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検索対象: 昭和天皇 上
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1. 昭和天皇 上

れと対立するものであれ、天皇と国家を区別するような憲法解釈をすべて非難しようとするイデオロギー的な欲求が ほひっ あった。天皇機関説撲滅同盟の指導者は、国務大臣の輔弼権限を廃止するために、そして、軍の要望が国政に障害な く反映できるようなより柔軟な統治過程をつくりだすために運動した。その先頭には、皇道派の真崎、荒木、平沼枢 密院副議長、政友会の政治家、そして五百木のような在野の右翼煽動家が立っていた。彼らの基調をなす要求はきわ めて急進的な改革であり、それは五百木のスローガンである「昭和維新、の中に表現されていた。美濃部を非難する 運動は岡田内閣にとって脅威となり、間接的には天皇にも脅威となった。一九三五年八月末、東京で開かれた国体擁 護の大会では、陸海軍両大臣が登壇し、急進的な反美濃部運動と連帯する旨を表明した。岡田内閣は危機が手近に迫 っており、行動しなければならないことを悟った。 煽動を抑えるため、岡田内閣は三五年一〇月一五日には国体明徴に関する第二次声明を出さざるをえなくなった 〔すでに八月三日には、より穏健な内容の第一次声明が発せられていた〕。この声明は陸軍省が用意し、陸海軍次官が協議して 改訂した草案に基づいて、作成された。「我国に於ける統治権の主体が天皇にましますことは我国体の本義にして帝 国臣民の絶対不動の信念なり。 ( 中略 ) 統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし天皇は国家の機関なりと いわゆる あやま さんじよ なすが如き所謂天皇機関説は、神聖なる我国体に悖り其本義を愆るの甚しきものにして、厳に之を芟除せざるべか らず」。これがその内容だった。実際、岡田内閣は、二度にわたり美濃部の憲法理論を異端の学説として公式に禁止 したのである。第二次声明が出されたのち、陸軍上層部はさらなる倒閣の試みに対する支持を撤回した。このころ、 文部省は儒教的な社会規範、仏教哲学、国家神道による愛国主義に基づいた新たな倫理体系を展開させ始めていた。 主要な右翼団体による共同戦線が結成され、欧米思想に「出ていけー と叫び、皇道派の主義主張に基づく改革に 「歓迎 ! ーの意を表明することに挺身したのだった。 軍国主義者やその政治的便乗者にとって、美濃部の重大な罪のひとつは、統帥権について国務大臣の責任が及ばな いという例外は、極めて重大な意味を持つので、その範囲をできる限り限定すべきであると明言した点にあった。そ れゆえ、もし日本が、法と勅令がそれぞれ異なる体系から出される「二重政府」を持つべきでないなら、その「適用 もとその 254

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政府公認のキャンペ 1 ンは「国体」の議論を統制しようとしたが、民間では国民の政治的可能性を広げるため、 ながたひでじろう 「国体」の再解釈が続けられていた。内務官僚出身の貴族院議員永田秀次郎は、一九二一年に社会的・象徴的な有効 性の観点から天皇制を擁護する本を書いた。彼は神話に基づく正統的「国体」観を退け、皇室は政治の外に立って 「緩和力」となれば、国民の心をつかむことができると主張しだ。帝室編修官で著述家の渡辺幾治郎は、一九二五年 に『皇室と社会問題』を刊行し、若い労働者や労働運動の活動家に対して、社会の病弊の解決を皇室に委ねるよう説 神話的「国体、観は、軍人の間でさえ批判されることがあった。一九二三年、陸軍中尉堀木祐三は『近代思想と軍 ふる 隊教育』という本を書き、「国家にとって危険なるは、新思想の流入に非ずして、時勢に逆行して旧き国家思想を固 守せんとするにある」と強調した。そして、そのような態度は「国民をして我が国体が到底新思想と調和せざるもの の如く誤解せしむるに至る」と予想する。偕行社が一九二四年、兵士に「国体、の尊厳について教える教案を機関誌 おくだいらとしぞう 『偕行社記事』で募集したとき、審査を担当した陸軍少将奥平俊蔵は、この問題は「青年将校間に於て余り重きを置 かれざる如く」と嘆いた ちょうこく 最近の証拠によると、日本国民に共通の自己確認の基準、「肇国」の基本原理としての神話がしだいにゆるみだし 一たのは第一次大戦末期のころである。陸軍の多くの将校が、大正デモクラシー運動で建軍の精神が失われたと非難 ラし、軍隊における規律の低下や軍と国民との疎隔を「デモクラシー」のせいにした。 両大戦間の陸軍内の「天皇のイメージ」に関する研究でも、その地位からいって天皇のために死ぬ確率の高い階級 大の間で皇太子の「支持率」が低下していることがうかがえる。帝国の陸海軍は、三年制の士官学校で、選ばれた数の 代十六、七歳の少年を教育していた。これらの学校の卒業生〔そのうちの志願者〕はふつう陸軍または海軍の大学校でも 教学んだ。同時代の意識調査と、第二次大戦後に軍の大学校や士官学校の卒業生数千人ーー多くは太平洋戦争期に東京 に行われたアンケート調査に基づいて、河野仁は、職業軍人になる動機としての「天 で参謀の任務についていた 第皇への奉仕」の自覚は、一九二二年から三一年までは弱まる一方だったことを論証している。河野はまた、一九二二 141

