称で記されている。しか しつぎの天武朝において、男弟王の制度は完全に廃止される。それらの個所を注意して読んでいた だきたいと思う。 以上のごとく、大王と男弟王の関係から、新しい角度で歴史を見直してみた。もちろん「日本書 紀』などの文献の上では、男弟王のことはいっさい記されていないので、系譜から男弟王を推定す るほかなかった。そのため、いくたの誤った比定をしているかもしれない。しかし大王と男弟王は、 府後世まで確かに存していたのである。そして時には自分の皇子を男弟王にする場合もあって、男弟 王王の形は変わることもあったが、存続していたことを認めなければならない。 男 145
の専制時代に、この国史が撰修されたのである。つまり蘇我史観による国史だということを知ると き、その内容がいかに政治的に左右されたものであったかがわかるであろう。 2 我史観もとづく国史が、勅撰書の名において「日本書紀」よりちょうど百年前につくられた。 この勅撰カわが国神一歴決定したのである。 もちろん、この書は二十五年後の皇極朝四 ( 六四五 ) 年に、中大兄皇子と中臣鎌子によって蘇我入 が誅されたとき、幻剿、に・鬼立、づ・・でこの引「蘇我臣蝦夷ら、誅さるるに臨 と ふねのふびとえさか ことごと たからもの みて、悉に天皇記・国記・珍宝を焼く。船史恵尺すなわち疾く焼かるる国記を取りて、中大兄 に奉りぬ」 ( 書紀 ) と記されている。 そのとき史恵尺が、火中から拾い上げたのが何冊であったか明らかでない。しかも残った冊子 すら現在に伝わっていないので、撰録されたときの冊数も内容も知ることができない。そのために 推古朝に国史が撰修された事実は認めながら、これについての研究を誰も試みようとしなかったの である。 三ロ 史 ( 七一一 l) 年した「古事記」を、最古の国史として教えてきた。しかし先年、拙著 の「古事記は偽書か」 ( 朝日新聞社刊 ) によ「て、それが平安朝初期の偽書。あることを考した。そこ 日本紀」 ( 日本書紀 ) がもっとも古い国史だという 勅で現存するものでは、元正朝養老四 ( 七二〇 ) 推 ことになる。 205