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注 ( 第 9 章 278 ー 285 ページ ) 言力 ( そして、それゆえにその側近 ) を、強化していた。即位の ) 大江志乃夫『御前会議』中公新書、一九九一年、一〇一ペー ジ。御前会議の正式な議事録はない。しかし、『杉山メモ』とし当初一〇年、昭和天皇が軍部に対して失った権力は、戦争が拡大 し、そして日本の総力戦体制の欠陥が明らかとなるにつれ、段々 て知られる杉山元将軍による書き取り、その大部分は眞田穣一郎 と回復していった。 の書き取りによる、が重要な史料となっている。一九四〇年から 一九四一年の会議については、参謀本部編『杉山メモ上』原書 ( ) 瀬島龍三「体験から見た大東亜戦争」軍事史学会編『第二次 世界大戦 ( 三 ) ー終戦』錦正社、第三一巻第一・二合併号 ( 一九 房、一九九四年を参照。 ( ) 『東京日日新聞』『東京朝日新聞』は、御前会議を一九三八年九五年九月 ) 三九八ー三九九ページ。重大な政策に関する大本営 一月一二日付、一九四〇年七月二八日、九月二〇日、一一月一四の最終的な意思決定は、大本営政府連絡会議における重要な決定 の場合と同様に、天皇臨席の会議を要件とした。しかしながら、 日付、並びに一九四一年七月二日、三日付で伝えている。対米英 開戦を決定した最も重要な一九四一年九月六日、一一月五日の御山田朗氏が指摘したように、時に、陸海統帥部の二人が、正式な 会議を開くことなく、大本営の意思決定をしてしまうことがあっ 前会議について、管見の限りでは報道されていない。 ( 芻 ) 御前会議の出席者は、首相、枢密院議長、陸相、海相、蔵た。そのような決定でも、天皇に奏上され、天皇の裁可を得れ 相、外相、内閣企画院総裁、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、陸ば、自動的に有効な決定となった。山田朗、前掲七〇ページを参 照。 海軍省の軍務局長。参加者は自らの見解を述べ、枢密院議長は、 芝一九四二年一一月から一九四五年一月まで大本営のスタッフ しばしば、天皇の代わりに質問を促し、そして通常、天皇は進行 ( を務めた源田実は、後に、天皇だけが大本営を機能させることが の間、黙って座っている。例外なく、合意によって決定に達する できたと述べていた。というのは、「機構全体は陸軍、海軍、そ こととなっている。 ( ) 安田浩『天皇の政治史ー睦仁・嘉仁・裕仁の時代』青木書して所謂、政府の三つに分かれており、この三者を調整できたの は天皇だけだった」からである。 Leon V. Sigal, F ミき g 店、一九九八年、二七二ー二七三ページ。「無責任の体系」とい う君主制の概念は、政治学者丸山真男により、最初に提起されこ S 澤 The P0 ミ、ミ、 T ミ 7 ) 斗ミミ il こ U こ、 & States ミミ , 、ミ 2 , 7 ミ 5 , Cornel University Press, 1988 , P. 74. ( 肪 ) 昭和天皇の大本営は、軍事機密を知る権限はないとの理由か ( ) 森茂樹、前掲三七ー三八ページ。 ( ) 山田朗「十五年戦争の諸相昭和天皇の戦争指導ー情報集中 ら文民を排除していた点で、明治天皇の大本営の運営とは異なっ と作戦関与」「季刊戦争責任研究』第八号 ( 一九九五夏季号 ) ていた。昭和天皇の大本営では、軍部が明治天皇の時と比べてよ 日本の戦争責任資料センター、一八ページ。山田氏は、さらに同 り特権的な立場から、国策や世界戦略の作成に参加していた。か っての大本営とは反対に、軍や政治的意思決定における天皇の発論文の一九ページで、最初の大陸命が一九三七年一一月二二日

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人のなかで、そしてその影響のもとに、公的な教育として見聞を重ねさせることだった。 皇太子の旅行の公式の名目は、寺内内閣末期の一九一八年に日本の皇室を訪問したコンノート公 ( ジョージ五世の 叔父 ) への表敬訪問であったが、外遊を主唱した原と元老の真のねらいは政治的・心理的なものであり、君主制の衰 勢を挽回するためには何でもするということだった。皇室は初め皇太子の万一を案じて外遊に反対した。議会でも国 おしかわまさよし 民党の大竹貫一、憲政会の押川方義などが反対し、内田良平、頭山満ら民間右翼の大物も同様だった。出発前の数週 、右翼国家主義者は激しい抗議行動を繰り広げた。父親が病床にあるときに外遊するのは不孝であり、国体を傷つ けるというのが彼らの言い分だった。 西園寺、松方、山県、原ら支配層は、皇太子が結婚前に洋行することは「国家にとっての重要事」と考えていた。 彼らは病身で公の席で適切に発言できない天皇をすでに見限り、皇太子がもっと表に出て政治に参与し、人事の扱い に通じてほしいと望ん。一九二〇年には大正天皇の親政の虚構性はいよいよ明白になり、彼らは以前にもまして皇 太子に父の代理をさせる方向に傾いた。外遊への一番の反対者は母親の皇后節子だった。 , 彼女はこの種の旅につきも のの危険を考え、長男を外国に出すのに賛成ではなかった。しかし原や元老は皇太子の教育がなお不十分であると見 ており、ある程度の危険はやむをえないと考えた。一九二〇年末、ついに彼らは「政事上必要とあればとして皇后 ( 圏 ) から旅行の許しを得た。元老松方は彼女に上奏文をしたため、ベルサイユ後のヨ 1 ロッパ視察が重要な理由を次のよ うに述べている。「民衆の運動、思想の動揺迭に起り、各国国勢の消長、目前に露呈し来たり候に付治乱興廃の因る 所を明らかにし得ること現時の如き恐らくは空前にして又絶後に之有るべく、是等実況の御視察は誠に再び得難かる べきの好機会 : ・い」。 皇后の反対を押しきったあとは、政府と宮内官僚は、旅行の真目的について内部で気がねなく議論できるようにな った。皇太子が間もなく摂政に就任するのはいまや明らかだった。彼には外国の状況を知り、日本国民の新思潮に対 処することが求められた。 ヨーロッパ大陸の大王朝は崩壊し、戦争は平和、民主主義、軍縮、独立の運動を世界に解き放った。反君主制の大 っと

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ク 1 デタの序幕」であり、それは「一部の軍人に、満洲で成功したから必ずまた内地でもうまく行く、との確信を固 めさせた」と語った。陸軍が一〇月の陰謀を隠蔽しようとしていたとき、奈良、鈴木、そして金谷参謀総長は事件を 天皇に奏上していた。一一月二日、金谷は天皇にふたたび拝謁し、「支那事情及不軍紀事件の始末を奏上、し。し かし、天皇も、軍上層部も、陰謀者を罰することを求めなかった。結局、彼らは寛大に扱われ、拘禁を解かれると、 その罪はすぐに忘れられたのである。 十月事件と天皇の甘い対応は、軍部を抑えようとする若槻内閣の努力を損なうものだった。当時、宮中グループ は、君主制や明治の政治体制全般を倒壊させかねない国内危機を防ぐことが、満州の問題よりもはるかに重要である と信じていた。なかでも十月事件は陸軍大学卒業のエリート将校による二つのグル 1 プの間で、派閥抗争を引き起こ あらきさだお まぎきじんざぶろうおばたとししろう す契機となった。一方は皇道派であり、荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎らの将官と、彼らを支持する「青年将 校」からなる。他方は、当時、皇道派が敵視していたーー皇道派ほど組織だってはいないのだがーー統制派であり、 ながたてつざん とうじようひでき 永田鉄山、林銑十郎、東条英機らの将官に加えて高級将校や彼らを支持する青年将校からなっていた。両グループと も天皇のもとでの「軍事独裁」の確立と、対外侵略の促進を目的としていた。皇道派は目的達成のためにクーデタを 行おうとしていた。統制派は暗殺や脅迫を退けるものではないが、政府のより合法的な改革を目指していた。 戦略について見ると、皇道派はソ連を日本の主たる敵と考えていた。彼らは物量に対し軍人精神、国民精神を強調 したが、それは日露戦争後、陸軍の教義となったものである。対する統制派は軍の近代化と、ナチス・ドイツから借 用した言葉である「国防国家」の建設に優先順位を置いていた。統制派は、近代戦が国家の総力を結集することを要 件とする社会総体の衝突に至ったことを認識していた。米ソ双方に対する戦争は陸海軍の科学技術の向上、産業の近 代化、日本国全体の精神的な動員を必要とし。 満州事変の拡大に応じ、その目的ではなく主に手段をめぐってゆるやかに結束した二つのグループの間での抗争は 激化し、それは一九三〇年代を通じて日本政治の一貫した特徴となったのである。 200

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おおくましげのぶ ー一八年 ) ーーは、 第一次大戦時の日本の総理大臣ーー大隈重信 ( 在任一九一四ー一六年 ) と寺内正毅 ( 一九一六 大正天皇が君臨も統治もしているという虚構に基づいて政治を行った。戦後の首相原敬 ( 一九一八ー二一年 ) は、大 正天皇が公的に必要な名目以上の存在ではないことをもはや隠しとおすことができなかった。原と、高齢化する元老 たちは、一九一八年に国内をおおった米騒動、むしばまれてゆく天皇の健康、皇室批判など不敬事件の多発といった ほんろう 時流に翻弄された。 大戦後の不敬事件は、天皇崇敬への大正期に一般化した反発の一形態だった。一九二一年一一月に皇太子が摂政に なったあとも、「チンピラ一人 ( の ) 為め随分多勢だ」「天皇陛下は青二才の癖に生意気だ」などと言ったというだけ で人々は不敬罪で逮捕・告発された。 皇位への尊敬を掘り崩したのは、天皇の長引く病気が知れわたったことのほか、社会や経済の変化と大正デモクラ シー運動だった。とくに後者が提起した選挙権の拡大要求は説得力を持っていた。これに対して原内閣と元老は、ま だ地方の男子工リートの利益に沿ったわずかな改革だけしか考えていなかった。彼らは社会の変化を反映した政治権 力の基本的な合理化に着手しようとはせず、男子普通選挙法の要求を拒否し、世襲貴族と枢密院の特権を容認しなが ら、大正デモクラシー運動に対抗して君主制を守る道を探っていた。 彼よ「皇室の富まるゝは国の富なりとの観念を国 原の最初の憂慮は、莫大な皇室財産に対する民衆の非難だった。 , 冫 はたのよしなお 民に起さしむる様にならば何程多額の御収入あるも決して之を議する者なかるべし」と宮内大臣波多野敬直に語って いを。階級闘争によって国内の分裂が広がる以上、君主制も論争の対象になる危険があることを原は理解していた。 章「米騒動」の名で知られる大衆抗議運動には、農村・漁村の民衆一〇〇万人以上と、全国三七県に北海道、東京・大 第阪・京都の三府を加えた、それを上回る数の都市住民が参加したのである。騒動は物価の高騰に対する怒りに端を発 てらうちまさたけ

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「真相」第 40 号 ( 1950 〔昭和 25 〕年 4 月 1 日 ) 。日本の政治思潮が右に振れた時期でさ え、諷刺雑誌はスポットライトのもとで脱帽する天皇を人骨の上に立たせた。アメリ 力の政策が、極東軍事裁判で天皇を戦犯として起訴することは防いだものの、少数と いえど無視できない数の日本人は戦争中の重大な誤りを知っていて、けっして許そう とはしなかった。 ( 三一書房「真相復刻版」より )

8. 昭和天皇 上

う彼の二重の性格に神秘的な強さを与えた。国内の「デモクラシー」と平和主義、国際的な軍縮の動向に対抗した一 連の祭儀は、民衆の強力な感情を呼び起こした。天皇とその側近が大正デモクラシ 1 運動にこうした打撃を与えたの ちに初めて、政党政治に不満を抱く軍人たちが満丼 ー侵略に訴えることも可能になったのである。 天皇制イデオロギーと天皇の神話・祭儀に基礎を置く昭和前期の国家主義を、厳密に言って世界的「ファシズムー 現象の一環と見てよいかどうかは、歴史家の間で議論が分かれている。しかし、民族的・人種的集団が、崇敬の対象 となる人物に仮託して神聖視されてゆく点では共通性がある。軍国主義、独裁、戦争の賛美、若さ、精神性、道徳の 再建、国家的使命などの強調も、別の共通点である。日本は確かに一貫して日本であり、独自であったし、昭和天皇 フューラー ドウーチェ は扇動や催眠術で大衆を操る総統でも首領でもなかった。だがドイツとイタリアも、イデオロギ 1 や組織構造のう えで同一だったわけではない。従って全体として見れば、一九三〇年代に改革を主張した主なファシズム国家のイデ オロギー的類似性、崇敬対象とされた指導者の心理的役割の同一性、そして共通の歴史的後進性などの共通点を、そ れぞれの明白な相違よりも重視すべきである。 168

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第一部皇太子の教育 一九〇一 ( 明治三四 ) 年ー一九二一 ( 大正一〇 ) 年 第一章少年と家族と明治の遺産 : 第二章天皇に育てる : ・ 第三章現実世界に向きあう : ・ 第二部仁愛の政治 一九一三 ( 大正一一 ) 年ー一九三〇 ( 昭和五 ) 年 第四章摂政時代と大正デモクラシーの危機 : ・ 第五章新しい皇室、新しい国家主義 : ・ 日本の読者へ 凡例 謝辞 序章 : ・ 目次 79 5 9 3

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第九章聖戦 一九四〇年夏になると、昭和天皇には新興ドイツとの新同盟の主張者と手を結ぶようにという天皇への圧力が強ま り、新たに二つの要素が戦略構想に加わってきた。一つはドイツ軍の圧倒的破壊力による西ヨーロッパの征服であ り、そのため明らかにイギリスは孤立し、ドイツの侵攻は目前に迫っていた。い ま一つは、スタ 1 リンとヒトラーが 結んだ条約の庇護のもとで、対ソ外交の方針を再検討することだった。ソ連の動静は、枢軸国に新たな力を加えるよ うに思われたが、一方で、ソ連は最新の装備で蒋介石に軍事支援をするのではないかという不安があつ。電撃的な 軍事征服と強烈な外交策略の状況下で、昭和天皇は、英米と直接対立することになる三国同盟について陸軍に断固た る反対の立場を取るべきか、あるいは、立場を変えて陸軍が望むことを裁可すべきか思い迷っていた。昭和天皇の決 定の最終的な狙いは、ナチスとそのイデオロギ 1 的な目標を共有するということよりは、むしろ日本の単一性を守る ことにあった。 * 著者ノート アカウンタビリティ 道徳的、政治的、法的な意味における "accountability" という言葉は、日本語の「説明責任」より広い意味があ る。官僚、軍人のトップ ( とりわけ国家元首 ) が国内 ほうじよ 法、国際法を破って権力を行使し、または幇助して自国 民や他国民に重大な危害を与えた場合、単なる言葉での 謝罪では不十分である。法的行為が伴わなければならな 307